一部の人びと――特に党批判を行い除名・除籍された人やその支援者――の間では、この二重主体の論理を「党が市民の自由を認めた」と誤解している例が見られます。つまり「市民としての立場で党批判をしたのだから処分は不当」「自分たちの活動を党が認めた」と考えるわけです。しかしこれは全くの誤認です。
田村会見の論理は、「党が認める範囲内であれば自由に活動してよいが、その責任は党は負わない」というものです。したがって「党」を批判した者は、その自由を与える源泉である党自体を否定したことになり(あるいはその「党」中枢の人格を持った絶対者たちの機嫌を損ねた)、当然、その「恩寵」は与えられません。
また「党が市民を管理するのはおかしい」という観点から会見を肯定的に理解する人もいますが、これも誤りです。田村会見はむしろ「党員=市民」という二重体の主体性を党が拘束できることを明確にしました。つまり「党員=市民」の活動は自律した市民の行為ではなく、党の庇護の下にある(あるいは中枢にいる人格を持った絶対者たる党の支配者の「気分」に)依存的な市民像であり、会見は「党が党員=市民を管理する」という構図を一層強固にしたものなのです。
現在、日本共産党をめぐる問題は、もはや単なる党内の出来事を超えています。それは私たち社会全体の民主主義と安全保障にかかわる課題であり、同時に「一つの組織政党が崩壊していく歴史の生成を、私たちはどのように観察するのか」という問題でもあります。日本共産党は単に批判すべき対象から、社会全体が監視し警戒すべき対象へと変わっているのです。党批判者――元党員や現職党員――は、もはや「党」との関係性に依存して存在するものではなく、崩壊しつつある歴史の生成における主体の一人となっています。
公開日:2025年8月25日
原稿作成にChatGPTを用いました