1 はじめに
これまで一連のレポートを大学関係者に送ってきたが、いくらかの反応を得ることができた。もともとは単なる興味関心から始めたものの、根底には311以降の市民運動の実態と政党との相互介入、そしてその帰結に対する現代史的な関心があった。
当初、日本共産党に限定して考察するつもりはなかったが、成り行きで焦点がそこに絞られる形となった。新情報をある程度出せたので、私自身の歴史認識を整理する試みとして、日本共産党の現代史について書いてみようと思う。歴史記述としては粗い部分もあるが、その点はご容赦いただきたい。
2 現代史の中の日本共産党
(1)「311」前夜
日本共産党が311以降に「市民と野党の共闘」という路線を取るに至った原点はどこにあるのか。その始まりを、私は党中央委員会に勤務していた松竹伸幸氏が委員長志位和夫氏によって放逐された時点に求めたい。それは一連の出来事・・・市民と野党の共闘、野党共闘、過激な市民活動家との接近、党批判者の排除・・・つまり、開かれた党と閉ざされた党、非暴力と暴力との間での矛盾する出来事を「志位体制が確立される中で行われた、日和見主義的応答の結果」とみているからである
2005年、不破哲三氏の議長退任(2006年)を目前に控えた時期、志位和夫氏の単独体制が確立される前夜に、党内理論家であり安保外交部長であった松竹伸幸氏が排除された。松竹氏は全学連(全日本学生自治会総連合)中央委員長を務めた実績を持ちながら、安保問題で一家言を持つ理論家として知られており、志位氏からすれば同年代における一種の「目の上のたんこぶ」だった。その排除は、当時の政策委員長である小池晃氏を通じて行われた。
志位氏は、1990年に35歳の若さで書記局長に抜擢されたものの、1993年の総選挙(旧千葉1区)で立候補した際の得票率は11.1%から11.5%と、前任者とほぼ変わらず、目覚ましい成果を上げることはできなかった。これは、1969年の総選挙で旧東京6区から初当選した不破氏(8.0%→14.5%)と比較しても物足りない数字であった。不破氏は労組の書記として働きながら理論家として名を挙げ、後に党の綱領改訂というレガシーを残した。一方の志位氏は、学生運動での業績も乏しく、実績と言えば「宮本顕治の息子の家庭教師」、宮本顕治退任を迫る東大大学院党員を「変節者のあわれな末路」という文章で口汚く非難した「汚れ役」としての仕事くらいだった。
さらに、松竹氏に頭を下げさせようとした小池晃氏もまた、選挙には弱かった。伝統的に議席を確保してきた参議院東京選挙区で落選し、東京都知事選挙でも大敗するなど、彼自身が大衆からの支持を得られる政治家ではなかった。
中央委員会を追われるように退職した松竹氏は京都へ身を寄せる。東京では不破氏が議長を退いた後、志位単独体制が本格的に動き出した。しかし、その直後から苦境に直面することとなる。2007年の参議院選挙では民主党の躍進に押されて2議席減。2009年の総選挙では、民主党の政権交代を側面支援しながらも議席は増減ゼロ。2010年の参議院選挙では、第三極「みんなの党」の台頭に埋没し1議席を失う。
1990年代末の選挙で大勝し、「スマイリング・コミュニスト」とも評された不破氏と比べ、志位体制は選挙戦での成果を上げられないまま焦燥を募らせていたと考えられる。しかし、不破氏の成功も、旧日本社会党の政権入りによる変節と組織解体の結果として革新票が流れ込んだことが大きな要因だったともいえ、単なる時の運を味方につけただけだったとも考えられる。
志位体制はポスト冷戦期の政治環境のもとで導入された小選挙区制の中、「二大政党制」ブームに翻弄されながら、文字通り運からも見放されるように埋没していったのである。
(2)市民と野党の共闘
2011年3月11日、東日本大震災が発生した。この未曾有の災害を受け、日本共産党はボランティア活動を展開し、党として復興支援に積極的に関与した。これにより、同党は東北地方で一定の支持を獲得することに成功し、以降の選挙での議席増の布石となった。しかし、2024年の総選挙ではその蓄積は消え去り、衆議院東北ブロックでの議席を喪失するに至った。
震災後、もう一つの大きな政治的動きとして、「反原発」デモが急速に拡大した。東京・首都圏を中心に広がったこの新しい市民運動に対し、日本共産党は慎重に関わり、志位体制の「特命係」とされる姫井二郎氏を派遣し、党外の活動家との接点を持つようになった。これを契機に、党は「市民運動」との距離を縮める方向へと動き始める。
以降、日本共産党は各種デモへの動員を活発化させ、「他人主催のデモに乗っかり、成果を上げるスタイル」を確立する。反原発デモの動員を通じて、「市民」との連携を強化するが、この「市民」なるものはその姿をより過激なものに変化させていく。ヘイトスピーチへのカウンターデモが展開され、暴力も辞さない市民運動の姿に賛否が巻き起こる。さらには、自民党の政権復帰(第二次安倍政権発足)を受け、「反安倍」の動きが強まる中で安倍晋三氏が「悪魔化」され、「市民」の憎悪の対象になっていく。その中で、日本共産党はより過激なカウンター勢力、東京のサブカル・アート系コネクションを背景とした「不良中年活動家」たちとも共闘関係を強めていく。
2012年の総選挙では、自民党の政権奪還と反原発野党の乱立が影響し、日本共産党は1議席減と埋没した。しかし、2013年の参院選ではネット選挙の活用に力を入れ、5議席増を達成。10年以上ぶりに東京選挙区で議席を獲得し、吉良佳子氏が当選した。その後も党外デモへの応援を続け、2014年には、脱原発政党の勢力が消失した中で、日本共産党は13議席増という志位体制下で最大の勝利を収める。この躍進の中には、カウンター勢力と近しいとされる池内沙織氏の当選も含まれていた。
この展開は、明確に「市民と野党の共闘」のイメージを作り上げる契機となった。一度この路線が定着すると、日本共産党はもはや後戻りできなくなる。党の基盤である組織の高齢化や衰退といった現実には目を向けず、ひたすら成功体験を追い求める姿勢が鮮明になっていく。
2015年、安保法制反対運動が起こる。これは、反原発デモ以降に形成されてきた旧日本社会党系団体と日本共産党系団体、そして東京の新左翼グループら、高齢活動家が作り上げた共同基盤の上に「若者」「ママ」「学者」といったメディア映えするキャラクターを配置し演出された「市民」の晴れ舞台だった。この運動には、日本共産党だけでなく、社民党や、左傾化した民主党も加わることとなる。そして、安保法制が国会を通過した後、日本共産党は1970年に宮本顕治氏が構想し、失敗に終わった「民主連合政府」の焼き直しともいえる「野党共闘」構想を打ち出した。
この野党共闘に向け、東京の高齢活動家たちの基盤に「市民連合」が設立される。その先頭には政治学者山口二郎氏らが立ち、理論的な裏付けを行った。しかし、その実態は不透明なものであり、労働組合からの資金が若手活動家たちに配分されるというマネースキームという側面もあったと思われる。
2016年の参院選では、民主党が「民進党」に改称したものの13議席を失う一方、日本共産党は3議席増を果たし、山添拓氏が東京選挙区で当選する。翌2017年には、森友・加計学園問題をめぐる批判が高まり、安倍政権の支持率が低下する中、東京都議選でカウンター勢力が安倍氏から「こんな人たち」発言を引き出し、自民党が大敗。これを受けて東京都知事の小池百合子氏による、民進党を取り込んだ「希望の党」が立ち上がり、政権交代の可能性が現実味を帯びる。しかし、その過程で民進党左派が「排除」され、新たに「立憲民主党」(旧)が結党される。この選挙戦では、2015年の安保法制反対運動で活躍した若手活動家が関与し、イメージ戦略を展開。結果として希望の党を下し、立憲民主党は野党第一党の座を確保したものの、自民党の議席はほぼ横ばい、日本共産党に至っては9議席減という結果に終わった。
この時点で、「市民と野党の共闘」は一定の成功を収めたかに見えた。しかし、それは一方で、日本共産党の基盤そのものを掘り崩し、次第に組織の存続を脅かす要因となっていく。
(3)野党共闘の終焉、そして混沌へ
この頃から「野党から市民へ」の資金の流れが明確になり始める。その筆頭が、立憲民主党から「SEALDs」関連とされる企業への資金提供、そして森友問題を大政治スキャンダルへと押し上げた菅野完氏への資金流入であった。
立憲民主党の選挙戦術の成功に影響を受けたのか、日本共産党は、市民活動家を自陣営に取り込み、高額の発注を行うことで組織の立て直しを図る。しかし、選挙結果はそれに反する形で推移していく。2019年の参院選では1議席減、2021年の総選挙では2議席減、2022年の参院選ではさらに2議席減と、党勢は徐々に縮小していった。
一方で、「市民と野党の共闘」がうまくいかない要因として、日本共産党の閉鎖的な体質が批判の的になり始める。特に、野党共闘を推進するためには避けて通れない「連合」と立憲民主党の関係を巡り、日本共産党の存在が足かせになっているとの見方が強まった。
さらに、志位氏の長期委員長在籍も問題視されるようになる。この頃まで比較的日本共産党に好意的な分析をしていた政治学者、中北浩爾氏も、2022年に発表した著作の中で党組織のあり方について見直しの必要を説いた。これに対し、志位氏は名指しせずに「学術書の体裁をとった攻撃」と中北氏を非難する対応を取り、党としての余裕のなさを示した。
こうした流れの中、党改革への要求が強まる。2005年に京都へ放逐された松竹氏が、編集主幹を務める「かもがわ出版」を通じて、2022年に関連書籍を発表。党への揺さぶりを本格化させた。
2023年、統一地方選挙を前に党首公選制導入等を掲げた松竹氏と京都の古参党員で立命館大学立て直しの立役者の1人 鈴木元氏が志位氏退任を掲げ書籍を出版した。鈴木氏は京都の老舗左派出版社「かもがわ出版」の取締役であり、失脚した松竹氏を保護した人物であった。これは志位体制批判を党内から支援するものであり、構図としては2005年志位氏が仕留めきれなかった政敵の逆襲であった。しかし、党中央委員会は京都府委員会を通じ、松竹氏・鈴木氏に党員として最大の屈辱とされる「除名」処分を言い渡し、長年の党内闘争にピリオドを打とうとした。これに対し、松竹氏は裁判で争う姿勢を示す。一方で日本共産党に失望した中北氏に対して、日本共産党中央の理論委員会が名指しで批判文書を公表する(2024年)。党は外部の批判に対して硬直的な態度を取り始めた。
この党の動きに関して、福岡県委員会の職員であり、全学連の委員長を歴任、文筆家としても知られる「神谷貴行」氏がブログで言及。その後、2024年に神谷氏は党から「除籍」処分を受ける。神谷氏も裁判を起こしたが、この訴訟は、日本共産党が職員を「雇用」ではなく「請負」契約のような形で曖昧に働かせていた実態を暴くもの出会った。裁判の結果次第では、日本共産党の人件費処理や勤怠管理の問題が問われ、組織的な打撃を受ける可能性がある。2025年には福岡中央労働基準監督署が、日本共産党福岡県委員会に対し、職員との雇用関係を前提とした是正指導を行うなど、党への風向きはますます悪化していった。
党中央は批判の高まりを受け、2024年に志位氏が議長へ退き、田村智子氏が党大会で女性初の委員長に就任。しかし、同大会では松竹問題を取り上げた地方議員に対し、パワハラとも取れる発言を行い、批判を浴びることになる。
もともと、田村氏は小池氏と同様、参院比例、参院東京選挙区、さらには都議会議員選挙でも落選を繰り返した、大衆からの支持が強い政治家とは言い難い存在だった。2016年の東京都知事選では、野党統一候補として出馬した鳥越俊太郎氏の性的スキャンダルを報じた週刊誌を強く批判し、さらには被害者に実名公表を迫るようなセカンドレイプ的発言を街頭演説で行った。
一方で、野党共闘も混迷を極める。2021年の総選挙では、「政権交代」の機運がいわゆる「立憲野党」内で広がったものの、第三極の台頭により、立憲民主党は13議席減、日本共産党も2議席減となる。この敗北を受け、立憲民主党内では野党共闘への疑問が強まり、容共派の枝野幸男氏が代表を辞任。代わって保守系の元総理 野田佳彦氏が代表に就任した。これに対し、日本共産党は反発し、野党共闘は事実上崩壊する。
2024年の総選挙ではさらに2議席減少し8議席となる。れいわ新選組(9議席)に後れを取り、第7党に転落。党は多くの小選挙区に候補者を擁立し、比例票の掘り起こしを狙ったが、組織の稼働率は半減。国民民主党やれいわ新選組といった新しい保守・革新勢力の台頭、さらには参政党や日本保守党といったミニ政党の躍進により、日本共産党は相対的に埋没していった。党員の高齢化、野党共闘による候補擁立回避による組織力の低下、選挙技術の継承の失敗は想像以上に大きく、組織基盤の崩壊は誰の目にも明らかだった。
(4)崩壊への序章
目も当てられない事態に陥った日本共産党は、2025年に「SNSに強い党」を掲げる。これは、立憲民主党の幹部安住淳氏が2021年に「日本共産党はリアルパワー」と評したことと真逆の方向性であり、党が自らの長所を捨て去り、汚物をぶちまけたような電脳政治空間に軸足を移す決定的な転換となった。高齢化した党員を無秩序な誹謗中傷が溢れるSNSに動員することは、彼ら彼女らの訴訟リスクを高める行為であった。
これは2018年頃から進行していた党外活動家との密接な関係に基づく、新しい選挙・政治運動の極地とも言えるだろう。それまで散発的に見られたSNS上での党外活動家の扇動による党議員や党員の誹謗中傷が正当化されるようになった。その結果、党中央及びそれと関係の深い都党(東京都委員会)と繋がりがあるカウンター勢力や「東京のサブカル/アート系活動家」と全国の党員との結びつきが強化されることになった。
しかしながら、これらカウンター勢力や「東京のサブカル/アート系活動家」の活動現場を通じて新たに取り込まれた層(首都圏の「まんなか世代」)は、あくまでも「直接行動」(デモやカウンター行動)に特化した人々であり、その中で確立された奇抜で暴力を伴う方法論に馴染んでいた。彼ら彼女らの活動は、有権者には届かないものであることが、2024年の東京都知事選挙で明白になった。
SNS上での党員同士の対立や党外の活動家によるラディカルな運動方針は、党の政策決定にも影響を及ぼし始めた。すなわち、反原発運動、環境保護運動、フェミニズム運動、LGBTQ運動などで、よりラディカルな方向へと突き進んだ。2024年の総選挙後、「103万円の壁」を巡る国民民主党への批判を目的とした唐突な政策転換は日本共産党の政治的一貫性への疑問を呈した。
神谷氏を排除した福岡県委員長の発言をきっかけに、日本共産党の組織改革を求めるものや松竹氏の支持者らが自分たちのことを「こんな連中」と自称し始める。SNS上では「こんな連中」と党員・党支持者との対立が日常化する中で、偶発的に発生したのが「戸田市議選事件」であった。
この事件の中心人物である「家登みろく」氏は、JCPサポーターグループの中で重用された党員であり、党外活動家とも密接な関係を持っていた。彼女の主張に基づき小池氏は、YouTubeを通じて事件への認識を発信したが、事件に巻き込まれた地方議員の証言や証拠動画と矛盾する点が浮上した。小池氏の姿勢は、党が「議会・選挙闘争」を放棄し、「直接行動」――すなわち、党がかつて戦後、党内の混乱期にとられた「暴力路線」に回帰しつつあるかのような印象を与えた。
この事件は、SNS上での対立を一気に加速させた。従来的な議会・選挙闘争を重視する「こんな連中」と、311以降に台頭した直接行動(デモやカウンター行動)を重視する党員・党議員がSNS上で激しく非難し合う。そこにカウンター勢力が介入し、「こんな連中」=党批判者をレイシストと同一視し、暴力的な言動を浴びせるという異様な状況が展開された。
もっとも、この動き自体は局所的なものであり、党全体の体勢に即座に決定的な影響をもたらすものではなかった。しかし、このような小競り合いの激化は、党内に潜在していた対立構造を一気に浮き彫りにするには十分だった。
結局のところ、こうした矛盾と紆余曲折した歴史的経緯は党中央、すなわち「志位体制」の確立と権力維持の過程で、状況に応じた日和見的な対応の積み重ねとして展開されてきたものである。そこには一貫した理論的背景はなく、平成前期までの地域活動家や地方議員・国会議員が積み上げてきた党のレガシーに対する敬意もない。むしろ、日本共産党は自らが持っていた理論と歴史的遺産を切り売りしながら、党外の活動家に奉仕し、その結果、党自身の信頼を毀損していく道を選んだようにしか見えない。
(5)「3代目が会社をつぶす」
ここで重要なのは、「志位体制」の問題は決して志位和夫個人だけの問題ではないということである。日本共産党という組織は、実質的に宮本顕治とその世代が築き上げ、あるいは再建したものであり、それを補佐していた不破哲三ら2代目世代が維持・拡大させてきた。しかし、志位体制はその後を継いだ「3代目」による体制であり、ここに日本共産党の崩壊の本質がある。
志位体制の世代は、いわゆる「ポスト学生運動世代」に属する。学生運動の熱狂が終焉し、日本が高度経済成長を享受する時代に政治へとのめり込んだ「変わり者」たちであり、その中でも特に「党」に盲従した官僚的人材の集団である。彼らは「前の世代に選ばれた」組織人であって、「大衆に選ばれた」政治家ではなかった。簡単に言えば、「サラリーマン革命家」世代であり、組織内での昇進によってキャリアを築き、党の運営を担うことが目的化された人々であった。
小選挙区制の導入によって、日本の政治環境が変化する中、彼ら彼女らはその環境に適応することができなかった。彼ら彼女らが頼れるのは、前の世代が培った組織票だけであり、個人としての政治家としての資質やカリスマ性を有していなかったし、それらを伸ばそうと自己努力を徹底的に怠った。その結果、彼らにとって選挙とは「組織人」としての自覚を強いられる機会であり、自己の存在、実存をかけて人々を惹きつけ、大衆と共に熱狂し、自己の存在を感じられる経験ではなくなった。
そんな彼ら彼女らにとって、自分たちをアイドルのように持ち上げる党外の活動家たちはどういう存在だっただろうか。それまで白と黒と赤の世界で生きてきた党官僚にとって、それら活動家と接する承認欲求を満たす時間はどれほどまでに価値のあるものだったかは想像に難しくない。
しかしながら、党外の「サブカル/アート系活動家」にとって、日本共産党はデモの動員数を稼ぐための群衆供給源であり、日本共産党から仕事を受注すれば「お得意様」となる関係だった。「志位体制」以降の議員と職員は、この関係を理解することなく、ただ自分たちを持ち上げてくれる党外活動家に舞い上がり、顔色を伺いながら自分たちにとって重要な判断を下すようになった。しかし、それは単なる「接待」に過ぎないという現実を理解することができなかった。
その姿はまるで、友達のいない小金持ちの子供がクラスメートにお菓子やおもちゃをばらまき、「自分は人気者だ」と勘違いしているような虚しさを感じさせるものだ。冷静になって考えればわかるだろう。国政選挙の候補者を度々経験しながら地方議会選挙の中選挙区ですら勝てなかった党官僚が、突如として「タムトモ」などという愛称で持ち上げられ、熱狂的に支持される人気者になれるのか。冷静に考えれば、そんなことが現実にあるはずはない。
「志位体制」の3代目世代は、人間としての、そして革命家としての空虚さを隠しながら、批判者の言葉を「反共」という都合の良いレッテルに押し込め、ヒステリックに攻撃することしかできなくなった。それは理論でも戦略でもなく、ただひたすら自らの支配と尊厳を守るための感情的な反応に過ぎない。
しかし、これは単なる政治的な問題ではない。これは、組織論や経営論の視点から見ても、老舗企業の崩壊と何ら変わらない、普遍的な現象である。かつて創業者が作り上げ、2代目が拡大・安定させた組織が、3代目によって食いつぶされ、崩壊する――その典型的なパターンを、日本共産党は見事になぞっているのだ。
結局のところ、この格言がここでも生きてくる。
「3代目が会社をつぶす」
3 日本共産党のこれから
(1)日本共産党が直面する課題
ここまで読んだ方はすでに気づいているだろう。私は、一部の文化人や大学人が行うように、愛想良く、希望溢れる日本共産党の未来など語ることはしないし、最初からそんなものに興味はない。万物は流転し、すべてのものには滅びの時が訪れる。100年の歴史を自称するこの組織もまた、例外ではない。
私が関心を持つのは、多くの人々を救い、勇気づけた先人たちとその組織の歩みを汚し、その遺産を食い潰してきた「3代目」とその組織が、最終的にどのような末路を迎えるのかという一点だけである。
日本共産党が直面する課題は、もはや一時的な困難ではなく、組織の根幹に関わる深刻な危機である。その最大の要因は、党の収益基盤と組織基盤の両方が同時に崩壊しつつある点にある。
第一に、「しんぶん赤旗」の発行維持が極めて困難になっていることは、党の経営そのものに直結する問題である。日本共産党は長らく新聞発行を軸にしたビジネスモデルによって資金を確保してきた。しかし、新聞業界全般が衰退するなか、このモデルの維持は日に日に難しくなっている。新聞を支える購読者層が減少し、収益が減ることで、全国の党組織の運営はますます厳しくなっていく。
次に、党員の主力層の高齢化が進み、組織の人的基盤が急速に縮小している。特に、1970〜80年代に入党した世代が高齢化し、活動が困難になったり鬼籍に入ることで、党勢は自動的に縮小していく。すでにその段階に差し掛かっており支部の維持すら危うい地域も増えている。この傾向が止まることはなく、今後さらに加速するのは確実だ。
よく誤解されるが、日本共産党の衰退は「若者が入党しないから」だけではない。本質的な問題は、日本全体の若年人口が減少しているため、たとえ一定割合で新規入党があったとしても、組織全体を維持するのが不可能になっていることだ。もし党の規模を維持しようとするなら、次の世代は現世代よりもさらに高い人口割合で入党しなければならない。しかし、それは現実的にあり得ない。100人に1人を入党させて、次は5人、10人・・・と増やしていく必要があるのである。全ての政党にいえる現象であるが、すでに全国津々浦々に組織を持っている日本共産党にとってこの現実は厳しいものがある。結果として、現在の全国党組織の網は時間とともに確実に崩壊していく。
こうした状況に対し、一部では党首公選制や党名変更といった「組織改革」を主張する声もある。しかし、それらが党勢の拡大につながる根拠はまったくない。私が行った大規模アンケート調査でも、こうした改革が支持拡大につながるとは言えないという結果が出ている。たとえ組織の体裁を変えたところで、公選制を行う他党との差別化はできないし、看板を架け替えて振り返ってもらおうなどというのも有権者をバカにした話でしかない。結局のところ、日本共産党はどのような改革を試みても、衰退の道を避けることはできないのである。
日本共産党の危機は単なる党勢の衰退や組織維持の困難さにとどまらず、その内部におけるイデオロギーの変質と組織原則の崩壊によって、より深刻なものになっている。その一端が、戸田市議選事件によって明瞭になった、党員の一部による直接行動志向の高まりである。
日本共産党は昭和期の政治的混乱を超えて、議会闘争と選挙活動を通じた政治変革を基本戦略とする党名にふさわしくない穏健左派である。しかし、近年、「市民と野党の共闘」の中で入党、あるいは教育を受けた一部の党員の間で、こうした「穏健な闘争」ではなく、直接行動を重視する傾向が強まっているとみられる。これらの直接行動が(革命のための力の行使ではなく、目の前の破壊すべき何かに対しての)暴力性へと展開してきているが、こんなもの一般大衆からの支持を得られるはずがない。歴史的に見ても、過激な直接行動を志向する政治勢力が広範な支持を得ることはほとんどなく、それは日本共産党が長らく「暴力革命」を否定し、合法的な闘争を重視してきた理由でもある。この変質は、ここ10年で党がオルグしてきた異なる政治文化的背景を持つ人々の存在によるものであり、その結果、党の指導すらも従来の方向性を見失い始めている。
さらに、こうした「直接行動」志向が広がることで、組織全体の統制が揺らぎつつある。革命党とは本来、組織的な規律を重視し、個人の感情による行動ではなく、集団としての戦略的な判断を基軸とするものである。しかし、今や党内には、個々の党員が「自発的」と称して独自行動を起こし、それが党全体を危険に晒す状況が生まれている。この状態は、「革命党」という概念そのものを破壊することを意味する。それが良いか悪いかは別として、少なくとも「左翼=革命」という伝統的な図式を前提とすれば、日本共産党は今や従来の意味での「左翼」としてのアイデンティティすら放棄しつつある。しかし、その代替となる新しい思想や運動の枠組みを、誰も提示できていないのが現状だ。
加えて、JCPサポーターというシステムの存在が、党の組織原則をさらに揺るがせている。JCPサポーターは、党員ではないが党を支持する活動家が党に関われる仕組みであり、「市民と野党の共闘」を推進するための手段とされてきた。しかし、厳格な党員規則の埒外に存在し、さらに民主集中制という官僚的なシステムにおいて特異なこのシステムは、党外の活動家が党内政治に干渉できるセキュリティホールになっている可能性がある。党の建前としては、JCPサポーターの声を積極的に取り入れることが「開かれた共産党」の方針とされるが、実態としては、党中央の意向によって選別された活動家が、党の組織構造を超えて「中央の私兵」として機能する危険性を孕んでいる。実際、一部ではその兆候が顕在化しつつある。
こうした党の変質は、最終的に二つの帰結をもたらす。第一に、新しい世代に対する党のレガシーの継承が失敗し、日本共産党が長年掲げてきた「革命党」としての理念が崩壊することである。第二に、党内の求心力を維持するために、さらなる中央集権化が進行し、恐怖政治的な統制が強化されることである。結果として、日本共産党は、外部から閉ざされた密教的なコミュニティへと収束していく。かつて「国民の中へ」と広がることを志向した政党が、いまや自己完結的な内部論理に縛られ、外部との誹謗中傷を交えた暴力的な交流に支配され、健全な対話を放棄する方向に進むだろう。この変質の先にあるのは、単なる党勢の衰退ではなく、組織としての社会的存在意義の喪失に他ならない。
(2)合理的な撤退戦略
日本共産党の未来は、もはや存続のための戦略ではなく、いかに撤退を管理するかという段階に入っている。その撤退の道筋を考える際、党の現状と政治環境を踏まえた合理的な選択肢は限られている。
まず、単独で国会議席を維持・拡大することの難しさがある。日本共産党は政党交付金の受け取りを拒否しており、仮に議席を増やしたとしても、それが党の財政基盤を強化するわけではない。このため、議席を増やすための強いインセンティブが党内に存在せず、選挙戦略においても必死に戦う必要がなくなっている。
党の議席は言うなれば象徴的なものであり、SNSでの活動が活発になれば国会議員の党の代表性を、元議員や候補者らの党内インフルエンサーが担うことになるだろう。こうなれば国会議員の必要性も薄れていく。さらに、党勢の衰退に伴い、選挙活動を支える人的資源も縮小しており、今後、議席の維持自体が困難になっていくことは避けられない。
次に、党勢の衰退がもたらす議会・選挙闘争の難しさと、それに伴う候補者の性質の変化がある。各種選挙において中選挙区・小選挙区での勝利を目指すためには、多様な有権者との対話や異なる立場の人々からの支持が不可欠である。しかし、近年の日本共産党は、より強い中央集権化とSNSを通じた政治的傾向の先鋭化により、エコーチェンバーに陥っているし、SNS利用の推奨はこの傾向をさらに強めるだろう。結果として、政治的に異なる立場の人々と協力することが困難になり、逆に、政治的純粋性を追い求めるがあまり、内部での粛清が進みやすい傾向が強まっている。こうした状況では、広範な支持を集める候補者の擁立が難しくなり、結果として党勢のさらなる縮小を招くことになる。
また、地方議員への支援も極めて厳しくなっている。多くの地方議会では、議員報酬が大幅に減額され、議員活動は兼業を前提とせざるを得ない状況にある。すでに一部の地方自治体では、日本共産党所属の議員が議員歳費だけでは生活できず、党が補填する形で生活を維持しているケースがある。しかし、党の財政が逼迫する中で、こうした支援を長期的に続けることは不可能であり、結果として地方議会からの撤退も視野に入れないといけなくなる。
さらに、党中央が直接実行力を持つ構造が強まりつつある。JCPサポーター制度を通じて、党内外の活動家を直接抱え込むことが可能になり、支部組織の役割が相対的に低下している。支部、そして地方の声が党の方針や政策に反映されることは減り、代わりに東京周辺の出来事が党の活動の中心になりつつある。この構造が強化されることで、日本共産党はますます東京一極集中の方向へと向かっていく。
こうした状況の中で、日本共産党が今後生き残るためには、新左翼のセクトがかつて取ったような「加入戦術」、つまり、「他党への寄生」への転換が考えられる。すなわち、党として独立した存在を維持するのではなく、容共的な野党の内部に浸透し、その勢力を利用しながら生存する道である。
一方で、地方議会では、特定のファンを囲い込むことで生き残る道も模索されるだろう。ただし、この方法が成立するのは、議員歳費で生活が可能であり、かつ当選確率が高い都市部の大選挙区に限られる。地方での党組織の維持が困難になるにつれ、日本共産党の活動は都市部にますます集中し、最終的には地方の撤退とともに、中央集権的な体制がより強化されていくことになる。もはや地方組織は存続しえず、党の実効的な活動は、中央の管理が行き届く範囲に限定されるようになる。こうして、東京一極集中の傾向はより顕著になっていく。
さらに、日本全体の人口動態を考慮すると、今後、議会の議席を維持・増加できる可能性があるのは、唯一人口が増加する東京とその周辺地域(首都圏)に限られる。結果として、日本共産党は東京周辺の地方議会を軸にした「特定の政治セクト」として存続する可能性が高い。この流れを加速させるのが、2011年の東日本大震災以降に関係を強めた「サブカル・アート系活動家」ネットワークの存在である。東京を中心とするこのネットワークを活用しながら、党は地方議会で一定の影響力を保ちつつ、既存の野党内での国政進出と権力闘争に関与していく方向へとシフトしていくと考えられる。
具体的に言えば、日本共産党は全国的な組織としての維持が困難になり、最終的には東京都議会、東京都内の区議会、そして首都圏の市議会に議席を持つ政治団体として生き残る形へと収束していく。社民党のように個人の知名度やカリスマ性で得票を稼げる政治家を輩出できないため、他の野党に党員を送り込み、その党内での影響力を強めることで間接的に政治的影響力を確保する。最終的には単なる「党派的圧力団体」としての機能しか残らないことになる。かつての日本共産党の姿は、もはや取り戻すことができないことになるだろう。
4 おわりに:人々は決断すべきだ
このような未来予測のもとでは、日本共産党が「サブカル・アート系活動家コネクション」を切り捨てることは不可能である。党の全国的な組織網が崩壊し、東京とその周辺地域に限定された政治セクトへと変質していく中で、党が活動を継続するためには、比較的若い、カウンター勢力を含む「サブカル・アート系活動家」とのつながりは、日本共産党が政治的な影響力を維持するための唯一の手段の一つとなっており、もはや切り離すことはできない。
現在の党の状況を冷静に分析すれば、これは単なる一時的な混乱ではなく、明確に「党が変節する途上」にあると理解するしかない。つまり、従来の日本共産党が持っていた理念や組織原則は、すでに過去のものとなりつつあり、これを修正しようとする試みはもはや意味をなさない。
「こんな連中」と呼ばれるものたちが「党を改革せよ」と要求したところで、その声が届くことはなく、仮に届いたとしても党の方向性が変わることはない。そうした改革要求を続ける人々こそが、「自分が愛した日本共産党はこの地上にはもう存在しない。未来永劫存在し得ない」という現実を受け入れ、自分の人生に見切りをつけるしかないのである。
現状の党運営に違和感を覚える議員や党員にとって、残された選択肢は二つしかない。一つは、東京主導のこの変節=改革を受け入れ、SNS上で党外活動家による扇動のままに動くこと。SNSで誰かを罵倒し、街頭での小競り合いに「日本共産党」の旗を持って参加し、不良中年活動家と共に酒を浴びることである。もはや党の意思決定は従来の民主集中制ではなく、党外の運動圏と代々木官僚との交わりの中で生じている「党の中の党」によって行われ、その流れに盲従することだけが党内に留まる唯一の方法である。
もう一つの選択肢は、党の変質に見切りをつけ、離党することである。もはや従来の日本共産党の理念や方針に忠実であり続けることは、党内においては異端とみなされ、政治的な居場所を失うことになるからだ。
こうした状況の中で、かつての日本共産党を理想としていた人々にとって、この党がもはや同じ組織ではないことを認識することが重要になる。党の未来はすでに決まりつつあり、それを受け入れるか、それとも離れるかの二択しか残されていない。
公開日:2025年3月3日
原稿作成にChatGPTを用いました