「コロナ禍の大学」を巡って何が起きたのか:
Operation_Ama-no-Iwatoの全容 A-n-I/45
「コロナ禍の大学」を巡って何が起きたのか:
Operation_Ama-no-Iwatoの全容 A-n-I/45
illustration by imageFX
2024年7月28日、一連の研究報告を行なっていたSNSの大学教員グループの総括シンポジウムが行われました。私はその日、出席できなかったのですが以下の動画発表を行いました。ここに共有いたします
以下、動画の原稿+質問への回答です PDF版はこちら(注釈等あり)
1 コロナ禍と対面授業再開運動
(1)コロナ禍の始まりと大学現場の奮闘
2019年12月、中国・武漢で未知の感染症が確認された。「新型コロナウイルス」、「COVID-19」と呼ばれるこの感染症の騒動は日本にとって当初、対岸の火事だった。しかし、翌年1月16日の初感染者の確認、2月3日、クルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス号」での集団感染、13日の国内初死亡者、27日の全国小中高校の一斉休校と、事態は深刻化していく。
3月、全国的に感染者が増加し、都市部を中心にクラスターが発生する中、24日には、東京オリンピック・パラリンピックの延期が発表された。4月7日、東京都を含む7都府県に緊急事態宣言が発令、16日には緊急事態宣言が全都道府県に拡大された。政府や地方自治体は「Stay Home」を呼びかけ、専門家会議は「三密」を避けるよう提唱した。世界は沈黙に沈み、真っ暗な夜が広がっていく。
新学期、全国の大学で休校やオンライン授業の導入が決定された。各大学のFDセンター、教学担当部署、システム担当部署が対応し、SNS上でも大学教員の自助グループが立ち上がった。文科省もこの動きと連動してオンライン授業を実施するための整備を進めた。
やがて感染第一波が落ち着きを見せ、5月25日、全都道府県で緊急事態宣言が解除された。多くの大学は一部の実習など必要な授業を対面で行いつつ、学生の移動範囲の広さやキャンパス内での「三密」回避の難しさなどからオンライン授業を継続することにした。
(2)成功した学生運動
そんな中、7月15日に「#大学生の日常も大事だ」を合言葉にしたツイッターデモが行われた。オンライン授業継続に不満を募らせた学生たちの声が拡散されていく。7月22日には、日本共産党の吉良佳子参議院議員がこれを取り上げ、「学生生活が壊されている」と、当時の萩生田文科大臣に迫った。萩生田はそれに同調し、大学に事実上の対面授業を求めることになった。「大学生はオンライン授業に不満を持っている」、「対面授業をしないと大学生が危ない」という言説がこうして世間に広まっていく。
萩生田は文科省に届く「学生の声」を根拠に、大学を批判した。文科省は2020年度後期の授業実施調査で対面比率の低い大学を「吊し上げる」計画を発表した。「大学対面授業再開プロジェクト」という学生団体の訴えが当時の菅義偉総理に届けられ、「FREE高等教育無償化プロジェクト」、「一律学費半額を求めるアクション」という2つの学生政治団体では大学生の経済危機から対面授業を求める方針へと舵が切られた。この動きにメディアも飛びついた。「朝日新聞」が「大学生の退学急増危機」を報じ、読売新聞は対面授業再開を問う世論調査を行い、NHKやTBSはコロナ禍の「可哀想な大学生」を取り上げた。メディアは感染第三波の中でのキャンパス再開を求めた。
2020年末の国会、立憲民主党の稲富修二衆議院議員が萩生田文科大臣に対し、大学からの報告は実態を反映していないと指摘、萩生田大臣もこれに同調した。続く菅総理の答弁によって文科省が事実上、「オンライン授業の賛否」を問う学生調査を行うことになった。2021年春、感染拡大の最中、自治体トップが大学のオンライン授業を求めるが、萩生田大臣は事実上の対面継続を大学に求めた。各大学は対面実施に奔走することになる。
こうして、SNSから始まった学生たちの要求運動は政府、政治家、学生団体、そしてメディアの後押しによって、大学当局を追い詰め、学生たちの希望実現に向かっていったのである。「対面授業再開運動」の物語はこうして社会運動史、学生運動史に燦然と輝く金字塔になる・・・はずだった。
2 コロナ禍の大学を襲った「何か」
(1)前提の崩壊と「学生の声」の真実
物語の綻びは早々にやってきました。文科省が行った学生調査の結果が2021年5月25日に公表されました。オンライン授業の満足は6割、不満は2割。同じくして文科省より2020年度の中退率・休学率も発表されます。結果は中退低下。「大学生はオンライン授業に不満を持っている」、「対面授業をしないと大学生が危ない」という前提が完全に崩れてしまったのです。
以降、コロナ禍の大学に対する騒動の真実が明らかにされていきました。萩生田が「学生の声」とした文科省に寄せられたクレームの半分は保護者のものであり、学生とわかるのは4分の1程度。さらに一連の投書はSNS上の対面授業再開運動と関連づけられていたことも発覚します。このSNS上の対面授業再開運動の背景には「反自粛」を掲げる「反ワクチン陰謀論」を含むコロナ軽視の思想運動が存在したことも明らかになりました。国政政党「参政党」を生み出すことになったコロナ禍の反自粛運動の成功の1つとして「対面授業再開運動」があったわけです。
(2)文科省、メディア、学生団体の真実
文科省は当初、これら「SNSの声」に消極的でした。しかし、萩生田が官僚の用意していた答弁書を無視し、対面授業を要求した瞬間、政策は転換されました。文科省は大学批判に転じ、一時は対面比率と予算措置を結びつける提案も行なっていたことが内部文書の解析で明らかになっています。萩生田の心変わりの理由は不明ですが、2020年5月にSNSから広がった検察庁長官の定年延長のための法改正反対運動が念頭にあったのではないかと思われます。
大手メディアの報道にも問題があることがわかりました。朝日新聞は中退危機を煽る報道と同時並行で「中退防止」事業を開始しました。明らかな利益相反です。「可哀想な大学生」を引き合いに大学の対面授業を求めたTBS「報道特集」では同時期、対面授業再開のための予算を国に求めていた日本共産党系団体「FREE」の幹部が素性を隠して出演していました。また、NHKなどの放送局でもヤラセ的な演出があったことも当事者の証言から明確になっています。
さらに対面授業再開のために活動した学生団体の隠された真実が浮かび上がってきました。「大学生対面授業再開プロジェクト」は当時、「陰謀論」に染まった女子学生が「反自粛」の旗印のもと、立ち上げた団体であり、2代目リーダーの男子学生は大学に対する明確な敵意を持って運動に臨んでいました。さらにこの団体を対面授業再開運動の“過激派“保護者活動家が支援していたことも発覚。このような学生をフロントにした反自粛・反大学の大人活動家たちの存在は他の団体でも確認、示唆されています。
(3)SNSと大衆扇動
発端となったツイッターデモ「#大学生の日常も大事だ」についてもその全容が明らかになっています。当時大学院に通っていたある若者がSNS上で散見されたオンライン授業への不満投稿を見ながら、手元にあった漫画をもとに「SNSを利用した大衆煽動」計画を立てます。政治や社会運動の経験のない彼は中国の宗教家にして革命家「張角」を名乗り、顔も名前も性別も知らない、そして、最後まで知ることのない仲間を募り、準備を進めていきました。仲間には過激な反自粛派や新左翼グループとの関係が疑われるものも含まれていました。張角自身はその身を隠し、1人の身元の不明の大学生をフロントに置き、Twitter デモを成功させます。
このデモの最中、ある美大生が自分の体験を大学生全体に拡大する漫画を投稿し、「可哀想な大学生」のイメージを定着させます。その中でコロナ禍の対応に追われていた「大学」と「大学教員」が「悪魔化」されていき、バッシングの対象として形成されていきます。1人の若者の思いつきがパンデミックのように広がっていきました。それは現代社会の脆弱性を明らかにしていきます。
3 Operation Ama-no-Iwato
(1)プロジェクトの全容
SNSの影響力と情報操作の危険性、政治家の思いつきによる方針転換、根拠に基づかない行政府の運営、「異議申し立てを行う若者」への大学人の過剰な期待、大手メディアが行う偏向報道や利益相反意識の希薄さ・・・。こうして社会運動史、学生運動史に燦然と輝く金字塔「対面授業再開運動」は一夜の徒花として、腐って落ちていきました。
コロナ禍の大学をめぐる一連の出来事に関する検証プロジェクトを私たちは4年間に渡り展開しました。公開されたレポートは2024年7月20日段階で通し番号で44、実施されたアンケートは13件、回答総数1万3000件超請求された公文書の総枚数は2600枚超、行われたインタビューは未公開含め23件、合計35時間分と膨大なものとなりました。レポートは全て「A-n-I」の通し番号がついています。これはプロジェクト名の略称です。一連の検証プロジェクトは「Operation Ama-no-Iwato」と名付けられました。
私は学生メンバーとオンライン上でやり取りしながら作戦を練りつつ、一連の調査報告をリリースし続けました。それは、神代の昔、太陽神「天照大神」が岩戸に隠れ地上が闇に包まれた際、世界に再び明かりを取り戻すために神々がさまざまな工夫と努力を行なったように。
私たちが岩戸から迎え入れた真実は、人々に許容できない感覚を与えることがあります。
私たちがインタビューをした東京に住む女子学生。彼女は有名私立大学に2020年に入学後、オンライン授業に飽き飽きし、東京を離れ地方留学のため九州へ。自由気ままでどんな状況も楽しむトーキョーガール。実は彼女もある「運動」をしていました。彼女に私は尋ねました。
「SNSで署名活動してましたよね。大学の入学式をしたいって」
「えっ? ああ忘れてました。完全に忘れてましたね。どっかに提出したわけでもないんですよ」
そして、彼女は続けます。
「だけど、入学式できたんですよ。当時住んでたタワーマンションに大学の先輩も住んでてその方に誘ってもらって。理事長よりも偉い『院長先生』って方のオンラインランチ会に参加して。それで院長先生と仲良くなって、『入学式やってくださいよ』って言ったら、『わかった』って」
忘れられた署名。影の権力者へのおねだり、驚くほど容易い夢の実現。反自粛・反大学の「大学生対面授業再開プロジェクト」を率いた2代目リーダーにこの話をしました。彼は怒りも憤りもせず、ただただ、手を叩いて笑い喜んでいました。
私たちの調査報告について、社会運動を専門とする社会学者や政治学者たち、そしてジャーナリストは沈黙しています。それもそのはずです。真実は誰も癒しません。夢は夜ひらくわけです。それでも私たちは世界を明るくしないといけません。太陽はまた沈みます。
4 次の夜が来るときは・・・
21世紀に入り10年おきにパンデミックの危機がやってきました。3回目にして成功した感染拡大。私たちが経験した「夜」は再びやってくるでしょう。人々はこの夜に夢を見るでしょう。権力に抵抗するため立ち上がった若者、それを応援する理解ある大人たち・・・。誰かが「悪魔」とされ、より若く、か弱そうな何かを「正義」とする物語が生まれます。しかし、それはあまりにも「夢見がち」な大人たちの「夢」なのです。現実は、強かさと愚かさが折り重なった情けないものです。再び世界が夜に包まれたとき、人々の夢を覚ますため、私は朝を訪ねて、天岩戸の前にやってくるでしょう。あなたも「真実の従者」であるなら、きっとそうするでしょう。きっと・・・
動画へのコメント
先程の動画について、モデレータの先生方からいただいた質問を抜粋して答えていこうと思います。(コメント動画ではQ1とQ10を取り上げています。一部表現が異なる場合があります)
Q1 美大生の漫画について
この美大生を名乗る方は自身でこの漫画を作られたのでしょうか?もしそうなら、多数派であるかはともかく、この人の意見ではある(乗せられたデマ拡大とは違う)、ということになりはしないでしょうか?
実習を必要とする美大でのオンライン授業は、対面の再開が必要であったと思わせるエピソードのひとつでした。扇動・運動に関連させるには、ややミスリードと感じましたが、利用されてしまったということへの補足があれば、位置付けてもよいとは思いました。
まず、美大生の漫画についての質問です。この漫画を扇動や運動に関連させるのはミスリードではないかという指摘がありました。いくつか確認すべき事実があります。
まず、彼女は大学一年生時点でセミプロデザイナとしての活動歴があります。漫画のデザイン性について、知り合いの出版社の編集担当者にも確認しましたが、プロ並みのものであるとの意見でした。当該の漫画も、読者にエモーショナルな反応を与えるために工夫がされています。
例えば、外を歩くサラリーマンや小学生がマスクをしておらず、サラリーマンが自由に飲み歩くという描写があります。オンライン授業で苦しむ学生としての自分を強調するために事実を歪めたものであり、コメント欄でも批判されていました。この漫画は彼女自身の個別的な体験から出発していますが、それを感情の流れの中で学生全体へと拡張し、社会問題化させようという意図が感じられました。
彼女の大学では当時、すでに実習が再開されていました。彼女のコース・学年はその対象になっていなかったのです。そういう意味では彼女の体験はあくまでも彼女の体験であり、同じ大学でもコースや学年が違えばあの時の体験は異なっているのです。
彼女の目的は自分自身の実習再開であり、この漫画はそのために社会全体を巻き込もうと作成されたプロパガンダ作品です。このことに気づかない、あるいは気づこうとしないのは、そこに「若者は非力で何もできない」「だから自分たちが庇護しないといけない」という大人たちの「思い込み」、「思い上がり」、あるいは「欲望」があるのではないかなと感じています。
二十歳手前の彼女はすでにセミプロとして仕事をしていたわけです。「非力で何もできない」という表現は彼女にふさわしくないでしょう。
彼女に限らず、対面授業再開運動の学生たちは非常に巧妙に相手が自分たちをどのように見ているのか計算しながら、目的達成のためのPR活動を行っていました。大学の研究者たちのある種、善良な「庇護欲」や「リベラルな精神」がうまく利用されたとも言えます。
Q2 萩生田「思いつき」について
それまでの説明で萩生田大臣が官僚答弁を無視した方針転換をしたことは分かりますが、それが「思い付き」である根拠は何でしょうか?何かしらの(例えばバイアスのかかった)声に基づいた、等の可能性はないのでしょうか?
続いて、萩生田大臣の方針転換についての質問です。先程の動画で「思いつきだ」と説明しましたが、その根拠についてです。
萩生田大臣の対面授業再開に向けた方針転換の経緯について、いくつかのルートが考えられました。
まず、「文科省ルート」です。経産省が教育DXである「EdTech」を推進していたため、その牽制として対面授業の価値を再認識させようとした可能性が考えられました。しかし、文科省が作成した答弁書の内容からその可能性はないことが分かりました。
次に「官邸ルート」。安倍政権の延命を図るため、世間の評判を気にした官邸官僚や厚労官僚から圧力がかかったのではないかという説です。しかし、厚労省や官邸からの文科省への連絡や通達を調査した結果、その可能性はないことが判明しました。
最後に「政治家ルート」。萩生田氏が当時の総理、安倍晋三氏から直接命令を受けたのではないかという説です。これについては確認のしようがないのですが、もしそうであれば事前に文科省と調整したでしょうから、抜き打ち的な行動はやはり突発的なものだと考えるべきでしょう。同様に、後援組織からの圧力の可能性も低いと思われます。
こう考えると、萩生田大臣が答弁書を無視して発言したという事実のみが残り、その瞬間の彼の内心の問題だけが考慮すべき対象となったわけです。それは「思いつき」と表現するしか、他ならないというわけです。
Q3 保護者の声について
何故保護者側が対面再開を強く求める動きを起こしたのでしょうか?弟や妹が学校での対面再開したのに大学生の子どもだけ自宅にい続けて邪魔だったのでしょうか?保護者側が(一部だけかもしれませんが)動く根拠を知りたく存じます。
保護者(の多数派)は少なくとも対面再開を求めていた、という可能性は高いのでは無いでしょうか。その場合利害関係者として、学費を出す大半である保護者・保証人の声に基づいた、という可能性は残るのではないでしょうか?
対面授業の再開を求める保護者の声が学生の声とされていましたが、それは本当か。もしそうだとしても、学費を出す保護者や保証人の声に基づいているのだから問題はないのではないか、ということです。
「学費を出す保護者の声に基づいた」のだから問題ないという発想は一見、道理に合っていますが常識的な経済人的思考であり、研究者としては物足りないように思えます。現実をもう一つ掘り下げて状況を理解したいと思います。
まず、文科省に対するクレームの経路についてです。SNSの分析によると、対面授業再開運動は反自粛の運動と深く関連していることがわかりました。大規模な検討調査の結果、文科省の対面圧力に対する評価は、学生よりも保護者の方が高いことが分かっています。しかし、対面授業を抑制した大学に対する評価では、学生と保護者の間に大きな差はなく、共に高評価でした(文科省に対する評価も同じく高いです)。
データを分析すると、この背景には、「自粛は行き過ぎている」という考えや「コロナは危険ではない」という認識があることがわかりました。保護者に関するアンケート調査でも、大学批判の投稿をした人は同時に反自粛や反ワクチン、陰謀論的な投稿をしていたことがわかりました。SNS分析でも同様の傾向が見られます。
結論として、コロナを危険ではないと考える大人の中に、あるいは過激で攻撃的な人の中に、大学生の子供を持つ人=保護者がいたということです。では、学生はそうではなかったのかというとそうでもありません。たとえば、「大学生対面授業再開プロジェクト」を見ると、学生でも偏った思想のもと、対面授業再開を求めていたことがわかります。
Q4 地域差とオンラインの選好
私は地方在住で、勤務校には県外からの学生が多いため、「アパートで1人オンライン授業を受けているのはしんどい」という声を聞きました。一方で、都会の学生(知人のお子さん)からはオンライン授業に慣れた後、「通勤ラッシュにもまれてキャンパスまで行くより、講義形式ならオンライン授業のほうがいい」という意見を聞きました。地域によって、オンライン授業に対する学生の意見は違ったのでしょうか。
地域によってオンライン授業に対する学生の意見の違いがあったかどうかについてです。
大規模調査の結果、オンライン授業の継続を希望するかどうかについては、大学の立地や下宿の有無はほとんど関係ありませんでした。
関係したのは、オンライン授業に対する適応度と経験です。具体的には、オンライン授業に不適応を感じた学生は継続を望まなかった一方で、オンライン授業を多く経験した学生は継続を望む傾向がありました。
Q5 方法論について
方法論的なことに関する質問です。今回のまとめや、インタビュー等の調査は、どのように進められているのでしょうか。研究に関心を抱く者として、実際に、どのように膨大な調査を進められてきたのか、気になっています。差し支えなければ、舞台裏のエピソード等も(可能な範囲で)共有頂けましたら幸いです。
詳細は別の機会に詳しくまとめたいと思います。方法論の根幹をなす哲学、そして様々な手続きを構築していくことはこのプロジェクトの1つの重要テーマでした。
ここでは少しこぼれ話的なことを・・・。
実証研究をきちんと行ったことがなかったため、統計など基本的な研究手法を1から学び直しました。テーマが広範囲であること、アカデミズムとジャーナリズムの重なる部分の仕事であったこともあり、新しいアプローチ方法が必要になりました。答弁書と実際の答弁を比較したり、週刊誌と連携して調査対象からコメントを引き出したりしたのは我ながら面白い方法だなと感じています。また、SNSで見知らぬ人に事実関係を聞こうとしてブロックされたり、文科省の官僚に怪文書を送り無視されたりなど、デンジャラスなチャレンジもしました。
それでも実証の厳密性は低いと感じました。だからこそ、大量のデータを用いて様々な角度から何度もアプローチをしました。机の上で眠り、毎日頭がクラクラしていました。これまで自分は研究ではなく、研究っぽいことをしていただけだったと痛感しました。「査読論文を書くことが全て」の世界とは違う、別のステージに立てて新しい景色を見ることができました。研究者にとっての唯一の楽しみってこうじゃないかなと思います。
その中で学部生のメンバーが手伝ってくれたのは助かりました。一方で周りの研究仲間は白い目で見ていました。「コロナなんて水物だから」と短期の研究費獲得の口実に利用していましたが、しっかりと取り組む気もないし、取り組んでいる人のことを鼻で笑う風潮は感じました。特に大学院生くらいの若手になると、先輩研究者を値踏みしますから、彼ら彼女らは私のことを「使い物にならない」という感じで扱っていました。
Q6 SNSと情報操作、アカデミアのあり方
SNSの影響力と情報操作の危険性についてこれまで自分が思っていなかった観点のご指摘になるほどと思いました。・・・この時代にアカデミアの果たすべき役割、それを行うのに必要な立ち位置というかアカデミアの在り方について、これからの大学人に求めたいことをお聞かせください。
SNSの影響力と情報操作の危険性を踏まえ、これからのアカデミアの役割についての質問をいただきました。
これも別の機会にまとまって書ければと思うのですが1つだけ。
研究を進める中で、社会科学がSNSの中で過度なほどに政治化されていることに気づきました。有名な社会科学者の方がTwitterで私のレポートを拡散してくれていたのですが、最初はありがたいなと感じていたのですが、なんだか、拡散するものとしないものがあると気づきました。それは研究としての質というよりも、リベラルな勢力が好むかどうかという選考基準に感じました。その人のアカウントをよく見ると学術的なことよりも与党批判の投稿の方がインプレッションが多く、気づいたら周囲を活動家に囲われている状況でした。
これは一例ですが昨今、SNSで学者か活動家かわからない人が増えているように思います。
大学院時代の恩師が反マスク運動に参加し、陰謀論界隈に取り込まれていました。その人はSNSアカウントを持っていませんが、発言がSNSの陰謀論コミュニティで拡散され祭り上げられていました。知らぬ間に統一教会系の団体で講演もしていました。以前はバリバリのサイエンティストだと尊敬していましたが・・・。
「SNSの戦争」の中で既存の政治的枠組みのために物語を紡ぐと、現実の多様性や複雑性をおざなりにしてしまう危険があります。これは文系や理系の問題ではなく、学術研究全体のシステムの問題です。学者個人とシステム全体がリフレクティブである必要があります。価値観や前提条件を可視化し、状況に応じて最適な方法を選択することが求められます。倫理をもって「物語」と関わることが重要です。
Q7 AIと危機
今回のパンデミックがあと3年遅く、つまりこの生成系AIの普及以降に起きた場合、この動きはどうなっていたでしょうか?
蒲生先生の「予言」が、次回現実となり、再び天岩戸の前にやって来られた時、ここまでのOperation A-n-Iから得られた知見をどのように生かせば良いとお考えでしょうか。
今後もパンデミックが起きるとしてそこで生成AIの進歩がどのような影響を与えるかという話を考えてみます。
「張角」が「SNSの匿名性を利用すれば、一人でも大衆を煽動できるのではないか」と言っていました。これを考えると、AIを用いたbotや画像生成技術を使って、多数の「かわいそうな何か」を作り出すことが可能です。少人数での大衆煽動がより簡便になっていくでしょう。
それに対抗するためには、誰かのプロパガンダをすぐに解き明かすことが必要です。ここでAI技術が利用できると考えます。SNSは情報の消費スピードを非常に早めてしまうため、プロパガンダは常に生み出され、それをサルベージし続ける必要があります。AIはそのサイクルを加速する働きがあります。
Q8 1970年学生運動との比較
1970年代初頭の学生運動と比較できると思われますが、両者の相違点として注目すべき点は何でしょうか?
1970年代初頭の学生運動と比較して、今回の運動との違いについてです。
まず1つ目の大きな違いは、今回の運動が成功している点です。政府に対して影響を与えることができました。一方、1970年代の安保闘争に端を発する学生運動は、最終的には明確な成功というのも得られませんでした。そのため、当時の運動を果たせなかった革命の夢を追い続けている人たちが今も多くいます。1970年代の学生運動には「ノスタルジー」に隠れた「影」と「重み」があります。一方、今回の運動の当事者たちは、数年のうちに忘れたり、黒歴史として切り捨てたりしています。ある種の「軽さ」があるのです。
社会運動に関わる(つまり、過去の学生運動の流れを汲む)ベテランの先生たちにレポートを送ってコメントを求めると、「こんな変な連中に関わるな」とか、「あなたの調査は陰謀論だ」といった反応がありました。一方、今回の運動の当事者たち(あるいは現役の学生たち)はレポートを読んで嬉しそうにしたり面白がっていたりしていました。この対比が非常に面白いと感じました。
Q9 大学教育の再生と分断
世代と思想の分断を、大学教育の再生によって、乗り越えていくことは果たして可能でしょうか? 本Facebookグループの集合知は、SNSの光明の部分であったと、信じたいのですが、いかがでしょう。
大学教育の再生によって世代と思想の分断を乗り越えられるか、そしてこのFacebookグループの位置づけについて、です。
「現代」において、大学や学術には「常に」状況を監視し、支配的な物語を「常に」妥当な位置に戻すことが求められます。現代社会では知が速いスピードで流れ、消費され、支配的な物語がしばしば歪められます。新しい物語を生み出し、語り直すことが研究者に求められます。
大学は知の生成と継承の場であり、そのサイクルが「現代」に対して妥当な「物語」を提供します。すべては疑われ、試され、流れ去り、再び汲み上げられます。
このFacebookグループも同様の位置づけにあります。研究者たちが常に新しい情報や視点を共有し、議論する場として機能しています。「常に」を可能にする場所であり、「流れる水は腐らない」の通り、知の流動性を保つための「水路」のような役割を果たしていると感じます(私にとっての「公共」は人々が集いコミュニティが生まれ集合知が生成される「オアシス」というよりも、人々が生きるために必要なものを運び、送る「水道」のようなもの、という感じがあります)。
Q10 「物語=ナラティブ」をめぐる戦い
一般への啓蒙普及ならともかく、学術的なことを生業とする聴衆を相手に岩戸など神話的な演出を敢えて選んだのは何故でしょうか?例えばこれが学会発表とかならそれが原因で反応が無い(一部宗教活動と誤解されるきっかけとなっている)可能性は無いのでしょうか?
最後に、今回の動画で神話的なモチーフを選んだ理由について。これまで私のレポートは「語り」的で分量が長く、結論を客観的データのみで示してほしいとのコメントをいただくことがありましたが、物語として研究を提示することにこだわっていました。
一番大きな理由は「私自身が」物語を描きたかったということでした。メディアや政治家、文化省が紡いだ「大学の物語」を奪い返し、現実の中に私なりに描き直す。そのため事実をつなぎ合わせて、「認識枠組みとしての物語」を提供することを目指しました。
物語には私の価値観や経験が織り込まれ、理解を促す「比喩」のために文学的な表現も用いられます。神話的モチーフもその一環です。この「ナラティブの戦争」は現代のプロパガンダで重要なものです。
対面授業再開運動の学生たちは「ナラティブの戦争」の勝者であり、大学の研究者たちの声はもはや社会で何の力も持たない存在だと明らかになった。それが今回の騒動だと思います。違和感を持たれるのは当然です。極めて特殊で戦略的(かつ実験的)な調査報告だったからです。
数量的なデータを多用していますが、実際は文学的で認識論的なプロジェクトだったのです。大切なのは客観性を装うことよりもリフレクティブな態度であり、自分の「物語の源泉」を常に追い求め、それに言及すること。その省察の中に「倫理」を見出すことだと感じます。
もちろん普通の学会ならアカデミックな装いをして発表します。ただ、コロナ禍の大学バッシングを経験したこのグループにおいて、改めてそのようなものがしっくりくるのか。アカデミズムの「コロナ禍における敗戦」への私なりの答えが、先の動画だと思っていただければと感じます。
2024年10月1日
本ウェブサイト掲載の内容は蒲生諒太の個人研究成果です。所属機関等の公式見解ではございません。