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はじめに
2025年10月30日、日本共産党の元衆議院議員の池内沙織氏がXに投稿した内容が物議を醸しています。
池内氏はInstagramのプロフィールに「譲れない信念はコミュニストでありフェミニストであるということ」と記載していたり、2021年には日本共産党学術・文化委員会事務局の朝岡晶子氏とともにラジオ「池内さおりラジオ コミュニストはフェミニスト」を配信するなど、日本共産党のフェミニズム論客として有名です。
産経新聞の報道より以下経緯を引用します。
共産党元衆院議員の池内沙織氏は30日、訪日したトランプ米大統領に対する高市早苗首相の親密な対応ぶりについて、X(旧ツイッター)で「『現地妻』という悲しい言葉を思い出す。深刻」と書き込んだ。(略)
池内氏は高市氏について「腰に手をまわされ満面の笑顔で受け入れる総理大臣の数々のシーン。苦しすぎて写真引用不可能」と表現し、「日本が対米屈従権力であることに加え、女性差別を『ものともせず』のし上がった人物の悲しい姿。彼女個人の自己顕示欲の強さも痛々しい」などとする見方を書き込んだ。
首相に対する「現地妻」との表現については、「さすがに女性蔑視の度を過ぎてませんか」(自民党の渡辺友貴東京都杉並区議)、「言葉の加害性を考えてください。女性蔑視に抗議します」(「性暴力被害者の会」代表でジャーナリストの郡司真子氏)など批判の声があがっている。
「『現地妻』元共産議員の池内沙織氏 首相のトランプ氏対応に苦言も『女性蔑視』指摘相次ぐ」(産経新聞)2025/10/31 17:59
個人的に驚いたのは、上記の記事にもあるように、フェミニストとしても知られる郡司氏のX投稿でした。
私はかつて性売買に反対する池内さんが当選して欲しいと初めて政治的発言を始めました。しかし今日とても後悔しています。「現地妻」という言葉の加害性を考えて下さい。女性蔑視な行動をするから、共産党はどんどん女性からの支持を失っているのに、まだ気づけないのですか?女性蔑視に抗議します。(2025年10月30日20時53分投稿)
近年、郡司氏は日本共産党に批判的な投稿を行っていたという背景があるにせよ(例1 例2)、SNS上で著名なフェミニスト活動家から「女性蔑視」という強い言葉で池内氏が批判されたことは、大きな驚きでした。
池内氏の投稿は、多くのアカウントによって拡散(リポスト)されました。11月1日15時時点でのリポストアカウントの中から当該投稿(一連の投稿の最初のもの)を拡散(リポスト)した公職者、公党関係機関・関係者、著名ジャーナリストを抽出してまとめましたがほとんどが日本共産党関係であることがわかります(他党の関係者はほとんどいませんでした)。
・下奥奈歩 愛知県議会議員(日本共産党) https://x.com/shimonaho ・高月まな 東京都新宿区議会議員(日本共産党) https://x.com/takatsuki_mana・雪田きよみ 埼玉県吉川市市議会議員(日本共産党) https://x.com/snowkiyomi・鐙史朗 石川県輪島市議会議員(日本共産党) https://x.com/abumi920・松田一志 山口県岩国市市議会議員(日本共産党) https://x.com/JcpKazushi53 ・鐙史朗 石川県輪島市議会議員(日本共産党) https://x.com/shiroabumi・可知佳代子 元東京都議会議員(日本共産党) https://x.com/kayoko24430
これらの人々が当該投稿を好意的に拡散しています。他方で多くの批判も見受けられます。
感覚的には「おかしい」と感じられても、理屈として批判を構成できなければ、例えば高市氏への憎悪が社会的に、あるいは個人の中で高まった際に、「池内氏の投稿は正しかったのではないか」といった誤った認識が広がりかねません。
ちょうどこの件について、ChatGPTとの対話を通じて議論を深めていたところ、問題点が整理できました。以下では、それを軸に加筆・整理した内容を参考までにまとめておきたいと思います。*内容的には鈴木祥平弁護士の指摘と重なる点が多いのでそちらも参考ください。
1 何が問題なのか?
まず、当該投稿をすべて引用します。
腰に手をまわされ満面の笑顔で受け入れる総理大臣の数々のシーン。苦しすぎて写本引用不可能 日本が対米屈従権力であることに加え、女性差別を「もろともせず」のし上がった人物の悲しい姿。彼女個人の自己顕示欲の強さも痛々しい。 高市氏をみながら、「現地妻」という悲しい言葉を思い出す。深刻。(2025年10月30日10時13分)https://x.com/ikeuchi_saori/status/1983703869424382400歴史的に深刻な状態がさまざまな形で続く女性差別を、自らの生き方や態度としても改善する態度のない女性の「成功」は、多くの苦境にある本邦の女性たちへの裏切りとさえ思う。私は。(2025年10月30日10時21分)https://x.com/ikeuchi_saori/status/1983705774489792683
↑写本ではなくて「写真」です。言葉以上に…トランプ大統領に対する高市氏の表情や態度が映し出された写真は見るに堪えないものがあります。悲しくて悲しくて、とてもやりきれない。対等な日米関係とは無縁。自民党という政党は、女性差別を改善するための桎梏となっている。認識が強まるばかり。(2025年10月30日11時13分)https://x.com/ikeuchi_saori/status/1983718913570697509
誤植多すぎてすみませんもろともではなく「ものとも」のミス。 女性差別を自らの出世のためのエンジンに変えて進むさまは、差別構造を強化しこそすれ、多くの女性にとっては困難軽減にはならない。私はそう考えます。(2025年10月30日14時51分)https://x.com/ikeuchi_saori/status/1983773841697698159
あらかじめ明示しておく必要がありますが、これらの投稿には差別的(ジェンダー差別的)な表現が含まれており、いかなる擁護もできないものと考えます。
以下、3点から解説しますが、特に「現地妻」という比喩は、女性を性的・従属的な役割に位置づけて貶める含意が強く、非難の対象を政策や行為ではなく性別に結びついた役割で矮小化しています。
①「現地妻」の比喩
「現地妻」は、海外赴任や戦地・植民地に行った男性が、現地で正式な婚姻ではないけれど“妻のように扱う”女性を指す言葉です。ここには次の3つの問題が指摘できます。
1「男性が主で、女性が従という力の非対称」
2「性的な関係が前提にある、あるいはそう見なされる性的含意」
3「正式な婚姻よりも地位が低い、一時的というニュアンス」
そのため、この語を女性政治家にあてると、「あなたの政治的ポジションは実は対等な成果じゃなくて、権力を持つ男に気に入られた“女性的な・性的に従属した”結果だ」と読むように仕向ける効果が出ます。
これは、政治家を政治的能力や政策で評価せず、性別に結びついた従属役割で説明しているので、ジェンダーの固定観念を再生産する=人格を貶める、という評価になり、池内氏の投稿は性差別を再生産していると評価できます。
②「腰に手をまわされ満面の笑顔で受け入れる」等の描写
ここで池内氏が行なっていることは、写真の身体的な接触+表情を取り出して、「ほら、迎合してる/媚びてる/対等じゃないでしょ」と政治的メッセージに変換することです。
ところが「腰に手をまわす」「満面の笑顔で受け入れる」という語は、日常日本語では親密・甘受・男女関係的な雰囲気を連想させやすい。つまり、政治上の場面を性的に・ジェンダー的に読み替える枠組みを持ち込んでいるんです。
政策・外交・意思決定という本来の評価軸ではなく、性的/女らしさ/男への迎合といったジェンダー化された軸で人物を評価していることに他なりません。
このことは重要です。これを行うと、女性政治家はいつでも「からだの見え方」で値踏みされるという構図が強化されてしまいます。つまり、女性は専門的な職能ではなく、女性としての身体に価値評価の軸が与えられるという点で、池内氏の投稿は女性差別を再生産していることになります。
③「女性の『成功』は…裏切り」の一般化
この文言は、「女性差別を改善する態度のない女性が社会的に昇進するとそれは他の女性の裏切りになる」と言っています。
ここで起きているのは2段階です。
まず、性別を起点に、女性どうしの“正しいふるまい”を決めているということ。「差別をなくす方向でふるまう女性」は正しい女性としての振る舞いであり、「そうしないのに成功した女性」は女性に対しての裏切りであるという道徳的な線引きが、女性であることを基準にして引かれている。
すると、「女性は女性である以上こうふるまうべき」という性別役割の再提示になります。これはやっかいな考え方です。池内氏の投稿は「差別を作る・支える構造」を批判するのではなく、「その構造の中でこう動かなかった“女性本人”が悪い」と個人の女性に道徳を背負わせる方向にずらしてしまっているのです。
こういう書きぶりは、意図としては「女性差別に鈍感な女性政治家を批判したい」でも、実際の効果としては「良い女のふるまい」と「悪い女のふるまい」をまた性別を軸に人間の実存で区切ることになり、性別役割観をむしろ強めます。つまり、男性社会において「女性はかくあるべし」と押し付けられていた性別役割観を今度は池内氏自身が権威者となり女性に対して特定の規範を押し付け、抑圧するということになります。性差別の根本的な構造への批判ではなく、むしろ、従来ある構造をジャックして、自分が抑圧者として君臨しようという危険な企みに感じられます。
3つとも「行為や政策を批判する」こと自体はできるのに、わざわざ性・従属・女らしさのコードを通して言おうとしているから問題になるのです。
政治的批判にしたければ、「対米追随的に見える外交姿勢」「ジェンダー平等政策への後ろ向きさ」「女性代表としてのロールモデル機能の欠如」のように、行動・政策・構造にラベルを貼る書き方にすれば差別性は下がったでしょう。「女性だからこうだ」と性で説明した瞬間に、評価の土台が政治からジェンダーにスライドしてしまい、差別構造を再生産してしまう、のです。
2 それは免責事項になるか?
他方で池内氏が「フェミニスト」として、「ジェンダー平等を掲げる日本共産党」において日頃から活動していることを免責事由になるように捉える人もいるかもしれません(以前、別のレポートで議論した新しい差別論に当たります)。しかし、そのようなことが差別的表現の免責になることはあり得ません。
「フェミニスト」や「ジェンダー平等」を掲げている政党に所属する政治家が他者(とくに同じ女性)を性的役割や身体的イメージで貶める表現を用いた場合、先に示した通り、それは差別を再生産することに他ならず、自己の行動原理と矛盾すると見なされます。
そもそも差別表現かどうかは発言者の意図や立場ではなく、表現の構造・社会的効果で判断されるのが一般的な理解になってきています。どんなにリベラルな動機であっても、性別・人種・出自などを侮辱・固定化する言語表現は差別的効果をもつと理解できます。
また、「高市は女性の敵だから許される」と考える意見もあるでしょう。その考え方——「相手が女性の敵だから差別的表現を使ってもよい」——は、運動論的にも成立しません。むしろ、それを許容してしまうと運動そのものが自壊します。理由を3つに分けて説明します。
1つ目です。「フェミニズム」や「ジェンダー平等」の運動が目指すものは、一般的に、誰であっても性別や身体・性的役割をもとに侮辱されない社会を作ることだと考えられるでしょう。だからこそ、たとえ特定の政治家が反フェミ的な政策を進めていても、「女性として」「性的存在として」貶める表現は使わないことが一貫性の証になります。相手を「現地妻」などの性的・従属的比喩で罵るのは、フェミニズムが批判してきたまさにその「女性の性的従属の言説」を再利用することになり、結果として「性差別的な手法を使って性差別を批判する」という矛盾が生じます。この矛盾が露呈すると、運動が“自分に都合のいい差別は容認する”に見えるという深刻な逆効果を招きます。
2つ目です。高市氏の政策・発言・政治的態度を批判すること自体は完全に正当です。ただしその批判の根拠は「性別」ではなく「行為・思想・政策」に置かれるべきです。例えば、「女性活躍政策を実質的に後退させている」、「ジェンダー平等の制度改革に背を向けている」と行為批判が当たります。「高市は女性の敵だから差別的言質で貶められるのが妥当だ」と考えることは、それら正統な批判を排除し、「罵倒」の次元に政治批判を後退させることに他なりません。
3つ目です。一般的に差別は、最初「例外」の形で正当化されると言えるでしょう。「あの人たちは危険だから」「あの人は自分で差別を招いたから」というものです。フェミニズムなどの運動が「敵対者を性差別的言辞で罵倒しても問題がない」という論理を採用すると、「敵には人権がない」、つまり特定の人間には人権はない人権における例外規則という古典的な排除構造と同じ地平に立ちます。それは最終的に、他の少数者や女性自身にも跳ね返ります。つまり、「女性の敵だから許される」という発想は、フェミニズムをはじめとした反差別運動が戦ってきた「人権の制限」「尊厳の制約」という差別構造そのものを再起動させてしまうのです。
まとめ
池内氏が、なぜこのような差別的言説を再生産する投稿を行ったのかは定かではありません。
単なる知識や理解の不足によるものなのか、あるいは思慮を欠いた軽率な行為であったのか。
または、フェミニズムやジェンダー論を本来の理念としてではなく、政治的対立を煽るための手段として利用している可能性も否定できません。すなわち、池内氏はフェミニストとして発言しているのではなく、フェミニズムの言説を政敵を貶めるための装置として用い、社会の分断と憎悪を固定化させる道具として悪用しているのではないか——そうした疑念を抱かざるをえません。
もっとも、本稿の議論を踏まえても、池内氏に対して撤回や謝罪を求める意図はありません。池内氏の投稿は明らかに差別的なものであり、一連の発言は、いわば池内沙織氏自身が「自らを差別主義者として紹介している」かのような内容です。そのような投稿に賛同することは、結果的に自らの内に潜む差別意識を肯定し、表明する行為にほかなりません。このような行為を多くの日本共産党議員が行なっていることは注目に値するでしょう。
結局のところ、これらの投稿は、リベラル陣営の内部に潜在する差別的傾向が顔をのぞかせた一つの「兆候」であり、理念と言説の乖離がいかに容易に差別の再生産へと転化しうるかを示す事例といえるでしょう。
今更謝罪しようが撤回しようが、もう遅いのです。
公開日:2025年11月1日
原稿作成にChatGPTを用いました