第1回IBSセミナープレ企画 報告01
「エビデンス」を超えて-ボディワーカーのための社会科学
第1回IBSセミナープレ企画 報告01
「エビデンス」を超えて-ボディワーカーのための社会科学
Zoomで行われたプレ企画の講演内容の開催報告です。参加人数は講師含め10名でした。ChatGPTを用いた講演の詳細な記録を音声動画とテキストで報告いたします。
講演記録.pdf (以下の内容と同じ) / 発表パワーポイント.pdf
講演要約
蒲生氏は太極拳・気功などのボディーワークの実践者・指導者において科学的根拠(エビデンス)を学ぶ重要性を説く。SNSでフェイク情報が拡散する中、運動効果を裏付ける「システマティックレビュー」等の質の高いエビデンスへの理解が不可欠と指摘。ボディーワークの健康・QOL向上への可能性を認めつつ、法的・倫理的観点から個々のワークについての過剰な効能の断定は避けるべきと述べた。その代わり、科学的に妥当な表現を用いつつ、エビデンスの高い運動の健康効果について包括的に指摘しながら、ボディーワークへの参加を促すことが重要であると強調した。
蒲生氏は、講演後半で社会科学的視点からエビデンスを超えた問題を論じた。エビデンスやコンプライアンス意識が求められる社会の背景を説明しながら、歴史的に「もう一つの知」としてのボディーワークや民間療法が社会運動やカウンターカルチャーと結びついて発展・衰退を繰り返してきたことを指摘した。現代社会におけるボディーワークの語りかたを模索する中で、武術やボディーワークの伝承における「物語」の力を分析し、科学的厳密さを欠く表現の問題点を指摘しつつ、実践者が続けやすい伝え方として「わざ言語」に注目した。さらに、指導者のカリスマ化や過激な主張が実践の社会的評価を損なうリスクを警告。良いボディーワーカーとは身体の楽しさを伝え、継続を促す存在であると強調した。最後に科学と実践を対立させず、身体を通じた学びを続けることの大切さを説いて講演を締めくくった。
良いボディワーカー
・体を動かす楽しさを伝え、相手が自身の身体を発見する手助けができる
・継続するための工夫を提供できる
悪いボディワーカー
・不安を煽るような情報を流したり、不正確な健康情報を用いて人を惑わせたり
・過去の自慢話に頼ったり、権威付けのために誇張した経歴を持ち出したりする
・人々がそのワークを取り組むことを阻害し、日々からだを動かすことを困難にする
蒲生諒太氏は、講演の冒頭で、自身が関わる学問的背景について触れた。関西にはかつて、哲学研究を基盤とした身体論やボディーワークを探究する流れがあり、立命館大学や京都大学などがその中心だった。しかし、これらの学派は現在、後継者不足や組織再編によって衰退しつつある。一方、関東では「日本養生学会」を中心に、大学教育の中で養生に関する研究が進められてきたが、こちらも高齢化の影響で衰退の兆しがある。蒲生氏は、これら二つの流れを引き継ぎながら、身体に対する探究の分野を維持・発展させていくことを目指している。
今回の講演の鍵となる「エビデンス」という概念についても言及された。現代社会ではコンプライアンスの厳格化やハラスメント防止が求められる一方で、SNS上ではフェイクニュースや誤った情報が氾濫し、ファクトチェックが必要とされる時代となっている。このような背景の中で、太極拳や気功、ヨガなどのボディーワークの指導者にとっても、エビデンスを活用してその効果を説明する必要性が高まっている。しかし一方で、SNSでは科学的根拠を無視した誇張された効果を主張する人々もおり、エビデンスのあり方が問われる状況になっている。
講演は2部構成で進められる。前半は「エビデンスとは何か?」をテーマに、特に科学的根拠としてのエビデンスの捉え方についてオーソドックスな議論を展開する。後半では、エビデンスを超えた視点から、社会科学の観点でどのような洞察が得られるのかについて、自身の経験を交えて語る予定である。蒲生氏は、エビデンスを適切に理解し、それとどう向き合うべきかを考えることが、現代において極めて重要であると述べ、講演を進めていく。
蒲生氏は、現代におけるファクトチェックの重要性について述べ、特にデータと印象のずれが生じる例として、コロナ禍における小中高生の自殺率の変動を取り上げた。一斉休校が自殺者増加の要因と捉えられがちだが、実際のデータを見ると、自殺者の増加は休校期間中ではなく、休校が明けた後に起こっている。これは、夏休み期間中の自殺率が下がり、その後の学校再開後に増える現象と同様で、環境の急激な変化が子どもたちのストレス要因となる可能性を示唆している。このように、メディアの報道や世間の印象とは異なり、実際のデータに基づいて分析することの重要性を強調した。
さらに、科学的根拠を欠いた情報が意図的に広められる例として、男女の脳の違いに関する一般的な誤解を指摘した。近年、男女の脳の構造や心理的特性の違いを強調する主張がビジネス的に利用されることが増えているが、実際には性別間の平均的な違いよりも、個人間のばらつきの方が大きいため、単純な分類は意味を持たないと説明した。特に、「女性は共感型」「男性は論理型」といった二元論的な見方は、心理学の専門家から批判されているものの、広く流布されてしまっている現状があると指摘する。
このような誤解は、脳科学に関する言及においても頻繁に見られる。OECDが「神経神話」として指摘した事例の一つに、「人間の脳は10%しか使われていない」という誤解がある。実際には、脳のほぼ全ての領域が日常的に活用されており、この説は全くの誤りであり、この誤解に基づいて「人間の潜在意識を開発する」や「潜在能力を引き出す」などとして商売をする人々もいる。また、「右脳は創造的、左脳は論理的」といった右脳・左脳論も単純化された誤解であり、実際の脳の働きは特定の領域に限定されず、複数の部位が連携して機能することが分かっている。これらの誤った概念が広がる背景には、単純な理論の方が人々に受け入れられやすいという特性があるが、科学的根拠に基づかない情報が誤解を生み、それが商業的に利用されることも多い。
蒲生氏は、科学的根拠に基づかない情報が日常生活の中に広がっていることについて具体例を挙げながら解説を続けた。脳トレの効果について触れ、クロスワードやゲームなどの脳トレーニングが認知機能の向上に有効であるという確固たる科学的証拠は存在しないことを指摘した。一方で、運動が認知機能の維持・向上に寄与するというエビデンスは数多くあり、脳トレよりも身体を動かすことの方が重要であると述べた。このように、広く信じられている通説が実際のエビデンスと異なるケースは少なくない。
根拠のない情報が流布することは武術やボディーワークの分野でも見られるものである。蒲生氏は日本における太極拳の愛好者数に関する不確かなデータについて言及した。日本武術太極拳連盟は愛好者数を150万人と発表しているが、その根拠となるデータは公開されておらず、問い合わせても具体的な推計方法は不明だった。同様に、笹川スポーツ財団が同じ数字を掲げているが、担当者が退職したため詳細な根拠が分からないという状況になっている。こうした不確実なデータが、あたかも確固たる事実として扱われることの危険性を強調した。
「太極拳をして免疫力アップしよう」というような言及で用いられる「免疫力」という表現も問題があるという。医学的に見るとこれは不正確な表現である。実際には免疫システムが過剰に活性化するとアレルギー、そして各種の自己免疫疾患(膠原病、リウマチなど)が発症するため、重要なのは「免疫システムを安定させ、正常に働かせること」だという。この視点は健康と病気を連続的なグラデーションとして捉える東洋医学の考え方とも一致しており、西洋科学的にも東洋医学的にも違和感のある「免疫力」という言葉が蔓延している状況を憂いている。
こうした誤った情報が広まりやすい背景には、科学的根拠の弱い情報が人々にとって理解しやすく、感覚的に納得しやすいことが挙げられる。このようなものに科学者は正面から否定をすれば良いと思うかもしれないが、科学とは「何かが存在しない」と断言するものではないため、歯切れが悪くなることを指摘した。科学とは「それを証明するエビデンスがない」と主張するものであり、例えば、「ネッシーは存在しない」とは言えないが、「ネッシーが存在するという確かな証拠はない」とは言える。同様に、かつて話題になったSTAP細胞の問題も、科学的には「STAP細胞が存在しない」と断定するのではなく、「存在を証明する根拠が不十分である」と判断されたものである。
このように、科学の役割は「ある主張がどれだけ信頼できる根拠を持っているかを点検すること」であり、確実な証拠がないものを安易に信じることの危険性を理解することが重要であると述べた。
蒲生氏は、科学研究における資金提供の透明性とエビデンスの信頼性についても解説し、陰謀論的な考え方に陥る危険性を指摘した。研究者が製薬会社などの企業から資金を受け取ること自体は問題ではないが、その事実を開示しなければならない倫理的な義務が科学の分野では存在する。それは企業からの資金提供を受けた研究は、開示されたとしても一定のバイアスがかかる可能性があるため、評価の際に慎重に検討しないといけないためである。「お金をもらうからダメ」なのではなく、それは研究の質やエビデンスの強さにも影響し、科学の営みの中で企業等から金銭を受けてそれら組織に有利に働く、不適切な研究は淘汰されていく運命にある。
また、「企業から資金を受け取っていないから信頼できる」という考え方も単純化されすぎていると指摘する。例えば、ウイルス学の研究者の中には、そもそも製薬会社と関わることがない分野に属するために資金提供を受ける機会がない研究者もいる。また、大学に所属せず研究資金を獲得する手段を持たない人が、「企業と無関係である」という理由だけで信頼できるとは限らない。このように、研究の信頼性は資金の出所ではなく、研究の方法論やエビデンスの質、つまり研究そのものに基づいて評価されるべきであると強調した。
蒲生氏は続けて公的機関の発表に対する懐疑論について触れた。最近では、コロナ禍の影響もあり、政府や国際機関が嘘をついていると主張する声が増えているが、科学の本質は「再現性」にあるため、仮に公的機関が誤った情報を発信したとしても、他の研究者による追試や検証実験によって最終的には誤りが明らかになる。このため、「公的機関は嘘をついている」と主張し続けること自体があまり意味をなさないと述べた。科学の世界では、政府や企業の発表に盲目的に従うのではなく、独立した研究によって事実が検証される仕組みがあることを理解することが重要であると語った。
蒲生氏はこれらを踏まえた上で、科学的根拠=エビデンスについての実際について話は始めた。
蒲生氏はエビデンスの信頼度を評価する方法として、科学的研究のピラミッド構造について説明した。最も信頼度の低いエビデンスは試験管内(in vitro)の実験や動物実験であり、それらは人体にどのように作用するかを直接示すものではない。例えば、試験管内である栄養素が癌細胞の増殖を抑制することが観察されたとしても、それがそのまま人間に適用できるとは限らない。また、人間を対象とした研究でも、単なる理論的考察や症例報告は信頼性が低く、それら単発的な研究や実証性の薄い研究よりも信頼度が高いのは大規模な疫学調査であるという。ただし、このような疫学調査も限界がある。例えば、「コーヒーをよく飲む人は癌になりにくい」という関連性を調査する研究があるが、これは因果関係ではなく相関関係を示すに過ぎないからである。
これらさまざまな研究の中で最も信頼性が高いものは「質の高い研究を複数統合・比較」した「メタアナリシス」や「システマティックレビュー」であると蒲生氏は強調した。これらの研究は、個々の実験や研究を単体で評価するのではなく、同じテーマに関する複数の研究結果をまとめて解析し、総合的な結論を導き出すものである。
健康情報に関しては、多くの人が書籍や専門家の意見に頼りがちだが、個々の医師や研究者の持論に基づく健康本の中には、科学的な根拠が乏しいものも少なくない。「著名な医師や専門家の個人的な意見」や「経験談」は科学的には信頼性がかなり低い情報とされる。SNS上では、有名な医師や健康専門家がさまざまな発言をしているが、その多くが科学的な根拠を無視している場合もあるため、注意が必要だと指摘した。一方で、研究論文を精読し、質の高い研究を理解する能力を持つ非専門家もおり、そうした人々の方が、単なる権威に頼るよりも、より正確な情報を得る可能性があるとも述べた。
具体的な情報源として、蒲生氏は厚生労働省が提供する「eJIM」や、レビューのデータベースである「コクランレビュー(Cochrane Review)」を紹介した。コクランレビューは、世界中の研究者が協力して最新の医学的知見を整理するプロジェクトであり、システマティックレビューの代表例である。ただし、このサイトは専門的な内容が多く解釈が難しい場面もあるため、厚生労働省「eJIM」の活用が推奨された。
これらのデータベースから太極拳の健康効果について例として説明があった。複数の研究を比較する中で見えてきたものとして「太極拳の転倒予防と骨折リスクの低減効果」であり、高齢者が太極拳を実践することで転倒リスクが減少するという研究結果があると蒲生氏は報告した。また、「認知機能の改善」にも効果が期待されているという。さらに、「QOL(生活の質)の向上」についてもエビデンスが示されており、特に癌患者において、太極拳を取り入れることで心理的・社会的な側面が改善する可能性が指摘されている。
QOL(Quality of Life)とは、身体的、精神的、社会的な要素を総合した生活の質を指す。特に癌患者において、「生きがい」や「生活の意味」、他者とのつながりを感じること、自分が社会の中で果たす役割を見出すこと、または精神的な安定を得ることといった心理的な要素がQOLを高めることがあり、太極拳のような運動がそのサポートになると考えられている。
蒲生氏は、健康や生活の質(QOL)の向上に関する科学的なエビデンスの整理について解説し、特にWHO(世界保健機関)が提示した「スピリチュアル・ヘルス」の概念に言及した。これは宗教的な意味合いに限定されるものではなく、むしろ「生きがい」や「生きる意味」に焦点を当てた考え方であり、QOLを向上させるための重要な要素の一つとして位置付けられている。
QOLの向上は、特に癌患者に対するケアにおいて重要な役割を果たす。たとえ治癒が困難であっても、患者がより良く生きるための支援が必要であり、その中で太極拳、ヨガといったボディーワークが有効な手段となる可能性がある。太極拳が乳がん患者や慢性疾患を抱える高齢者、パーキンソン病患者のQOL向上に寄与するという研究結果が複数存在する。太極拳やヨガなどのボディーワークは「マインド・ボディ・エクササイズ」に分類され、身体の動き、精神的な集中、制御された呼吸を組み合わせることで、心身両面にポジティブな影響をもたらすと考えられている。
蒲生氏は太極拳の研究を事例にボディーワークの各種健康効果研究における課題にも触れた。太極拳がQOL向上や健康改善に寄与するというエビデンスは存在するものの、その研究の質を高めることが難しいという点が指摘される。例えば、太極拳にはさまざまな流派やスタイルがあり、どの流派のどの動作を行ったのか、どれくらいの頻度で実践したのか、指導者の違いなどが研究結果に影響を及ぼす可能性がある。そのため、異なる研究結果を単純に比較することが困難であり、研究の統一性とそれによる質向上が課題となる。
また、転倒防止の効果についても、太極拳自体の特性が影響しているのか、それとも単に「運動すること」が有効なのかを明確にすることが難しい。個々のボディーワークの意味や価値よりも「運動」という大きな枠組みの意味や価値を研究する方がニーズが高いといえ、この点も個々のワークのエビデンスレベルを高める障害になっているという。
その中でボディーワークの実践者・指導者も最低限知っておくべき「運動」に関する健康効果とそのガイドラインとしてWHO(世界保健機関)の推奨ガイドラインを示した。これは数多くの研究を統合した結果に基づいており、質の高い研究成果であるという。このガイドラインによれば、高齢者を含む全ての人が定期的に身体活動を行うことが推奨されている。特に健康維持のためには、週に150分から300分(約2.5時間から5時間)の中強度の有酸素運動を行うことが望ましいとされている。運動の強度は「メッツ(METs)」という単位で評価されており、例えば、普通に歩くことは3.0メッツとされ、これは「中強度の運動」に分類される。太極拳は、座って簡単に行う場合は1.5メッツと低いが、一般的に行う場合は3.0メッツと評価され、中強度の運動としてWHOのガイドラインの要件を満たす。
さらに、筋力向上のためには週に2回の筋力トレーニングが推奨されており、有酸素運動や筋力トレーニングにバランス能力を高める運動を加えて「マルチコンポーネント運動」も推奨されている。太極拳や気功は、これら筋力トレーニングとバランス運動の両方の要素を持つため、週に数回実施することで健康維持に役立つと考えられる。このように、太極拳は単独で厳密に研究されることは少ないが、運動全般のエビデンスに基づけば、健康に有益である可能性が高いことが示唆される。
エビデンスに基づいた医療(Evidence-Based Medicine, EBM)は、主に医療費の管理を目的として発展してきた側面がある。医療制度では、効果が証明された治療法に保険適用を行い、効果が不明確な治療には適用しない方針が取られる。そのため、医療の分野では厳密なエビデンスが求められるが、太極拳のように無料または低コストで行える運動については、厳密なエビデンスがなくても大きな問題にはならない。例えば、太極拳が薬の代わりになることはないが、補助的な健康維持手段としては有効である可能性がある。
さまざまな観点からヨガや太極拳、気功などのボディーワークに関するエビデンスの品質は、薬や医療介入の研究と比べると相対的に低くなる。しかし、それでも一定の科学的根拠があり、健康維持やQOL(生活の質)の向上に役立つ可能性が示されている。特に、運動全般については、膨大な研究が行われており、運動が身体機能の維持・向上、認知機能の改善、精神的健康の増進に寄与することが高い確実性で証明されている。
そのため、エビデンスの品質が低いために太極拳やヨガの効果を完全に否定するのではなく、運動全般のエビデンスを考慮しながら、補助的な健康維持手段として活用することが重要であると蒲生氏は述べる。
蒲生氏は、特定の運動や手法にこだわるのではなく、より広い視点から運動の効果を捉えることの重要性を強調した。太極拳の健康効果を証明しようとする研究は存在するが、必ずしも太極拳だけにこだわる必要はなく、運動全般の健康効果を理解する方が実用的であると述べた。
蒲生氏は一方で科学的エビデンスを活用する上での課題として、システマティックレビューの解釈の難しさを挙げた。システマティックレビューは、複数の研究結果を比較し、より包括的な結論を導くための手法であるが、研究設計の違いや対象条件のばらつきによって、解釈が難しくなる場合がある。例えば、コロナ禍におけるマスクの効果について、あるシステマティックレビューでは「マスクの効果は明確でない」と結論づけられたが、そのレビューの内容を詳細に分析すると、「マスクを着用するよう推奨されたコミュニティでの感染率の変化」を評価しており、個々のマスク着用が感染を防ぐかどうかを直接検証した研究ではなかった。そのため、SNSなどでは「マスクは無意味だ」と誤解される形で情報が広がったが、実際には研究の設計によって解釈が異なることが多い。
さらに、別のシステマティックレビューではマスクが一定の感染予防効果を持つ可能性が示されているが、その効果の程度は決して大きいものではなく、条件によってばらつきがあることも指摘されている。マスクの材質や着用方法、着用時間、使用環境などが統一されていないため、エビデンスの質が揃いにくいという問題がある。これは、太極拳やヨガなどのボディーワークの研究でも同様であり、特定の研究結果だけをもって効果を断定することは難しい。
こうした点を踏まえ、蒲生氏は、科学的エビデンスを評価する際にはその限界点を理解することが重要であると述べた。たとえシステマティックレビューが最も信頼性の高いエビデンスであっても、研究の設計や条件の違いによって結論が異なることがあるため、慎重に解釈する必要がある。
また、エビデンスが弱い分野であっても、他の対策と比較して安価で容易に実践できるものであれば、一定の価値があることも指摘した。例えば、コロナ禍におけるマスク着用は、ワクチンや特効薬がない時期には、比較的低コストで実施できる予防策として有用だった。これは、科学的根拠が弱くとも、費用対効果やリスク管理の観点から見れば、十分に採用する理由となる。つまり、エビデンスが少しでもある場合、それが困難な状況に置かれた人々にとって助け船となるのである。コロナ禍においては感染リスクを避けたい人々や、店舗やイベント運営者にとっては、少しでも感染リスクを下げる手段が必要だったため、マスクの使用が合理的な判断の結果と言える。これを単に「同調圧力に屈した」「政府の陰謀に騙されている」と嘲笑うことは、多数の人々の不安とそれら人々の可視化されていない合理性を見誤ることになる。
また、このようなエビデンスの付き合い方は太極拳やヨガのようなボディーワークも、科学的エビデンスが厳密に揃っていなくても、個人が取り入れやすく、副作用が少ない健康維持の手段として活用できるということを示す。
エビデンスがまったくない場合、人間は合理的な判断ができなくなると蒲生氏は指摘する。自身が飼っている高齢の猫が腎不全を患っている経験を例に挙げ、猫の腎不全に関する研究、さらには猫に関する基礎研究が非常に少ないことに驚いたと述べた。家畜の研究は産業目的で発達しているが、愛玩動物に関する科学的研究は乏しく、確かなエビデンスが存在しない。その結果、飼い主として合理的な判断ができず、効果が不明瞭な治療法や商品に頼らざるを得ない状況になっている。これは、かつてのガン治療の黎明期にも見られた現象であり、確立された治療法がない時代には、さまざまな未検証の療法や商品が氾濫し、オルタナティブな治療家たちが人々から金銭や時間、精神的なエネルギーを搾取していく。
エビデンスの存在は、合理的な判断を可能にする重要な要素であり、効果の程度や副作用のリスク、治療のコストなどを天秤にかけて判断できる材料を提供する。例えば、「一億円かけて成功率50%の手術を受ければ30分だけ延命できる」といった合理的な思考は、具体的なエビデンスの存在によって可能になる。エビデンスが存在しない事態はこうした選択のための材料すらないということになる。
蒲生氏はエビデンスの付き合い方として興味深い研究例として、「祈りの効果」に関する研究を紹介した。祈りが病気の回復に影響を与えるかどうかについての研究は複数存在するが、科学的に確実な証拠は見つかっていない。その中でも信心深い人々にとっては、祈りが精神的安定や安心感をもたらす可能性があることが示唆されている。つまり、祈りそのものが治療に直接効果を及ぼすわけではなく、心理的な側面に影響を与える可能性があるということである。しかし、信仰心がない人には同様の効果が見られないため、研究結果は一貫せず、エビデンスの強度が弱くなってしまう。
「信心深い人は祈ることで心の安らぎを得る」というのはあまりにも当然なことかもしれないが、当たり前に思えることでも、科学によって事実を明確化し人々に選択のための根拠を示すことは大きな意義をもる。祈りがわずかでも心理的な安定をもたらす可能性があるのであれば、それ自体は無料で副作用もないから、信心深い人が標準治療と併用して実践すること自体は決しておかしなことではない。極めて合理的な判断になるだろう。しかし、祈りに依存しすぎて標準治療を受けないという選択は、合理的とは言えない。なぜなら、祈りが病気を治療するというエビデンスはないからである。
エビデンスは人々の思考をクリアにし、より良い選択を可能にするものである。逆に言えば、それ以上のものをエビデンス=科学的根拠は持ち得ないのである。結局はなところは、私たち自身の判断、つまり、人生との向き合い方が全ての根幹となる。
蒲生氏は、エビデンスを過度に信頼しすぎず、また無視することもなく、合理的な判断を支える一つの指標として活用することが重要であると述べた。科学的根拠が弱い分野であっても、それが低コストで安全な手段であれば、取り入れる価値はある。一方で、高額な治療や重大な副作用を伴う選択肢については、より強いエビデンスを求めるべきであるとする。
蒲生氏は、科学的エビデンスの活用と、ボディーワークを指導する際の法的・倫理的な注意点について説明し、合理的な判断をするためにエビデンスがいかに重要であるかを強調した。科学的な知見は、判断の材料として役立つが、特にボディーワークの指導現場では、その活用の仕方に注意が必要であるという。この点は法的な問題を孕んでいるからである。
例えば、運動やボディーワークの指導において、「肩こりや腰痛を改善する」「自律神経の乱れを整える」といった表現は、日本の薬機法に抵触する可能性があり、慎重な言い回しが求められる。代わりに、「リラックス効果がある」「体のバランスをサポートする」といった表現が適切であり、指導者が自身の教室やセミナーで話す際には、こうした言葉選びに注意する必要がある。特に、エビデンスを学習すること自体は推奨されるが、「エビデンスがあるから」と言って、特定の健康効果を断定し営業活動をすることは問題になり得る。
エビデンスに基づいた知識を深めることは重要だが、それをどのように伝えるか、どのように活用するかもまた慎重に考えなければならない。
ここまでの講演をまとめると、以下のような点が重要となる。
1 医師の個人的な見解よりも、複数の研究を統合したシステマティックレビューやメタアナリシスの方が信頼性が高い。
2 インターネットで質の高い情報にアクセスすることはできるが、その解釈は慎重さが必要である。
3 特定のボディーワークにこだわるのではなく、運動全般のエビデンスを参考にする方が合理的である。
4 エビデンスは、合理的な判断を支える重要な要素であり、それを理解することでより適切な選択ができるようになる。
5 運動の効果として、健康の改善だけでなく、「生きがい」やQOLの向上も科学的に価値があることが証明されている。
6 特定の運動を「病気を治す」と断言することは、科学的・法的・倫理的に問題があるため避けるべきである。
蒲生氏は、「太極拳をすれば癌にならない」といった誤った主張をするのではなく、「運動が健康に良いから、太極拳をやってみませんか?」という形で伝えることが望ましいと述べた。科学的・法的・倫理的に適切な表現を意識しながら、運動を推奨することが重要である。
また、ボディーワークのメリットを最大限に生かすためには、怪我をしないようにするための注意点も共有することが重要である。実践する人々同士で経験を共有し、安全に取り組むための環境を整えることが、長く継続するための鍵となる。蒲生氏は、具体的な注意点については、その場の状況に応じて考えるべきであるとし、今後の議論の中で共有していくことが望ましいと述べた。
蒲生氏は、講演後半において、前半で扱った医学的・科学的な話から、より社会科学的な視点へと移行することを明示し、自身の考えを積極的に展開していく姿勢を示した。
「エビデンス」という概念・視点は近年ボディーワークや養生方法など、健康に良い影響をもたらすという期待が強い分野においても、強く言われるようになってきているという。
その背景として、スティーブ・ジョブズの事例を挙げた。彼は2003年に膵神経内分泌腫瘍(一般的な膵臓癌とは異なり、比較的治療が可能な種類の癌)と診断されたが、手術を受けずに民間療法やサプリメントなどの代替医療に頼った。しかし、9か月後に手術を決断したときには既に病状が進行していた。時代をリードした天才の不合理な死によって、民間療法などの代替医療への過度な依存が命を危険にさらす可能性があることが広く議論されるようになった。
このような「不合理な死」が他の有名人でも見られるようになってくるとエビデンスの乏しい、あるいは全くない民間療法への風当たりが強くなっていった。しかし、蒲生氏によると日本国内の治療院で、確定診断を受けていないガン患者が代替療法を受けた結果、あたかも「がんが亡くなった」かのように見える事例を複数掲載しているものが存在しると指摘した。科学的根拠に乏しい治療が強く批判される現状でも、このようなものが一定の支持を集めていることに懸念を示し、その影響が社会全体にどのように広がるかを論じた。
アメリカの研究では「代替医療のみを選択した癌患者の死亡リスクは通常の治療を受けた患者の約2.5倍になる」という報告がある。この研究では、代替医療を選ぶ傾向にある人々は比較的高学歴で経済的に余裕があることも指摘されている。一般的な感覚では不可解に思えるかもしれないが、そうした社会的背景を持つ人々こそが、「自然療法」や「自己治癒力の活性化」といった概念に惹かれ、結果的に科学的根拠に基づかない治療法を選び、時に最悪の結果を招くことがあるという。
エビデンスのない民間療法への強い風当たりと盲目的な信頼という対比的な現象は、2010年代以降に再び目立つようになったという。特に日本では脱原発運動やコロナ禍を契機に、これらの民間療法への支持が陰謀論と相まって広がっていったと蒲生氏は指摘する。例えば、SNS上では科学的根拠のない健康法や製品が流行し、高額な健康グッズが売買される現象が見られる。例えば、血液クレンジングなど、エビデンスの乏しい自由診療はSNS上で効果があるかのように宣伝され拡大する要因となった。こうした商法が、人々の不安や希望に付け込む形で広がり、科学的根拠がないものが、あたかも効果があるかのように宣伝され、多くの人々が信じ込んでしまう状況に対し、蒲生氏は強い問題意識を持っていることを示した。
蒲生氏は、現代においてSNSを通じて広がる代替医療や民間療法と、ヨガや気功、太極拳のような伝統的な身体実践が混同される傾向にあり、それが偏見を招く要因になっていると指摘した。特に、コロナ禍や東日本大震災後の原発事故を契機に、民間療法が注目を浴びる一方で、それに対する批判や警戒心も高まってきたという。
蒲生氏は歴史的に見てこのような反社会的な方向性は必ず民間療法そのものやそれらと関連したボディーワークに対して悪い影響を与えると憂慮する。
歴史的に見ても日本では近代医療や科学に対する不満や限界を感じた人々が、食養生や心理セラピーなどの非主流の療法、西洋近代医学や栄養学とは異なる治療法に惹かれてきた経緯がある(宗教学者島薗進「癒す知の系譜」など)。
反原発、そしてコロナ禍に目立ったこれら傾向は決して新しい現象ではないと蒲生氏は強調する。
蒲生氏は近代日本におけるこの端緒は明治時代にまで遡れるという。文明開花の中で東洋と西洋の文化が衝突・融合する中で、現代では科学や医学では説明がつかない現象が科学の対象となることがあった。
例えば、東京帝国大学では、精神研究の一環として心霊現象や超能力に関する実験が行われていた。こうした研究は、科学と宗教、超常現象の境界を曖昧にし、人々の間でスピリチュアルな思想が浸透する要因となった。また、近代社会において武道が「精神性」を強調するものへと変化していった背景についても触れた。国家が暴力を管理する近代国家では、「武術」が戦闘技術としての居場所を失い、日本では「武道」として精神修養の手段として再定義され、道徳や人格の形成と結びつくようになった。
明治・大正時代には、ビタミン欠乏症(脚気など)が近代医学では十分に解明されておらず、そのため玄米食や食養生といった伝統的な健康法が民間で支持を集めた。例えば、石塚左玄や石塚の系譜を引き継ぎ「マクロビオティック」を創始した桜沢如一などが、科学的な栄養学とは異なる視点から人々のニーズを汲み取り活躍していった。また、「野口整体」の野口晴哉のような施術師の活躍もあり、各種体術・療法が確立していった。
蒲生氏はこのような近代科学とは異なる「もう一つの知」の日本の歴史において、日本が帝国主義の中で欧米と競い合う中で独自の哲学が求められ、京都学派の「無の思想」などが発展したことにも言及した。この思想は、座禅や瞑想を通じて真理を探究する東洋独特の思索法から生まれた。
このような各種療法、そして経験を通じた真理の把握などの体験重視の思想運動は、太平洋戦争を挟み、さまざまな形で社会に影響を与えた。例えば、こうした思想が保守的な宗教勢力や新宗教に取り入れられる一方で、戦後は反体制的なカウンターカルチャーの一環としても受容されていった。特に、団塊の世代を中心に、西洋近代の医学や体育に対する「もう一つの選択肢」として、東洋の身体技法や精神的実践が広まっていった。この流れの中で、環境問題や反原発運動といった社会的関心と結びつき、人々が西洋近代の科学や医学とは異なる価値観に目を向けるようになった。
現在、民間療法や各種ボディーワーク、瞑想に対して、「西洋近代では語り得ない理想的な何かがある」と魅力を感じる人々がいるのは、このような歴史的背景があるからだと述べた。戦後には、こうした思想が宗教やカウンターカルチャー、さらには社会運動の中で花開いていったのである。
1980年代のオカルトブームに乗っかる形でヨガや気功、太極拳なども、スピリチュアルな実践としてポップカルチャーの中に根付いていった。太極拳が単なる「武術」以上のものとして理解され受容されたことは、現在、太極拳が日本で広く普及した背景の1つとして考えられる。科学的エビデンスだけでは説明しきれない歴史的・文化的な要素があると蒲生氏は示唆する。
蒲生氏はこのように1980年代から1990年代にかけて、ポップカルチャーの中で超能力や人間の潜在能力への関心が高まり、それがヨガ、気功、太極拳といった伝統的な身体技法と結びついていった流れについて解説した。同時にこうした関心が過激な方向に発展し、宗教的な修行や精神的な鍛錬を極端に推し進める団体が出現するきっかけとなった。その代表例としてオウム真理教が挙げられる。オウム真理教は、ヨガや瞑想、その他の東洋的実践を取り入れた独自の修行体系を構築し、社会変革に取り組みながらも、グルの独善性と組織の閉鎖性の中で最終的にはテロリズムへと傾倒していった。
このオウム真理教事件は、日本におけるヨガ、瞑想、そして精神世界という「もう一つの知」に大きな打撃を与えた。事件後、ヨガ教室の数が縮小されるなど、ボディーワークを含むこれら実践に対する社会的な警戒感が広がった。このような状況はおよそ10年続いた。蒲生氏はSNS等で見られる一部実践者の反社会性とそれへの批判はオウム以来のこの業界の自己破滅につながる可能性を危惧している。
オウムショックから10年ほどが経ち、2000年代になると、アメリカからの逆輸入を契機に、ヨガ、マクロビオティックが日本でも流行し始める。マインドフルネス瞑想が、科学的に検証可能な形で再評価されるようになったこともあり、科学と「もう一つの知」の和解と融合という大きな展開が見られるようになっていた。その流れの中で、大学も新たな学問領域を模索し、トランスパーソナル心理学、ポジティブ心理学、瞑想研究などが発展、学問的にも受け入れられるようになった。
こうした変化と並行して、「大学改革」の流れを受けた大学拡充により、従来は十分なポストを得られなかった精神世界や身体技法を研究する学者たちも一定の地位を確立するようになった。この時代、「もう一つの知」は社会的にも市民権を得て幸福な時間を過ごすことになった。
しかし、2010年代から2020年代にかけて、反原発運動や反ワクチン運動といった社会運動とボディーワーク、代替医療が結びつく中で、本来持っていた政治性が一層顕在化した。一方で、この時期にはエビデンスやコンプライアンスが一層厳格に求められる社会になり、オカルト的な要素を含む研究や実践はますます厳しい視線にさらされるようになった。
蒲生氏は、かつて自身が通っていた学部と強く関係していた「立命館大学応用人間科学研究科」について言及する。この大学院では、科学的心理学に加え、非主流のセラピー(例えば、精神分析)、さらに実存哲学、ヨガ、座禅、イメージワークといったボディーワークが幅広く研究され、多様性に富んだ学問の場が提供されていたと述べる。しかし、時代の流れとともに、非科学的とみなされた分野は次第に排除され、科学的アプローチを重視する形で組織が再編され、関係する研究者たちはバラバラになっていった。同様の動きは、京都大学院教育学研究科でも見られ、ボディーワークなどを哲学的に探究する拠点が存在していたものの、時が経つにつれ、エビデンス重視の研究者が主流となり、関係するものは全くいなくなった。
蒲生氏が体験した象徴的な出来事として、ある大学のキャンパスで科学心理学の教授たちが「精神分析など、非科学的なセラピーや心理検査を大学で教えるべきではない」と公然と話しているのを聞き、時代の変化を強く実感したと述べた。
こうした変化は1990年代から2000年代にかけて、「臨床心理学」「臨床教育学」「臨床哲学」などの「臨床ブーム」のある種、「末路」だと蒲生氏は指摘する。これら哲学的な視点から科学のあり方を批判的に検討する学者たちの研究成果が最終的には科学そのものを否定し、非科学的な陰謀論やエビデンスのない療法を援護する人たちに利用されていったと指摘する。例えば、中村雄二郎の『臨床の知とは何か』は当時の関係する研究者にとって重要な書籍だったが、近年では一部の医師によって「科学的エビデンスを否定」し、非科学的で効果が認められない療法を宣言するために利用される場面があり、唖然としたと蒲生氏は述べる。
また、蒲生氏は、当初はマイルドな活動を通して市民に受け入れられながらも、次第に極端な方向へと傾倒してしまった例として、料理研究家の幕内秀夫を挙げた。彼は当初、「和食の良さを見直そう」と提唱し、多くの健康的なレシピを発信していた。しかし、彼が基本としていた日本食、そして米食文化を重視する食生活が糖質制限ダイエットなどに脅かされる中でより刺激的で不安を煽るような出版活動に傾斜していき「乳がん患者の8割が朝パンを食べている」といった自分自身も科学的根拠がないことを認めるような、メチャクチャな主張を展開するようになった。こうした主張は人々の健康を祈る気持ちを利用しながら、不安を煽り、フォロワーを先鋭化させる働きしか持たないと蒲生氏は嘆く。
社会が改めて「もう一つの知」へ厳しい目を向けるようになったきっかけとしてホメオパシーをめぐる事件を蒲生氏は挙げる。ホメオパシーとは、病気と同様の症状を引き起こす物質を極端に希釈し、それを砂糖玉に染み込ませて摂取するという民間療法である。しかし、極端な希釈により、実際には有効成分がほとんど含まれておらず、科学的にはプラセボ効果以上の治療効果はないとされている。それにもかかわらず、ホメオパシーは「自己治癒力を高める」といった主張とともに広まり、一部の医療関係者や助産師の間でも支持を集めた。
このホメオパシーに関連して、日本では2009年に新生児の死亡事件が発生した。本来、ビタミンK2シロップを投与すべきところを、ホメオパシーの砂糖玉で代用したことで、新生児が出血症を起こして死亡したのである。この事件は、日本におけるホメオパシー批判が本格化するきっかけとなり、多くの報道機関が取り上げた。その後、2010年には日本学術会議が「ホメオパシーに科学的根拠はなく、医療従事者が用いるべきではない」とする声明を発表し、ホメオパシーの信頼性が大きく揺らぐこととなった。
蒲生氏は、こうした例を通じて、2000年代以降に「もう一つの知」として台頭し、市民権を得るところに向かっていた代替医療やボディーワーク含む、スピリチュアルな実践が先鋭化し、科学的根拠を無視する方向へと進んでしまう傾向があることを示した。そして、社会全体もまた、これらの動向を批判的に捉え、その問題点を明らかにしてきたのが、ここ10年の流れであると分析している。
蒲生氏は、社会の変化に伴い、エビデンスやコンプライアンスを求める傾向が強まる一方で、伝統的な価値観との対立が顕在化していることを指摘した。従来、日本社会では「和を重んじる文化」が重視されてきたが、その文化が時には公益通報の阻害や忖度の温床となり、さらにはパワハラ(パワーハラスメント)、セクハラ(セクシュアルハラスメント)、アルハラ(アルコールハラスメント)といった問題を引き起こしているとの批判が高まっている。こうした変化は、男女平等の進展とも連動し、従来の男性中心の価値観に基づく社会構造が変革を迫られている。こうした問題意識の高まりの中で、社会の規範も大きく変化してきたのである。
それは「もう一つの知」にも波及する。伝統的な医療や養生観が「エビデンスのないもの」として批判され、20年ほど前は「なんとなく許容されていた」ものも、現在では強く忌避され白眼視されるようになっているという。
蒲生氏は数十年来、オルタナティブな医療を追求し業界に強く影響を与える医師が2018年にある週刊誌に寄稿した記事を引用する。そこには「指圧が認知症予防に良いかもしれない」という内容が示されている。記事では、「受精卵の段階で皮膚と脳は同じ外胚葉から形成されるため、皮膚をマッサージすると脳に良い影響を与える可能性がある」という論理が提示されていた。しかし、これは科学的な因果関係を示したものではなく、単なる類推に過ぎない。こうした主張は、かつては一定の説得力を持ち得たかもしれないが、2010年代後半以降は科学的でないとして、社会的に厳しく批判される傾向が強まっている。
こうした状況の中で、蒲生氏は自身の経験として、かつてある先生が「紹介しても問題のないセラピストやボディーワーカーを慎重に選ぶ必要がある」と語っていたことを思い出した。その背景には、オウム真理教事件の教訓があり、危険な思想や実践と距離を取るための慎重な対応が求められていたためである。
当時、蒲生氏自身は「そこまで神経質になる必要があるのか」と感じていたが、2011年の東日本大震災と福島原発事故の後に、ある気功指導者が「放射能をデトックスする気功」という名目でセミナーを開催していたことを知り、その危機感が現実のものとなっていることを痛感したという。
特に、この気功セミナーは高額ではなく、数千円程度の参加費で開催されていたため、単なる金儲けが目的というよりは、指導者自身が本気でその理論を信じていた可能性が高いと蒲生氏は分析する。しかし、科学的に考えれば、気功で放射能を排出することは不可能であり、人々の切なる健康への願いを踏み躙るような行為であり、倫理的にも許し難いものに感じられたという。
この傾向は、コロナ禍においても顕著になった。少なくはない程度のセラピストやボディーワーカーの間で「反ワクチン」「反マスク」「コロナはただの風邪」といった主張が広がったが、これらは科学的根拠の乏しい情報であると批判された。その結果、彼らの閉ざされたコミュニティ内では受け入れられても、社会全体では許容されず、むしろ異端視されるようになっていった。
さらに、蒲生氏は、学問の世界でもこうした現象が影響を及ぼしていると述べる。2010年代にようやく大学のポストを得た「もう一つの知」の研究者が、原発事故をきっかけに脱原発運動に傾倒した。運動家として表に出て活動するのではなく、ネット上で情報を発信することにのめり込み、真偽不明の情報やデマを拡散するようになった。その結果、学問的なキャリアを自ら潰してしまったという。
蒲生氏は、非科学的な言説や商業活動が社会に混乱をもたらす一方で、その反動として「やはり科学的エビデンスは重要だ」という意識が強まる流れが生まれていることを指摘した。かつては許容されていたような曖昧な表現や理論も、近年では科学的でないとして厳しく批判される傾向が強まっており、この10年の間で大きな変化があったと述べている。
蒲生氏は、自身が関わった市民向けのイベントでの出来事を例に挙げた。そのイベントで、あるボディーワークの研究者が「筋膜を剥がす」や「肩甲骨を剥がす」といった表現を使ったところ、報告書を作成する段階で科学的心理学の教授が「それは科学的におかしい」と否定し、発言自体を削除させることが起きたという。この出来事は、単なる言葉の問題ではなく、科学的な厳密さを求める時代の流れが、ボディーワークのような実践の伝え方にも影響を及ぼしていることを象徴していたと述べた。
こうした状況の中で、身体文化や武術のような伝統的な実践をどのように語るべきかが難しくなってきている。蒲生氏は、その解決策の一つとして、社会科学における「ナラティブ(物語)」という概念に着目する。この考え方によれば、歴史的な事実と異なる話であっても、それが文化の中で共有される物語として機能するならば、一つの有効な枠組みとして理解できるという視点がある。
例えば、西暦はイエス・キリストの誕生を基準にしているが、実際にはキリストは紀元前6年から4年の間に生まれたとされており、西暦の起源自体が厳密な歴史的事実に基づいていない。しかし、これを修正しようとする動きはなく、その物語の枠組みが社会の中で機能している。同様に、ある流派の太極拳が「自分たちの武術は仙人が生み出した」と主張する場合、それが歴史的に間違っていたとしても、その流派の信奉者たちにとっては重要な物語であり、単純に否定することには意味がない。
この視点を身体文化に応用すると、「筋膜を剥がす」や「肩甲骨を剥がす」といった表現は、実際には物理的に起こり得ないが、それが実践者たちによって共有されているならナラティブの一部として機能していると捉えることができる。しかし、現代ではこうした表現が科学的に誤解を生むとして排除される傾向が強まっているため、伝え方に工夫が必要になっている。
身体文化における「物語」について蒲生氏はまた別の観点からの問題点を指摘する。蒲生氏は人類学者マルセル・モースの「身体技法(Techniques du corps)」という概念を紹介し、人間の身体の使い方は文化によって異なり、それが模倣を通じて伝承されることを説明した。例えば、西洋のフェンシングは鞭のような剣の動きを重視するが、日本の剣道は振りかぶる動作を基礎としている。
このように、文化ごとに特有の身体の使い方があり、それは模倣、それも「威光模倣」によって継承されていくという。武術の世界では、優れた動きを持つ人物を「かっこいい」と感じ、その真似をすることで技術が伝承される。これは、単なる技術の伝達ではなく、文化的な継承の一環でもある。
しかし、この模倣を活用して自己の権威を高めようとする人々も現れる。武術やボディーワークの分野では、過去の実績を誇張したり、実際には不確かな経歴を作り上げることで、自身を「すごい人物」と見せる文化が存在する。例えば、「過去に何人もの武術家を倒した」「道場破りに明け暮れて無敗であった」といった真偽不明な物語を弟子たちに語り、弟子たちもそれを信じ込む場面が見られるという。
そもそも、こうした身体文化は書物などの形で記録されにくいため、口承による伝承が主流となる。結果として、歴史的な事実よりも、物語の力が強く作用する傾向がある。蒲生氏は、身体技法やボディーワークの分野では「言ったもの勝ち」な要素が多いことを指摘する。例えば、江戸時代の人々の歩き方や身体の使い方について古武術の指導者がそれらしく語ったとしても、それが本当に正しいのかを検証する術はない(「ナンバ」など)。こうした状況の中で、蒲生氏は「物語としての歴史」と「事実としての歴史」を区別することの重要性を強調し、無批判に虚構を受け入れることの危うさについて語る。
蒲生氏は身体文化における「物語」の危険性を指摘した上で、ボディーワークや武術の伝え方として、生田久美子氏の「わざ言語」という概念に注目する。わざ言語とは、科学的な厳密さよりも、身体技法の伝達の場面において有効な身体感覚に即した表現を重視する言語である。例えば、「もっと腰を入れて」「波のようにふわっと動いて」「気を感じて」といった表現は、科学的に正確ではないかもしれないが、実践者が動きを理解しやすくするために有効である。こうした言葉は、伝統芸能や武術の稽古の場でも広く用いられ、科学的には説明しにくいが、確かにそこにある「身体感覚」に根ざした「真実」として機能する。
蒲生氏は、太極拳やボディーワークを広める際には、「病気を治す」「西洋にはない神秘的な力がある」といった一見魅力的であるが、かなりの慎重さが求められる言説ではなく、純粋にその動きの楽しさや身体感覚の豊かさ、気持ち良さを伝えるべきだと主張する。例えば、各種武術にはそれでしか経験できない感覚があり、学ぶことでしか味わえない独特の動きや楽しさがある。そして、それを続けることで健康にも良い影響を与えるという非常に信頼の高いエビデンスに基づいた観点が重要であるという。
蒲生氏は「良いボディーワーカー」と「悪いボディーワーカー」の違いについても言及した。
良いボディワーカーとは、体を動かす楽しさを伝え、相手が自身の身体を発見する手助けができる人であり、継続するための工夫を提供できる人である。
悪いボディワーカーとは、不安を煽るような情報を流したり、不正確な健康情報を用いて人を惑わせたりする人であり、また過去の自慢話に頼ったり、権威付けのために誇張した経歴を持ち出したりする人である。特に、「このワークをすれば癌が治る」、「この武術は認知症が予防できる」といった医学的な効果を謳うことは一定の知見と慎重さが求められると強調する。
蒲生氏はさらに悪いボディワーカーは様々な形で人々がそのワークを取り組むことを阻害し、日々からだを動かすことを困難にするという。例えば、指導中の叱責や嘲笑、不必要で効果性のないボディタッチ、傲慢な態度、不十分な理解と説明などである。
加えて、ボディーワークの指導者が自己をカリスマ化したり、社会問題を「正義と悪の戦い」に単純化したりすることの危険性についても触れた。こうした言説は、歴史的に見ても多くの問題を引き起こしており、批判を受け入れずに戦えば戦うほど、かえって先鋭化し、一般の人々から距離を置かれてしまう。それは市民社会に溶け込み、多くの人々の健康を支えている他のボディワーカーや養生家に対して悪い影響を与える。
蒲生氏はそうではなく、ボディーワークや武術の「固有の経験」や「楽しさ」を伝え、実践者が長く継続できるような支援を行うことが大切だと強調する。
講演の締めくくりとして、蒲生氏は日本における太極拳の普及に尽力した中国人・楊名時の言葉を紹介した。楊名時は、太極拳を単なる武術ではなく、健康法として広めた人物であり、彼がよく口にしたとされる「不怕慢,只怕站」(遅いことを恐れず、止まることを恐れよ)という言葉に注目した。この言葉は、「ゆっくりでいい、ただやめることだけが怖い」という意味を持ち、太極拳や気功、さらにはボディーワークや武術を継続することの大切さを説いている。
蒲生氏は、これまでの講演内容を振り返りながら、最も重要なのは「続けること」だと強調した。技術の向上を急ぐよりも、毎日少しずつでも実践し、自分自身の身体を通じて学びを深めることが大切だと述べた。科学的な視点から物事を学ぶことは必要不可欠であるが、それだけに依拠しすぎることで、身体を通じた経験や直感といった側面が軽視されてしまうこともある。科学と実践の関係は、相反するものではなく、相補的なものであるべきだという立場を示した。
また、蒲生氏は現在の社会的な分断の問題を意識しながら、対立や敵対意識が強まることのリスクを指摘した。特に、エビデンスを巡る議論が単なる二元論に陥り、「西洋と東洋」、「近代と非近代」、「悪と正義」のような単純な構図の中で感情的な対立が生まれることは避けるべきであると述べる。過去の歴史を振り返ると、社会の中で「敵」を作り、その敵を排除することによって自らの正統性を証明しようとする動きは、しばしば独善的な方向へと進んでしまう。そのような対立の先鋭化が、結局のところ「実践を通じた学び」の機会を狭める結果になりかねないと警鐘を鳴らした。
そうではなく、自分の身体と向き合い、その楽しさを発見し、そこから仲間を作っていくことが重要なのだと蒲生氏は語った。楊名時もまた、そうした視点を重視し、日本における太極拳の普及を成功させた。科学的なエビデンスを理解することは重要だが、それだけでは語りきれない身体的な学びがあり、それを生涯を通じて深めていくことに大きな価値があると蒲生氏は述べた。
最後に、長時間にわたる講演に耳を傾けてくれた聴衆への感謝を述べるとともに、「これからも自身の身体と向き合い、学び続けることの大切さを忘れずにいてください」と語り、講演を締めくくった。
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掲載日 2025/2/3 (2/4要約追加)