与野党を問わず、大政党・小政党、さらには政党以外の政治集団に属する人々──こうした枠組みに関係なく、SNSで激しい政治的意見を発信する人たちについて、ある方から尋ねられました。なぜ、彼らはあのようになってしまったのかと。自分の党派を守るために人権を踏みにじり、誰かを罵倒し、陰謀論を拡散し、時にはセカンドレイプにまで手を染める、いわば「バケモノ」たちについてです。
ある人は、それを「エコーチェンバー」や「正義中毒」と呼びました。けれども私には、それが単に「誤認した人間」というよりも、それ自身が「構造的な現象体」として、この現実世界に出現しているように見えるのです。現にそこにあるのは、極めて動物的で、冷静さを失った何かであるとともに、人間的に、つまり実存的には極めて空虚な存在。もしも数年前の彼ら・彼女らがその姿を見たら、今の自分との接点すら見出せないほどの、あるいはそれ自体、視認できないような醜悪で、透明な存在。
今回は、そうした現象をより原始的な(プリミティブな)観点から説明してみたいと思います。すなわち、それは「行動を生み出す環境」の問題であり、多くは行動分析的な視点から捉えることができるということが今回のテーマです。
人間の脳には「報酬系」と呼ばれる神経回路が存在します。この回路は、快感や満足感といった素朴な(プリミティブな)感情を生み出すことで、特定の行動を強化・学習させる役割を担っています。ドーパミンを中心とした神経伝達が、側坐核・腹側被蓋野・前頭前野などの部位で作用し、行動と結果を結びつけます。
この報酬系は、ヒトに限らずネズミ・サル・鳥類、さらにはより下等な動物にも備わっている極めて原始的な(プリミティブな)進化系です。餌を得たとき、仲間と接触したとき、性的快感を得たとき──こうした行動の「直後に得られる快」の蓄積が、行動を形成していく基本メカニズムとなっています。つまり、これは人間の文化や理性以前に存在する「動物としての行動原理」なのです。
この報酬系が機能するのは、「行動随伴性」という構造があるときです。これは、「ある行動に対して環境から何らかの反応(報酬または罰)が返ってくる」という条件設定のことです。心理学ではこのプロセスを「オペラント条件づけ」と呼びます。
たとえば、スイッチを押すと電気が点く。漢字ドリルを解いたら丸がもらえる。SNSに投稿したら「いいね」がもらえる。こうした「行動と結果」の対応が継続すれば、行動は習慣化し、逆に報酬が消えれば行動は消去されていきます。
このように、人間の行動は非常に単純な「報酬と結果のループ」によって強化される傾向があり、それは複雑な思考や高度な意志とは関係のない、生物学的な自動性の領域に属しています。
SNSでの投稿行為はこのループに完全に組み込まれています。
あなたがSNSに投稿し、誰からも反応がなければ、やがてその投稿行動は消滅していくでしょう。逆に「いいね」や「リツイート」が得られれば、その手応えは報酬系を活性化し、次の投稿を促します。行動が強化され、繰り返されていくのです。
このとき重要なのは、何を投稿したかではなく、どう反応されたかが学習の主成分になるということです。
この報酬構造は、単なる発信行動だけでなく、「過激さ」の選択にも影響します。
たとえば、女性配信者がSNSでいくつかの映像を投稿したとします。もし肌が少しだけ見えた映像が他の投稿より多くの反応を集めたら、次により露出のある映像を選ぶ。より強い反応=報酬が得られる行動が強化されていく──これはポルノ的投稿の典型的な行動随伴性です。
そして、政治的投稿にもこれと同じ仕組みが働いています。
たとえば、「A党を応援しています」という投稿に多くの「いいね」がついたら、投稿者は無意識のうちにその立場を繰り返すようになります。そして、より強い反応を得るために、さらにA党への過剰な礼賛やA党の批判者への過激な罵倒へと踏み込んでいきます。
これは「イデオロギーポルノ」とでも呼ぶべき現象です。政治的な主張が、思想や理念ではなく、反応という報酬を得るための「快楽装置」と化している。そしてその中毒性によって、投稿は加速度的に過激化していくのです。
性的ポルノが「刺激→快感→強化→過激化」というサイクルを持つのとまったく同じように、政治的ポルノもまた、過激な意見・強い断定・排除的言動をエスカレートさせる強化ループを内包しているのです。
SNSにおける政治的投稿の多くは、「内的動機づけ」(外からの報酬がなくても、自分の興味・関心・好奇心などによって自然に行動すること)によって駆動されているように見えて、実際には「外的動機づけ」(外からの報酬によって自然に行動すること)によって強化された結果にすぎないというケースが少なくありません。
たとえば、「戦争は絶対に反対」と「場合によっては戦争も必要」という二つの投稿をしてみて、どちらか一方に「いいね」や「リツイート」が多くついたとします。すると投稿者は、次から無意識に「反応の多かった立場」の投稿を繰り返すようになります。
このとき、選ばれているのは思想や信念の整合性ではなく、報酬の多寡です。行動と報酬の随伴性によって、「その立場をとることで報酬(手応え)が得やすい」という経験が積み重なる。これこそが、外的動機づけによって構築された政治的行動です。
特に、元々は政治に強い関心がない、いわゆる「ノンポリ」な人ほど、元来の内的動機づけが存在しないため、この傾向は顕著です。自分の投稿内容について深く考えることもなく、「反応の多い投稿=価値のある投稿」として行動が強化されていく。そして気づけば、ある特定の立場や陣営の一員になっているのです。
この意味で、SNSにおける政治投稿は、ポルノと同じ「刺激依存型の快楽サイクル」に陥りやすいのです。思想に基づく主体的な表現ではなく、「快をもたらす立場」を反復する無意識のオペラント行動。これが「イデオロギーポルノ」の構造なのです。
ある政党や政治集団が、SNSでの戦いが選挙や政治闘争を決すると思い込み、意図的に「バケモノ」を生み出そうとしたとします。
その方法は非常に単純です。
「自分たちのグループにとって都合の良い投稿に、いいねやリツイートをつけなさい」とメンバーに指示すればいい。それを実行するだけで、反応という報酬が生まれ、強化が始まり、もともとグループに関係のなかった投稿者はグループに都合の良い言説を繰り返すようになります。
さらにアルゴリズムはその投稿を「人気投稿」として拡散し、同じ陣営の他のメンバーにも届きはじめたら願ったり叶ったりです。メンバーもまた、自分の気持ちの良くなる投稿に「いいね」や「拡散」を繰り返す。投稿主とユーザーが互いに報酬を与え合うこの構造は、双方向の強化ループです。
このループが成立すれば、人間は簡単に変貌します。
最初は「A党、まあ悪くないよね」と投稿していた人が、数ヶ月後には「A党に逆らう奴は人間じゃない」「敵は叩き潰せ」とまで言い始める。本人には過激化の自覚はないかもしれません。しかし、それはただの強化学習の帰結です。
しかもこの強化ループは、投稿主だけでなく、いいねやRTを押す側にも作用するのです。自分が所属するグループを礼賛する投稿は快の感情を刺激するでしょう。「いいね」や「リツイート」のボタンを押せば、アルゴリズムによって次も同じタイプの投稿が登場する。それが報酬になって、さらにボタンを押し続ける。気づけば、タイムラインが「自分に心地よい意見」だけで埋め尽くされる。そうなると、より強い刺激を求めて「もっと過剰な礼賛、敵対者へのより強い攻撃」を好むようになっていきます。
こうして、人々は互いに過激さを強化し合いながら、「快行動の連鎖=エコーチェンバー」を形成していきます。人間は極めて環境的な動物なのです。
ところでSNSで過激な言動を繰り返している人が、現実で会うと穏やかで礼儀正しい──そんな事例を見て、「対面の姿が本当の人柄だ」と言う人もいます。しかし、この見方は「環境」の視点を徹底できていません。この場合、「環境」の違いによって引き出されている「別の自己」にすぎないという見解が適当でしょう。
SNSでは、強い言葉に反応が集まるという報酬構造があり、穏やかな発言には何の反応も返ってこない。だからこそ、人は過激な投稿を「環境への適応」として繰り返します。一方、現実世界では、乱暴な発言をすれば人間関係が壊れ、報酬は返ってこなくなる。だから穏やかに振る舞うのです。どちらも、その場において「報酬を最大化する」最適戦略でしかないのです。
つまり、「SNSのあなた」と「対面のあなた」は、どちらが「本質」というより、それぞれの環境によって引き出された「それぞれの本質」でしかないのです。
4 虚なバケモノ
もし、「バケモノ」となった人がある日突然、SNSから離れたとしたらどうなるのでしょうか。
現実生活の中に、安定した報酬源(人との交流、学び、承認、楽しみ)があるなら、SNSの断絶は一種の「デトックス」として機能します。しかし、現実の生活がすでに崩れていたり、そこから得られる報酬が「薄味」である場合、その人は深刻な喪失感や空虚さに襲われることになります。
そしてそこから、次の2つのルートが見えてきます:
・刺激の少ない日常にゆっくりと“馴化”していく:過去の過激な自己を手放し、退屈な生活の中に新しい意味を探そうとする穏やかな回復の道。
・壊れた現実と心を抱えた者たちが集まる「共同体」へ滑り込む:現実でも攻撃的な言動を持ち込もうとし、注目や反応を引き出そうとする。当然、そのような人は社会的に孤立する。すると孤立したもの同士がより集まった「場所」がリアルでも生まれていく。そこでは、現実と虚構の境界が曖昧なまま、SNS的な言動を現実に持ち込む共同体=「バグった世界を生きる者たちのサンクチュアリ」が生まれる。
後者の道こそが、バケモノの温床となる領域です。
このようなサンクチュアリに住むバケモノは、思想や信念の積み重ねによって育ったのではありません。そこにあるのは、ほんの偶発的な投稿、あるいは何気なく押した「いいね」ひとつから始まる、「外的動機づけの連鎖」にすぎないのです。
自分でもなぜそんなことを言ったのか、なぜ共感したのか分からない。もしその投稿が誰の目にも留まらなければ、本人ですらすぐ忘れてしまうような小さな行動。それが「繰り返された」というだけで強化され、いつの間にか「自分自身」が全く別の何かにすり替わっていく。
こうして、「行動」が先にあり、あとから自分自身の「人生」が追いついてくる。けれどその人生には、芯がありません。ただ環境が与えた行動の強化の中で生み出される政治的足跡を「信念」と錯覚しているにすぎないのです。言うなればそれはただの「虚(うろ)」であり、バケモノそれ自身は空洞の人形のようなものなのです。
おわりに:バケモノの巣
もしこのような「バケモノ」を作った政治集団があったらそれはどうなるでしょうか。その言動の多くは、外部から見れば過激で、不快で、暴力的であり、非党員の多くにとっては顰蹙を買う存在になります。そして、もしその暴力性が現実にまで漏れ出したとき──その政党自体が「バケモノ」に飲み込まれることになるのです。
私たちが本当に重視すべきなのは、こうして生み出された政治集団が、思想を持っているように見えて、実は「無思想」であるという点です。
彼らの言説は、たしかに「正義」や「理念」や「主義」を語っているように聞こえます。しかし、その実態は、報酬系と環境によって強化された一連の反応行動にすぎません。
それは政治的理念に根ざした誠実な応答ではなく、ただ、反応の返ってくる言動という行動の連続性という極めて行動主義的な設計図に沿って積み上げられたものでしかないのです。
その内側には、思想の核が存在しない。あるのはただ、外的動機づけに支えられた言動の反復の反復でしかない。思想のように見えるものは、その反復の中で編まれた「空虚な物語」でしかなく、そこに内発的な思索や実存的な葛藤は見当たりません。
こうして、かつて理念を持っていたかもしれない政党・団体も、やがては反応を追い求めるだけの虚ろなシステムへと変貌していく。支持者の「熱狂」に依存し、炎上で注目を集め、敵対者を罵倒して結束を強化する──それが自己目的化したとき、そこにあるのはもう「社会的対話の主体」ではなく、「バケモノの巣」なのです。
公開日:2025年8月7日
原稿作成にChatGPTを用いました