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先日、私は「富田林事案」についてのレポートを公表した。田平氏の裁判資料、党の公式説明、内閣府アンケートなどの公開情報をもとに、日本共産党のハラスメント対応体制の運用上の問題を検討したものである。主眼は、個人の人格や私生活を論評することではない。相談体制、守秘、共有、聞き取り、認定手続といった制度運用のあり方を検証し、富田林事案と津事案を並べることで、被害申告が保護や救済よりも組織内処理へと回収されているのではないか、という構造的疑義を示した。
このレポートに対し、あるSNSアカウントが次のような投稿を行った。私は通常、自分の文章に寄せられた感想やコメントに逐一反応することはしない。この投稿主は、これまで私のレポートに好意的な感想を寄せることもあった人物であり、ことさらに対立したいわけでもない。しかし、今回の投稿は看過しがたいものであったため、簡潔に整理しておきたい。
問題の投稿は次のものである。
一見すると、この投稿は抑制的で穏当な意見に見える。しかし、研究者の立場から見れば、軽い感想では済まない。対象設定や実名記載に問題があるかのように公に書かれることは、研究倫理上の瑕疵、さらには研究倫理違反があったかのような印象につながりうるからである。私には、その種の示唆は、研究者としての職業的信用や社会的信頼に直接関わり、名誉毀損に類する損害を生じさせかねないものに思われる。
にもかかわらず、この投稿には、その重い含意に見合うだけの明確さがない。誰が「現在は公人ではない人物」なのかが示されていない。どの点が、どの規範に照らして問題なのかも示されていない。匿名化が必要だというのであれば、その根拠も示されていない。そのため、こちらには何に反論すべきかが示されない。他方で、読み手には「この研究者は倫理的に危うい書き方をしたのではないか」という印象だけが残る。これは、論点を特定しないまま、相手の信用にだけ傷をつける発話である。
特徴的なのは、「配慮」という語の使い方である。「違反した」とは言わず、「配慮が必要だった」と言う。すると、発話者は穏健で良識的な位置に立ち、相手だけが「配慮を欠いた側」として配置される。しかし、何にどう配慮すべきだったのかは示されない。この構図では、発話者は自らの責任を引き受けないまま、相手にだけ倫理的瑕疵の印象を負わせることができる。
「知人から指摘あり私も同意した」という書き方も同様である。これは、自分だけの見解ではなく、他者にも承認された評価であるかのような印象を与える一方で、「自分一人で言っているわけではない」という形で発言責任を薄める働きを持つ。判断の主体を曖昧にしながら、評価の社会性だけを強調する書き方である。
さらに、「アカデミックの手法に則ったもので」「公開情報をもとに書かれていることは重々承知するとして」という前置きも、実質的には留保になっていない。形式的には学術的手続や公開情報の使用を認めながら、なお倫理的問題があるかのような含みを残しているからである。
率直に言えば、ここで示唆されているのは、「学術書の体裁をとった人権侵害」とでも呼ぶべきものなのだろう。しかし、そのようなことを示唆するのであれば、本来は何がどのように人権侵害に当たるのかを明示しなければならない。そこを曖昧にしたまま疑義だけを流通させるのは、批判として妥当ではない。
では、この投稿は具体的に何を問題にしているのか。明示されていない以上、推測するしかないが、レポートの内容から見て、まず念頭に置かれるのは田平氏である。しかし、仮に田平氏を指しているのだとしても、その批判は妥当とは言い難い。田平氏は実名でSNSを運用し、社会活動を継続し、自ら裁判資料を公開しながら支援も求めている。しかも私のレポートは、田平氏の人物そのものを論評したものではなく、当該事案を事例として党の制度運用を分析したものである。その文章に対して、「現在は公人ではないから実名は不適切だ」と一般論だけで言うのは、議論として失当である。
また、仮に「事前に本人へ声をかけるべきだった」という含意があるとしても、その認識も妥当ではない。今回問題になっているのは、本人がすでに外部に示し、公開している資料にもとづく制度分析である。そこにまで本人への事前接触や了解取得を要求するなら、公開情報にもとづく批評や検証は著しく狭められる。公開資料を用いた制度分析に対し、事前承諾の欠如をもって倫理的欠陥を示唆するのは、やはり無理がある。
要するに、この投稿の問題は、明確な批判を避けながら、研究倫理上の疑義だけを漂わせている点である。反論可能な形で論点を提示しないまま、読み手にだけ不信を残す。その意味で、これは単なる感想ではない。論証を欠いたまま信用低下の効果だけを生じさせる発話である。
私には、この構図は、田村智子氏が大山奈々子氏に対して示したやり方とかなり近いものに見える。もちろん、事案の内容そのものが同じだと言っているのではない。似ているのは構造である。すなわち、相手に十分な反論の余地を与えないまま、公の場でほとんど意味不明な論理で、倫理的に問題のある人物であるかのような印象を与え、その評価低下それ自体を既成事実化していくやり方である。しかも、その際に用いられる言葉は、露骨な罵倒ではなく、一見すると穏当で正当な語である。だからこそ厄介なのであって、表面的には良識的な注意や指摘に見えながら、実際には相手を一方的に劣位に置き、周囲の同調を引き出しやすい。今回の投稿にも、私にはその種の構造が表れているように見えた。
ただし、私は投稿主を攻撃したいわけではない。悪意があって書かれたとも思えない。しかし、悪意の有無と、発言の作用の問題とは別である。ハラスメントで考えると、問題は、しばしば加害者の主観的悪意の有無ではなく、相手にどのような不利益と萎縮をもたらすかという作用の側にある。善意や良識の形式をとった発言であっても、論点を特定しないまま相手の倫理性や信用へ疑義を投げかけ、反論の足場を与えずに社会的評価だけを低下させるのであれば、それはハラスメント的な作用を帯びうる。
<余話>
これらの点は、コミュニケーション上の難しさを示している。現代社会のコミュニケーションでは、相手の置かれた状況を想像し、ときにはその職業的・社会的背景にも配慮しながら、なお「透明で率直なやりとり」が求められる。言い換えれば、回りくどさを残しつつも、論点自体は曖昧にしないという、ある種逆説的な作法が要請されているのである。これは、従来的なコミュニケーション様式に慣れた人々を取り残していく、「コミュニケーション基準のインフレーション」と呼ぶべき現象である。
ハラスメント防止に本質的に必要なことは、スタンディングでもデモでもなく、SNSでの告発でもなく、それらを契機としつつも、最終的には日常のやりとりそのものが変わっていくことであるが、そのためには極めて辛抱強い自己と向き合う訓練が必要となってくる。
公開日:2026年4月14日
原稿作成にChatGPTを用いました