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ねがいごとをいいなさい、かなえてさしあげましょう――
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目の前にはスナがいる。
思考を鈍らせる彼女の蒙昧白香は、曖昧な意識のままに
ジャンクヤードで眠り続けていた日々を否応なく思い起こさせる。
あのまま何もかも忘れ去り、再び這い上がることも無く、
屑鉄に埋もれて静かに朽ち果てる。そんな未来も有ったのかもしれない。
目の前には羅生がいる。
吸血剣の一撃は連弩を破壊したものの、傷自体は極めて浅い。
僅かに先んじて詠唱を終えた呪縛術が紙一重で勝敗を分けていた。
この戦いの結末を、彼の分まで確かめることを誓う。
――再び会えたなら微笑みを交わそう。
――会えないなら、今を良い別れとしよう。
決勝を争った二人と、街の酒場にて行く末を見守っているであろう観戦者達に
短い別れの言葉を告げてアラームは歩き出す。振り返ることは無い。
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漆黒の剣を携えて、アラームは浮遊城の頂上へと登った。
吹き抜ける風と、眼下に広がる雲海を照らす青い月。
微かに白んだ東の空が、そう遠くない夜明けを告げている。
――かつて、伝説の戦乙女も、このテラスに足を運んだのだろうか?
『ヘレン』が現れることは遂に無かった。
彼女の執念を嘲笑うかのように、魔女は忽然と姿を消していた。
この狂気の宴でさえ、その名を頂く者には不足だったのだろうか。
戦乙女を打ち倒すという彼女の目的は、成就せぬまま宙に浮いている。
様々な巡り合わせの果てに、アラームはこの場所に立っていた。
この漆黒の剣は、世界の理さえ書き換える力は、彼女の為に用意された山の頂点なのだ。
覇者たる彼女には、この剣を振るい答える義務があった。
汝の欲することを為せ。選択の時が迫っている。
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――もしも、ねがいがかなうなら
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思い出す。かつて造物主と共に過ごした時を。
造物主は確かに自分を愛してくれた。最も忠実な道具として。
一に満足せず、十を求め、百を欲した。全て自分の業だった。
思い出す。かつて戦乙女を求めて流離った時を。
世界を巡り、伝説を探り、先人たる戦士達に学んだ。
老いることなく技術を磨き続ける自分こそ、その称号に相応しいと信じた。
思い出す。かつて伝説に挑んだ時を。
戦乙女に相見えることさえ叶わず、覇者の銃弾に撃ち砕かれた。
無念と絶望を携えて、魂は闇に沈んだ。惨敗だった。
思い出す。地の果てから再び這い上がった時を。
名前も造物主の顔も何もかも忘れ去って尚、
戦乙女ヘレンの名に執着していた。
思い出す。今宵挑んだ狂気の果ての戦いを。
戦乙女の伝説の舞台、浮遊城にて催された一夜の決闘。
この狂気の宴こそ、戦乙女ヘレンへの捧げ物だったのだろうか。
思い出す。ここに辿り着くまでに出逢ってきた者達を。
造物主が居た。名も知らぬ戦士達が居た。伝説のメイドが居た。些か悪趣味な修理屋が居た。
布製の傀儡が居た。狩猟の獣神が居た。猫又の技師が居た。髑髏の呪術師が居た。
人となった殺戮兵器が居た。永遠の安らぎを願う娘が居た。まだ見ぬ主君を探し求める侍が居た。
喜びも悲しみも何もかも全てが懐かしく愛おしかった。
彼女の歩んできた道程は全て、今この瞬間の為に存在したのだ。
そして、アラームは、漆黒の剣を高く高く掲げ、黎明の空を切り裂いて、闇の帳の狭間に身を投げた。
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東の空に昇る太陽が、狂気の宴の閉幕を告げる。
まるで憑き物の落ちたかのように、浮遊城は本来の平穏を取り戻していた。
テラスに座り込み、アラームは右手で目元を覆う。朝日が眩しい。
「この意気地なし」
その横で今回の主催者である少女が愚痴る。
頭上に鎮座まします妖精と二人、計4つの瞳に睨まれて彼女は平然としていた。
「狂気の宴を制しておきながら、どうして正気に戻ってしまったの」
彼女の真意などアラームには知る由も無い。
だが、彼女はもう少し……狂気に満ちた結末を期待していたように思う。
世界崩壊、歴史改変。この世界を覆すような壮絶な結末を。
「悲しくて寂しくて、とても幸せな記憶ばかり思い出してしまいました」
苦笑と共にアラームは答える。後悔などするはずもない。
失った物全てを取り戻し、満ち足りた気分だった。
「私にはできません。もしお望みであれば、他の誰かに頼んでください」
「ああもう言葉遣いまですっかり腑抜けちゃって……」
「それで、父親には会えた?……聞くまでもないか」
アラームは世界の壁を切り裂き、死者の国へと飛び込んでいた。
少女は彼女が永遠に父の霊を探し求める亡者と化すことを予想していたが
予想に反して僅か数時間で帰ってきた。拍子抜けも良い所である。
「会えました。百年以上の間、向こうで私を待っていました」
「何て言ってたの?」
「口下手な方ですから、それほど多くの言葉は頂けませんでしたが」
そこで一度言葉を切り、アラームは瞳を閉じる。目元には微かに涙が浮かんでいる。
「『良く頑張ってくれた、お前は俺の誇りだ』……と」
この言葉を聞きたいがために、今日まで戦ってきたとさえ思えた。
少女の視線がアラームの頭から爪先まで下りていく。
無数の破壊跡に強引な修理を重ねた歪な身体は今や完全に修復され、
大型作業用アームを装着していた右腕も、粗末な義足を嵌めていた右脚も全て、
人間を模した自動人形本来の姿を取り戻している。
製作者本人とはいえ、戦闘と経年劣化で半壊した彼女の身体を
短時間で軽々と修理した死人の腕に少女は内心舌を巻く。非常識極まりない。
「せっかく会えたのに。一緒に逝ってしまおうとは思わなかったの?」
「残念ながら追い返されてしまいました」
アラームは大袈裟に肩を竦める。
「死者の国に人形の魂の居場所は無いそうです。
見逃してやるからさっさと帰れと死神達が大騒ぎで」
全て返り討ちにし、力尽くで居座ることも不可能では無かった。
ただ、世界の理を必要以上に掻き乱すことは、今日まで出逢ってきた者達への冒涜のように思えた。
彼女自身も、決して一人で生きてきたわけではないのだから。
「父様は私を愛してくれていた。
今も向こうから見守ってくれている。その事実だけで充分です」
「そんな惚気が聞きたかったわけではないのだけど」
「まぁいいわ。何を望み願い叶えようとそれは勝者の特権。
貴方が今の世界を望むのなら、私はそれを尊重するだけ」
そして初めて少女は笑みを浮かべ、アラームの右手を掴み取った。
「優勝おめでとう。祝福するわ。だからとっとと帰れ」
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浮遊城を下へ下へと駆け降りていく。
古びた研究施設を抜け、遺跡を突破し、洞窟を下る。
各所に残る僅か数時間前の戦いの痕跡も、遥かな過去のように思えた。
目指す先は第四階層の街だ。最後まで残った観戦者達が結末を心待ちにしている。
――まずは皆への挨拶と、結果の報告だ。
そういえば自分の名前さえ名乗っていなかった。
戦いの中で借り受けた武装の返却も必要だ。
――かつて私を完膚無きまでに葬り去った魔王城のメイド。
彼女は今どこで何をしているのだろうか?
今更雪辱戦を挑むわけではないが、一度ゆっくり話をしてみたい。
――ジャンクヤードにも一度は顔を出さねば。
ガラクタの山から掘り起こした私に不格好な継ぎ接ぎ細工を施してくれやがった
悪趣味な修理屋に、本来の姿を見せてやるのだ。
――姿を消した魔女。
おそらく今回挑んでいたら敗北していた。彼女の力は極めて強大だ。
この世界に存在する更なる強者たち。何時か何処かで対峙する日が来るのだろうか。
ああ嬉しい。今のうちからこんなにも、為すべきことがあるじゃないか。
自然と口元に笑みが浮かぶ。狂気の果てに拓けた未来は可能性に満ちている。
これからも新たな目的を探し、時に達成し時に断念し、まだ見ぬ人々と出逢いと別れを繰り返し、生きて、生きて生き続けて。
――私は、父様がこの世界に存在した証となるのだ。
そして、アラームは、右脚を高く高く振り上げ、酒場の扉を蹴り開けて、喧騒の中に飛び込んだ。
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狂気の果てのヘレン ―完―
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