曽野綾子『太郎物語』

読書さとう

私は本を投げ捨てることなどまずないのですが、これは読んでいるうちに嫌になって、つい新潮文庫を投げてしまいました。

著者とその家庭の自信満々な姿勢を私は感じてしまうのです。もちろん、彼らの家庭のことを書いているわけではありません。だが、著者とその夫三浦朱門にとっては、こうした家庭が理想だし、自分たちをモデルにしているのは間違いないでしょう。

私は昔、女性の作家には美人はいないけれど、例外は写真で見る限りの樋口一葉(あまり美人ではなかったといわれているようだ)と、この著者だけで、しかも曽野綾子なんてそれだけの印象だななんでいっていたことがありますが、それではあんまりこの著者に失礼だなと思い、この本を手にとったのですが、まったくそれだけしかいえない作家だなとまた強烈に確認しました。(1994.03.06)

以上で私の言いたいことはすんだのですが、インターネットで発信してしまうことは、ひょっとして、この作家が目にしてしまうこともあるかなと思いましてさらに以下を付け加えます。

私がいかなる箇所でこの本を投げ捨てたのかというところをあげます。もう今はこの本は持っていないのですが、書き留めておいた文書があったわけです。

山本信子はめんどうくさがりやで、自分で読んだ本を子供に話してやったりしない。婦人雑誌に、「私はこうして夫の浮気を防いだ」などという特集でもでていようものなら感心してよんだ挙句、ぽい、と息子の方に本をよこして、「読んでごらんよ、太郎」というだけである。そのやり方のお蔭で、太郎は、中学生のころから、「知り過ぎた悲劇」とか「妻の情事の決算書」という記事も読んだ。信子ばかりではない。山本正二郎も、息子に本をわたすのである。「知能指数」という本もあった。「子供を秀才にするには」というのもあった。

「なるほど、こいつはいいや」

太郎は「子供を秀才にするには」という本を与えられた時には、思わず独り言を行ったものであった。親がその本を読んで子供を教育するよりは、子供に直接与えた方が手数がかからないに決っている。母親が薬を飲んでそのお乳を赤ん坊に飲ませるより、子供に直接投薬した方が有効であるというのと同じである。本当にさぼりやの親たちであった。子供が不良化しないためにといって、「青少年犯罪」という雑誌を買い与える類いだ。(曽野綾子「太郎物語-高校編-」)

山本信子を曽野綾子と、山本正二郎を三浦朱門と読み変えて読むのは至極当然でしょう。いったいどうして自分たちのことを「本当にさぼりやの親たちであった」と得意になってしまうのは何なのだろうか。よくまあこうまで人生に自信をもっているものだと思ってしまう。人はあなた方のようには生きていないのですよ。そんな自信を持っては生きていないのですよ。

私は以上のことを思って、本を投げ捨てました。(2000.04.16)