柊あおい『耳をすませば』

読書さとう

次女ブルータスから薦められて読んでみました。中学生の女の子の恋のお話の漫画です。

主人公月島雫は本好きな中学生の女の子です。学校の図書館も、県立図書館にもよく行って、本をよく借りています。なんだか妖精の話と童話とかが好きなようです。ところが彼女が借りる本には、その貸出カードを見ると必ず同じ人が先に借りています。彼女はなんだかその相手が気になります。何とか彼より先に本を借りてみたいと思うのです。そしてその相手は、苗字は同じだが名前の違う二人のようです。兄弟なのだろうか。

ここで、いまの図書館の方式だと(つまりコンピュータだと)、前に読んだ人の名なんか判らないから、こんな夢は生まれてこないでしょうね。私も小中学生の頃、自分の読む本を私の以前に読んでいた人のことは、なんだか気になったものです。この著者もたいへんに本好きで、よく図書館を利用したのでしょう。雫も毎日のように図書館でたくさんの本と出会います。

雫は本を読むと、「……私ね いつも本読んで つまんなかったり 感動したり いろいろ感じるけど そんなとき 音がするの」という思いがするのです。「ウーン、これ分かるな」なんて思ってしまいました。

だけど雫は最近その音があんまり聞こえなくなってきています。すると雫が気になる弟のほうの男の子がいうのです。「じゃ、自分で書いてみれば?」

<関係>の概念は、かならずしも眼に ものだけをさすとはかぎらない。心的世界が関与しているかぎり視えない<関係>も含まれる。

そして、この視えない を人間が了解しうるにいたったことには、聴覚がかなりな深さで加担しているようにおもわれる。天空や自然森林の奥から聴こえてくる音や叫びが、どんな対象から発せられたか判らないとき、人間はその対象物を空想においてつくりあげた。そして ものを ものにおきなおすすべを意識としてえたとき、人間の の世界は、急速に拡大し、多様になったとかんがえられる。聴覚と視覚の空間化度が、そのまま時間性として受容されることがありうるのは、このふたつの感官作用が、視えない 概念を人間にみちびくのに、本質的に参加しているからである。(吉本隆明「心的現象論序説Ⅲ心的世界の動態化」)

それで雫は書き始めます。「音を 光を 思いを 伝えるために 大切だから 言葉にしよう ……消えないように」

雫が偶然知った「地球屋」というアンティークショップがあります。そこには不思儀な猫の置物があります。その猫はドイツと日本をかけて50年経っても恋人を待っているという訳があるようです。雫はこの猫とその猫の行方の知れない彼女を探す旅に出る物語を書き出します。実はそのことを前に夢で見ていたこともあったのです。

中学生の頃といえば、大変に多感であり、さまざまなものに感動することができるはずです。耳をすませばいろいろな音が聴こえてくるのでしょう。やがて次第にその音が小さくなって大人になるのかもしれません。でもこの雫はいつまでも、耳をすませばこうした音が聴こえてくるに違いありません。私もいつまでもそうした少年の日の心と耳は忘れていないつもりです。(1995.01.05)