徳川秀忠の愛した女、お江

歴史さとう

この徳川秀忠は、1579(天正7)年5月2日~1632(寛永9)年3月14日の生涯でした。彼の奥さんは何人かの人がいますが、それはいわゆる正室がいて、側室も何人も抱えていたということではありません。

秀忠は家康の三男でした。長男の信康は信長の命により切腹し、次男の秀康は戦は得意な名将だったらしいのですが、結城家を継いで、何故か信康が亡くなった年に生まれた秀忠が徳川宗家を継ぐことになります。

正室は織田信雄の娘で、豊臣秀吉の養女である小姫(おひめ)ですが、彼女とは離縁しています。そのあと正室になったのが、江(ごう)でした。名前は小督(おごう)、江与(えよ)といい、彼女は母親が信長の妹お市の方であり、姉が秀吉の側室の淀殿でした。彼女は最初秀吉の養子秀勝と結婚しますが、またこれも離縁して、この秀忠と結ばれます。

この秀忠の正室になったお江は、どうしても彼女のほうが強い感じが今でもしていますが、事実秀忠は他の女性を側室にしていません。ただ、お静という女性を見初めて、彼女とは結ばれますが、そのときに出来た息子が保科正之で、彼が会津藩を領有します。(この会津藩が幕末に松平と姓を変え、幕末の悲劇を迎えます)。だが秀忠は妻のお江を恐れ、この息子には一度も会わなかったといいます。

信長の妹のお市の方の娘たちは、みなそれぞれの激しい生き方をしていきますが、このお江が、いわば征夷大将軍徳川秀忠の正室となったわけで、いわば彼女が一番幸せだったと本人は思ったのかなあ。でももはやそれは判らないことであるわけです。