マイケル・クライトン『ジュラシック・パーク』

読書さとう

現在日本にたくさんあるテーマ・パークのうち、本物の恐竜をみせるサファリ・パークみたいなものが舞台だといえばいいでしょうか。このテーマパークがまだ公開される前にコンピュータによるシステムが破綻することにより、怖ろしいことがおきることになります。これがうまくいったらグアム島にも日本向けにこのジュラシック・パークをつくるはずになっていますから、現実にできるものなら、たしかに浦安ディズニーランドの比ではないかもしれません。

著者は現在のバイオテクノロジーをはじめとする科学技術にたいするかなりな不信があります。それはそのバイオテクノロジー研究ということをやる各企業、各大学、各科学者などがまったくの商業主義に侵され、また規制のしようもないほど広範囲かつ大規模であり、もはや国家や法が管理のできようのないものだからのようです。また同時に著者はすべてコンピュータによる管理そのものも信用できないようです。ひとことでいえば、この金儲け主義に陥っている、科学や技術などいつかとんでもない暴走をしてしまうのだという警告をしたいのかもしれません。

それをこの作品の中では、イアン・マルカムという数学者が繰返すカオス理論というもので主張させています。私にはどうにもよく理解しにくいところなのです。この数学者の主張はかなりこの著者にとって大事な主張らしく、なんども作品の中で述べられています。そのひとつひとつあげてどうなのだろうと検討したい気もしますが、これは科学理論ではなくただの宗派理論を聞かされているように思います。どうにもいちいち反論するのもどうなのかななんて思ってしまいます。いや、このように思うのは私だけなのかもしれません。

この作品では、とにかく金儲けを考えた人間が科学者を使って、恐竜を再生させ、そのテーマパークをつくろうとしますが、その科学と技術の過信により、とんでもない危険な事態になろうとします。凶暴な恐竜をよみがえらせ(いやもちろん著者は恐竜自体が凶暴だといっているのではありません)、しかもそれを管理できないためにとんでもないことになりそうなのです。

私がこの作品での事件の本質を考えるとしたら、かなり著者とは違ってくると思います。このテーマパークの失敗の原因は科学や技術への過信ではなく、もっと単純に恐竜をテーマとした公園でやっていけるのかという問題であるように思います。そんなに凶暴で危険な恐竜をまともに管理もできないような経営哲学でやっていくものでしょうか。何故か著者は現代の科学や技術への不信をどうしてか恐竜というものを出すことで主張しているように思います。なんだか恐竜が可哀想だな。

私は、「金儲け主義はいけない」ということと、「科学や技術の進歩を過信するな」という主張をどうにもごっちゃにしているような傾向を感じるのです。よくよく考えてみてほしいのです。「金儲け」も「科学や技術の進歩」もどちらもいけないことではないのです。

どうにもこの著者の考え方そのものにはどうしてもうなずけないのですが、作品の展開だけは愉しく読んでいけます。肉食恐竜に追いかけられる登場人物の恐怖などは読んでいるものに激しく伝わってきます。たしかにこれが映像になればその恐怖感は素晴らしいものでしょうね。

私は恐竜というものにはたいした関心もありませんので、それがさまざま詳しく書かれていることにはあまり内容のよしあしはわかりません。ただ恐竜の好きな人にはかなり愉しく読めるのかなと思いました。これはハヤカワ文庫で酒井昭伸の訳で、1995年に読んでいました。