レイ・ブラッドベリ『華氏451度』

読書さとう

私が1993年に読んでいました。ハヤカワ文庫で宇野利泰の翻訳でした。

秦の始皇帝がやった最悪の政策といったら、焚書坑儒でしょう。始皇帝と同じくらい偉大だとされた毛沢東も文化大革命という中で同じようなことをやりました。私はなんにせよ、本を焼いてしまうなんてことは最悪のことに思います。今の時代でもときどき出現する「悪書追放」などという運動にも嫌悪感しか抱きません。なんにしても全体主義を象徴する動きなように思えるのです。

この小説の世界は近未来社会なのでしょうが、主人公の仕事は禁じられた本を捜し出し、たちどころに燃やしてしまうことです。本に火がつき燃え上がる温度が華氏451度なのです。

こうした人間に悪い影響を与える本を無くしてしまえというのは、過去から、現在に至るまで繰返し出てきてしまう考え方のようです。とくに政治を志す勢力にこの傾向が多々現れてくるように思います。「プロレタリア文学」というまったくの勘違いがあったように、またいまある文化を反動的などと決めつけてしまうような傾向が厳然と存在していることはまさしくこのようなSF社会ができてこない保証はないのだといえるかと思います。

しかしまたこの著者には、科学と技術に対する危惧感も相当あるようなのです。多分この著者が、現在の日本の電車の中でや歩きながらウォークマンを聞いているたくさんの私たちの姿を見たとしたら、それらこそが活字文化を否定する科学と技術の象徴と見做してしまうでしょう。ましてやパソコンの発達なども同じにとらえてしまうに違いありません。

私などは、こうしたものがより発達していく社会になればなるほど、詩を読んだり、哲学を学んだりすることがより一層重要になってくると思っていますから、彼の見解にはまったくうなずけないのです。それで残念ながら、このSFにはそれほどひきつけられることがことがなくなってしまうように思っているのです。

ちょっと考えていただきたいのです。100年前に私たちはそんなに本を読んでいることができていたのでしょうか。字を読める人間はいったいどのくらいいたのでしょうか。あと100年たったとしても、字を読んだり、書いたりすることは私たちにとってより一層重要になっていくのです。ただし、それが紙に印刷され製本された「本」という形態だけにはならないだろうということは、勿論いうまでもないことであるだけです。