ロバート・ジェームズ・ウォラー『マディソン郡の橋』

読書さとう

私はこの小説を1992年に発売されると同時に読みました。文藝春秋社の本で、松村潔の訳でした。

これを読んだ人の感想をきいてみると、まったく感動している人と、なんらつまらない話だと見る人とが極端に2分されているように思います。この話を知って、夢見るように感動する人と、こんな話現実にあるわけがないじゃないかと思う人とが極端に別れるように思います。そしてそれはその人のもっている「恋愛」というものへの感じ方の違いなように思います。

人は大いに恋愛に燃えることも、革命とかいうことに情熱を燃やすこともあります。ほとんどそれにしか眼に入らないときもあるでしょう。だが、しだいにそうしたことが「生活」という前にかすんでいってしまうのが、大部分の人の人生であるかと思います。「思想でメシは食えない」ように、恋愛でもそれのままにだけに生きて行くことはできないのです。だからこそ、人はそうした自分の熱い思いを何かに表現しようとするときに、いくつもの詩を作ったり、小説の中にその思いをこめるといえるかと思います。

そうした作品を読む側がひきつけられる要素といったら、次のことが考えられます。まずそこに描かれていることが、読者にとってもけっこう同じ思いの体験を呼び覚ましてくれることです。もうひとつは、その作品の描いているところの時代を読者の前に生き生きと再現表現していてくれることです。

この作品ではまずその第1の点ではかなりな成功をしていると思われます。誰もがいや大部分の人が、なんらかの恋愛の経験はあるわけであり、しかもそれがけっして自分の思うような結末にはならなかったことも経験しているわけです。だからこそ、人はその作品の出来事の成り行きに自分のあることを引き合わしてみる体験をすることになります。

またもうひとつの点なのですが、優れた文学作品は読んでいる側に、その時代の像とその中で生きざるをえない作中人物の姿を明らかにしていくことから、読んでいると、私たちはどんどんその時代に引き込まれていくような気持になっていくものです。

この点がこの作品では、どうしてもはっきりと描けていないところのように思います。いったい何時の時代なのかよく判断できないように思います。いや、何時の時代でもいいようにも思います。もちろん、キンケイドのもっているカメラ技術や幌つきの橋の風景のことなどから時代を見ることは可能です。彼は過去に日本軍と戦ったであろうことも明らかです。またフランチェスカの農村での生活の仕方からも、時代を読み取れといわれればできるかもしれません。でもこの点からはやはり私には不充分に思われるのです。多分この物語はどの時代背景でもいいのかもしれません。しかし本当はどうなのでしょうか。キンケイドとフランチェスカのこの純愛物語が、アメリカのある時代性というものを明確に描かないと出てこないような出来事ではないのかなと私は思ってしまうのです。ここがどうしても、これを単なる夢物語、空想物語と思ってしまう人がいるところなのでしょう。

たぶんこの二つめの点をもっとこの作者が描けていたならば、もっとたくさんの人がひきつけるられる作品ができていたように思います。何故彼は結婚していたのに離婚してしまっていたのか、彼女はどうしてそのまま彼と一緒に行かなかったのか、などという点が浮き彫りにされたように思います。そうしたことは、彼彼女の個々の資質の問題というよりも、彼等が生きている時代の制約なように私は思うからなのです。