AR支援ネットワーク通信(74) 「ARの宣伝(研修花盛り:または空飛ぶセールスマン)2001―2007 後編」
横浜国立大学名誉教授 佐野 正之
前号では2001- 2007 ま で、まさに「空飛ぶセールスマン」としてARの宣伝に全力を傾けたと書いたが、それは決して、Arthur Millerの戯曲「セールスマンの死」の主人公のWilly Loman のように、富を求めたものでも人気を求めたものでもなく、また、バッグに詰め込んだ既製品を売り回ったわけではなかった。私が欲しかったのは謝金でも有名になることでもなく、ARによって受講者が変容し、プロとしての自覚と誇りを持った教師になって欲しいということであり、そのための手段としてARを実践 することが有効だと信じていた(今でもいる)からだった。だから、私としては決して既製品のARのアイデアを売り歩いたつもりはない。常に現場のニーズに応じて講演内容を工夫すると同時に、自分のARの考え方自体も変えていった。まず、どんな工夫をしたか箇条書きにして説明しよう。
1) ARの全体像を理解してもらうためのフォーマットの作成
当初私のARの講演では、リサーチのプロセス(問題意識から、問題の確定を経て、リサーチ・クエスチョン、仮説、経過、成果、振り返り、今後など)を一つずつ箇条書きに して説明していた。それが横須賀での研修を終わった夜、ふとんの中で思い起こしていた時だと記憶しているが、各部を個別に扱うのではなく全体像を一覧表に して、それを見ながら各プロセスの説明をしたほうが受講者には分かりやすいし、その後の作業がしやすいのではないかと思った。次の日は福岡市への移動だったので、さっそく飛行機の中でフォーマットを考えホテルで原型を作成し、翌日の講習から利用した。その日の午前の講演は今まで以上にスムーズに理解も深 まったようで、午後の作業にも各自が積極的に取り組むことができたので、この方式が効果があると判断し、その後の講演ではもっぱらこのフォーマットを使用するようになった。それが原型となり高知県や神奈川県や山形県では、それぞれ独自の工夫も加えて、ARを計画するときや途中経過を互いに説明するとき、また、成果を報告するポスター・セッションにも使用するようになった。今、取り組んでいる作業は、リサーチのどの部分かが視覚的に理解できるのでフレームを使用することは便利だと思っている。
だが、便利さの後ろに危険もある。フォーマットをなんとか埋めれば、自動的にリサーチが完成するという誤解を与えるからである。ある講演での出来事だが、受講者の一人が作業中に私のところに歩みより、「先生、事前調査まで終わりました。ここからどうすれば、リサーチ・クエスチョンや仮説に進むのでしょうか?」と質問したのである。本来、問題意識を明確にし、リサーチ・クエスチョンに絞り込むために行うはずの事前調査が、フォーマットに整理されることで相互の有機的な関連性が見落とされてしまったのである。リサーチを進めるための手助けのはずが、それ自体が目的化してしまう。フォーマットを利用するときには、心すべき注意点である。
しかし、この危険性は承知しながらも、神奈川県教育センターが作成した『アクション・リサーチによる授業改善ガイドブック』(2006) や、高知県が毎年リサーチの成果を発表する『授業改善プロジェクト:研修報告書』や山形県のポート・フォリオなどにも用いられているのは、上に述べた利便性のためだろう。だが、このフォーマットは私の便宜上の工夫であって、それ自体がARのmust ではない。進めるARの特性によって、多様な方式があるはずである。このフォーマットは「授業改善」という目的で、大人数が一斉にARに取り組むさいの説明や作業のための便宜的手段であることを忘れてはならない。
2) 準備段階の設定
予備知識のない受講者に、一応の説明ののちに、すぐに「自分の問題をARしなさい」と言っても、実際にどう進めたらよいのか理解できないことが多い。この問題を解決するために「準備段階」を設定した。具体的には、一般的な説明の後で、「では、模擬的なARの課題を出しますから、グループで相談して、どんな事前調査をしたらよいか、仮説をどうするか、実践の方法や結果などは想像してフォーマットに記入してください。例を2つ出します。1つ目は音読の声を小さいので、それを大きくするにはどうしたらよいか。2つ目は、リスニングのテストでは学年の平均以上の成績をとるクラスなのに、語順問題、特に、並べ替え問題ができないクラスに、せめて学年の平均点まで達する指導はどうすればいかという問題です。学年は2年生を想定してください。また、学習意欲はあり、生活指導の問題もない平均的なクラスを想定してください。もちろん、いろいろな解答があるはずです」と指示し て、グループで相談してフォーマットを完成させ、意見交換してアイデアや指導方針を交換しあう。最後に講師が、それぞれの問題を考えるさいの留意点を説明する。こうした練習の後で、それぞれが自分のクラスの問題についてARを計画するようにすると、理解が深まることが多い。
また、当初はできるだけ早くARを始めることで、実践の期間を長くすることを薦めていたが、実際問題としては、1回の講義では全員がARの方法を理解することは困難なので、「ミニ・AR」という形で、ほんの1週間でもよいので一つの問題を授業中に観察したり小テストで成果をみたりする経験を した上で、夏休みの長期研修の折に正式なリサーチの取り組みを定め、2学期に実践するという形をとるようにした。いわば、問題を絞り、振り返る練習を最初に置いたのである。大学院生が修士論文を書く場合のように、個々に対応してくれるメンターがついている場合は別にして、こうした準備段階は必要だろう。
さらに、もう一つ強調したことは「生徒との協働作業の必要性」である。ARを始める前に、「私はこのような理由で、授業のこの点を改善したいと思う。そこで、いろいろ調査をしたり、今までのやり方を変えるかもしれない。私の試みが成功すれば、皆にもこのような利益があるはずなので、是非、協力して欲しい。 具体的には、さしあたり次のことをできる範囲でやって欲しいし、その折の感想なども素直に知らせて欲しい。この計画が成功するか否かは皆の協力にかかっている。私と一緒に、授業をより楽しく豊かなものにするために、力を貸して欲しいのでよろしく」とARを開始する前に生徒に訴えるのである。こうしたことをクラスに依頼でき、受け入れてもらえるには、教師と生徒の間に信頼関係が存在していることが前提で、そのためには教師はクラスの特徴や個々の生徒をできるだけ詳しく知り、人間関係をよくしておかなければならない。ARの前には、open な人間関係と生徒理解が必要だということである。
3) グループでの取り組み
ARは 教師が自分のクラスの中の問題を、生徒と協力しながら解決を目指すのだから、基本的には個人の作業である。しかし、リサーチを始めるとすぐにいろいろな問題に出くわす。メンターがそばにいて支援するのが理想だが、現実には難しい。その解決方法としてグループで共通の問題をリサーチするということがよく行われる。
理想的には、同じ問題意識を持った人たちが集まり、しかも勤務校が地域的に近いと効果が期待できる。たとえば、神奈川県のあるグループは、「英語の勉強はきちんとするのだが、ALTの授業になると消極的で、話しかけられても答えない生徒の多いクラスを、より積極的にするにはどうしたらよいか」という共通問題をグループで扱った。メンバーによって仮説(=対策)は異なったが、ALTの居ない授業でもゲームで生徒の話す機会を多くする、教師と生徒のQ and A を毎時間実施する、ALTと の対話では、一対一の対話ではなく、生徒はペアで教え合いながら対話するなどの仮説を立て、また、それぞれの授業を参観し有効だと思われる手法を自分の教室にも取り入れて実践したところ、生徒の発話量はどの学校でも飛躍的に伸びたという調査があった。このように恵まれた場合は、教師の協働作業はじかに成果に影響する。
これほど共通の問題意識がなくとも、たとえば、 「スピーキング能力をどう伸ばすか」というある程度漠然としたものでも、教科書が同じ人たちの集まりであれば、学年のこのレッスンでどのような指導ができるかを教案やハンドアウトを交換したり、また、研究授業では授業する人だけでなく、それぞれがビデオを持ちより自分の工夫を発表することでグループ 研究の意味が高まる。何か共通した基盤があれば、それを利用してグループの活動計画を考えるとよい。
しかし、実際は問題意識が異なる者がグループになることも少なくない。その場合は、共通問題の可能性を探ることはよいことだが、強制してしまうと個々の教師の問題意識と合わず、やりたくないのに「やらされた研究」になってしまう。こうした場合は、異なる問題を扱うことを認め、相互で精神的に支え合い、メンバーの悩みを共感して聞き、疑問点を質問し、発見を共有して喜ぶ仲間として位置付けるべきである。こうした広い意味でのグループでの協働がARでのCollaborative Action Researchの本質だと思う。何も無理やり同じ課題を扱う必要はないのである。
4) 英語スキルの理論的理解や指導法の知識
「英語授業力の改善」をねらう研修だから、ARを進めるにもスキルの理論や指導法の知識が欠かせない。「振り返り」で現在の方法が効果的ではないと気付いても、変わりとなる知識や方法が分からなければ対策を立てようがない。ところが、受講者の実態を知るにつれて、こうした「基礎的知識」が不足している人が多いことがわかった。支援することが期待されている指導主事でも同じ傾向がみられた。そうした場合に、「振り返り」だけを強調しても、劣等感を刺激するだけでARに意欲的になれないことが多い。
実際に私が直接体験した例だが、ARの 概要を説明し、模擬練習の後で自分の授業の問題点を振り返る作業をしていた時に、突然怒りだした受講者がいた。「私たちは効果的な指導法を教えてもらいに来たのであって、自分の欠点を見つけに来ているのではない」というのである。これには困った。だが、困ったら教師を医師に置き直して説明するという方法論も講師をしながら身につけた知恵である。そこでこの場合は、「自分を医師だと思ってください。今、目の前にはどこが悪いか分からないが、体がだるいと訴える患者がいたとします。そのときに、やたらに薬だけを飲ませても効果よりは害になるかもしれないでしょう。教師も医師と同じです。今の問題の本質が分からないときに、新しい指導法の情報をもらっても意味がないのではないでしょうか」と反論し、納得させたことがあった。
しかし、問題点を発見さ せるだけで、なんの対策も提案できなければ、受講者の欲求不満を増すばかりである。そうした時には、「三人よれば文殊の知恵」とばかりに互いに知恵を出し合わせるのが常套手段である。実際にこれで上手くいくことも多い。しかし、場合によっては「愚痴のこぼし合い」に終わることもある。納得する対策が見付けられないときには、「こういう方法もあるよ」とか、「この参考文献が役立つかも」と提案してやれることがメンターや講師には求められる。こうした実践上の問題に対応するために、ARCYのメンバーが中心になり、スキルごとの考え方と指導法、また、生徒指導上の問題への対応をまとめたのが『はじめてのアクション・リサーチ:英語の授業改善を求めて』(大修館書店、2005 )である。
5) 精神的な支えとしてのメンタリング
一人のメンターが対応できるメンテイーの数は限られている。せいぜい5人程度だろう。ところが、年度によっては神奈川県で300人、高知でも100人(その他は全部切り捨てたとしても)も受講者がいるときに、なんらかの精神的なサポートを私が与えるとなると、メールで一斉に「通信」を送るしかない。その時どきに受講者が困るかもしれない事柄について、メールでアドバイスを送るのである。
この時期の私の「通信」で一番共感を得たのは、私自身が大学の(この時は東京の私立大学で教えていた)講義でARを実施し、同時進行で困ったことや失敗や時折のささやかな成功をメールで知らせてやったときである。私が授業で用いた具体的な手法で役立ったことはそれほどなかっただろう。一番受講者に意味があったと感じたのは、「ARのセールスマン」を自認する私ですらいろいろな失敗をし、悩み、試行錯誤して、ようやくなんとか問題の解決に結びつけることができたという苦労話に読者が共感したのだと思う。だから、メンターを志す人は、自分の失敗や苦労を開示する心のゆとりを持つことも大切だ。私のこのARについては、『アクション・リサーチ研究2』を参照されたい。コピーを希望されるARCY事務局まで。
このようにいろいろな喜怒哀楽を経験しながら、悉皆研修は終わりを迎えた。『STEP情報』や『英語教育』での連載、著書、学会発表、筑波中央研修、ブロック研修などさまざまな機会を通して、ARという名称は英語教師にはかなり知られるようになった。だが、果たして、悉皆研修が終了した後でもARで授業改善に取り組んだ人はどの程度いるだろうか。その%は低いと思われる。これはある意味では当然な部分もある。というのは、一度しっかりしたARを実践すると、そこで身についた思考方式が無意識的に作動して授業後に振り返りをしているし、また、英語授業以外でもARの発想で物事を考える癖がつくということがよくあるからである。実際に2カ月に1度の定例会を開いてARの勉強を続けているARCYのメンバーでも、ARを 毎年実施している人はいない。自分の授業を振り返り、実態に基づく改善を生徒と協力してやることができれば、ARを繰り返す必要はないのである。しかし、 こうした認識を獲得しないまま、ARに見切りをつけた受講者が実は大多数ではないだろうか。研修の時点ではやる気が見えた受講者が沢山いたのに、悉皆研修 が終了すると同時にAR熱は全国的に冷めていった。訪問した先々でARの花が咲くことを夢見た「空飛ぶセールスマン」の志は、まるで空中からまいた種が地面に根を張ることが珍しいように、大地に根を張ったARはごく限られているようだ。それは何故か? この疑問は悉皆研修も後半に近づいたころから、常に頭を離れなかった。
この解答のヒントをフィンランド教育、特に、その教員養成に関する本を何冊か読んだときに得たように思う。日本の教員養成がいかにお粗末であるかを痛感したのである。日本の英語教育がなかなか改善しない原因は、ARを知らないからではない。ARが根付く授業力自体が不足しているのだ。だから、教員養成が根本的に改善され、本当の授業力をつける中でARが 位置づけられなければならないのだが、現状では十分な教育実習すら与えないまま無責任に教員免許を出している。採用する側にも、英語力を計るテストはあっても、授業力を計る明確な尺度はない。尺度がなくて当然なのだ。1-2日のテストで、人間力の総体が関わる授業力を見定めることなどできるはずがないからである。だから、この問題の解決には日本の教員養成の仕組みを根本的に変えなければならないのだ。
だが、これは言うは易く実現は難しい。すくなくとも当分の間は、採用された教員を対象に、現場で授業力と授業改善力を同時に伸ばすARを工夫しなければならない。そのためには、ARが更に別の段階に進むことが要求されていると思う。
(配信日 2011/07/15)