4-2 反対論への反論(1)

AR支援ネットワーク通信 (48) 「授業は英語で」をめぐって 反対論への反論(1)

■はじめに

前回は「授業は英語で行う」ことに対する斎藤氏の反対論に現場感覚から反論し、私の基本姿勢の概要を説明し、これからはじめる「通信」のテーマのリストを紹介しました。この稿では反対論に顕著な英語教育の目標論への反論を試みます。そのためにまず、「授業でどんな英語力を持った生徒の育成をめざすか」という問題と、「その目標は外国語教育の歴史から判断して妥当なものか」など英語教育の目標論について考えてみましょう。

■どんな英語力を育てるのか

「授業は英語で」の主張に反対する人も、最終ゴールとしてならコミュニケーション能力を否定しているわけではありません。たとえば、斎藤氏は、中学や高校で「基礎」を育てておけば、必要に迫られればコミュニケーション能力は着くはずだとしているからです。しかし、このことを逆に言うと、授業では「コミュニケーション能力の育成」は目標にはしないということです。授業は発音練習や文法指導、訳読や音読練習が中心で、求める英語力は正確な発音と文法や語彙の知識、難解な英文を正確に日本語訳でき音読できる力です。当然、「聞く・話す」は軽視され、教材は読み物中心で対話文は少なくなるでしょう。こうした授業が多くの生徒にとって、いかに退屈で無意味に思われるかは前回説明しました。生徒が求めているのは、ずっと先になって役に立つかもしれない単語や文法の知識ではなく、勉強したらすぐに役立つ、生きて使える英語力なのです。斎藤氏はこうした発想自体が授業を低級にするので、英語力の習得にはひたすら覚え、練習する「根性仮説」が重要だと主張しています。私も努力や忍耐が必要なことは否定しませんが、その根底に彼らの欲求を満たしてやりたいという教師側の意図がなければ、ただの強制に終わり、生徒が主体的に学習意欲を伸ばすことはないと思います。ですから、授業ではコミュニケーション能力の育成を目指すべきだというのが私の主張なのです。

それにしても、教授法の善し悪しを判定する客観的な基準はないのでしょうか。実は、この問題は非常に長い間議論されてきていて、その度にrefer される本にKelly, L.G. 1969. 25 Centuries of Language Teaching. (Newbury House) があります。そこで、手始めにKelly の説の概要をお知らせします。彼によれは、人類の2,500年にわたる言語教育の歴史は、社会的目的、芸術的(文学的)目的、哲学的目的の3つの目的の間で主役の座を奪いあう交代劇だったとしています。芸術的目的は、他の2つの目的に付随することが多いので、結局はコミュニケーション能力を重視する社会的目的と、分析的な思考力の練磨を主目的とする哲学的目的が、文学的な目的もからみながら、交互に主役の座を奪いあう歴史が外国語教育の歴史だったとしています。W. M. Riversもまた、現代でも哲学的目的は文法訳読式を重視するFormalistの、社会的目的は話しことばのスキルを重視するをActivistの主張に生きていて、両者の目的意識の差が教授法の差として表れているのだとしています。斎藤氏の 議論はFormalist、私の主張はActivist に近いといえるでしょう。

では、現代はどちらの発想が妥当なのでしょうか。Kelly は「言語学習の目的は社会的な要請によって変化する」としています。この視点からすれば、大局的には今はコミュニケーション重視のActivistの時代です。ですから、「和文英訳で詳しく文章を分析することによって思考力伸ばす訓練になる」という哲学的目標は、時代の要請に合わない指導法なのです。そればかりではありません。「文法・訳読」によって思考力を伸ばす訓練を受けたはずの学生群と、ごく普通のコミュニケーション重視の授業を受けた学生群の思考力の伸びを比較した実験が行われたことがありました。その結果、両者に差がないことが判明したのです。ですから、「英文和訳で思考力を鍛える」という「哲学的目的」は、その論拠さえ危うい説だといわなければなりません。ですが、これは外国の話しだから、日本では違うのではという疑問が出るかも知れません。

■日本の英語教育史ではどうなのか

斎藤氏は 『朝日新聞』の対談(2009/8/1)で、「学校で使える英語なんて幻想だ:中学・高校で教えるべきは文法と訳読。明治以来、基本は同じ」だと論じ、英語で授業することに反対する理由を、高校で教えなければならないかなりの部分は文法だから、日本語で覚えこませることが必要で、苦労をしないで「使える英語」が身につくなどというのは幻想だと断じています。彼は「根性仮説」の例として、明治時代の英語の達人たちは苦労して沢山の読書をした、例えば、新渡戸稲造は札幌農学校の図書館の英書を全部読んだことを挙げています。ただ、この文章はうっかり読んでしまうと、新渡戸稲造までが「英文和訳」の肯定論に使われてしまいますが、それは事実と異なると私は思います。

確かに新渡戸とか内村鑑三とか倉田天心などの明治の英語の達人たちは、大の読書家だったことはよく知られていますが、実は、彼らは幼少時代からnative speakers の指導を受け、英語を聞いたり話したりすることにも 並みはずれた能力を持っていたのです。また、新渡戸や内村が札幌農学校で受けた講義は全てnatives の教師によるものでしたから、講義のノートを取るのも試験の解答も全部英語で書かなければならなかったのです。実は、これは札幌農学校に限ったことではなく、明治維新に西洋文明を取り入れるために開設された大学では教師は全てnativesでしたから、大学の講義は当然全て外国語でなされたのです。ですから、大学の講義に備える力をつける「予備門」で最も重視されたのが外国語教育で、そこでも「授業は外国語」が基本だったのです。

それでは斎藤氏はこのことを知らずに「明治以来、基本は同じ」と言ったのでしょうか。そんなことはありませ ん。彼の専門は英語教育史で、著書も何冊かあるのですから。ただ、斎藤氏が「明治以来、基本は同じ」とした時の「明治」は「明治維新」当初の「明治」ではなく、井上文部大臣の「日本の学校教育は日本語で」という方針のもとで、大学の授業も英語から日本語に転換した以降の「明治」をさしているのです。この方 針転換によって、それまでの「大学で使える英語力」を育てるはずの「予備門」やその前段階の英語授業は、「大学に合格するための英語力」の育成に力を入れることになり、文法・訳読が隆盛をきわめ、それが今日の「受験英語」に繋がっているのです。ですから、斎藤氏のことばをより正確に表現すれば、「明治以来、受験英語の基本は同じ」とならなければならず、その意味では新渡戸稲造への言及は誤解をまねくだけだと私には思われます。それにしても、なぜ、時代の変化に対応して指導法は変化しなければならないのでしょうか。

■時代の変化はどこに表れるのか

まず、教える対象の英語のステイタスが変化してしまいました。明治時代は、英語はイギリス人やアメリカ人の国語でしたから、当然、彼らの文化や習慣を理解し、正確な発音や文法は教養人の印であり、natives のような英語を使えることが英語学習の主要な目的だったのです。しかし、現在では、natives の何十倍もの人が日々の生活で英語を使用し、貿易からインターネットまで、まさに「国際共通語」としての位置を占めるようになりました。そうすると、そこではnatives の英語もまた、いく種類かある英語のひとつとみなされるようになったのです。当然、nativesのような発音の正確さや文法的な潔癖さは重要視されなくなります。「きれいな英語よりも伝える内容」が重視される時代に今、私たちはいるのです。当然、それに合わせて授業は変わらなければなりません。

このことは文化の取り扱いの差ともなってきます。従来の授業ではアメリカやイギリスの文化を理解させることが重要だと信じられてきましたが、今ではそれは英語で伝達される多様な文化情報の一部にしかすぎないと考えられるようになりました。英語のステイタスが変化したのだから、これは当然のことでしょう。しかし、実際問題としては、世界のあらゆる文化情報を扱うことは不可能です。ですから、奇異な文化に遭遇した時に嫌悪して拒否するのではなく、興味を持って寛容に接し、かつ話し合いで相手を理解し、協働して問題解決に当たるinter-

cultural communication の能力がより重視されてきたのです。と言うことは、教科書でイギリスやアメリカの生活習慣や文化行事などを扱う場合は、それを見習うべきモデルとしてではなく、「異なる文化の一例」として理解し、協働する能力やスキルを育成する材料として扱うべきなのです。

もう一つ大きく変化しているのは、英語を学習する日本人の数や質の変化です。明治の時代は、まさにエリート中のエリートが自分の立身出世と西洋文明に追いつくための英語学習だったのでが、今では、誰もが海外旅行をし、いつ外国人が隣に住むようになるか分からない時代の中で学習を進めているのです。よく、「日本では英語を使わないでも生活できる」と言われますが、それは表面的な発想です。例えば、英語が聞き取れたり理解できたら、日常生活に溢れている英語の歌や宣伝や雑誌や映画もより楽しむことができるでしょう。さらに、インターネットで外国にいろいろな友人を作ることも容易になります。まして、観光立国を目指す日本では、海外からの旅行客に気軽に接すことができれば、良い印象を与えることにもなるでしょう。また、近所に住む外国人にゴミの弁別を説明することで、より快適な日常生活が過ごせるはずです。まして、海外青年協力隊とかNPOでの活動を希望しているなら、英語は不可欠です。英語に苦手意識があるだけで、どれだけ多くの小学校の先生が毎日を苦々しく過ごしていることか。外交や貿易などで高度な英語で交渉をしなければならない人が増えている以上に、ごく一般の日本人にとって、日常生活の中でよりよい生活のために外国語のスキルと、異なるものを受容する寛容な心が不可欠なのです。

■「授業は英語で」の消極的賛成論

「時代によって指導法は変わるべきだ」とする点では、鳥飼久美子氏の意見は(『英語教育』2009年8月号「いま日本人に必要な英語力とは」の特集)、私の立場に類似しています。氏の意見の概略は次のようなものです。

まず、氏は「現代は英語なしには国の存続が危ぶまれる『英語の世紀』である、この中で国として日本が生き残る道は3つしなかない。

(1) 「国語を日本語から英語に切り替える」

(2) 「全国民をバイリンガルにする」

(3) 「国民の一部だけをバイリンガルに育てることだ」

という説を紹介したのち、第1案は論外だし、第2案も実現は不可能に近いので、第3案が一番実現性が高い。だが、いざ、この案を国の政策とすると問題がある。まず、どの親も自分の子供だけは「国民の一部」になって欲しいと願うだろうし、また、将来どの生徒が英語を駆使する職業につくかは予想がつかないのだから、結局は「一億総バリンガル化」を公式には目指さなければならないというものです。

鳥飼氏の指摘には賛成できる点が多々あります。例えば、英語は国際共通語なのだから、日本的なアクセントや言語使用の際の文化的な側面(gesture など)は必要はない。むしろ、自分の主張を相手に伝えるための発信力が大切で、その良いお手本がダライ・ラマ14世の英語だとしている点です。彼の英語は流暢ではないが、世界的にも偉大なコミュニケーターだと認められているのだから、国際英語の視点からすれば、きれいな英語、正確な英語など瑣末なことだとしています。結論として鳥飼氏は、以下のように述べています。

「地球語としての英語」を目標に教育実践にあたる英語教員がなすべきは、目の前にいる生徒たち、学生たちが、将来、どのような職業に就き、どこで何をしようとも、必要となった際に最低限の英語を使えるようにすることだろう。インターネットで読み書きができる読む力、書く力、そして対面コミュニケーションの場に遭遇した際になんとか対話を成立させられるだけの聞く力、話す力。(省略)「他者を理解しようとする心」「学びを継続する力」さえあれば、世界共通語である英語を駆使することは夢ではないし、それが地球人として生きていくことを可能にする。」

引用から浮かぶ授業モデルでは、読む・書くだけでなく、聞く・話すも扱われるので、私の意見と類似した型が想定されます。必要の際に対面コミュニケーションができるためには、「文法と訳読」では駄目で、授業の中で4技能をバランスよく指導しなければならないからです。しかし、私は鳥飼氏の意見にも全面的には賛成しかねます。ひとつには、氏の意見を裏読みすれば、本当は少数のエリートだけでよいのだが、選別が難しく親の同意も得られないから、仕方なく全員にコミュニケーション能力をつけることを建前とすべきだと読め、エリート主義の匂いがするからです。しかし、それ以上に、現在、英語教育が求められている社会的・教育的役割を狭く捕えているように思われるからなのです。それはどういうことなのでしょうか。

■目標設定の妥当性

従来から、英語教育には、社会科や国語科ではできない社会的・教育的な役割があり、それは幅広い人間的な成長を促す体験を与えることだと言われてきました。ひとつには鳥飼氏の述べている「他者を理解する心」の育成です。この場合の「他者」とは、単に「知らない他人」という意味ではなく、自分と発想や価値観や言語の異なる人を指しています。ですから、「他者を理解する心」という表現を、Rivers は「自分とは異なる行動様式や思考方式への洞察から生ずる、心を開く(mind-expanding) ヒューマニテックな体験を与えることだ」と呼んでいます。

天満氏もまた、「僕の頭の中や心の中に、グルグルと世界地図が展開する。英語の時間になると地球が見えてくる」 という日本の中学生の作文を引用しながら、「自分たちのことばと異なる表現の仕組みを持つ外国の人達の存在を知り、早くその仲間に入りたいという希望は純粋であり、バイタリテーに富んでいる。それは英語を通して、言葉のむこうにいる人間の心に触れ合う端緒である。(省略)自分たちと異なる思考、発想の仕方や価値観の存在を知ることにより、その多様性の認識は、こどもの心に寛容さ、思いやりを植え付けてゆく」と表現しています(天満美智子.1982. 『子どもが英語につまづく時』(研究社出版)

Rivers も天満氏も英語授業が生徒の人間性の向上に貢献する可能性を見事に説明していると言えます。「英語を単なる記号として教えても教育ではない。英語教師として、もっとできることがあるはずだ。それは生徒の心を広げる体験を与えることだ」という思いに駆り立ててくれます。しかし、一方で、私は彼らの、また、鳥飼氏の発想も、物足りなく思うのです。それはこうした発想は「他者を理解する」ことに視点が置かれていて、「協働して新しい価値を作り出す」という視点が乏しいように思うからです。

無理もありません。Rivers や天満氏の発言は今から40年も前のものであり、この間に国際化は当時の想像を越えたスピードで進展しました。世界は今や国際理解では不十分で国際的に協働して問題解決に当たらなければならない時代になったからです。これからの生徒たちは、ただ、相手の考えや気持ち理解するだけでなく(このことが前提となることは当然ですが)、直面している問題に協働して立ち向かっていかなければならない時代にいるのです。この点、Council of Europe の目標設定はより現代の外国語教育の目標を意識的に捕えているように思われます。

Council of Europe の目標

Morrow は the Council of Europe の外国語教育にはa political agenda があり、それは「民主的ヨーロッパ市民の育成」である。それは、次のような目標に明示的に、あるいは暗示的に示されているとしています。:

*The development of European citizenship, with an educated European understanding several languages, able to study and travel in many countries, knowledgeable about, and having respect for many different nationalities and national cultures.

*The conviction that knowing different languages is a powerful factor in intellectual development, encouraging open-mindedness and flexibility, contributing to the development of other skills.

*The commitment to life-long language learning, accepting that it is unlikely that schools can predict exactly which languages their students are going to need, and that therefore the aim should be to train them to become language learners, capable of acquiring the particular languages as they meet the need for them.

* The idea that language study offers opportunities to acquire independence and autonomy as learners, that it can be learned in ways which encourage co-operation and other social values.

(Morro K. (ed.) 2004. Insights from the Common European Framework. OUP.)

まず強調したいことは、外国語教育が「ヨーロッパの民主的市民教育」と位置づけられていることです。複数の外国語を指導し(学校では3つの外国語の学習を勧めています)外国に旅行したり滞在するためだけでなく、外国やその文化に対して尊敬の念を持つように指導すること。それができて始めて「教養人」だとされるのです。

また、外国語教育が知的な成長、特に、心を広め柔軟な態度を育成することに貢献すること。授業を生涯に役立つものとするには、外国語の自学力を付けることも大切な役割であり、さらに、協働と社会参加の機会となるように指導することを求めています。当然、授業では外国語を使って協働で問題解決を図る体験を与えることが意図されるでしょう。

さらに、仲間と協力しながらも自分の学習に主体的に取りむくことは、個人としての自尊心や自立を強く意識させることになるでしょう。授業での協働作業を通じて、協力する大切さやそのためのスキルを学ぶことにもなるのです。ですから、外国語教育は「明日の日本と世界に生き、かつ貢献する自律した市民を育てる教育」に他ならないのです。もし、こうした目標を英語授業に生かすことができたらどうなるでしょうか。生き生きした発言とinteraction によって、グループに貢献する生徒の姿が浮かんできます。私の理想とする英語授業とはこのような授業なのです。More Communicative というモットーは自分の意見を発表する発信力だけではなく、発信やそこから生まれたinteraction が自分と仲間の協働にどのように貢献するかという視点で考えるべきだと思うのです。とは言え、これは決して易しいことではありません。多くの問題が実現を阻みます。それを次回は考えてみましょう。

(配信日 2010/06/01)