AR支援ネットワーク(47) 第4部 『「授業は英語で」をめぐって(1) シリーズの概要』
横浜国立大学名誉教授 佐野正之
■はじめに
高等学校の新指導要領の中で「英語に関する各科目については、その特徴に鑑み、生徒が英語に触れる機会を充実するとともに、授業を実際のコミュニケーションの場面とするため、授業は英語で行うことを基本とする。その際、生徒の理解の程度に応じた英語を用いるよう十分配慮するものとする」と定められたことを巡って、賛否両論が渦巻いています。指導要領を説明して回らなければならない指導主事としては、この要求は現状とかけ離れているし、また、自分が現場で教えていたときには日本語に依存していた(かどうかはわかりませんが、もしそうだとすると)という後ろめたさもあって、説明に苦労する人も多いのではないでしょうか。特に、年配の教師の中には「文法練習と和文英訳でこそ英語力がつく。英語で授業をするなど絶対に許されない」と反対論を強く主張する人もいるでしょう。そうした反対論にどう対応したらよいのか、また、具体的な手立てとして何から始めるようアドバイスを与えたらよいのか迷うのではないかと思います。そこで、「AR支援ネットワーク」の第4弾として、「授業を英語で」をめぐって予想されるいろいろな問題をシリーズを取り上げることにしました。
ただ、お断りしておかなければならない点があります。それはこのシリーズの趣旨は指導要領を弁護するためのものではないということです。私(たち)はこれまで10年もの間、「アクション・リサーチ@横浜」でARを実践してきました。個々の実践報告では必ずしも明確になっていませんが、研究を進めるに当たっては無意識的な共通する理想の授業像がありました。それは、「英語授業は最終的には英語でコミュニケーションする力を伸ばすことを目的にすべきだ」「そのためには、生徒と協力しながら、できるだけ英語で授業を進めることが望ましい」というものです。ですから、この点では新指導要領の主張と合致しています。ですが、私たちの主張は現場感覚から出発したものですから、細部では指導要領と異なっているかもしれないことをお断りしておきます。
■現場感覚を出発点とするとはなにか
非常に単純なことなのです。ある主張なり指導法を実際に自分の教室で試した時に、どの程度の生徒がそれを受け入れ協働してくれるか、生徒の学びの質は保てるか、持続した場合に期待した効果が本当に生まれるか、また、生まれた力が将来的にどの程度の生徒たちに役立つかという視点から判断するということです。例えば、斎藤兆史氏の以下の主張を例に考えてみましょう。
学校教育で与えるべきは、そのまま実用に供する低級な会話能力ではなく、学習者個々人がそれぞれの動機に基づいてのちのち必要な英語力を積み上げることができる堅固な基礎力である。そしてそれは、徹底した発音・文法・読解・作文訓練によって築くことができる。そのような基礎力がそのまま実地で使えないという当たり前の事実を問題視したところに、過去数十年にわたる日本の英語教育の誤りがある。
(『日本人と英語:もう一つの英語百年史』研究社出版. p.219)
「会話力は低級なのか?」と反論したくなりますが、そうした議論は一時横において、実際にこの主張に沿って授業するとどんな授業になるのか考えてみます。まず、単語や文の発音練習や音読練習、文法説明、英文和訳で授業時間の大部分が占められ、そこで出てきた文法項目を用いた和文英訳がプラスされるだけで終わるだろうことは容易に想像できます。この授業のどこがいけないのか。まず、圧倒的に教師主導の知識注入型の授業になるからです。当然の結果として、生徒の主体性は無視され、グループ活動でさえも「非効率だ」と排除されることになるでしょう。私(たち)の経験では、このような単調で機械的で知識重視の授業に熱心に取り組める生徒の割合は、実業高校ではクラスに1人か2人、中レベルの普通高校でもクラスの4分の1程度でしよう。ですから、この手の授業が通用するのは、大学入試のためなら退屈な練習やつらい暗記の作業に耐えることができる一流の進学校の生徒だけです。だが、考えてみてください。一流の進学校に合格する生徒は、中学生全体の5%程度なのです。ですから、上の授業は95%の生徒の期待に添わないどころか、存在を無視することにもなりかねないことになります。
では、5%の進学校の生徒は、卒業後どんな大学生になるでしょうか。多くは英語の勉強は入試のためだと信じているので、合格と同時に必要性を失った英語の知識は急激なカーブで下降し、それに応じて学習意欲も減退し、英文科の学生でさえもが、受験用に暗記した語彙力や文法力は卒業時点で大方失ってしまうのです。ごくごくわずかな偶然が重なった場合(英語に興味を持ち続けて学外でも勉強を続け、大学でも興味のある英語を使用する授業に恵まれた場合)にのみ、この指導法は生きる可能性があります。ですから、こうした授業で成功する者はまさにエリートの中のエリートで、一般的な視点からすれば「一将功なりて万骨枯る」ことになるのです。当然、大部分の高校生は非協力的で、嫌悪感さえ表明するのですが、教師はそれを無視して「入試のためだ!」と暗記を強い、生徒の生まれながらの学ぶ意欲を抹殺し、自律的学習の芽をつむぎ続けるのです。「基礎力の養成」という名目のもとに、このような非民主的な授業が過去数10年に渡り実施されてきたことこそが、日本の英語教育の誤りだと私には思われます。
■では、どんな授業を理想とするのか
自分の姿を隠しながら他人を攻撃するのはフェアではないので、これからこのシリーズを書き進める上で、前提となっている私たちの理想の授業像を箇条書きで紹介します。私たちの考え方は “More Communicative → Less Japanese and more English” で要約できます。授業を楽しくするには、よりコミュニカチブにすることが必要だ。そのためには、教師と生徒だけでなく、生徒同士、また、生徒と教材や活動との関係をよりinteractive にし、communicative にして、生徒が積極的に授業に参加する工夫が欠かせない。そのための一つのKey Word はLess Japanese である。これは、文字通り教師の使用する日本語をより少なくするということで、具体的には教師主体の講義は必要最小限にし、生徒の英語での活動のための時間を確保する。もちろん、文法指導などで教師が日本語で説明する部分があるのは当然だが、それも単なる「文法解説」ではなく、生徒の英語での自己表現力を伸ばすものにしたい。そのためには教師の英語力が求められるが、その英語力はTOEFLなどのスコアで計れる英語力というよりは、授業をより interactive にするための英語力で、そこには教材分析を生徒の視点からすることができ、意味のあるタスク活動の設定や楽しいinteractive な教案を作成し実施する技量も教師の英語力の大切な部分である。これが実施できれば、必然的に授業での英語使用量は増加するので、More English が結果として生まれるという発想なのです。これは、先に述べたように、従来から私たちのなかにあった共通理解だったのですが、それを意図的に取り出し、昨年度一年間、「横浜の会」の例会で意見交換しながら次のような「授業の原理」として作成しました。もちろん、個々の授業の在り方を縛るものではなく、参加者によって比重の置き方や解釈に差はあるでしょうが、一応の会の共通理解となっている「原理」は次のようです。
(1) 友好的で協働的なクラス作りを最優先する。このためには当初から過度の英語使用は避け、必要に応じて日本語を交えながら、次第に英語でのwarm-up や復習の言語活動を増やし、まずは教師が生徒を理解すると同時に、生徒同士の相互理解を助ける英語での活動を優先する。
(2) 授業の目標を教科書の和訳や文法指導に置くのではなく、教科書の内容に関連し生徒に興味のあるタスク活動の達成におく。まず、教師はレッスンの目標タスクや意図を伝え、教科書の指導はその一助と位置づけ、生徒と協力しながら目標の達成に向かう授業の組み方を工夫する。
(3) 具体的には、タスクの達成を意図した導入と展開を図ると同時に、語彙指導も工夫する。導入はまとまりのある英文で実施し、構文の指導では自己表現力や運用能力の伸長を図り、また、関連する語彙指導も加えて、最終的なタスクの成功につながるように工夫する。
(4) タスクの結果の評価は、正確さよりは流暢さを重視し、意味の伝達を図ることを最優先する。求める正確さや複雑さは、生徒の英語力やタスクの性格によって異なるが、これらを重視して意欲をそぐことは避ける。タスクの積み上げによって、それぞれの学年で「何ができる生徒を育てるか」を明確に意識し、事後の指導に生かす。(換言すれば、すくなくとも当初は、bottom-up で生徒の実態を見極めたうえで学年の到達目標を定め、その上で卒業時の目標を定めることを目指す)
(5) 授業の成否は教師だけで判断するのではなく、生徒による評価も重視する。理由は、生徒を自律的な学習者に育てることが教師の重要な役割だから、生徒が自分の進歩をモニターし、次のステップを考える機会を与えることも英語指導の重要な一部だからである。
(6) 全ての活動に共通して、教師や生徒の質問力(英語の運用能力だけでなく、多用な意図を持った質問のできる力)の向上を図る。
これらはあくまでも理想像であり、全ての授業がこのような形で進行することは難しいでしょう。しかし、それぞれの項目はそれなりの実践に裏打ちされているのも事実で、単なる夢物語ではありません。それぞれの項目については、このシリーズの中で、また、詳しく説明することになると思います。乞うご期待!
■シリーズの概要
このシリーズは概ね以下のような流れで進む予定です。各項目が必ずしも1回で終わらないかもしれないし、この順序で進むとは限りません。最後にアクション・リサーチをあげていますが、「授業を英語で」と言っても、校内での役割分担や共通理解の醸成が必要ですし、高校で英語での授業に備えるには中学校の授業も変わらないといけないでしょう。また、中学校には小学校英語活動との連携も模索しなければならないので、10月3日に横浜で開催する全国大会で発表予定の中学と高校のアクション・リサーチの途中経過なども、可能なら紹介してゆく予定です。ですから、以下はあくまでも希望的な計画です。
(1) 反対論への反論。英語教育の目的論から。
(2) 反対論への反論。実施の具体的状況から。
(3) 高校の指導要領の解釈
(4) 典型的な授業案モデル
(5) いろいろな状況での授業例(中学校1-2)
(6) 実業高校での実践例(1-2)
(7) 普通高校(中位の)の実践例
(8) 進学校での実践例
(9) 協働的なアクション・リサーチの例(中学)
(10) 協働的なアクション・リサーチの例(高校)
もし、読者のみなさんにこうした問題に触れて欲しいという点がありましたら、長崎先生に連絡ください。皆さんからの積極的な反応をお待ちしています。
<編集後記>
この通信もいよいよ第4部に入ります。今回のテーマは、一時期さかんにマスコミでも取り上げられた高等学校の学習指導要領にある「授業は英語で行うことを基本とする」という一節。この部分だけがクローズアップされて、賛否両論うずまいてしまった感があります。単なる批判で良いのか、どのように解釈すべきなのか、この一節の意味するところを、ご一緒に考えていきたいと思います。
本稿冒頭の引用は、高等学校学習指導要領「第3章 英語に関する各科目に共通する内容等」からのものですが、後に続く「解説」には以下のような記述がみられます。ご参考まで:
「英語に関する各科目を指導するに当たって、文法について説明することに偏っていた場合は、そのの在り方を改め、授業において、コミュニケーションを体験する言語活動を多く取り入れていく必要がある。そもそも文法は、3のイに示しているとおり、英語で行う言語活動と効果的に関連付けて指導するよう配慮することとなっている。これらのことを踏まえ、言語活動を行うことが授業の中心となっていれば、文法の説明などは日本語を交えて行うことも考えられる。
「生徒の理解の程度に応じた英語」で授業を行うためには、語句の選択、発話の速さなどについて、十分配慮することが必要である。特に、生徒の英語によるコミュニケーション能力に懸念がある場合は、教師は、生徒の理解の状況を把握するように努めながら、簡単な英語を用いてゆっくり話すこと等に十分配慮することとなる。教師の説明や指示を理解できていない生徒がいて、日本語を交えた指導を行う場合であっても、授業を英語で行うことを基本とするという本規定の趣旨を踏まえ、生徒が英語の使用に慣れるような指導の充実を図ることが重要である。
このように、本規定は、生徒が英語に触れる機会を充実するとともに、授業を実際のコミュニケーションの場面とするため、授業を英語で行うことの重要性を強調するものである。しかし、授業のすべてを必ず英語で行わなければならないということを意味するものではない。英語による言語活動を行うことが授業の中心となっていれば、必要に応じて、日本語を交えて授業を行うことも考えられるものである。」
(配信日 2010/05/15)