AR支援ネットワーク(51) 第4部 「授業は英語で」をめぐって(5) :指導要領「外国語」の改訂の要点
横浜国立大学名誉教授 佐野正之
■はじめに
前回は新指導要領が「知識基盤社会」に対応する教育を謳えながら、その「学力」の側面にのみ重点を置いて、他の先進国では主要な教育目標になっている格差社 会への対応や異文化との共存、また、未来の社会人としての育成という視点が抜け落ちており、一言で言えば、「社会力」を育てる目標や方策が示されてはいない。これでは、本当の意味で必要な「学力」さえつかないのではないかと述べました。というのは、PISAの「学力」の考え方では、「学力は社会に生きて働 く力」なのですから、「社会力」を抜きには本当の意味の「学力」を論じることはできないはずだからです。
では、肝心の英語教育(指導要領で言えば外国語教育)についてはどうなのでしょうか。もちろん、指導要領全体の枠組みの中 で位置づけされている以上、上に述べた視点が同じように欠如しているのは当然だと思われるかもしれません。しかし、いわば総論を論じる中央審議会の意見と 個別の教科の指導要領を検討する部会の見解は必ずしも一致しているとは限りません。部会は部会なりの問題意識を持ち、それへの対応を指導要領に盛り込む努 力をすることも事実だからです。外国語の場合は、「授業は英語で行うことを基本とする」という点だけが議論の的になっていますが、その点も外国語教育改訂 の全体的な枠組みの中で捕える必要があります。そこでこの稿では、まず、高校の英語教育の改訂の大枠を説明し、また、改訂に批判的な寺島氏の意見と対比し て、今回の改訂が英語教育に持つ意味を考えたいと思います。
■改訂の要点
『解説』では「改訂の趣旨」や「外国語科目改訂の要点」でいくつかの改訂のポイントを挙げていますが、現行と比較した場合には以下の3点が重要だと思われます。
①4技能の総合的な指導を通して、統合的に活用できるコミュニケーション能力を育成する。その基礎となる文法は言語活動と一体的に行うよう改善を図ると同時 に、指導する語彙数を増やす。具体的には高校で指導する語数を1,800語に増やし、中高合わせて3,000語とした。
②科目構成の変更。総合的な指導や統合的な活動を充実するために、これまでの「英語I,II」 「オーラル・コミュニケーションI,II」を統合して「コミュニケーション英語I,II,III」とした。特に、「コミニケーション英語I」については、 すべての生徒に履修させる科目として、事実上の「高等学校卒業生の最低到達目標」の提示を試みている。その一方で、「リーデング」は廃止し、「ライデン グ」と「オーラル・コミニケーション」を統合して「英語表現I,II」 を新設し、また、「英語会話」も設定した。明らかに、総合・統合した英語指導と発 信力の育成を重視した構成になっている。
③また、生徒が英語に触れる機会を充実させ、授業を実際のコミュニケーションの場面とするために、授業は英語で行うことを 基本とするとしている。しかし、この項目に関しては、『解説』の第3章「各科目に共通する内容等」で生徒のレベルに合った英語使用を教師が工夫する必要性 を強調したあとで、「本規定は、生徒が英語に触れる機会を充実するとともに、授業を実際のコミュニケーションの場面とするため、授業を英語で行うことの重 要性を強調するものである。しかし、授業の全てを必ず英語で行わなければならないということを意味するものではない。英語による言語活動を行うことが授業 の中心となっていれば、必要に応じて、日本語を交えて授業を行うことも考えられることである。」としています。①から③に共通しているのは、「国際社会で 使える英語力の育成を図る授業をどのようにしたら実現できるか」という思いだといえるでしょう。それでは、こうした改訂のもとに書かれている目標はどのよ うになり、その解釈はどのように『解説書』で説明されているのでしょうか。
■外国語教育の目標
改訂された目標は次のとおりです。
外国語を通じて、言語や文化に対する理解を深め、積極的にコミュニケーションを図ろうとする態度の育成を図り、情報や考えなどを的確に理解したり適切に伝えたりするコミュニケーション能力を養う。
この目標に対する解説の概要は次のとおりです。太字の部分は私が注目した部分です。
①言語や文化に対する理解を深める。
言語の仕組み、言葉の意味や働きなどを理解することや、その背後にある文化に対する理解を深めることが重要である。こうした学習を通して、外国語や外国の文化だけでなく日本語や文化に対する理解も深められ、言語や文化に対する感性が高められ、ひいては広い視野や国際感覚、国際協調の精神を備えた人材の育成につながることが期待される。
②積極的にコミュニケーション図ろうとする態度を育成する。
外国語の学習や使用を通して、情報や考えなどを的確に理解し適切に伝えたりする積極的な態度を育成することを意味している。具体的には、推測したり、確認したり、繰り返し説明を求めたり、自分の考えを積極的に表現しようとする態度である。このような態度は、異なる文化を持つ人々を理解し、協調して生きていく態度に発展していくものである。
③情報や考えなどを的確に理解したり適切に伝えたりする。
これが「コミュニケーション能力」の中核をなすもので、①や②と不可分に結び付いている。今回の指導要領では「コミュニケーション」から「実践的」とい う言葉をはずしたが、これは自明だからはずしたまでで、内容上は現行と変わりはない。この能力を養うには、生徒が実際に受け手や送り手となって行う活動が 重要である。高等学校では中学校の学習を基礎に、4技能を総合的に育成するために統合的な指導を行い、生徒のコミュニケーション能力を更に伸ばすことが大切である。
では、この目標とフィンランドの外国語教育の目標を比較してみましょう。
Instruction in foreign languages will develop students’ intercultural communication skills: it will provide them with skills and knowledge related to language and its use and will offer them the opportunity to develop their awareness, understanding and appreciation of the culture within the area or community where the language is spoken. In this respect, special attention will be given to European identity and European multilingualism and multiculturalism. Language instruction will provide students with capabilities for independent study of languages by helping them to understand that achievement of communication skills requires perseverance and diversified practice in communication. As a subject, each language is a practical, theoretical and cultural subject.
いくつかの違いがすぐに浮かびます。
①フィンランドでは「外国語」を複数教え、それぞれの文化にも気付かせる多言語・多文化主義にたっていること。
② 外国語教育の目標を「異文化間コミュニケーション・スキルの育成」と言いきっていること。この点、日本の指導要領では、「国際協調の精神を備えた人材の育 成につながることが期待できる」とか、「異なる文化を持った人びとを理解し、協調して生きていく態度に発展していくものである」などの表現で、英語教育に よってこうした精神なり態度なりが間接的に生まれることを期待しているに過ぎません。すなわち、日本では③の「情報や考えを理解したり伝えたりする」いわ ば狭い意味のコミュニケーション能力(=英語の運用能力)のレベルに留まっており、異文化間コミュニケーション・スキルの育成という社会性を伴った教育と いう目標意識が不足しているといえるでしょう。
③自立した外国語学習を育てる、すなわち、未来の国際社会の市民教育という視点が欠けている。しかし、同じよ うな趣旨のことを別の場所で述べているのだから、一言で言えば、日本の外国語指導要領の作成に当たった人達は、先に述べた日本の指導要領全体に欠けていた 「社会力の教育」視点を意識はしていたのだが、それを指導要領の目標には直接反映することはできなかったと推察されます。なぜなのでしょうか。
日本の英語教育の現状を考 えた場合には、異文化間コミュニケーション能力の育成は、「将来的に発展が期待される」間接的な目標であり、まず、差し当たりは「統合的な指導で生徒のコミュニケーション能力を伸ばす」こと、すなわち、和文英訳一辺倒から抜け出し、生徒が生き生きと英語での言語活動に従事する授業を成立させることだと考え たのだと思われます。この判断が正しかったどうかは即断できませんが、それだけ切迫した思いがあったことは容易に予測できます。実際に、「授業は英語を基 本とする」ということでさえも、大きな反対論が巻き起こるのが実情です。その反対論の一例として、前回に引き続き、寺島氏の反対論を見てみましょう。
■寺島氏の反対論
寺島氏がこの論を書かれたのは、『解説書』が出る前だったので、氏の批判はもっぱら松本茂氏(立教大学教授で新指導要領の改訂に深く関われた)が朝日新聞の「耕論」(2009/2/2)に書かれた記事をもとになされています。以下のポイントで批判を展開しています。
(1) 主眼は「英語で授業」ではない?
松本氏が「改訂の主眼は『英語で授業』にあるのではなく、高校英語の中核をなす英語I, IIの授業を、生徒が主体となって活動するものに変えようということだ」と説明したのに対して、改訂された英語授業科目のどれを見ても、「言語活動を英語 で行う」と規定しているのだから、「英語で授業」が改訂の主眼ではないかと寺島氏は反論しています。寺島氏は日本語を用いても言語活動は可能だし、むしろ その方が効率的だという主張なのです。
私の理解では(そして多分、多くの英語教師の理解では)言語活動の目的は単語や英語構文の定着や運用能力の向上にあるのだから、英語で実施するのは当然 で、日本語で英語の言語活動を行うということ自体が言葉の矛盾のように感じられます。別の言い方をすれば、言語活動は「学習した英語の使い方を練習する活 動」だから、「英語で行う」という文言を付け加えるまでもないのですが、それをあえて言わなければならなかったところに、高校の英語教育の現状に対する文 部科学省の危機意識があってのことでしょう。松本氏の表現を換言すれば(実際に『解説』にはそのように書かれているのですが)、いかに教師が英語だけで授 業をしても、教師が一方的に話すだけで、生徒が主体的に関わる英語での言語活動がなければ、「英語での授業」の規準には合わないことになるのです。私には 松本氏の意見は至極当然で、特に「社会力を育てる」という視点からすれば生徒が協力して問題の解決に当たる言語活動こそ、英語授業の魂だと考えています。
(2)高校現場は「和訳一辺倒」か
松本氏が高校の授業が和訳一辺倒になりがちなことを、「これでは野球部の部員がイチローのビデオを見て 監督の解説を聞くだけで、打撃練習や紅白戦をしないのと同じだ」 としたことに対する手島氏の反論は、高校の授業が「和訳一辺倒」だというのは誤解であり、また、「打撃練習」と「紅白戦」を同一視しているのも松本氏に認 識違いであり、さらに「4領域の統合が英語力を育てる」というのも間違いだと批判しています。
最初の誤解については、高校現場では「トップダウン」の読みや「和訳先渡し授業」が広まっており、「和訳一辺倒」は減少し ているのに、その事実を無視しているのは、入試の傾向が変化していることを勉強しないで「大学入試に出るから」という口実で「和文英訳」にしがみつく一部 の教師と同じではないかと批判しています。
2番目の批判は、「英語で行う授業」を「紅白戦」にたとえるなら、その 前の「打撃練習」では日本語による授業で読んだり書いたりする練習が必要なのに、レベルを混同して最初から「英語で授業」を強要してもうまくいくわけがな いというのです。③番目の批判は、実際に4技能の統合がすでに実施されている中学校の卒業生の「学力の低下が著しい」と嘆く高校教師が多い。また、松本氏 も「高校におけるコミュニケーション重視の授業とは、英会話の授業ではない。日本語を介さず大量の英文を読むのが基本となる」としているのだから、そのた めのリーデングの指導が必要なはずだ。一文一文を読んでいても意味を捕えることに苦労している生徒に大量の英文を読ませるには日本語を介しながら直読直解 ができるようにする特別な訓練が必要で、それを4技能が統合された「コミュニケーション英語」ではできないというものです。
寺島氏の最初の批判に関しては、確かに一部の高校では改善の兆しは見られるものの、9割以上の教師が「英文和訳一辺倒」に 近い授業をしているのはある県の非公式な調査で明らかです。第2の批判については、「打撃練習」を言語運用のための操作練習、「紅白戦」を現実の言語使用に近い言語活動と見るとすると、むしろ理想からすればいずれも英語を用いて行うことが望ましく、むしろ寺島氏が強調したいのは、第3の批判で寺島氏が言及 している「記号研」の開発した「日本語を介した直読直解」授業を進めるための必要性からの議論のように思われます。寺島氏は大学でさえ難しい「授業を英語 で」の紅白戦の前に、日本語を用いた指導で大量に英語を読む練習、すなわち、「打撃練習」が必要だと強調したかったからだと思われます。
だが、寺島氏の提案している英語授業の中で、「異文化間コミュニケーション・スキル」や国際社会を生きるに必 要な「社会力」がどう位置づけられるのか見えてきません。そこは、教師が英語の文章を日本語で解説する教師中心の授業に思われ、生徒中心の英語による言語 活動やタスク活動で協働的に学習を進める姿が私には見えてこないのです。
(3) 「書く」「話す」の指導は大人数では不可能。
4 技能の統合に反対の寺島氏ですから、「リーデング」や「ライテング」の授業がなくなることにも当然反対です。松本氏が「大量の英文を読んだ上で英文を書 く。こうした活動を通して、重要な単語や文法が定着する」という指摘には賛意を表しながらも、「『書くこと』の指導はそれだけを独立させても大変な時間と 労力のかかる仕事です。それを現在のクラスサイズと授業時数・労働条件で、しかも「英語で」指導しろというのですから、開いた口がふさがりません」と批判 しています。確かにこの箇所で松本氏が提案しているような指導法、すなわち、「大量の英文を読んだうえで、英語でプレゼンたーションする。生徒の間で役割 を決め、英語でインタビューし、英文を書く。書いた英文を互いに英語で批評しあって書き直す」ことを完全に実行するには、教師だけでなく、生徒の側にも高 い英語力が必要となり、寺島氏の不安も理解できます。しかし、これはあくまでも理想化された授業の流れであり、そこに日本語による指導やALTによる英文 の訂正などが入るのは当然でしょう。とすれば、寺島氏の指摘の通りクラスサイズの減少や授業時間の確保、労働条件の改善などは当然の要求ですが、それを指 導要領や解説に書くことはできません。統合的な授業の進め方の一つのモデルとしてなら、松本氏の提案は至極当然な流れだと思います。
(4) 病休者、降格希望者が続出している教育現場
寺島氏自身が「底辺校」「困難校」で勤務した経験から、こうした学校での苦労を十分承 知している身として、「習熟レベルが低い生徒に英語で授業を行っている高校があるが、学力試験の結果が伸びているケースが少なくない」と主張する松本氏に、「本当にそんな実例があるなら実名で紹介して欲しいものです。そんな魔法のようなことが起きるのであれば、その実践から是非学びたいと思いますから。」と皮肉っています。
私自身、自分が「底辺校」で教えた経験や、仲間の実施したアクション・リサーチの結果からすると、「学力」の伸びはさほど期待できないが、授業に英語による言語活動を取り入れることによって、生徒の学習意欲が高まり、それが期末テストなどに よい結果となって現れたというケースは多々あります。むしろ、日本語で文法や単語の知識を叩き込むよりは、生徒の意欲に訴える点では授業に前向きになる生 徒が増えるのは事実です。理由は、自分の学習している英語の背後に、その言葉を用いて生きている人間や社会の存在を実感することによって、「英語も日本語 と同じく、人と人が気持ちや考えを交換するためのものなのだ」という事実に気付き、英語や英語で交流する仲間との社会的な関係を築き始めるからです。底辺 校や困難校の生徒こそ、実は、「社会力」を育ててくれる授業を内心では望んでおり、英語授業はその一つのとっかかりとなる可能性があるのです。
このことが教師にさらなる負担をもたらすことは寺島氏の指摘の通りです。雑務を減らし、生徒と向き合い、教材研究や同僚との打ち合わせの時間を確保することが必要なのに、それが許されない現状には腹が立ちます。しかし、教師の現状が許す限り、底辺校の生徒たちの持っている 「英語が話せるようになりたい」という密かな願いを少しでも実現させてやれるように努力することも必要だと思います。
(5) 教師に「お説教」よりも「研修の自由」と「研修の時間」を
寺島氏が「お説教」だと批判しているのは、松本氏が「いまだに『文法重視か、コミュニケーション重視か』という対立軸を掲げる人もいる。もうやめにしませんか」と述べていることに対してです。寺島氏によれば、高校教師や英語教育の研究者で、そんなことをまじめに主張している人がいるだろうか。
文法もコミュニケーションも「どちらも大切だし、相互に関連したもの」だということは誰でも知っていることだから、今さら「説教」は必要ないというわけです。だが、高校の英語授業でどちらも大切だと信じ実行している人がそれほど多いでしょうか。私には寺島氏の主張は楽天的すぎるように思われます。意欲的な 教師が英語で授業をしようと始めると、影で悪口を叩かれたり中間や期末テストでの妨害などのいやがらせに会うのが普通です。こうした新しい動きが、やがて 自分の旧態以前とした指導法に対する批判となることを恐れてのことのように思われます。そしてこうした妨害をする人達に理論的・心理的支えを提供しているのが、有名大学の英語研究者であることも少なくないのです。
■おわりに
寺島氏はこの章の最後に次のように述べています。「以上見てきたように松本氏は 「自分が英語を話せないのは文法偏重の学校教育のせいだ」とする意見に悪乗りして、「教師が英語で授業すれば話せるようになる」という俗受けする言説を振 りまいています。しかし、もうやめにしませんか。そんな妄言で現場を混乱させたり疲弊させたりするのは。」と皮肉っています。でも私には俗受けを狙ってい るのは実は逆ではないかと思われてしまうのです。
確かに、現場にはコミュニケーション重視の授業を行うにはいくつも難問があるのは事実です。しかし、その中でも最も直接的な妨害要素は、生徒を無視し、時代離れした「文法・訳読万能主義」に胡坐をかいている教師の怠慢にあると私は思います。正直なところ、私は指導要領の目標には不満足な点があると思っていますが、今はこれをスタート地点として、現場の実態の許す範囲で可能なところから、現状よりは生徒の欲求と結びついた、生徒主体の学習や言語活動によって、より実践的な英語力と社会力を育成を目指すべきだと信じています。これがこの稿の結論です。
次回は「コミニケーション英語」の発想だけでなく、具体的に「英語で授業を行う」モデルも示したいと思っています。乞うご期待!
(配信日 2010/07/15)