7.4. ARの宣伝 (研修花盛り:または空飛ぶセールスマン) 2001-2007 前編

AR支援ネットワーク通信(73) 「ARの宣伝(研修花盛り:または空飛ぶセールスマン)2001―2007 前編」

横浜国大名誉教授 佐野正之

2001 年から2007年の期間の最大の思い出は、あらゆる機会を捕えて死に物狂いでARを宣伝したということである。そのために体に無理がたたり、心臓の痛みや癌の疑いで入院したことさえ一度や二度ではなかった。しかし、その頃の私はよほどのぼせあがっていたようだ。当時の日記を読み直してみると、「何があってもARを広めるのだ。倒れるなら顔から前向きにぶっ倒れろ!」と自分に激をとばしている。なぜ、それほど思いつめたのだろうか。それはこのレポートを冒頭からお読みいただいている方には分かっていただけると思うが、私には啄木の歌にあるように「こころよく、我にはたさぬ仕事あれ。それをし終えて死なんとぞ思う」という願いがいつもあって、その好機が今到来したのだと思えたのである。当時の私には、そして、それは今も変わらないのだが、「自分に天から与えられた仕事があるとすれば、教師を育てることだ。それはARを広めることに他ならない。これまでの自分の全ての苦労も勉強もこの時のためのものなのだ」という 強い思いがあったからである。

この思いはこの期間に共通して流れているが、それを2分割するとすれ ば、まだ自己研修の機会もあった前半の2年間と、悉皆研修が始まりひたすら講演に奔走した後半の5年間に大別できるだろう。とにかくこの期間はよく空を飛んだ。英国に行ったり、また、日本各地でARの講演に飛行機で飛び回ったからである。まず、前半の2年間をみてみよう。

2001 年のbig event と言えば、まず、科研費をもらい英国に短期間だが留学したことである。私にとっては、ほぼ20年ぶりのイギリスだったが、空港についてすぐに、記憶にあった “Merry old England” の雰囲気が失われており、人々がわけもなく忙しく動き回っているように思われて不安がよぎった。その不安は今回の訪英と直接関係していた。そもそも、今回の目的は自分の中に芽生えていたある疑いを晴らすためでもあったからだ。それは、「ARは本当のところイギリスでどの程度実践されているのか」ということである。ARの専門誌Educational Action Research を見ても、投稿者は外国人が多く、イギリスから寄せられる論文にはある種のペシミズムが次第に強くにじみ出ているように思えたからである。それを Univ. of East Anglia で確認したいという思いがあった。

この大学を選んだの は「ARの父」とよばれるL. Stenhouse が実際に教鞭をとった大学であり(彼の小さな石のリリーフがキャンパス内に建っていた)、また、彼の同僚であり弟子でもあったJ. Elliott教授が中心になり、世界のAR のセンターともいうべきCollaborative Action Research Network の事務局が置かれていた大学でもあったからである。実際に大学を訪れてみると、私の心配は杞憂のように思えた。Elliott 教授はもちろん、教員養成に関連している数名の教官が私を温かく迎えてくれ、懇談する機会も沢山用意していただいた。彼らの話しから、彼らは皆ARの熱烈な支持者だったし、この大学の教員養成大学院のHandbook には「ARこそ本大学院の教員養成の要である」と高らかに謳ってあった。このことは後で訪問したOxford Univ. でも似たような事情であった。だが、また、話す人により、ARにもさまざまな解釈があり、呼び名も異なり、ただ一つの方法論でもないことも分かった。しかし、これは当然だとも私は思った。個別の状況の実態を知り改善を図るARなら、置かれた環境や社会情勢や問題意識によって支援する側にも多様な発想や立場があってしかるべきだからだからである。

この点は、Elliott 教授に薦められて訪れたLeeds 大学での全英教育学会の総会でも感じた。そこでは、ARに関連する発表が相当数なされていたが、発想もアプローチも多様だった。ただ、強いて言えば、教育省推薦のevidence-based practice を支持する発想と、教師の主体性を尊重すべきだという伝統的なARの考えの対立が見られ、そこにはイギリスの成果中心主義的な教育改革を推し進めようとする勢力と、それに抵抗し民主的教育を重視する発想の対立があり、イギリスの教育の混迷を反映しているようにも思えた。後で振り返れば、私が訪問した 2001年か2004年が教員養成大学院でのARは最後の盛りを迎えていたのかもしれない。2002年からはCARNのセンターはManchester Metropolitan Univ. に移り、通常の大学院の修士課程や博士課程ではARの研究は盛んに行われているものの、1年制の教員養成大学院ではより実務的な、授業力のスキル面を重視 した指導が中心になってくるからである。しかし、このことに気付くのは、まだ、先のことである。この留学の帰国時には「ARはイギリスでは健全だ。ただ、 いろいろな発想がARというumbrella word の下に実践されているので混迷しているように見えるだけなのだ。ということは、日本の英語教育にはその特有なニーズを満たすARがあってしかるべきだ。自信を持ってそれを進めよう。ただ、意見の異なるものを排斥するのではなく、柔軟に受け入れる姿勢は大切にしていかなければならない」というのが私の結論だった。だが、思わぬ出来事が帰路に待っていた。帰国を予定していた10日前にNew York で9/11のテロがあり、寒いヒスロー空港で1晩震えながら過ごすはめになったのである。

もう一つ のbig event は、高知の全英連大会で「高知ARの会」の先生たちの実践発表があったことである。長崎氏や野村氏の頑張りで当初高校だけの発表を予定していたのが、途中から中学校も参加し、ARが高知の英語授業研究のバックボーンになり、2年後から始まる悉皆研修のプログラムにも生かされることになった。だから、この日は日本のARの歴史にとって記念すべき日だと言えるだろう。発表会には横溝伸一郎先生、高橋一幸先生も参加していただいた。大会が終わり、ARのメン バーの数人が高知空港まで見送りに来てくれた時の高揚感は今でも鮮明に記憶している。これは11月18日のことだった。

時間的には逆行するが、2001年は年度当初から講演づけだった。1月の英語検定協会主催の東京でのセミナーから始まり、青森県教育委員会、語研、神戸市教育センター、JACET関東支部での講演、「横浜アクション・リサーチの会(ARCY)」の設立、横浜の新英研で講演、横国の公開講座、山形英語教育大会での講演と「アクション・ネットワークの会@山形(ARNY)」の設立、7月に入ると沖縄県教育センター、仙台、名古屋、ELECなどで講演して回った。 他にも新潟、仙台、横須賀、福島、鹿児島、大宮などなどがある。

どの程度crazy な日程だったかを示すために、高知の全国大会の前後の日程を紹介すると、まず、11/13日は新潟県教育センターで講演、翌日は宮城県の古川で講演が予定 されていたので、新潟から大宮で乗り換えて仙台に向かう予定だったが、列車事故で仙台のホテルに到着したのが朝の2時だった。それでも翌朝9:00に仙台 を出て、午後には古川で講演して夜は横浜に戻り15日は大学で講義、16日の朝の飛行機で高知に飛び、17日は大会のAR部会のコーデネーター。18日に横浜に戻り、19日は大学で講義、翌日の20日には福島県の教育センターで講演、その夜に横浜に戻り翌21日には鹿児島に飛び、22日に講演が終了後すぐに横浜に戻り、翌日は大学で講義。そして、24日には大宮市の教育センターで終日講演という具合だった。まさに「空飛ぶアクション・リサーチのセールスマン」として走り回っていたのである。

2002年はこれに輪をかけたさらに忙しい日々が続いた。文部省の高等学校の絶対評価の評価基準を作成する部会の座長を任命され、さらに中学校と高校の教科書(複数)編纂の仕事が山場を迎え多忙を極めた。それに加えて、筑波の中央研修の講師、各ブロック研修(北海道・東北ブロック、関東甲信越ブロック、etc.)が始まり、講演時間は倍増した。というのは、筑波の中央研修やブロック研修では、原則として講義は2日間に渡り、両日とも午前と午後で講演することになっていたからである。さらに、「英語が話せる日本人の育成」の県レベルの企画委員を高知県と神奈川県で引き受け、悉皆研修の中にARをどのように位置づけるかを議論した。この議論のおかげで、高知や神奈川の悉皆研修は、いろいろな種類の講演を羅列しただけの県よりは、意味のある研修ができたと思うのは希望的な感想だろうか。

講演した地域を羅列すると、藤沢市、大宮市、山形県、千葉県、茨城県、NHK, 筑波研修(2日間)、ARCY 大会、川崎、愛媛、山形市、京都(2日間)、神戸、松江(2日間)、徳島県、高知、東京、新潟、北海道、秦野市、福島、長崎、岩手(2日間)などである。

2003 年はいよいよ「英語が話せる日本人の育成」プログラムの悉皆研修が県レベルで開始されることになった。そのマニアルとして作成された文部省の冊子の中で、 ARが推薦するプロジェクトの一つと認定され、いわば文部省のお墨付きがいただけたので、ブロック研修や各県の研修に多数取り入れられた。丁度また、この3月に私は横国を定年退職し自由になる時間が増えたので、「ARのセールスマン」に徹底しようと決意し、その時の気持ちをARCYの『アクション・リサーチ研究』No. 1の巻頭言で次のように吐露している。

「退職に関しては寂しさがないと言えば嘘になる。だが、『アクション・リサーチを広める』という人生の大目的からすれば、かえって自由な時間ができ、より多くの出会いのチャンスを得ることにもなる。ボランテイアでどこにでも出かけ、指導に悩んでいる人がいれば、その一助となりたい。一緒に悩み、考え、解決に向けて歩み出す勇気を与えたい。そのことによって、私もまた、前進するエネルギーを得ることができると信じている。」

さて、悉皆研修でAR を取り上げる方法にも大別して2通りあった。神奈川県、高知県、山形県(途中まで)のように、ARを中核にしてプログラムの全体を構成するタイプがまずある。当然、ARの手順に沿って悉皆研修の全体像を計画し、しかるべき箇所にARを進める上で必要な講義や演習やグループの話し合い、発表などが計画される。もう一つのパタンは、文部省の推薦した講義や演習の中の一つとして位置付け、長時間で取り組ませるところでは1日、短いところでは2時間半程度の講演で終わる。後者の1コマの講演ではおよそ意味がないと思われたので、そうした県には、次回から少なくとも半日、できれば1日を用意してもらうように要請した。1日というのは、午前で講義と模擬練習を行い、午後は自分の問題の解決策を考えグループで発表してアイデアを出して助け合うという形である。ただ、このことによって依頼される日程にバツテングが増え、断わらなければならない場合が増えた。だが、こうした機会を逆手にとって、横浜市の関口指導主事(ARCYのメンバーでもあったが)のように、自分が講師となって授業改善のARを実施し、その後の研修にも生きる実績を上げたところもある。この横浜市の事例を考えると、有能な主事がARの手法を身につけることは現職教員の研修には非常に有益だと思われる。

この年に実施したブロック研修としては、関東ブロック(栃木)、関西ブロック(神戸)、四国ブロック(徳島)、西日本ブロック(島根)、南九州・沖縄ブロッ ク(沖縄)、東北ブロック(秋田)などがある。県レベルの研修は、愛媛県、大宮市、川崎市、新潟県、北海道、茨城県、栃木県、福島県、いわき市、山形県、山梨県、横浜市、横須賀市、三次市、福岡市、ELEC、 語研などで実施した。高知、神奈川に関しては、研修の期間中は1年間に複数回訪問することが続いた。このころのスケジュールの一端を紹介する。

9/25 大宮市で一日研修、26日に松江に移動。27,28日とブロック研修で講義、その日の夜に横浜に戻り30日に語研で講演。31日に秋田に移動し、 10/1, 2日と東北ブロック研修で講義。2日の夜横浜に戻り、3日の朝早くに松山に移動して1日研修。その夜高知にバスで移動し4日に講演。その夜横浜に戻り、6日にARCYの大会。7日に沖縄に移動して、翌日から1週間の沖縄国際大学で集中講義、などなど、信じられない忙しさだった。

以降、2007年まで、途中でブロック研修はなくなるが、県レベルの悉皆研修ではほぼ同じ箇所での研修が継続した。最初の年度にARを取り入れたが、次年度以降に取りやめた県は、日程が重なり調整が効かなくなった場合を除いてほとんどない。ARは受講者にはおおむね人気の講座で、「次年度も是非、日程を確保してください」 と主催者側に念を押されることも少なくなかった。ただ、2002年からは帝京大学に勤務したり、SELHi のアドバイザーの日程が重なり、また、2007 年には松山大学への転勤などで、自由の効く範囲が狭まった分だけ訪問する回数は減少した。それにしてもこの7年間は、私の生涯で最も多忙な年月だった。だが、この「セールス・マン生活」でも、私としては、決して既製品のARのアイデアを売り歩いたわけではない。Arthur Miller の「セールスマンの死」の主人公とは異なり、「自分自身」ではなく、毎回の講演を振り返りながら、工夫を凝らしてARを宣伝して回ったのである。

(配信日 2011/07/01)