4-4 学習指導要領の解釈

AR支援ネットワーク(50) 第4部 「「授業は英語で」をめぐって(4) 学習指導要領の解釈」

横浜国立大学名誉教授 佐野正之

■はじめに

前々回は「授業は英語で行う」という方針に反対する意見を、目標論という視点から批判しました。また、前回は日本の英語教育をめぐる状況、すなわち、クラス・サイズや言語間距離や教師の過大な負担などを理由にした反対論には、確かに実態はコミュニケーションの英語指導には不向きではあるが、しかし、それを 理由に反対するのは、社会が英語教育に寄せる期待を裏切り、結果として国民の尊敬や支持を得ることができないのではないか。条件が苦しくとも、「教師が変わらなければ教室は変わらない」という事実がある以上、目標とする方向に一歩でも前進しながら、生徒や保護者や社会の理解を得て、よりよい教育条件の確立 を目指すべきだと述べました。ただ同時に、私たちの立場は、「授業は英語で行うことを基本とする」という点では新指導要領とは同じだが、必ずしもその全てを是とするわけではないことも繰り返し述べてきました。では、私たちの新指導要領に対する姿勢はどうなのでしょうか。この稿では新指導要領の全体像を中心 に、それに全面的には同意できない理由を説明します。

■新指導要領の全体的傾向

全体的な方向性は、第1章1節の「改定の経過」で概略、次のように述べられています。

21 世紀は新しい知識・情報・技術が極めて重要な役割を果たす「知識基盤社会」に入り、国際競争が加速し、また、国際協力の必要性が増大している。このような状況において、確かな学力、豊かな心、健やかな体の調和を重視する「生きる力」を育むことがますます重要になっている。

一方でPISA調査の結果から、我が国の児童生徒は次の課題を抱えている。

①思考力・判断力・表現力等を問う読解力や記述式問題、知識・技能を活用する問題に課題。

②読解力で成績分布の分散が拡大しており、その背後には家庭での学習時間などの学習意欲、学習習慣・生活習慣に課題。

③自分への自信の欠如や自らの将来への不安、体力の低下といった課題。

こうした課題を踏まえて今回の改定の方向性としては

①改正教育基本法等を踏まえた学習指導要領の改訂

②「生きる力」という理念の共有

③基礎的・基本的な知識・技能の習得

④思考力・判断力・表現力等の育成

⑤確かな学力を確立するために必要な授業時数の確保

⑥学習意欲の向上や学習習慣の確立

⑦豊かな心や健やかな体の育成のための指導の充実

を挙げています。このどこが不満だとい うのでしょうか。上で述べていることを要約すれば、21世紀は「知識基盤社会」に入っているのだから、そこで「生きる力」を育むには、確かな学力が必要で、その不足がPISAテストで如術に現れているから、その対策に授業時間を増加し、学力をつけることを目指さなければならないと言うものです。確かに「国際協調」という言葉は入ってはいますが、それは修飾語でしかなく、本音を言えば、国際市場主義経済を生き残るには、①で求める日本人としての identity と、②で求める学力に裏打ちされた生きる力(この点は後述)と、③PISAテストで示された弱点への対応と、④知識重視の確かな学力が必要だというものです。生徒たちが「知識基盤社会」に生き残ることが求められているのは事実ですが、そのために求められているのは「確かな学力」だけなのでしょうか?そうで はないと私は思います。これでは現状の認識が甘いし、その対策も不十分と言わなければなりません。その理由を説明する前に、フィンランドの指導要領ではどのようになっているか見てみましょう。

■フィンランドの指導要領の概要

実は、私が フィンランドの教育に興味を持ったのは、ある本の中で、「フィンランドの教育は結局はフィンランド社会の利益に奉仕する市民を育成することだ」という文章を読んだときでした。「なんだ。これでは戦時中の日本と同じではないか!」と思ったのですが、実は、良く見ると「フィンランド社会(と人類)」となっていたのです。フィランドに尽くすと同時に人類の利益を考えることを求めているのです。「シス」ということばがフィランドにはあるそうですが、それは「フィン ランド魂」を表す言葉で、その精神は「苦しいときほど、皆のために尽くせ」という意味だそうです。ですから、その自国の利益と同時に人類の利益を重ねて考える教育に興味を強く持ったのです。そこでフィンランドの指導要領(英語版)を読んでみました。ここでは教科だけでなく、むしろ教科横断型の授業によって 目標が達成されると説明したのち、以下のようなテーマを挙げていたのです。

①「人間として成長」:このテーマはあらゆるカリキュラムを貫通している。生徒・児童の全人的な成長のみならず、life management skill の育成を目指すものだ。すなわち、個性と健全な自尊心を育む同時に、平等と寛容さに基づく共同体精神を培うことを目的とする。

②「文化的identity と国際主義」:このテーマは、フィンランドやヨーロッパの文化の特徴を理解すると同時に、異文化間交流や国際主義の理解や能力を伸ばすことを目的とする。

③「メデア・スキルとコミュニケーション」:このテーマは、いろいろなメデアの利点と利用法を知ると同時に表現力や交渉力を伸ばすことを目的とする。コミュニケーション・スキルに関しては、参加型、交渉型、共同型コミュニケーションに力点を置き、表現と理解の両面 が重視される。

④「参加型市民と企業家精神」:このテーマでは、市民にはいろいろな役割があることを理解し、企業家の基礎を養成することを目指す。より具体的には、独立心、先進性、目標志向性、協調性を持った市民を育成し、社会に貢献することを目指す。

⑤「環境・福祉・持続可能な未来」:このテーマは、左記の目標に向けて行動できる未来志向の市民の育成を目指す。

⑥「安全と交通」:このテーマは、年齢に応じて自己の身体的、精神的、社会的安全を理解し、責任ある行動が取れることを目的とする。

⑦「技術と個人」:このテーマでは、技術と個人の関わりを理解すると同時に、技術の進歩が及ぼす影響やそれに伴う平等や倫理の問題について考える力の育成を目指す。

これを読んでどんな感想をお持ちですか。「自国のみならず人類に貢献する市民の育成」という発想が日本の教育にあるでしょうか。新指導要領を読む前に、Council of Europe の国々の教育の動向に興味のあった私には、冒頭に説明した「改定の経過」で述べられていることが、一国の将来を担う子供たちに与える教育としてはとても不十分に思われたのです。

理由は簡単です。子どもたちは「知識基盤社会」にいやおうなく生きなければなりません。そこでは、情報や知識や技術の高度化・専門化は避けられないでしょう。といいうことは、働く一人一人が専門的な、あるいは断片化された情報を 扱い、細分化された仕事を余儀なくされるということを意味します。これでは、対応する処置が取られない限り、個人の孤立を招きかねません。社会はばらばらな個人の集まりにしか過ぎなくなるでしょう。また、国際間の経済競争は格差社会を生み、実質的には不平等な教育で貧富の差が再生産され、社会の分断の危険を常に持つことになるからです。ですから、「知識基盤社会」に生きることを余儀なくされている現在の教育に求められているのは、専門化した仕事をこなす「学力」だけではなく、人と人が関わり交わることを喜び、グループに貢献し、他人と協働してことに当たる能力を伸ばす教育が不可欠なはずです。ところが、 そうした指摘が全くなされておりません。

■「生きる力」の問題点

「生きる力」の解釈もまた、ものたりないものがあります。今回の新指導要領の改訂のキーパーソンであった梶田氏によれば、「生きる力」は次の2つに分けて考えることができるとされています:

「「生きる力」とは「将来の職業や生活を見通して、社会において自立的に生きるために必要とする力」、すなわち、「いかに社会が変化しようと自ら課題をみつけ、自ら考えることによって社会に適応しつつ、自分の居場所や役割を見付けて貢献できること、すなわち、「我々の世界を生きる力」と、たとえば老後になっても 豊かな人生を送ることができるような土台を自分の感性の世界を深め、広めることで育む「我の世界を生きる力」の2つからなる。」(梶田叡一『新しい学習指導要領の理念と課題』(図書文化)pp.14-15)

物足りなく感じる理由は、「我々の世界を生きる力」、別の言葉で言えば「公的な、仕事や社会に関わる自分」ということでしょうが、これに関していえば、「我々の世界」、すなわち、未来社会はまるで与えられたものであるかのように描かれており、生徒に求められている のはそうした社会で居場所を見つけて上手に生き、求められた範囲で役に立つことができる力と捕えているからです。悪口を言えば、どんな立場でも与えられた仕事をこなす歯車になれと言っているともとれるのです。しかし、「我々の世界を生きる」ことで最も大切なことは、受け身的に生きることではなく、よりよい 世界を創造することに積極的な役割を果たすことではないでしょうか。日本の社会自体をより良いものにする意欲を持って欲しいという願いが感じられないのです。同じく、「我の世界を生きる」、すなわち、「私的生活での自分」に関しても自己の趣味や価値観の確立だけでなく、たとえばボランテア活動のように、他 人と関わり、助け、助けることが生きがいとなる生き方に気付かせることもまた、大切な要素ではないかと私は思うのです。すると上の梶田氏の解釈に欠けているのは、人と関わりながら、自分も社会もより良いものに改革してゆく、その中で生きがいを見つけ出してゆく意欲を育てる視点だと私には思われます。

このような思いは私一人の感想ではなさそうです。佐藤学氏は『質の高い学びを創る:授業改善への挑戦―新学習指導要領を超えて』(東洋館出版社)で次のように述べています:

「「知 識基盤社会」への対応は21世紀のポスト産業主義社会への対応として評価できるが国際社会と比べて20年の遅れがある。さらに言えば、21世紀の社会は、 ①高度知識社会への対応、②多文化共生社会への対応、③リスク・格差社会への対応、④市民社会の成熟化への対応(市民性の教育)の4つの課題をどの国のカリキュラムにおいても要請しているが、新学習指導要領はそのうちの①の課題にしか応えていない。新学習指導要領は「学力問題」、特にPISA調査による国 際ランキング競争とマスメデアによる危機宣伝に振り回されて、一面的な対応しか示していない。」(p.12)

これは、まさに、私が新指導要領に物足りなさを感じた原因を適格に指摘しています。これからの日本を多文化により開かれた社会に変えて行かなければならない。しかも、現在の格差社会の是正に向けて努力できる人間でなければならないし、それが「民主的な市民の育成」 そのものであるはずです。そして、ここに挙げてある「多文化共生社会」、「格差への対応」「市民社会の成熟」3つの課題に共通して必要なものは門脇氏のいう「社会力」、すなわち、「人が人とつながり、社会をつくる力」(後述)に他ならないと私は思うのです。

「でも、社会力なんて、英語とどう関わるのか?」と疑問に思われる人もいるでしょう。しかし、英語教育の目標の一つである「積極的なコミュニケーションの態度」という言葉を詳しく考えてみてください。それをただ単に「怖気づかずに積極的に話す」「eye- contactやsmiles を忘れずに会話する」というレベルで捕えてよいのでしょうか。「コミュニケーション」を「社会力」という枠組みの中で捕えることによって、英語の授業の在りようが徹底的に異なってくると思うのです。では、「社会力」とはどんな力なのでしょうか。門脇氏は次のように説明しています:

「社会力とは端的に言えば、「人が人とつながり、社会をつくる力」のことである。「人とつながり社会をつくる」 とは、さまざまな人達といい関係をつくることができ、つくり上げた良い人間関係を維持しながら、それまで自分が学んで身に付けた知識や、努力して習得した技術や技能などを、自分が生きている社会のそこここで、誰かのために、あるいは何かのために役立てようと、自分から進んで発揮し活用することをいうのである。」 (門脇厚司『社会力を育てる:新しい学びの構想』岩波新書 p.65)

コミュニケーショ ンの機能はコミュニテイ(共同体)の維持・発展にあるのですから、コミュニケーションに積極的な態度とは、本来はコミュニテイの発展に貢献する行為を進んで行うことにほかなりません。日本語でさえ挨拶ができない、会話ができない、一緒に仕事ができない、友達と関われない人が増えている昨今、「コミュニケー ション能力の不足はコミュニテイーの機能低下に原因があるのだから仕方がない」とあきらめのではなく、だからこそ教室や学校を「学びの共同体」と変え、真の意味での「コミュニケーションに積極的な態度」を養成することが教育に期待されているはずです。残念ながら、日本の新指導要領では、こうした問題を生徒 個人の「道徳」としてしか扱っておらず、現在の教育が直面している最も深刻な問題だという意識が欠如しているように思われます。前回の原稿で見たように、フィンランドではintercultural communication skills を学校教育の大きな目標としているのです

■求められている「学力」とは?

外国語でコ ミュニケーションをする能力を育成することを目標にする科目なら、その外国語を使う共同体を想定し、そこで「生きる」力を育成しなければなりません。しかし、現在の英語教育は単にアメリカやイギリスの母語や文化を学ぶのではなく、国際共通語としてのglobal English を用いて、多用な価値観を持った人たちと創造する世界を想定しなければなりません。ということは国際語としての英語力だけでなく、多様な文化や価値観を持った人たちと協働する「社会力」を伸ばす視点が求められているはずです。しかし、この点は新指導要領では明確にはされていないばかりでなく、日本の教育 の不備を「学力」面に矮小化し、しかもPISA型テストへの対応として授業時間を多くし、基礎学力をつけるとしているだけなのです。これはことの深刻さを 理解していないばかりでなく、PISAテストの本質をも理解しているのかさえ疑わしくなります。 門脇氏はこの点について次のように述べています:

「PISA型学力調査の結果をまとめた報告書によれば、確認しようとした学力は「コンピテンシー」なる能力と呼ばれている。したがって、学力調査によって調べようとする学力とは、教えられたことを記憶した知識の量がどれだけあるかではなく、①生活の中で様々な問題に直面したとき、問題の解決にどれだけ積極的に取り組む態度があるか、②自分の頭を使ってどこまで深く解決策について考えることができるか、③問題解決の ためにそれまで学んだ知識を新しく組み換え、どれだけ創造的に応用することができるか、といった能力である。こうした能力が「コンピテンシー」だというわけである。言葉を替えれば、(a)社会における具体的な問題の解決に積極的に参画する意欲や態度がどれだけあるか、(b) 問題解決に必要な知識や情報を どれだけ的確に拾い出し再構成し、問題をどう上手く解決することができるかといった能力だということもできる。それゆえ、コンピデンシーとは、端的に、社会づくりへの参加意欲と問題解決のための知恵と能力のことであると言うこともできよう。」(p.161-2)

とすれば、新指導要領の「改訂の経緯」で示されている方向性に欠如しているのは、社会づくりへの参加意欲を掻き 立てる方策であり、問題解決のための知恵と能力の育成だと言えるでしょう。だから、これからの英語教育の方向性を考えるときには、国際的な視点からすれば、新指導要領にはこうした点が欠如しているという問題意識を持って読みとることであり、それをどのように補って実際の目標設定や授業や評価に生かしてい くべきかが教師に問われていると考えるべきでしょう。次回は、この視点から、高校の英語科の指導要領を考えてみましょう。

(配信日 2010/07/01)