7.1. AR以前 1981-1990

AR支援ネットワーク通信(70) 第6部 「私とアクション・リサーチ ーAR以前 (1981-1990)ー」

横浜国大名誉教授 佐野正之

■はじめに

このレポートは横溝先生に依頼されて資料整理をすることになったのを機会に、私がARと関わった経過とその後のプロセスを自分の日記や手帳のメモや、思い出した出来事などを中心にまとめたもので、いわば私的な振り返りである。昨年度は10月にJEARNの立ち上げができたし、また、退職して2年目を迎えよう やく少し落ち着いた生活ができるようになったのを機会に、私がARに興味を持った契機や考え方の変遷などを、過去の出来事から探してみようと取りかかることにした。ただ、思い出の多くがそうであるように、過去は今自分の置かれた状況や情緒のレンズを通してしか見えてこない。当然、そこに主観的なゆがみや身勝手な思い込みが含まれることはご承知いただきたい。また、「私的な振り返り」というなら、本来は自分の生い立ちから語らなければならないのだが、それは膨大な時間のロスを読者に強いることになるので、ARに直接・間接に関わるようになった山形大学への転勤(1981年10月)の時点からレポートを始めることにする。

■AR以前(山形大学への転勤:あるいは荒野に立つ預言者) 1981- 1990

私が故郷長岡にある長岡高専から山形大学に転勤を決めたのは、英語教師の育成に関わりたいと強く思ったからである。それまで私は 『英語劇のすすめ』、『英語授業にドラマ的手法を』などの単著を出版したが、同時に新潟大学の米山朝二氏や高橋正夫氏らと 「Communicative Teaching 研究会」を立ち上げ、その成果を共著で『生き生きとした英語授業』(上・下)にまとめ、コミュニカティブな授業展開を進める運動の先陣に立って戦っていた (少なくとも自分ではそう思っていた)。今でこそ常識になっている「授業をできるだけコミュニカティブに進めよう。そのためには生徒にとって意味のある言語活動を多くし、生徒の生活と英語とを関連づけて指導しよう」 という提案は、当時は驚きを持って迎えられ、時には不信さえ持たれた主張だった。しかし、私は自分が英語嫌いだった中学・高校時代の経験から、コミュニカティブな授業こそ「英語嫌い」 を救う唯一の道だと信じていたし、だからこそ、そうした授業ができる教師を一人でも多く育てたいと思ったのである。

しかし、当時の山形大学の状況は決して甘くはなかった。なにより苦々しく思ったのは、英語教育の専攻生 (学年で7名から5名) が、丁度、教員採用の狭間の時期と重なったこともあり、全員が小学校教員を志望し、英語教師になりたいという者が一人もいなかったことである。無理もなかった。彼らの中には、英語をまがりなりにも話せる者は一人もいなかったし、英語教育についての知識もなく学ぶ意欲さえなかった。この現状を容認したのでは山形に来た意味がない。もともと短気な私は、「君たちの未来は英語教師にしかない。それ以外は地獄落ちだ。山形でなれなかったら、東京でも北海道でもどこに行ってでも英語教師になれ」 と発破をかけた。そして、少なくとも自分が専門教育を担当する新2年生からは、全員英語教師にしてやると決意したのである。それからの私は、「鬼」 と言われ、「サド」 と仇名されるほど学生を厳しくしごいた。そのかいあってか、私が担任をした最初の2年生7名のうち、小学校の教師になった一人と大学院に進んだ一人を除けば、4名は中学校に、残り1名は 高校の教師になったのである。それ以降、私が山大にいた間の専攻生は、北海道から神奈川まで地域は異なっても、ほぼ全員が英語教師になった。

次に腹がたったのは、英語教育の現場である。英文和訳だけでなんの工夫もない授業が 「受験のため」 という名目で大手を振っていた。それだけなら、“You can’t teach an old dog new tricks” とあきらめもつくが、彼らは私がせっかく手塩に掛けて送りだした若い教師を影に日向にいじめるのだ。当時のALT は 「佐野先生は悪い先生だ。なぜなら、先生に習った教師はALTには好評だが、日本人の先生にいじめられている」 と冗談まじりで教えてくれた。なんとかこの状況を改善したい。そこで、まず、付属中学の先生と協働して徹底的にコミュニカティブな授業を公開研究会でやってもらうと同時に、「これが新しい指導要領の求める授業のスタイルなのです」と機会あるごとに話してもらった。また、県の教育センターに働きかけ、できるだけ研修に講師として参加させてもらい直接現場の教師に訴えた。その時に強調したことは、「教科書は使いこなすものであって、支配されるものではない。そのためには教材研究をしっかりして、生徒の体験や生活と結びつけて指導しなければならない。それができないなら、教師ではなくテープ・レコーダーだ」 ということである。もちろん、現場は簡単に変わるものではないが、指導主事レベルの人たちは良く理解し、教え子の味方をしてくれる人が多くなった。今の時点では、山形県の高校と中学校の県の指導主事は2人とも佐野研究室の卒業生である。

もう一つ戦わなければならないと思ったのは、英語教育学会の動向である。Input 理論が提唱されるとすぐ、誰もがそれになびく。だが、その理論のもとになっているリサーチが、日本の学校英語授業の中で(注意! 日本人学習者を対象にしたという意味ではない) 実施されたかというとそうではない。教室内での研究調査がないまま、指導法として大手を振っている。そこで、学生の卒業論文に重ねて、実際に付属中学校の生徒を対象に調査をしてみた。その結果からすると、acquisition とlearning を2極対立のように捕えるのは誤りで、むしろ、学習したことが自然に身についていくと考えるほうが自然だと分かった。また、研究者の調査の多くは数量的に処理しやすい横断的な調査データーに基づくもので(実のところ、自分のこの調査もそこから抜け出せなかったのだが)、本来は教室内の調査は縦断的になされなければ、本当のことは分からないということである。「何かよい調査方法はないものか?」という疑問を常に持って文献を読みあさっていた。

それに一歩近づいたのが、「ドラマ的手法を用いた英語科教育法演習」 (『教科教育学研究 7』 日本教育大学協会 1989) である。なぜドラマかというと、専攻生に英語教授法の指導をしても、英文和訳に染まりきっている彼らには、「なぜ、そうした指導法でなければならないのか」という理由を納得させることが難しかった。そこで、具体的な指導技術を教える前に、半期間の授業で即興的な演劇活動をさせ、擬似的ながらコミュニケーションを体験させてから、そのための指導テクニークを学習するのがこの授業の目標だと理解させたかったのである。この手法の導入によって、学生のコミュニケーションに関わる認識がどのように変化したかを、授業開始前と終了後の比較だけでなく、卒業して現場を経験した後でどのように評価しているかも調査することで、縦断的調査に一歩近づこうと試みたのがこの論文である。

このように書くと、万事がいかにも容易に改善していったように見えるかもしれない。事実は決してそうではない。英語教師に多数の学生がなれたのは、私の指導の効果というよりは英語教員が不足し始めたという社会情勢のせいだし、現場の改革を強く主張する私に「そんなに偉そうなことをいうなら、山大ではなくもっと有名な大学で教えればいいだろう」 と言わんばかりの態度をとる人もいた。学生もまた、私の教える指導法と学校の現状(教育実習は全て付属中学で行うので卒業の時点までは私の提唱する指導法が正しいと信じているのだが) との隔たりに赴任と同時に気付かされ、悩む者も少なくなかったのである。そんな彼らに私は、「学校で納得してもらうには地域で認められる教師になれ。地域で認められるには、県で認められる教師になれ。県で認められるには、東北なり日本で認められる教師になれ」 と説いた。ということは、私自身、山形の教師を納得させるには日本で認められる業績を残す必要があったし、そのためにはまた、世界で認められる必要があると思ったのである。だから私は山形大学時代には、英語教育の本や論文を沢山書いた。まるで私は「荒野に立つ預言者」 のごとく行動したのである。以下その業績 の一部である。

*『新しい英語科指導法』(大修館書店、1983)

*『みんなで創る英語劇』(玉川大学出版、1987)

*『基礎能力をつける英語指導法』(大修館書店、1988)

*"Communicative Language Teaching and Local Needs. "ELT Journal 38-3. OUP. 1984

*"How to Incorporate Total Physical Response into the English Programme". ELT Journal 40-4. OUP. 1986

* 「The Acquisition-Learning Distinction について」 『東北英語教育学会紀要』No.9 1987

* 「ドラマ的手法を取り入れた英語科教育法の演習」『教科教育学研究 7』 日本教育大学協会 1989

「荒野に立つ預言者」 と言ったのは、山形が 「荒野」 だという意味ではない。むしろ、「天国」だった。学生数は少ないし、その大部分が山形県の出身だから、純朴で誠実で、しかも大学での成果がすぐ地元に還元された。一時期ではある地域の中学校は全て私の教え子で占めたことさえあった。また、大学での担当授業時数が少なく、しかも、英語教育の関連科目は私一人が担当したので、学生を「洗脳」 するのには効果的だった。さらに、付属中学や県教育委員会との関係が従来から密で、こちらでお願いすればすぐに協力してもらえた。英語教授法の試みをするには、まさにうってつけの環境だったのである。業績を多く生み出すことができたのは、この恵まれた環境のせいでもあった。

一方、ARとの出会いはまだ果たしていなかった。関連する本は1冊読んだが(後述)、ARとは何かという実感が持てなかったというのが本音である。その一方で英語教育一般に関する本はかなり読み、自分なりの英語教育観が確立した。特に強く影響を受けたのは、Stern, H. H. 1983. Fundamental Concepts of Language Teaching. OUPである。バランスよく外国語教育に関わる多様な要因を解説し全体像を理解させてくれたばかりでなく、外国語学習と社会との関わりについて教えられることが多くあった。山形大学時代は、大学での授業も研究も、また、現場との関係も自分が日々より豊かになれたという実感がある。だから山形大学からの転勤は、「荒野からの脱出」 ではなく、実際は 「天国からの追放」 に近かったことがすぐに判明する。

(配信日 2011/05/15)