6.6. 第6話 メンターの心得

AR支援ネットワーク通信(69) 「ある新人教師とメンターの物語: メンターの心得」 第6話

横浜国立大学名誉教授 佐野 正之

■はじめに

正直なところ、この原稿がこれからメンターをしようと思っている皆さんの役に立つかどうかは、私には分かりません。確かに、第5話で説明したように稲垣さんとのARは予想以上の成功のうちに終わりましたが、そこから誰もが納得するような成功への道を探し出すことは不可能でしょう。私はメンターとメンテイーには相性があり、そこで生まれるメンタリングは個々のケースで全部異なると思っています。ですから、稲垣さんと私とのやり方は、この状況で出会ったこの2人だから上手くいったのであり、その意味では第1話から第5話までの事例報告を読んでいただき、それぞれに参考になる点を各自にpick up してもらうのが一番良い方法だと思います。

だが、そう言い切ってしまっては実も蓋もないので、参考になる人もいるかもしれないというかすかな願いに賭けて、私が稲垣さんとのメンタリングをする際に心がけたことを紹介します。ですが、繰り返しになりますが、これはあくまで も個人的な体験や信条からくる発想だとご承知の上でお読みください。

第1条: 授業力の育成には一定の手順があると心得よ

「通信」で報告した稲垣さんの成長過程を、メンターの視点から復習してみましょう。

稲垣さんのたどった過程

1) 4月の稲垣さんには授業が上手く進んでいないという問題意識があり、それを改善して10月の市の研究授業に臨みたいという強い動機がありました。

2) 初回の授業観察で、稲垣さんの問題は主として授業力に関わる知識と練習(目標を明確にして、適切な導入を行い、教科書の理解を単語指導と音読指導で徹底し、かつ、自己表現の書く活動に繋げる能力)にあると思いました。反面、稲垣さんの英語は聞きやすいし、生徒も聞くことに抵抗感がないことから、できるだけ英語で授業を進めることで問題解決を図ろうと第1話で説明したリサーチ・クエスチョンと3仮説を設定したのです。

3) 授業力を一気に高めることは無理です。そこで、まず、warm-up やintroduction を生徒の身近な話題から入る訓練をすることにし、具体的な方法を教科書にそって、「こんな風にできるのではないか」とモデルを提示しました。しかし、それを猿真似するのではなく、稲垣さん自身で工夫するように励ましました。これが「通信」の第2話に出てくる「挑戦」です。多分、稲垣さんにとって一番苦しい時期だったと思います。この時期の私のメールでのアドバイスは、具体的な活動の進め方と同時に「できることからやればよい。苦しくとも頑張れ」と心理的にサポートすることが中心でした。

4) 第2回目の授業観察で、第1仮説はかなり進んでいることが分かりました。「教科書から離れて、自分で活動を考えてゆこう」という姿勢と自信が現れ始めまし た。そこで、第1仮説は第2仮説に並行して伸ばそうと考え、メンタリングでは単語と音読指導のビデオを見せ、教科書を用いてアドバイスしました。この後の稲垣さんのメールには次第に「授業が上手く行った」という報告が増えてきました。

5) 第3回目の授業観察で、稲垣さんは変身しました。第1仮説は完全に習得し、第2仮説はこの授業では扱うことはなかったのですが、メールから順調に進んでいる様子が伺われました。そこでこの後は第3仮説に入ることを計画し、これも教科書を用いてどのような活動が考えられるかを稲垣さんに尋ね、こちらでもモデルを示しました。

6) しかし、第4回目の授業観察(綾瀬市の授業研究会も兼ねていた)までの間は、学校行事のため第3仮説に取り組む指導がメールではできませんでした。ところが、研究授業では第3仮説まで十分生かされていて、結局、リサーチの当初に上げた授業力向上に関わる要因の全てをカバーできたのです。

成長の過程をまとめると

1) ここまでの稲垣さんの成長過程を各段階のキーワードを探してみると、まず、「動機」が上げられます。次に必要なのは授業に関する「知識」です。稲垣さんの場合は授業の構成とか導入の仕方などの知識はありましたが、十分消化されていませんでした。ですから、私がそれぞれの活動のモデルを教科書に沿って示したのです。第3に必要なのは、「練習」です。稲垣さんの場合は、新しい指導法に対するチャレンジとなりました。新しい活動に取り組み成功する体験を積み重ねることで「自信」が生まれ、それが変身につながり、「授業力」になったのです。

この過程は、実は、「授業力」に限ったことではありません。例えば、「英語でのコミュニケーション能力」を考えてみましょう。やはり、まず必要なのは「動機」です。やる気がなければ、どんなに指導しても伸びません。次に必要なのは、単語や文法の「知識」です。ただ、この「知識」は丸暗記したものよりも獲得に近くなるように、生徒の身近な話題でまとまりのある談話の中で導入すべきです。次に必要なのは「練習」ですが、これもある構文に特化した練習だけではなく、できるだけ現実的な場面で、実際の言語使用に近づけることが大切です。こうした練習を繰り返し「自信」が出てくれば、やがて本物の「コミュニケーション能力」に変身するのです。 とすると、「授業力」と「コミュニケーション能力」の間に、類似した習得過程があることが分かります。どちらも、「動機」→「知識」→「練習」→「自信」→「変 身」(=授業力・伝達力) となるからです。

2) では、この類似性を知るとどんな利益があるのでしょうか。メンタリングが容易になると私は思います。まず、メンテイーの問題を「やる気」がないのか、「知識」なのか、「練習」なのか、その積み重ねなのかを見極め、対策を考える上で役立ちます。稲垣さんの場合は、「やる気」は十分なのだが、「知識」や「練習」「自信」に不足な点があると考え、3つの仮説を設定したのです。

これに関連して、よく「受講者のやる気を起こすにはどうすればよいか」という質問をするメンターがいます。そういう人には「英語を勉強する気のない生徒をどう指導しますか?それと同じだと考えてください」と言うことにしています。やる気のない生徒が多いなら、それは生徒の問題というよりは、教師の指導の仕方が生徒に意味のないものに思われているからで、反省すべきは教師自身なのです。

また、「メンターで大切なことは待つことだ」という指摘があります。これは「学習の主体者は生徒だ」と言うのと同じく正しいのですが、実際問題としては、何をどのように学んだらよいか分からない人の反応を待つだけでは時間の無駄です。「待つ」という精神を大切にしながら、「知識」がないなら教え、「練習」の仕方を知らないならモデルを示し、成功体験を重ねることができるようにしてやるのがメンターの仕事だと私は思います。教室で成功してこそ、教師としての変身が起きるのは、nativeとの会話の成功体験がコミュニケーション能力の育成に必要なのと同じことだと思うのです。

第2条 「変身」 とは 「知識」 の質が変わることと知れ

稲垣さんの授業改善では「変身」が大きなキーワードでした。「授業力」の鍵は「変身」が起きたか否かにかかっているとさえ言えます。では、「知識」を得て、「練習」により「自信」がついた時に生まれる「変身」とは何なのでしょうか。これも「コミュニケーション能力」を例に説明したほうが分かりやすいと思います。

「英語でのコミュニケーション能力」を身に付けるには、単語や文法を覚え、それを現実的な場面の中で練習したり実際に使用したりすることによって、次第に個々の文法などを意識せずに談話の中で自由に使える知識と変えなければなりません。それはただ単に「知識として持っている知識」(宣言的知識とも呼ばれます)と対比して、「手続き化した知識」と呼びます。手続き化された知識だけが即座に、使い手の必要に応じて作動するのです。逆にいう と、単語や文法の知識をいかに沢山持っていても、それが「宣言的知識」に留まる限りは、現実のコミュニケーションでは自由に使うことはできません。単語や文法を暗記しただけでは、なかなか実際の英会話には役立たないのはそのためなのです。

移民の子どもたちのように、言語知識が自然のうちに獲得され、最初から「手続き化した知識」となっている場合とは異なり、日本で英語を学ぶ場合は、まず、「宣言的知識」として入る場合が多いでしょう。だからこそ、それを「手続き化する」ための沢山の言語活動が必要なのです。現実的な言語活動に従事することで、次第に「手続き化」され、その使用回数が増加して「英語が使える」という自信になり、それが積み重なって「コミュニケーション能力」に変身するのです。

同じことが授業力についても言えます。導入の方法やinteraction の取り方を宣言的知識として持っているだけでは無意味で、現実的な場面で練習すると同時に、授業全体(談話)の中で使用する経験を積んで始めて「手続き化 した知識」となり、新しい教材の指導でも自由に使えるようになるのです。そしてこうした成功体験を積み重ね自信を持つことによって本当の「授業力」に変身するのです。残念ながら、大学の教員養成では、指導技術が手続き化するほど丁寧な指導をやってはくれないので、多くの英語教員は「宣言的な知識」は持っていても、実際に自分が授業する際には、こうした知識を役立てることができないのです。ですからメンターの一番大きな仕事は、英語教育についての知識を「手続き化する」ことにあると言えるかもしれません。稲垣さんとのメンタリングの時間の大部分は、このために使われたといえるでしょう。

では、「手続き化した知識」を持たない場合は、教師はどのように教えているでしょうか。実は人は英語を勉強した時に、その指導法も知らず知らずのうちに「獲得」してしまっているのです。ですから、「文法訳読式」で授業を受けた人には、自分が教師として教える立場になっても、「文法訳読式」が最も自然で、正しい指導法に思われます。コミュニケーション能力はそれでは育たないと指摘されても、他に使える指導法がないので、この方法に頼るより仕方がないのです。時には研修会で新しいゲームなどに接して授業に取り入れ試してみることはあるでしょうが、基本的なスタンスを変えることはできないので、結局はもとに戻り、 授業力の育成には結び付かないのです。このような人は授業力について「宣言的知識」さえ持ちえないかもしれません。この点はまた、後で扱うことにします。

第3条. 最終的な目標は「授業改善力」であることを忘れるなかれ。

ここまで は、もっぱら「授業力」に焦点を当ててきましたが、ARの最終的な目標は「授業改善力」を持つことです。「授業力」が通常の授業を効果的に、かつ、豊かな人間関係を構築することを目指して進める力だとすれば、「授業改善力」はその授業の中に潜む問題点を見つけ出し、自分でリサーチを進める能力です。すなわち、自分で自分のメンターとなる力を持つということもできるでしょう。当然、望まれれば同僚や他の人のメンターを務めることもできるし、英語教育に関連する分野にも見識が要求されます。問題の解決には、経験だけでなく、他で行われた実践や学問的な知識を動員することも必要となるからです。

上で比較した「コミュニケーション能力」で言えば、「動機」「知識」「練習」「自信」「コミュニケーション能力」の上に、さらに高度なコミュニケーション能力の育成を目指す「自律的学習力」が「授業改善力」に相当すると言えるでしょう。もちろん、自律的学習力は「知識」「練習」「自信」の段階でも必要なものですが、本当に必要になるのは、ある程度コミュニケーション能力がついた上で、具体的に言えば、学校の授業などで一定のコミュニケーション能力をつけた上で、広い国際社会の中で、さまざまな状況に置かれたときに、必要とされているコミュニケーションのニーズに対応できるよう自律的に学習してゆく力だということができます。これは意識的に、客観的に自分のコミュニケーション能力を捕え、改善してゆく点を分析し、対応策を練る力です。同じように「授業改善力」は自分の授業力を意識的に捕え、改善に必要な部分を見つけ出し、対策を立てて改善してゆく力ですから、これこそアクション・リサーチが求めるものにほかなりません。

ではなぜ、授業改善力から始めないのでしょうか。理由は簡単です。自分の授業も満足にできない人がメンターをやれるはずがないからです。それは、ARの手法を利用して授業改善を図る場合も同様です。だから、授業力のない教師にARを薦めるときには、授業力を伸ばす手助けをメンターがARの中に仕込むことが大切です。ARのフォーマットをまる投げして、「さあ、自分でやってみなさい」と言っても、それは「歩く」ことができない人に「走る」ことを求めるようなもので、土台、無理な要求だと思うのです。というと、誤解を生むかも知れません。「歩く」も「走る」も、また、「授業力」も 「授業改善力」も、両者の異なる両極を見て違いをことさら強調した表現になっているからです。実際は両者は連続しています。たとえば、「評価」は「授業力」の一つの重要な要素であり、これを授業力に含めない分類は不可能ですが、授業を評価することと、評価に基づいて改善することは連続しています。だから、授業改善力は授業力の発展として当然含まれて来なければならないのです。

ではなぜ、ことさら両者の違いを言い立ててきたのでしょう か?それは、メンターとして授業改善に当たるときに、自分の今やるべきことはこのどちらに比重があるのかを認識することが大切だと指摘したかったからです。英語授業の経験の乏しい新人を相手に、自分で問題解決することを迫っても無駄が多いでしょう。それよりは、知識の手続き化を目指す「授業力の育成」に主体的に取り組ませるほうが先だと思います。一方、授業力は十分な教師が、何か課題を抱えてARをする場合には、自ら問題を発見し、対策を考え、実践の結果を分析して授業を改善する「授業改善力」の育成を目ざすべきだと思うのです。

第4条. メンタリングとは家庭教師と見つけたり。

ですから、メンターの仕事は、家庭教師と同じです。相手のニーズに応じて対応を変える必要があります。例えば、大学院生が修士論文としてARを行う場合は、大学院の審査委員会の判定基準をクリアしなければならないから、扱う問題や調査方法などはそれを考慮しなければなりません。現在のところ、多くの大学では実験研究派が主流ですから、どうしても数値的な資料を集め統計的な処理をして論文が書けるテーマを探さなければならないことも多いでしょう。もちろん、こうした風潮を改善して欲しいもので、例えば、ビデオを資料として採用するだけでもARはずいぶんとやり易くなるでしょう。また、審査委員に早い時期からアドバイスをもらうという口実のもとに学生から接触を計り、ARのシンパになるよう工作を進めるなど、大学でのメンタリングは、それなりの苦労がつきまといます。しかし、現役の教師でも、論文発表をめざす場合もありますから、メンターの第一の仕事は、彼らが望むことをする能力があるかを見極め、その上で個人に適切なアドバイスを与えることです。

まずは授業観察を

だが、教室で教師の直面するトラブルの多くは、授業力の不足に由来するのです。その場合の最初の仕事は、メンテイーがどの程度の授業力があるかを見定めることです。そのための一番確実な方法は、特別な用意をしない、教案さえも書かないような日常の授業を見せてもらうことです。そうすれば、授業力のどこに問題があるか一目で分かりま す。もちろん、本人のレポートもそれなりに役立ちますが、それは副次的なもので教室に出かけて観察するのが一番です。その結果、英語力や英語教育の知識そのものが不足しているのか、あるいは、知識はあっても「手続き化」されていないのかが分かり、対応策が練れます。

授業観察では、また、弱点だけでなく長所を見つけ、そこを足がかりにして問題に切り込み、短所をつぶしてゆく発想でリサーチ・クエスチョンや仮説を考えて行きます。ですから、ある程度は機械的に方針が定まります。稲垣さんの場合もこの方式でした。

仮説の設定の際の注意点

「方針は機械的に決まる」と書いたのは、あくまでもメンターの見方であり、実際にはそれを内心に持ちながらも、メンテイーの主体性を確保してゆかなければなりません。それは丁度、家庭教師をしていて生徒が文法が弱いと分かったとして、「文法が弱いからこの練習帳を使ってやろう」と押し付けるのではなく、 「君の得意な長文読解の中で、文法にもう少し注意しながら練習したらどうだろう?この文章の意味はどうしてこうなるのかな?」と相手の長所を生かしながら補充し、それでは駄目だと相手が気付いた時に練習帳を取り入れるのと同じことです。まして、自分の裁量で授業中の判断を一瞬にしなければならない教師が相手なのですから、メンテイーが望まぬことをさせても授業には生きる可能性はありません。ですから、できる限り教師自身にリサーチの目標やリサーチ・クエス チョンで設定してもらい、それを実現する方策の相談にのり、仮説を協働で考えるという方法を取るようにします。

仮説の設定に関して、もう一つ注意が必要です。それは、授業改善のARでは仮説の証明よりは授業全体の改善が大切だということです。特に中学校や英語Ⅰな どの授業改善では、たとえば、リーディング力が弱いからという理由で、リーディングだけに時間を掛けるわけにはゆきません。リスニングもスピーキングもライティングにも気を配らねばならないからです。仮説の実践には他の部分よりも指導時間を多少多くするか、あるいは、他のスキルもリーディングに連動するような活動の工夫をしなければなりません。要は、バランスが大切だということです。しかし、稲垣さんの例で分かるように、ある特定の問題意識を持って取り組むことによって、自分で大切な発見をすることも多くあります。

仮説の実践上の留意点

仮説が定まれば、それに沿ってメンタリングを始めますが、その場合、実際に使用している教科書を用いてアドバイスすることを基本にした方がよいでしょう。文字通り、授業の最初から最後まで、どのような活動を組み、なぜその活動をさせるのかを考えさせ、話させて相談して決めるようにします。もちろん、一度に授業の全部を変えることは無理ですから、4月はGreeting/ warm-up, 5月は4月に学習したことに加えてintroduction というように、年間計画を立てて改善に当たり、授業を振り返りノートにまとめ、メンターが確認して励ますという方法をとります。詳しくは「通信1-4」を 参照ください。

メンタリングを進める上で、メンターが心がけるべきことは、改善の方策をメンテイ―に考えさせることに並ん で、成功体験を与えることです。ですから、失敗することが分かっている方法をメンテイーが取ろうとするときには、他の可能性をアドバイスします。それだけでなく、「この活動だったら、こんな風に進めるのがよいだろうね」とモデルを示してやります。 それは、丁度、生徒に基本構文の練習をさせたすぐ後で、 「これを使って自己表現の文章を書きなさない」と指示しても上手くいかないように、活動の理屈や方法を教えるだけでなく、具体的な教科書なり教材に沿って モデルを示したり、場合によってはメンター相手に実際に練習をさせてみて、自信を持って生徒の前に立てるようにしてやることが大切なのです。その時の生徒の反応が良ければ教師の自信につながり、その積み上げが教師の成長を生むからです。しかし、それでもメンテイーが自分の主張に拘るなら、それが成功するようなアドバイスを与えて、励ますより方法はないでしょう。メンターは一度の活動の成功や不成功に一喜一憂すべきではありません。生徒も教師も、新しい試みに慣れるには時間が必要なのですから、忍耐強く待つこともメンターの仕事だし、その失敗や成功をメンターがどう考えるかということがメンテイーの態度を決める一つの要因になるからです。失敗しても成功しても、必ずそれを前向きに評価し、そこから学ぶ姿勢が大切なのです。

第5条. 他のスタッフとの人間関係にも留意せよ。

メ ンテイーとの人間関係が良好であることは絶対に必要な条件ですが、不必要に慣れ慣れしくするのは避けるべきです。互いに甘えが生まれるからです。英語授業の改善という仕事に取り組む仲間の一人という位置づけで、可能なら同じ学校の同僚と一緒に授業観察やメンタリングをするというのも一つの方法でしょう。

これに関連して、校長や教頭や同僚の支援が重要です。時間を確保してもらわないと、話し合う時間さえ取れなくなるからです。稲垣さんの実践が成功した背後には、もちろん、彼女の誠実な人柄や考える力などがあったことは事実ですが、支援してくれるO先生やK先生などの先輩の力も大きかったと思います。

だが、中には自分の殻に閉じこもり、他人の言うことには一切耳を傾けないタイプの教師もいるものです。そういう人には、メンタリングは上手くいきません。まして、一人でARをやってもらうことは一層難しいでしょう。また、口では上手いことを言うのだが、全然授業を改善する意欲のない人もいます。ところが一方では、学校全体の授業改善がますます求められています。そういう人たちをどうしたら仲間に入れることができるでしょうか。

こういう人たちなりの役割を学校全体の研究の枠組みに取り入れられないものでしょうか。 具体的には、自分でARをする必要はないが、定期的にARをしている人の授業を観察し、必ず良い点を見つけて誉め、また、問題だと思う点を一つだけ挙げてもらう “critical friend” としての役割を引き受けてもらい、少しずつ慣れてもらうのはどうでしょうか。これから「英語での授業を基本とする」が実行されるとなると、 いろいろな考えの人とどう協働するかが大きな問題となると予想されますが、その対策の一つとしてこの方式は生かせないものかと思っています。これが私の今後の研究テーマです。

思い浮かぶまま、「メンターの心得」を箇条書きにしてきました。稲垣さんとのARで私自身がこの「心得」に反することを沢山犯してきたことを書きながら感じてしまいました。だが、先に報告したように、稲垣さんは私の予想を超えた成長を技術面だけでなく、認識の面でも見せてくれました。とすれば、ここで述べた「心得」より大切な「心得」があるのでしょう。それは、「私心なく、授業改善に取り組む意志」なのかもしれません。

駄文を御読みいただいた皆さん、また、執筆に協力してくださった皆さんに感謝して、終わりとします。皆さんのARやメンタリングの成功を祈りながら。

(配信日 201/05/01)