4-3 反対論への反論(2)

AR支援ネットワーク(49) 「授業は英語で」をめぐって 反対論への反論(2)

横浜国立大学名誉教授 佐野正之

■はじめに

前回は 「目標論」の視点から、「授業は英語で」に反対する私の主張を述べました。ただ、この主張は指導要領の指摘を受けてのものではなく、従来からの自分たちの 発想を明確にしたもので、それをスローガン的にいうと”More Communicative->Less Japanese and More English”となります。できる範囲で授業をコミュニカティブにし、教師も日本語使用を減らして、英語での情報や意見のやりとりが中心になる授業を目 指すということです。こうした主張を、整理して説明すると次のようになります。

現在は国の内外を問わず、言語や文化の異なる人や物との交流が日常的になっており、そのための最低限のコミュニケーション能力が誰にも必要であ る。また、環境や経済や社会的不平等などの国際的な問題を自分の問題として考えることができる民主的社会人の育成を目指すなら、選ばれた人が公的な立場か ら政治や経済の交渉をする時にだけでなく、一般人にもintercultural communication competence が必要だ。換言すれば、国際化した社会の責任ある市民として生きるには、英語の基礎知識や異文化理解だけでは不十分で、最低限の英語使用能力はもちろん、 それを通して異なる人達とつながりを持とうとする社会的能力を持たなければならない。こうした能力と意識のある国民の存在に裏打ちされてこそ、日本が国際 社会の平和の維持発展に貢献することができるだけでなく、個人としても現在の状況を生き切ることができるのだ。だから、最低限の英語でのコミュニケーショ ン能力と異文化の人と連帯する社会性の育成こそが日本の英語教育の目標であるべきである。そのためには、教室で仲間と英語で協働する作業に取り組ませるこ とは当然で、実情が許す限り、「英語で授業を行う」ことは必要だという主張なのです。

しかし、それは言うは易くして実行困難なことは誰もが承知しています。文部科学省の2008年の調査では、授業時間の半分以上を英語で行 う学校は中学校では約3分の1、高校のOCIでは約5割、英語I では11%と報告されています。ある県の非公式な調査では、高校の「英語I」で英語が使われている(リスニングや音読も含めて)時間は、1割に満たないこ とが判明しています。残りの9割の時間は、教師が日本語で文法を説明をしたり和訳をしたりすることに費やされているのです。

これもある意味では当然かも知れません。中学校の卒業時点では英語嫌いの生徒が6割を超えると言われており、彼らの多くは1,000 語レベルの基礎的な単語や文法も習得していないのに、高校で使用する教科書には3,000から4,000語レベルの語彙が沢山含まれているのですから、そ の教科書を英語で教えることは「夢物語」だという批判は当然です。しかも、問題は生徒の英語力だけではないのです。日本の現在の学校教育そのものにコミュ ニケーションを大切にした授業を阻害する要因が沢山あるのです。まず、この点を寺島隆吉『「英語で授業のイデオロギー:英語教育が亡びるとき」(赤石書 房)で指摘されている点を参考に拾い出して考えてみましょう。

■コミュニケーションを大切にした授業を阻害している要因

寺島氏はまず、40人クラスの問題を挙げています。20 人学級が世界の大勢でそれによる効果が明きらなのに文部科学省はクラス・サイズの縮小を求める自治体に脅迫まがいのことまでしているというのです。確か に、日本の文部行政は公教育にお金を掛けないことでは世界で一二を争うことをよしとしており、個々の生徒に注意を払わなければならないコミュニケーション 重視の授業は進めにくいことは事実です。

次に寺島氏は「言語的距離」と「総授業時間数」の問題を論じています。「ドイツの生徒なら400時間で到達するレベルを日本の生徒は 1,500時間かかる」という話しを引用して、その原因を母語と対象言語の「言語的距離」に求めています。たとえば、英語母語話者がフランス語学習に要す る時間を1とすれば、日本語はその6倍はかかる。さらに、ヨーロッパの多くの国は、日本以上に多くの授業時間を中学校で英語指導にかけているとも報告して います。これでは教室の外では英語に触れることのない日本で、英語が話せるようになることを期待するほうがおかしいというわけです。

寺島氏の批判の第3点は教育予算の削減で、多くの教員は超過勤務を強いられており、「過労死ライン」を越える英語教員は8割に及ぶと しています。当然、十分な準備の時間もなく、研修の機会も与えられないまま、「授業を英語で」の路線を無理強いし、指導に従ない場合は「不適格教員」の烙 印で脅かされようとしていると指摘しています。このような無理難題を求めるより先に、勤務条件を改善し教師の意欲を引き出すことが先ではないかという指摘 です。この点は次の批判に直結します。

氏の批判の第4点は教員養成と労働条件です。フィンランドのように、「研究者としての教員養成」と「実践的研究者としての時間保証」が日 本には全くない。教員養成大学院も定員割れを起こしたりしている上に、修士論文を書くことが義務化されていないので、研究者としての能力を磨くことも、論 理的に文章を書く訓練すら保障されていない。こんな状態で「英語で教える」ことを強制しても、日本では成功する見込みはないとしています。

そしてこの章のまとめとして寺島氏は、次のように述べています。

「生徒の理解の程度に応じた英語」を自由自在に操れるほどの人なら、研究職や民間企業から引く手あまたでしょうし、収入も「高校教諭」をはるかに超えることは容易に想像できるからです。教師にフィンランドのような労働条件とステイタスを与えない限り、新指導要領の未来はないと言わねばならないでしょう。

紙面の関係で寺島氏の問題点の指摘は最小限に留めましたが、現在の教育現場を鋭くえぐり出していて興味深い内容です。理不尽とも思える状況の中で、日本の 教師たちは過度の要求をされているのは事実で、一気に「フィンランド並み」とは行かなくとも、すくなくとも生徒に向き合い教材研究を十分に行う時間と、上から目線ではなく、教員自らが協力して研修しあう民主的な職場環境が是非とも欲しいものです。

■寺島氏が薦める英語授業とは

では、このような悪条件の中でも可能で、有意義な英語授業はどうあるべきだと寺島氏は考えているのでしょうか。氏はそれは「母(国)語を耕し、自分を耕し、自国を耕す外国語教育」だとしています。その理由として以下のような点を挙げています。

1)母[国]語で考える力がノーベル賞を生む。

日本人のノーベル賞受賞者が多いのは日本語で高度な学問ができたからで、その代表例が益川氏で、英語ができなくとも、世界に誇れる研究成果を上げることがで きた。もし、益川氏が「英語で行う授業」のために嫌いな英語に苦労して好きな物理の勉強ができなければ、ノーベル賞は生まれなかっただろう。「外国語として英語」学ぶ日本のような環境では、「読む」ことができれば十分で、「聞く・話す」は必要ない。

2)会話練習では、会話力は育たない。

「読む力」があれば「書く力」はついてくる。PISAで「世界一」のフィンランドでも入学 試験(日本のセンター試験に相当する)でも「書く力」が非常に重視されている。だから、「会話ごっこ」をさせるくらいなら、まず、読ませる、書かせること を重視しているからだ。だから自分の授業でも「書く」こと、すなわち、日本語で論理的に書くことを重視してきた。

3) 必要なのはまず日本語の作文力だ。

まず、日本語で大量に書かせ、次に論理的に書く訓練をする。その後、英語への転換を図り、やはり量から質へと重点を移す指導をする。要は意味の ある教材が重要なのだ。フィンランドでもリスニングの試験では講義などのモノローグが多く、会話体は22%でしかない。外国語の授業の流れは母語とは逆 に、読むー>書くー>聞く(あるいは話す)と流れるべきで、聞くも話すも母語とは逆にスピーチなどから対話への進むべきだ。

4)新しい科目「英語会話」はいらない。

日本のように外国語として英語を学習している状況では、日常会話は実は日常ではない。使う場面がないのだから、すぐに忘れられる。むしろ、高度な社会問題など読解として扱われる教材こそ知的レベルに対応するのでよりふさわしいし、その力は読解によって養成される。

5)全員を「英語が使える日本人」とする愚:学校教育で「すべきこと」と「できないこと」を区別せよ。

学校教育ですべきことは、会話が必要な環境に置かれたときに生きて働く基礎学力をつけておくことで、この点では斎藤兆史氏のいう「徹底した発音・文法・読解・作文訓練によって養成される堅固な基礎力」と同じである。

以上、1)から5) を通して見えてくる寺島氏の「母語を耕し、自分を耕し、自国を耕す」英語授業は、結局、外国語としての英語授業なのだから、コミュニケーションの英語力などと言う前に、まず、内容のある教材を読む(英文和訳する)、それについて日本語で書く(次に英語で書く)、書いたものをもとに、聞く活動や話す活動につ なげてゆく。ただし、これはあるテーマに関した一連の作業ではなく、別個の活動として扱われるべきもので、究極的なねらいは、斎藤氏と同じく英語の基礎学 力の育成を目指すものだと言えます。結局、寺島氏は前回の原稿で述べたFormalist の立場で、私の主張するActivist とは意見を異にしています。文法や語彙の「基礎力」を受験英語であれだけしごかれて大学に合格した学生たちが、英語で話すどころか、簡単な英文も書けない 実情を見せつけられてきた私には、斎藤氏の言う「基礎力」には全く信ずることができず、それを根拠に授業をよりコミュニカティブにする試みに批判的な寺島 氏は、私から見れば、日本の外国語学習に不利な点を列挙することによって、それを隠れ蓑にして、本来のあるべき英語教育の姿をゆがめようとするものに見え てしまいます。そこで氏の挙げている不利な条件をもう一度見直してみましょう。

■日本でコミュニカディブな授業は本当に不可能なのか

先に寺島氏が「授業は英語で」を否定する理由として挙げている問題をひとつずつ見て行きましょう。

まず、クラス・サイズが大切な点は寺島氏の指摘の通りで少人数クラスが望ましいことは事実ですが、その実現は氏が言っているほど不可能なのか疑問に思いま す。現実に中学校や高校で20人前後の小クラスでの授業が行われている学校は多くあります。さらに、たとえ40人学級でも、教師の工夫次第で授業をよりコ ミュニカティブにする余地はあり、ペア学習やグループ学習などを利用するだけでも授業に変化が生まれ、生徒のやる気を引き出す助けになると思うからです。 逆に言えば、クラス・サイズを口実に、教師主導の講義形式で終始し、生徒主体の活動を平然と放棄しているとしたら、私はその人の教師としての資質に疑問を 感じます。実際に高校では、こんな授業によくお目にかかります。

あるクラスでは、原爆を扱った平和教材を扱うための基礎知識だという理由で、何枚もの日本語の資料を配布し、原爆の被害の説明だけでなく、アメリ カが原爆を投下したか戦略的意図、その時の国際的政治情勢、日本の軍部の反応などの情報が「これでもか」と与えられていました。教師の熱い思いとは裏腹に 生徒は退屈しきってしまい、教師が教科書の指導に入るころにはほとんどの生徒が机にうつ伏せになってしまっていたのです。クラス・サイズも重要ですが、教 師の意図が生徒と共有されない授業のみじめさを感じました。

第2点の「言語間距離」についても、母語と目標言語の差異の大きさが修得時間の差になって現れるということは事実ですが、ここにも実は微妙な問題 があると思うのです。寺島氏は、欧米人が日本語や韓国語の学習をする場合と他のヨーロッパの言語を学習する場合の差を1対6という説を紹介し、日本の授業 時間ではとても間に合わないのだから、「話せる」などという妄想は捨てるべきだと主張しています。しかし、「言語間距離」は、母語と目標言語の間の語彙や文法などの差だけで生まれるものではありません。客観的に数値化できる距離が存在するわけではなく、学習者が感ずる社会的・心理的な距離に影響されるはずです。具体的に言えば、アメリカ人が日本語を学習する場合と、日本人が英語を学習する場合では、客観的に計測した言語間距離(そうしたものがあればの話し ですが)は同じでも、日本人が学習する場合のほうがはるかには近いと思うのです。理由は、アメリカ人が日本語を学ぶ場合には、日本語の語彙や文法はもちろんだが、日常生活や社会的な習慣などについての知識まで学ばなければならないが、一方、日本人には、アメリカの食事や生活習慣についての知識はあるし、語 彙についても日本語の中に混じり込んでいるので、潜在的な知識として持っているものが多いからです。だから、小学校で外国語活動に用いられるレベルの語彙 なら、日本人の小学生はさして苦労はしなくて済みます。さらに、音楽や映画などで、英語文化に対する親近感は日本人の学習者に強くあります。その上、「言語間距離」は指導によっても変わってくるのではないかと思います。ことさらに差異を強調する「英文和訳」とは違い、直接的教授法のように日本語を介さない指導は、人間の持っている言語学習能力によって、無意識的に日本語で使っている方略を用いて外国語を理解するので、言語間距離を狭めることになるはずです。

さらに、「ドイツの生徒なら400時間のところ、日本人は1.500時間」という説を信じるならば、日本人の場合は3倍強の時間がかかるということになります。実は、この話しは習得レベルをどこに置いているのか不明なのですが、仮にそれを「なんとか言葉が使える」レベルのThreshold Level として考えてみましょう。ヨーロッパの学習者が他のヨーロッパ語を学習する場合の想定では、Threshold Levelに到達するには、正しい指導法のもとでなら、自習時間も含めて375時間が必要とされています(『新しい英語教育への指針』(大修館書 店:p.7)。とすれば、日本人が英語を「なんとか使えるレベル」に到達するにはその3倍かかるわけですから、自習時間も含めて1,200 時間ほどになります。小学校の外国語活動の70時間、中学校3年間に週4時間で420時間、高校で週5時間と想定して515 時間を合計すれば約1,000時間になり、残りの200時間を自習(ということは、1時間の授業に対して約10分ほどの家庭学習)を想定すれば、不可能な目標ではなくなります。

むしろ問題は、入学試験に浪費される膨大な時間をどれだけ有効に利用できるか、また、それを進んで学習する指導が行われているかなのです。日本でも「適切な指導法」が行われれば、「使える英語など不可能だ」とは断定できないのです。

第3点の教師の負担が過重だという問題と第4点のフィンランドの教員養成と待遇を見習うべきだという寺島氏の指摘には多いに賛同します。だが、ここでも寺島氏は大切な点を見逃していると思います。まず、フィンランドで教師のステイタスが高いのは、歴史的な背景もあるのでしょうが、実際に生徒を教えた教師が生徒の尊敬に値する授業を展開でき、かつ、未来に生きる力を与えてきたからです。フィンランドでは教師は「灯」にたとえられるそうですが、それだけ生徒の人生を照らす光を与えることのできる存在であったからにほかなりません。英語の基礎力や知識を叩き込んだからではないのです。英語教育に限っていえば、フィンランドの教育目標は次のように定めています。

Instruction in foreign languages will develop students’ intercultural communication skills: it will provide them with skills and knowledge related to language and its use and will offer them with the opportunity to develop their awareness, understanding and appreciation of the culture within the area of community where the language is spoken. In this respect, special attention will be given to European multilingualism and multiculturalism. Language instruction will provide students with capabilities for independent study of languages by helping them to understand that achievement of communication skills requires perseverance and diversified practices in communication. As a subject, each foreign language is a practical, theoretical and cultural subject.

フィンランドでは複数の外国語学習が求められているのですが、その中でも特に一つの外国語に習熟することが必要だとされています。この点では日本の英語と同じなわけですが、その指導目標は次のように定められています。

Foreign-language instruction must give the pupils capabilities for functioning in foreign language communication situations. The tasks of the instruction are to accustom the pupils to using their language skills and educate them in understanding and valuing how people live in other cultures, too. The pupils also learn that a language, as a skill subject and means of communication, requires long-term and diversified practice with communication. As an academic subject, a foreign language is a cultural and skill subject.

まず、必要な場面で言語を使いこなす技術を習得させること。そのためには、教室で使うことに慣れさせると同時に、異文化を尊重する ことを教えることを求めているのです。当然のことながら、教師には言語を使いこなす能力ばかりでなく、生徒が活動を通して学ぶタスクの設定する力が求められていることになるのです。

寺島氏はフィンランドでは「読む」「書く」が重視されていると指摘していますが、大学入試のレベルではその通 りです。しかし、小学校の3年から始まる英語授業ではふんだんに聞く、話す活動が行われ、寺島氏の嫌いな「ごっこ遊び」も当然取り入れられています。こうした音声言語の基礎の上に読む、書くが行われているのです。それを高校レベルや大学入試の時点だけを見て比較しても始まらないでしょう。フィンランドでは テスト期間が近づくと、図書を借りだす生徒が増加するそうですが、それは「学校で暗記したことを書かせる」テストではなく、どれだけ学習したことについて の自分の考えが書くことができるかが問われるからで、文法や単語の暗記を強制する発想とは縁遠いのです。

寺島氏も述べていることですが、実は、フィンランドでは小学校から英語学習が始まることもあり、授業時数は日本と比較しても少ないほどです。しか も、フィンランド語は他のヨーロッパ語族とは独立していて、英語との「言語間距離」は大きいと言われています。にも関わらず、フィンランドを訪問した日本 人が驚かされるのは、誰でもが英語でのコミュニケーションに自信を持っていて、誰に話しかけても英語が通ずるということなのです。もちろん、EUとの関連 やテレビなどの影響で小さいころから英語に慣れる環境にあるのは事実ですが、学校での外国語教育も大きな役割を果たしているのだと思います。

■まとめとして

日本とフィンランドでは言語的にも社会的にも異なる環境にあるのは事実です。しかし、フィンランド の英語教師で「英語を話すことには自信がない」などという人は想像できません。「あの人は高校を卒業したのだから、英語は当然話せるはずよ」というのが常 識なのです。日本の置かれた不利な教育的・社会的環境を自分の英語力の低さの言い訳にしないで済むように、フィンランドの優れた教師養成や教育環境の実現 を日本でも目指すと同時に、教師一人一人が英語教育の在り方、いや、教育そのものの在り方を考え直す必要があるのではないかと私は思います。

(配信日 2010/06/15)