7.2. ARとの出会い (横国への転勤とStrangerの悲哀)1991-1997

AR支援ネットワーク通信(71) 「私とアクション・リサーチ ARとの出会い(横国への転勤とStrangerの悲哀)(1991-1997)」

横浜国大名誉教授 佐野正之

横浜国立大学への転勤は、自分でも予想していなかった形で突然実現した。横国に勤めていた友人が、「博士課程を作る計画があるので、よかったらapply してみたらどうか」と薦めてくれた。そして運よく、話があってから半年もしない間に転勤することになった。「運よく」と書いたのは「籤(くじ)運が良い」という意味で、決して「幸いにも」という意味ではない。転勤してみて、いかに山形大学では恵まれた条件で仕事をしていたかが実感できた。山形では週に4時間、多い時で5時間、しかも専門の教科しか教えないでよかったのに、横国大(酷大とも書くのだそうだが)では、まず一般教養が週に4時間、学部の専門が2時間、大学院(修士課程)が2時間と、約2倍の授業数であった。また、英語科の教官だけで16-7人、英語教育が専門だと自認する人が4人もいて、新米の私は持ちたい科目が担当できない。その上、学科会議や教授会はもめるのが当たり前で、夜の11時を過ぎても終了しないことが度々である。同僚や学生との関係、事務官との関係など全てが山大とは異なり、そもそも大学とは何かという発想自体が異なり、まさに異国に投げ出されたストレンジャーの悲哀を感じる日が続いた。だが、その半分は自分に責任があることなので、愚痴っても仕方がない。ARに関係することだけに話を限定しよう。

まず、困惑したのは一般教養の60名もいるクラスどう扱うかという問題である。特に困ったのは週に2コマもあるListening の授業で、それまでlistening に特化したクラスを担当したとはなかったので、教え方の知識自体が自分に欠如していた。また、writing やreadingにしても、高専や高校と変わらない指導では学生は乗ってはこない。彼らにとって英語は大学入試に必要だから勉強したのであって、合格した今となっては単位を取るという以外に意味は失っているのである。特に「優秀」だとされている学部の学生の多くは、東大などの一流大学を失敗して来ているだけに、こちらが厳しい態度で接しても関係が悪化するだけで、適切な指導法が見つからず息苦しい月日が過ぎていった。

では、専門の英語科教育に関する科目や大学院の授業は問題がなかったかというとそうではない。まず、学部の英語科教育法などの必修科目は以前からいた教官が手放さないので、結局私は選択科目を教えるしかなかった。ところが、学生たちの中には以前吹き荒れた学園紛争の影響か、教官にも仲間にも心を開かない者が 多い。ドラマをさせようとしても、ますます白けるばかりだ。彼らは英語学習をTOEFL やTOEICのテストのためか、文学や語学の文献の和訳のためとしか考えておらず、異文化理解とか自己表現とかの意識は全くない。もし、このまま教師になれば、恐ろしく心の狭い生徒を作りだすだろうと心配した。しかし、ここでも有効な対応策を見いだせないまま、問題意識だけを残して月日が過ぎていった。大学院の授業は2コマあったが、1つはL2 Acquisition に関する講義で、D. Larsen-Freeman and M. H. Long.1991. An Introduction to Second Language Acquisition Research. Longman やR. Ellis.1985. Understanding Second Language Acquisition. Blackwell. などの文献を読んだ。ここで確認したことは、外国語学習とは基本的には「学ぶ」もので「教えて」身につくものではない。「教える」ことが効果があるのは、 ごく限られた部分か、学習者の側にその用意ができている時に限られるということであった。これは新しい発見というよりは、感覚的に理解していたことを理論化できたという意味で勉強になった。

もう一つの演習は、山形にいたときに一度読んで、そのままほっておいたD. Nunan, 1989. Understanding Language Classrooms; a guide for teacher-initiated action. Prentice HallなどのA Rの本を用いてゼミ形式で進めた。山形で読んだときには、仮説の設定の仕方や主観的なデーターの使用が気になり、「これでは論文として認めてはもらえない」と捨て去っていたのだが、実際に自分が直面する問題、たとえば、教養英語を指導する上での悩みを解決してくれるなら、論文になる・ならないは二次的なことに思われたし、また、理屈で言えば、教室は常に固有なものなのだから、「一般論」が成立しなくて当然ではないか。授業改善をしようとするなら、むし ろ、固有の実態を正しく認識することからスタートすべきだ。これこそ教育学部ですべきリサーチではないかと開き直り、自分には一番深刻な問題であったリスニングの授業でARをすることにしたのである。

まず、Listening ができるとはどういうことなのか(より具体的には、この授業の目標とされているTOEFLのテストに好成績をとる)とはどういうことなのかを探ることをリサーチの目的とした。そのために、毎授業で行うTOEFLのテストのExercise の成績を前期の間、2クラス分を個人ごとに表にまとめ、Part I(単文の聞き取り)、Part II(短い対話の聞き取り)、Part III(長い対話かまとまりのあるスピーチ)の成績と期末テストの結果との相関、また、それぞれのパート間の相関を調べた。結局、どのPart も期末テストの総合点との相関はあるし、また、それぞれPart 間の相関もあった。だから、数値で現れている部分から判断すれば、しごく当然の結果でしかなかった。ところが、調査結果をクラス平均ではなく、学生個人の成績で見てゆくと違う姿が見えてきた。すなわち、Part I の単文の聞き取りを得意にする学生と、Part III の談話の要点の聞き取りを得意にする学生が合致しない場合が多いことに気付いたのである。そこで、常にどのPart でも成績が上位の学生、その中には帰国子女やアジアからの留学生も含まれているのだが、そういう上位10%の学生を除外してもう一度相関を計算した。する と、Part I とPart III には全く相関がなく、また、Part I の成績は比較的コンスタントであるのに対して、Part III は日により(ということはトピックが異なると)大きくぶれることが分かった。また、全体的な成績との相関はPart I, すなわち、単文の聞き取りとの相関が一番高いということが判明した。そのことから暗示される指導法は・・・というように、調査結果をもとにあるべき授業スタイルを論じている。だから、これは「教室で起きていることの理解」を目的にしたARだと言える。これが私の始めてのARの論文である。

2年目になり、次第にculture shock から立ち直りはじめると、進むべき方向がおぼろげながら見えてきた。教科教育関連では他の教官が扱っていない異文化理解に焦点を当てる授業を始めた。具体的には高校や中学校の教科書にある異文化教材をどのように分析し、どのように指導するか、また、どのように評価するか、その理論と実践を交えて演習形式で実施した。彼らにとって、英語を異文化理解として捕えることが新鮮に思えたようで、かなり人気のある授業となった。その一方で、「コミュニケーション能力が大切だ」と主張しながら、私自身が異文化理解については『地球の歩き方』程度の、いわば興味本位の情報を見つけ出すレベルでしかないという反省と、文化相対主義を越えて異なる文化の共通性をどのようにえぐり出すかを学習する機会となった。そして、英語教育も最終的には異文化の人たちと協働できる生徒の育成を目指すべきだという認識を持つにいたった。この成果は3年後に異文化理解の著書となって結実する。この本ではARについては一言も触れてはいないが、 言葉の教育は「異文化間の民主的な協働を推進するためになされるべきだ」という自分の哲学を明確にでき、それが私のARのバックボーンになった。

私が授業改善のためのARを意識的に開始したのは横浜にきて4年目のwriting の授業からである。それまでの経過を説明すると、最初の年は様子見のために和文英訳の教科書を用いた。これは完全に失敗だった。前置詞や冠詞の誤りをいくら指摘しても、学生はそうした指導は高校時代に嫌というほど、より密度の濃い(大学では1コマだが、高校では1週間に3時間はやる)授業を体験しており、 また、それでは英語は書けるようにはならないことは十分承知しているからである。授業のアンケートには、「高校の英作文を薄めたような授業を大学でも受けるのかと失望した」と酷評された。このコメントは胸に刺さった。そこで2年目は覚悟を決め、山大で英語専攻生に実施した方法、すなわち、教師はできるだけ英語で授業を進め、教科書の英文を暗記させて重要構文を練習すると同時に、自己表現の文章を沢山書かせる方法に切り替えた。これは一般教養としては高度な要求で、意欲のある学生は確かにかなり書けるようになったが、こちらの毎週の添削が大変だった。そのうえ、最終的にはクラスの5分の1の学生が履修を放棄 してしまったのである。そこで3年目は、流行のparagraph writing を中心に指導した。結果は、パラグラフの形式は整ってはいるが、内容が全くない英文を書く学生を大量生産することになった。考えてみれば、一文を書くことに苦労している彼らに、更にパラグラフのルールまで押しつけては、2重の縛りをかけることになり、自由に考えるゆとりを奪ってしまう。これも失敗だった。

そこで、4年目にいよいよARを実施することにした。最初の授業で「最近した旅」というタイトルと40分の時間を与えて自由に書かせた。ところが、クラスの4分の3以上の学生はまるで幽霊でも見るかのように、配布された白紙を眺めるだけで鉛筆を動かそうともしない。ようやく書き始めたと思うと、紙の隅に日本語でごちゃごちゃ書いて、それを英訳しようとしていた。その後のアンケート調査で、高校時代にこうした自由英作文を経験した学生は、一部の私立高校の卒業生を除いては皆無で、しかも、高校の英語の成績と書いた作品の出来栄えには全然相関がないどころか、むしろマイナスの相関しかないことが判明したのであ る。そこで、「学年末には、まとまりのある200語以上の英文を書けるようにするにはどう指導したらよいか」というリサーチ・クエスチョンを設定し、教科書は使用するが、基本的にはそのテーマに沿った英文を私が話し、そこから対話になる表現を選びだしてペアで対話をさせ、その後、対話した内容を素早く英語で書かせる。次に教科書を黙読させて参考になる表現にunderline させ、それらを利用してfirst draft を書かせ、友達からコメントと評価をもらい、それをもとにsecond draft をノートに書くことを宿題とする。成績はそのノートを私が夏休みと冬休みにまとめて読んで評価することにしたのである。このパタンにすこしずつ改善を加え ながら2年ほど実施した後、その成果を日英英語教育学会で口頭発表し、また、紀要にも投稿した。

だから、私の2つ目のARの論文は、最初の「教室で起きていることの理解」を狙ったリサーチとは異なり、「教室の課題を改善する、すなわち、成果を求める」ものとなったのである。当時、私が両者の差を意識していたかというと疑問である。むしろ、両方とも目先の課題の解決を目指したという点では同じだと考えていた。幸いなことに、発足して間もなかった日英英語教育学会は、イギリスのReading 大学と提携していて、論文審査にはそのスタッフも参加してくれた。私の論文に関しては、Process writing で当時の世界的な権威であったRon White 教授から過分なおほめの言葉を頂戴し、発刊記念号の巻頭論文となったのである。また、同じような発想で教養英語のreading のARも実施したが、それは2000年8月1日に開催された全国英語教育学会の問題別討論会「授業研究」で発表し、多数の参加者の活発な議論を呼んだ。

このような実績があるのでARの意義は誰にも納得してもらえると考え、中・高の先生たちの講習会に招かれるたびに紹介したのだが、受講者の反応は一様に冷たかった。そして異口同音に「横国の優秀な学生だから効果があったので、意欲も能力も低い中学や高校生に上手くいくわけがない」と信じてもらえなかった。そんなある夜、山形大学での教え子の奥山竜一氏が「先生、相談に乗ってください」と電話をくれた。県の中学校英語教育研究大会で「コミュニケーションとしての書く指導」の研究授業をしなければならないという。運の悪いことに、校務分掌の関係で彼が1年から育ててきた2年生のクラスではなく、英文和訳の授業を受けてきた3年生のクラスで公開授業をしなければならない。ところが、このクラスは彼が教室で英語を話し出すと全員がソッポを向いて視線を合わせようとしない。中には、反抗的な態度をとる生徒さえいる。そんな中で、どうしたら「コミュニケーションとしての書くこと」の指導ができるでしょうかという相談であった。

これは彼にとっては大変な難題である。英語教師なら誰でも知っていることだが、書くことの指導が一番難しい。だから通常、書くことの公開研究授業となると、前日までに用意させておいた英作文を生徒に読ませるという形態が多い。しかし、それでは指導のプロセスや他のスキルとの関係や、教科書の指導との関連など、参加者が一番知りたいことは全て隠され、ただ、ただ、出来上がった英作文の見事さを誉めるしかない。奥山氏はこれをよしとはせずに、私に相談したのである。私としては願ってもないチャンスであった。日ごろ「中学や高校でARを実践してくれる人はいないか」と探し求めていたからである。さっそく山形に行き、奥山氏や研究をサポートする坂井氏に会い進め方を相談した。これ以降、私は何度も授業観察をしてアドバイスを与えたのだが、結局は奥山氏は夜も眠れぬほどの心労と生徒との葛藤を経験することになった。しかし、その努力のおかげで研究授業は大成功で、参会者はショックとも言えるほどの感動を受け、奥山氏自身も教師として大きく成長した。アクション・リサーチの手法を前面に出した中学校の研究授業は、私が知る限りはこれが最初だから、この大会 (1997/9/28)はARにとって記念すべき日だと言えるだろう。ただ、奥山氏の実践がこの研究授業で終わっていたら、ARとしては中途半端のままだった。最後の仮説は、まだ、取りかかって間もなかったからである。それに気付いた彼は、私の電話でのアドバイスを得ながら独力で研究を進め、プロセス・ ライテングの手法を加えることで、学年末には見事に当初のARの目標を達成したのである。奥山氏のリサーチの経過は、『英語教育』(大修館)に1年間連載 され、2年後に著書として出版された。詳細は『アクション・リサーチのすすめ』を参照されたい。

この本にはまた、高校の現役教師の身分のまま横国の大学院生となった宇喜多宣穂氏の高等学校でのOral Communication AのARも掲載されている。これは彼女が院生のまま非常勤でOCAの授業を担当させてもらい、その成果をまとめた修士論文が基になっている。彼女が大学院 に入学したのは1996年だから、私が横国に転勤してから5年が経過しており、その間に私は鎌倉付属中学校の校長になり、英語科内でも東京学芸大学連合大学院(博士課程)で英語科内ではただ一人の「丸号教授」となっていた。だから、かってのStranger は国大でそれなりの地位を占めていたはずである。しかし、宇喜多氏が私の薦めでARで修士論文を書き、いよいよ審査に臨む時にはかなり緊張した。直接審査に当たる教官がARをほとんど知らなかったし、また、最終的に合否を判定する審査委員会にもARの知識を持った人はいなく、「大学では学問を。実践は現場で」というムードが支配的だったからである。指導教官としての私は、宇喜多氏の論文の内容もさることながら、審査委員をどう納得させるかに頭を悩ませ、事前には説明し、嘆願し、当日は論争も覚悟で審査委員会に臨んだ。結果は、心配したほどのことはなく、若干のクレイムを受け入れることで修士論文として認められたのだが、(そしてそれ以降は、ARで修士論文を書く学生が佐野研究室では急増した)、当初の緊張は今でも記憶に生々しい。こうしてstranger が市民権を得ると同時に、ARも横国では研究手法として認知されたのである。

とすれば、横国に転勤してきてからの6年間は、私にとっては試練の年月であったし、そのことが私とARの絆を強めることにもなったということができるだろう。まさに、When your life is full of lemons, make lemonade. の諺どうりの展開だった。この間に私が書いた業績の主なものは次のようである。

*「Top-down かbottom-up か:リスニング指導のアクション・リサーチ」『英語音声学と英語教育』(開隆堂出版 1992)

*『異文化理解のストラテジー』(大修館書店 1995)

* "Action Research in Writing Class: How to Develop Writing Proficiency in Japanese University Students". 1996. JABAET Journal. No.1 日英英語教育学会

*「教師の指導力を伸ばすAction Research の進め方」『英語教育』Vol.47-1号から14 号までの連載(大修館書店 1998-99)この連載の内容は以下の本の基になった。

*『アクション・リサーチのすすめー新しい英語授業研究』(大修館書店 2000)

とにもかくにも、私はこのようにしてARに出会い、教え子の力をも借りながらその有効性を確認し、自信を持ってARを世に問うことになったのである。

(配信日 2011/06/01)