5.5. まとめにならないまとめ

AR支援ネットワーク通信(64) 「アクション・リサーチを支える人々(5)」

特集「アクション・リサーチを支える人々」の最終号は、昨年の全国大会で大学・教員養成部門のコーディネタを務めてくださった佐賀大学の横溝先生のまとめです(先生によると、「まとめにならないまとめ」とのこと)。ご承知のとおり、横溝先生は外国語としての日本語教育がご専門で、『日本語教師のためのアクション・リサーチ』の著者でもあります。今回の特集は、「アクション・リサーチを支える人々」ということで、メンターやコーディネタとしてARに関わって こられた皆さんに、それぞれの立場からご報告をいただきました。毎回、原稿をいただくたびに私が感じたことは「誠実な思い」でした。ARに必死で取り組ん でいる先生方への思い、そして、その先の、教室にいる子どもたちへの思いです。その思いが、実を結んでいけるようにするためには、私たちはどのような支援をしていけるのか。横溝先生のお話に耳を傾けてみましょう。

「まとめにならないまとめ」 横溝 紳一郎(佐賀大学)

以前ある方から言われたことなの ですが、どうも私は「まずはやってみてから考える」タイプのようです(以前はやった「動物占い」でも、チーターでした!)。ARに関しても同様で、私が初 めてARと出合ったのは、1997年の春、留学していたハワイ大学大学院のESLの授業でした。授業で1回だけ取り上げられたARのことが何となく気に なっていた私は、その年の夏に、新たな勤務先だった名古屋の南山大学の同僚3人に「一緒にARとティーチング・ポートフォリオをやりましょう!」と呼びか け、授業での記憶だけを頼りに無我夢中で取り組んでみました。今から考えると、無鉄砲で恥ずかしい話なのですが、私はARをやろうと呼びかけながら、実際 には進め方さえよく分かっていない状態で、1学期という実施期間の途中で、「あ、これもやっておかないと、ARとしては非常に不十分」という点に何度も気 付き、修正を繰り返すありさま。実施期間終了後、「これじゃいけない。もっとちゃんと理解しないと、『ARをやりました!』なんて口が裂けても言えない」 と反省した私は、ハワイに戻り、一週間ほどかけて書籍の購入・文献のコピーを行い、理論面・実践方法等を必死に勉強し直しました。佐野先生のご著書『アクション・リサーチのすすめ』(http://plaza.taishukan.co.jp/shop/Product/Detail/20905)の数ヵ月後に発刊された拙著『日本語教師のためのアクション・リサーチ』(http://www.bonjinsha.com/product/?item_id=216)は、その再勉強をまとめたものです。

その後10年以上、様々な現場で、AR promoter としてARを実践する方のお手伝いをしてまいりました。その中で強く感じるようになったのが、「協働性」と「メンタリング」の大切さです。「協働性」に関して、アクション・リサーチの会@yokohamaの『アクション・リサーチ研究』(創刊号)で、私はこんな風に述べています。

「AR を個人単位で行なうことを認めるか」または「グループで行なうことを必須条件とするか」について、私は最近、「協働作業としてのARがいいですよ!」とお 勧めすることにしています。お互いに励まし合いながらリサーチを進めることができますし、それを通じて、他の人々との横の繋がりを拡げることも可能になるからです。また、他の人々との協働作業を通じて、教師が今まで無意識に持っていた信念や哲学が揺さぶられることも多く、さらに深い内省につながることが多 いからです。もちろん一人で実施なさることを禁止(?)するつもりはありませんが、その場合は、メーリング・リストなどによって意見・情報交換ができるようにしておくことが、ARの継続と深まりにつながると思います。

この考えは今も同じです。もうひとつの「メンタリング」が、この通信のメイントピックですので、以下は、それに絞って話を進めます。

AR のpromoterをするうちに、私は「果たしてARは、実施する人たちを幸せにするのだろうか?」という悩みを抱えるようになっていました。実証主義的なデータガチガチのリサーチに比べると、ARはとっつきやすく見えますし、実施するためのハードルも低く思えます。でも、実際に実施している方々と接すると、落ち込んだり泣き崩れたり自己否定まで始めたりという方までいて、「これを行えば、みんな幸せになりますよ!」とはとても紹介できないな、という気持ちになります。しかしその一方で、実施した先生方の報告会に参加すると、とても強い「目力(めぢから)」を感じることがほとんどなのです。目力の理由を色 々と考えてみたのですが、それはどうも「(強さも弱さも持った)自分自身をありのままに受け入れた状態なのかな」という考えに至りました。それはきっと「教師としての等身大の自分をしっかり認め、自分のめざす目標を明確にして、自分のペースで少しずつ近づいていこう」という前向きな気持ちの表れなのでしょう。

しかしながら、そこに至るためには、AR実施者は、「状況との対話」そして「自己内対話」という形で、自分が直面している教室、生徒、教科書、社会、そして自分自身と真正面から向かい合い、考え続けることが求められます。このプロセスは、特に授業がうまくいっていないとき は、とてもつらい作業です。「つらいこと」を続けるためには、仲間や先輩といった、支えてくれる人の存在が必要です。この後者が、「メンター」といわれる人たちなのでしょう。

「どうすればよいメンターになれるのか」。これはとても難しい問いです。私自身、そのスキルをできるだけ早く身につけたく て、これまで様々な所に足を運びました。その中で、現在のところ一番「役に立った」と思っているのが、親業訓練協会が主催している『教師学』の4日間の ワークショップでした(http://www.oyagyo.or.jp/)。メンターが行う大切な仕事の一つ「傾聴」の徹底的なトレーニングを受けられたからです。「傾聴」を行う際には、「待つ」「相手の可能性を信じる」ことが必 要不可欠で、このことは「メンタリング」にも100%当てはまります。以下、近藤千恵(1997)『「教師学」心の絆をつくる教育:教師のための人間関係講座』親業訓練協会、pp.19-25からの抜粋です。

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「待ち」の教育を忘れていないか

黒坂正文さんのコンサートで、「待っているから」という曲を聞きました。私は心の中で「そうなんだよね、そうなんだ」と言いながら熱くなるものを感じていました。ご存知の方もおいででしょうが、詩を紹介してみたいと思います。

心みたされるまで 花と話してくるがいい

大丈夫 父さんはここで待っているから

まぶたがつらくなるまで 星を数えてくるがいい

大丈夫 父さんはここで待っているから

今 君にしてやれること 父さんには何もない

ただひとつだけ 君を待っていよう

そんなに急がなくても 走らなくてもいい

大丈夫 父さんはここで待っているから

君には君の歩き方 生き方があるはずだ

大丈夫 父さんはここで待っているから

今 君にしてやれること 父さんには何もない

ただひとつだけ 君を待っていよう

「待つ」とは相手の人生を大切にすることだが、自分にそれができていただろうか - 。

「待つ」とは相手を愛し、信じていなければできないことだが、それが自分の中にあっただろうか 一 親としての自分、教師としての自分のあり方をふり返させられた思いがします。

けれども、「待つ」というようなことで親や教師がつとまるのだろうか、と思われる方も多いかもしれません。その時どきに親として、教師として、「何をすべきか」「何がしてあげられるか」を考えて行動しなければならないのではないか、と思われる方が多いかもしれません。すべきことをする=そのすべきことが何で あるかを知りたい、してあげられるようになりたい=そのための知識や技術などを身につけたい、ということを熱心な親や教師ほど思うかもしれません。

では、「待つ」ということを、「すべきこと」「してあげられること」の中に入れてみることはできないものでしょうか。実は、「待つ」ことは教育的なかかわりの土台なのです。子どもたちは、ときに静かに、ときに激しく成長しています。一つ一つのことが、すべてその子の人生のプロセスであり、一場面なのです。

子 ども自身が自分の問題としてすべきことを決定していくのですから、紆余曲折、悩みながらの歩みになるかもしれませんが、子どもはその中でこそ自分の道を探し、つくりあげ、成長していくものです。教育にたずさわる者は子どもの成長をじっと見守る決心がなくてはなりません。そこに、「待つ」ということが出てく るのです。

(中略)

「待っていたら間に合わない」と思われるかもしれません。もう少し「待つ」ということについて考えてみましょう。それは相手に対する姿勢のことで、何もしないでいるということではありません。黒坂さんの詩の花と話をしている子どもが崖から落ちそうになったら、声をかけたり 手を伸ばすのは当然でしょう。星を数えている子どもが寒くてクシャミをしているようなら、そっとマフラーを巻いてあげるのも当然のことでしょう。

「待 つ」というのは、急がなくてもいい、君の歩き方、君の生き方でやってごらんという姿勢のことなのです。むしろ、相手の自発的な成長を援助するようにかかわっていくことが必要です。どうすることが援助になり、どうすることが援助にならないのかをわかって、具体的な方法も身につけていかなければなりません。 「待っていたら間に合わない」とお考えになる方も、実は、何をどうすることが子どもにとってよいことなのかをお知りになりたいのではないでしょうか。

(中略)

生徒が自分自身を見つめ、高めて、自分の人生をどのようにつくっていくか、社会にどのように貢献していくかを見きわめられるようにしていくことが教育の本来の目的です。そのために、親や教師は知識と思考、判断力、情緒性、徳性、意志力、行動力、体力、技術の習得など全人的 に成長してほしいと望んでいます。

その達成のためには、親と子、教師と生徒の長い年月のかかわりが必要になります。その間、コミュニケーションがうまく成り立っていなくては、伝えたいことが相手の心の中に入っていきません。「待つ」ことを続け、援助を続けて、最後には子ども自身に選択させ、決定さ せていくことが教育にたずさわる者のとるべき姿勢なのです。

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この「生徒/子ども」を「メンティ」に、「親」「教師」を「メンター」に換えて読むと、メンターの 持つべき心がけが見えてきます。自分の目の前にいるメンティを、自分の思い通りの教師に育て上げるのではなく、メンティが自分で独り立ちできるように、見守りながら支え続ける。そんなメンターでありたいと、私は願っています。

とはいえ、そんなメンターになるのは、簡 単なことではありません。それは私も同様で、毎日の生活、学校、地域、家庭、様々な場面で、失敗の連続です。でも、失敗を続けながらも、少しずつ少しずつ「待てる」「相手の可能性を信じられる」ようになってきているようにも思えています(単に歳を重ねたから、またはだんだん自分に甘くなってきているから、 なのかもしれませんが)。よりよいメンターになろうという試みは、よりよい教師になろうという試みと同じだと思います。Endlessかつ challenging、でもとてもexcitingな道のりなのでしょう。

(配信日 2011/02/01)