年間テーマ呼び掛け文

2023年度(令和5) 年間テーマ“インターセクショナリティ(交差性)” 

物語研究会2023年度テーマ「インターセクショナリティ(交差性)」

テーマ委員:石垣・内田・深澤 


 たとえば「障碍(害)者」ということばがある。「碍(害)」の字づらから、あたかも当人の存在自体が、障碍(害)物であるかに誤解される恐れがある。そこで「障がい者」などと言い替えて、配慮したつもりになる。けれどもそれでは「さわりがい者」と誤読される恐れがあり、いやそれどころか、ひとつの語彙を漢字とかな(・・)とで「混ぜ書き」すること自体(たとえば「剽せつ、ねつ造、改ざん」などのように)、日本語の破壊行為になってしまう。いたずらに字句をいじったところで、なんにも変わりはしない。「障碍(害)」は「個人の側」にあるのではない。様々な障壁(バリア)を設けている「社会の側」の責任としてあるのだとする人々の意識変革が、まずは必要だ。

 さて「インターセクショナリティ(Intersectionality)」である。字づらとしては「インターセクシュアリティ」と、意味内容としては「ダイバーシティ」と紛らわしい。日本語の訳語としては、「交差性」の語が宛てられている。その基本文献のひとつ、キンバリー・クレンショーの論考「人種と性の交差点を脱周縁化する」(1989)は、人種的には「黒人」で、しかも「女性」という複合化されたマイノリティの不利な立場を、「交差点」の比喩でもって、わかりやすく説明している。

 

  四方向全てに往来がある交差点の通行に例えてみよう。交差点の往来のように、差別は一方向から生じるかもしれないが、別の方向からもやってくるかもしれない。交差点で事故が発生した場合、あらゆる方向から、ときには全ての方向から走って来る車によって引き起こされる可能性がある。(引用は『現代思想』vol50-5、p51)

 

クレンショーはコロンビア大学ロースクールで教鞭を採る法学者の立場から、法廷であつかわれる差別救済事案が、「人種」と、「性」とで、別々にあつかわれて、その複合形態に対応した法の枠組みが、欠如していることを問題化する。つまり「黒人」で「女性」で、しかも非正規雇用の「労働者」である場合、「-1」+「-1」+「-1」=「-3」となるのではなく、それらが複合された場合、「-5」にも「-7」にもなってしまう。なのに現行法規の枠組みの下では、「人種」差別か、「性」差別のどちらかしか、法廷の場ではカウントされない。

ことは法廷に限られない。「人種」や「性」のほかにも、階級や市民権(国籍)の有無、ネイションやエスニシティ、多様なセクシュアリティ(性的志向)やアビリティ(能力=学歴)など、様々な属性・局面(セクション)が複合して(=交差して)、その相乗作用により個々人の社会的地位が決定され、結果、社会の不平等化がますます助長され、富と権力の偏重が、親から子へと再生産されてしまう悪循環から、いつまでたっても抜けだせない。アリス・ウォーカー原作の映画『カラー・パープル』(1985年公開)を、ずいぶんとむかしに見たことがあった。そこでは、黒人男性による家庭内での性的暴力の常態化が、告発の対象とされていた。

パトリシア・ヒル・コリンズ、スルマ・ビルゲによる共著『Translated from INTERSECTIONALITY』(2020/翻訳書は小原理乃訳『インターセクショナリティ』人文書院、2021)によれば、昨今の新自由主義(ネオリベ)に基づく諸施策が、そうした複合化された差別構造を温存するだけでなく、さらにそれらを助長させているという。構造的な問題を無視して、個人の責任にすべてを還元し、公的領域を限りなく縮小していこうとする新自由主義は、軍事や教育、医療や刑務所(収容施設)などの部門で経済効率を優先させ、それらを民間の組織に積極的にゆだねていく。同書第7章「インターセクショナリティとクリティカル・エデュケーション」では、そうした新自由主義による施策の浸透が、結果として研究・教育の場にもたらす危機的状況を伝えて秀逸である。

差別救済と社会的公平をめざす「インターセクショナリティ」の、たぶんに政治的な〈運動〉としてある、以上のような分析視角を、日本の文脈に当てはめたならどうか。『現代思想』vol50-5(2022・5)の特集「インターセクショナリティ――複雑な〈生〉の現実をとらえる思想」に寄せられた、フェミニズムの立場からする諸論考が参考となる。そこでは、先住民としてのアイヌや、基地問題を抱える沖縄、在日や被差別部落出身者の置かれた位置、外国人との混血や移民労働者の「不法」就労などの問題に加え、ジェンダーやセクシャリズムに軸足を据えた、日本社会の閉鎖性への問い直しが、多角的になされている。

さて問題は、若き研究者集団を標榜する「物語研究会」の年間テーマとして、この「インターセクショナリティ」を取りあげるに際し、どのような切り口が可能かということだ。正統の「カタリ(歴史叙述)」に対し、異端、傍系の「もの」の「カタリ」がある。その「もの」性に軸足を置くことで、日本という国民国家を維持補完するイデオロギー装置としてある国文学研究(日本文学と言い替えたところで同じことだ)という制度を、その内部から告発し、批判するため、不快で、耳障りで、場違いな(=クイァな)ノイズを絶えず発し続けること。そこにこそ「物語研究会」の存在意義があるのだとしたら、まず心がけねばならないのは、「理論」と「実践」とをセットにして、現状への批判的態度を失わず、個々人の意識変革をへて、それをさらに社会変革へとつなげていくこと、これである。我々にとっての「実践」の場とは、いうまでもなく「研究」と「教育」にほかならない。ただしその際に忘れてならないのは、我々の多くが「日本国籍(永住権?)」の保持者であり、しかも「高学歴」で「シスジェンダー」のマジョリティの立場にあること、つまりこの日本社会にあっては「白人性」を担った無徴化された存在として、ときに意識しないまま、加害の側に身を置いてしまう特権者であることの自覚である。

北海道大学でアイヌ・先住民研究センター准教授の職責を担う石原真衣は、先の『現代思想』誌上に掲載された座談会で、逆説的にこう問いかける。「あなたたちはベル・フックスをちゃんと白人の立場で読みましたか?」と。ベル・フックス(1952~2021)とはブラック・フェミニズムを主導した社会運動家で、主著として『アフリカ黒人女性とフェミニズム――ベル・フックスの「私は女ではないの?」』(明石書店、2010)がある。白人、中産階級、高学歴の女性たちによって主導されてきた従来のホワイト・フェミニズムの欺瞞性を、激しく告発したフックスのその著書を、石原はまず、グローバル・ノースの「豊かな国」に身を置く「白人」(=マジョリティ)の立場で読み、限りない不快感を覚えたという。しかしアイヌに出自する、クオーターとしての自己の有徴化(マーキング)された「黒人性」(=マイノリティ性)を自覚したとき、別の読みが可能になったという。

石原がその立場を変えることで見えてきた、「インターセクショナリティ」の分析視角が明らかにする、現代社会の複合的な差別の構造と権力の偏重のただ中にあって、まさしく複合化されたそれぞれの属性・局面(セクション)により、我々は本質的に分類不能な(=特定の何かとしてアイデンティファイしえない)多面的な存在として、ときに加害の側(マジョリティ)に立つこともあれば、被害の側(マイノリティ)にも立ちうる。それはまた、個々のテキストに向き合う際の、研究者としての姿勢に、絶えず反省を迫る試金石ともなるのだ。

ということで当面の切り口としては、「インターセクショナリティ」の分析視角を通して、以下の4点をアプローチとして提示しておく。

 

1対象テキストのうちに、人種、ジェンダー、階級などが交差する複合化されたことばの、相互に利害を異にし、矛盾対立する不協和音を丹念に聴き取ることにより、これまでのカテゴリー別のアプローチにおいて見過ごされてきた複合的な暴力を可視化するとともに、作品のアクチュアリティを問い直すこと。

2「アイデンティティーズ(・)」と複数形で示される作者主体や語り手の、その輻輳化された様態にスポットをあて、その言語表現とのあわいに生ずる矛盾葛藤を目ざとく探り当てること。

3従来の「注釈」、「本文」、「引用」、「享受」の領域において、二項対立や二元論的な見方によって見過ごされてきた、分類不能なものを暴力的に導入することで、既存の制度や構造に揺さぶりをかけ、それを生成の相の下に絶えず更新していくこと。

4どういう資格でテキストに向き合うのか、その読者(=研究者)の位置取りにより、意味を微妙に違えてしまうことばのあれこれを、加害と被害の観点から丹念に腑分けしていくこと、これである。

 

冒頭で「障碍(害)者」ということばについて見たように、人文学(ヒューマニティーズ)の徒たる我々は、なによりもことばのあつかいに慎重であらねばならない。中でもとりわけ、様々なハラスメントを誘発することばの〈暴力〉に対しては、毅然たる態度でこれを退け、批判することが求められる。その営みを個々人の意識変革へとつなげ、さらには社会変革へとつなげていくこと。そうすることで社会的正義を実現することが、人文学に課せられた使命なのだからして。

ついてはテーマ発表の場において、各人による刺激的で挑発的な問題提起の、「実践」に移されんことを、大いに期待する。

以上

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