例会・大会 発表要旨

2024年度(令和6)7月例会


【自由発表】

加藤希「広瀬大忌祭の神話的風景―「山口の神」と「さくなだり」」 

 四月と七月に行われた穀物の豊穣を祈る祭祀、広瀬大忌祭にて宣読された広瀬大忌祝詞(『延喜式』巻八)について考察する。広瀬大忌祝詞は構成や章句に問題点の多い祝詞とされ多くの先行研究で検討されてきたが、いまだ定まった説はない。とくに後半に登場する「倭の国の六つの御県の山の口に坐す皇神等」を祀ることに関し、この神々が農耕に関わらない神であることから濫りな詞章として捉えられている。人々の生活に直結する豊穣の祈請が粗略なものであるはずはなく、「山口の神」への理解が不十分であると考える。「山口の神」は『皇太神宮儀式帳』『止由気宮儀式帳』や『延喜式』祈年祭祝詞では殿舎の用材を切り出す際に祀る神として表れるが、広瀬大忌祝詞内では五穀、特に稲の生育に不可欠なよい水を下してくれる神として描かれている。

 「山口の神」は山という異界から人間の世界への回路をひらく神であり、広瀬大忌祝詞はこの神が水を「さくなだり」に下すという表現を用いることにより神話的風景を参集者に想像させる。「さくなだり」という語は大祓詞(『延喜式』巻八)にもあらわれ、地上から祓われていく罪はまず「さくなだり」に流れ落ちる水によって運ばれる。この「さくなだり」は、神々の世界から人間の世界へと移動させる際に欠かせない作用であった。「山口の神」と「さくなだり」に焦点を当て、祝詞が紡ぐ神話的風景を鮮明にすることを試みる。


【テーマ発表】

年間テーマ「インターセクショナリティ」第2回勉強会 

 7月例会は、4月例会での「キックオフ勉強会」に引き続き、テーマ委員2名(石垣・内田)による「インターセクショナリティ」の第2回勉強会を行う。

森山至貴の論考、「今度はインターセクショナリティが流行ってるんだって?」 (『現代思想』2022.5)を俎上に、文学研究(主に古典領域)から「インターセクショナリティ」にアプローチするための具体的な方法について、前回の勉強会を更に発展させる形で検討できる機会になればと考えている。同論文は、「インターセクショナリティ」に関する無知や誤りを含んだ理解に対して理論的に応答する形式で書かれており、初学者にとっても読みやすく、なおかつ概念理解にも資することから今回取り上げることにした。

 「勉強会」においては、まずテーマ委員が概要説明を行った後、ディスカッションを通じて実践的なアプローチの方法を検討することを目指している。是非多くの方に気軽に参加していただきたい。

2024年度(令和6)6月例会


【自由発表】

袴田光康「平安期における「名所」の形成」 

 今日でも観光の「名所」などと言うが、単に風光明媚な土地として有名であるだけでなく、訪れたことがない人にでも何となくその土地のイメージを喚起させることができる地名を「名所」と呼んでいるように思う。この「名所」の概念は、「歌枕」の基盤として10世紀頃から形成されたものと見られるが、そこは和歌だけでなく、寝殿造様式庭園、州浜、名所屏風絵など総合的芸術の相互作用の場でもあったと考えられる。ただし、庭園、州浜、屏風絵などは当時のものは全く現存せず、専ら屏風歌の研究に依拠してきたのが実情である。屏風歌の研究の進展に伴い、屏風に描かれた名所絵についても解明されてきたが、そもそも倭絵における四季絵の中からどうして名所絵が独立していくのか、その理由さえ明確でない。そこで、本発表では庭園の方面からアプローチしてみたい。『作庭記』(11世紀)には諸国の名所を庭園に取り込むことを強調されており、源融の河原院が塩釜を模したことで知られるように庭園が「名所」と密接に関係していることは明らかである。庭園の池と中島には蓬莱島の表象であるが、そこには常世や浄土の理想性も重層化していると考えられる。庭園の常世のイメージが、歌合などの場に設えられた州浜が青松白砂の風景を再現するものが多いこと、あるいは屏風歌に詠まれた「名所」も難波、住吉、須磨などの海辺の地が多いことなどと関係するのか、それもしないのか、まずはそのあたりから考察をしていきたい。 


【テーマ発表】

武藤那賀子「言語化不可能な存在――『日本霊異記』における半人半牛」 

 発表者は、「『日本霊異記』の動物化した人々」(『物語研究』第21号、2021年3月)において、「人」であった際の罪業によって、次の生において動物になった人々について論じた。その際に、上半身が牛で下半身が女性の死体が出てくる話(『日本霊異記』(下巻)「非理を強ひて債を徴り、多の倍を取りて、現に悪死の報を得る縁 第二十六」)を特異な例として位置付けた。動物化した人々を、当該論文では「あわいの存在」としたが、本発表では、その存在そのものについて考察していく。「あわいの存在」は、その存在そのものを言語で語ることができない。また、その存在そのものが語ることもできない。このように「言語化不可能」であるという点においては、「現実界」(ジャック・ラカン)に通じるところがある。そのため、本発表では、「現実界」を文学で表したものととらえることのできる『はてしない物語』および『ナルニア国物語』を入り口とする。そして、半人半獣あるいは人の姿と獣の姿の双方を取るという設定のものについて考察し、『日本霊異記』の例につなげたい。参考文献として、以下のものを掲げる。

2024年度(令和6)5月例会


【自由発表】

西原志保「人形と共感―『源氏物語』と『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』」

 両大戦間のヨーロッパを思わせる架空世界を舞台としたアニメ作品『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』(原作暁佳奈、京都アニメーション制作、2018年)について、主人公の名前「ヴァイオレット」が紫色の花であること、年上の男性と少女の恋物語であることなどから、個人のブログ等で『源氏物語』との類似性が指摘されている。『源氏物語』若紫巻の一部が国語教科書に採録されていることから、光源氏と若紫の物語が制作側享受者層双方に共有されていてもおかしくはなく、エヴァーガーデンという姓(孤児であるヴァイオレットを引き取った養母の姓)も六条院の四季の町を思わせる。

 ただ、本発表において特に注目したいのが、『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』に登場するタイピストのような職業が「ドール」と呼ばれること、ヴァイオレットが「ドール」となり、人間の「心」らしきもの、とりわけ「愛」を理解していくことである。『源氏物語』においても若紫が男女関係を理解し、「愛」を身につけていく過程で、手習や雛遊びが機能すると指摘されるからである。

 そこで本発表では、人形(「ドール」と「雛」)と書くことに注目し、『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』を『源氏物語』のアダプテーションとして考察することによって、「ドール」という職業名が、「愛」や「心」が何よりも作られた、人工的なものであることを指し示す装置として機能すると指摘する。


【テーマ発表】

張培華「『源氏物語』に見る三世代の悲恋の交差性」 

 『源氏物語』における悲恋についての研究は、すでに様々な角度から優れた業績が積み重ねられている。しかし、近年の現代思想の方法としての一つであるインターセクショナリティの観点からの探求はまだ多くは見られない。そこで、本発表は、インターセクショナリティの主旨を据えて、貴族社会における「複合的な差別の構造」や「権利の偏重」、そして「利害関係」などに焦点を当て、『源氏物語』における三世代の悲恋が起きた原因について、新たな視点から考察してみたい。

 具体的には、次のような三世代の悲恋を中心として考える。一世代は、桐壺巻をめぐって、桐壺帝と桐壺更衣の悲恋についての交差性を考察する。桐壺帝が身分は低い桐壺更衣を寵愛したために、宮廷の中で非難、嫉妬や虐めなどが起こり、桐壷更衣は耐えられず亡くなったのである。その際、作者が楊貴妃の事例を繰り返し引用していた。楊貴妃の死は如何に桐壺更衣と繋がっているのか。二世代は、光源氏と藤壺の悲恋についての交差性を考究する。光源氏は三歳に母を失ったために、母と似た義母である藤壺を愛してしまい、実らぬ恋に堕ち込んだ。藤壺が光源氏を避けたことにより、光源氏の恋慕の心は苦しくなる。苦しい光源氏は如何に自らの恋情を他の女性に拡散したのか。三世代は、薫と浮舟の悲恋についての交差性を分析する。なぜ薫は浮舟への純愛を成し遂げられなかったのか。おそらくライバル匂宮いたからであろう。如何に匂宮の策略が薫へ影響を与えたのか。

 以上のような悲恋の事例を取り上げて、本発表はインターセクショナリティの視点から、『源氏物語』に見る三世代の悲恋の原因を新たに探究してみたい。

2024年度(令和64月例会


【自由発表】

日向一雅「文学論の時代――九~十一世紀の詩論・和歌論・物語論――」

 平安時代初期から中期にかけての日本文学史における文学論の展開を詩論・和歌論・物語論のジャンルにわたって概観する。具体的には最初の勅撰漢詩集『凌雲集』『文華秀麗集』『経国集』の「文章経国」の文学論が、これまた最初の勅撰和歌集『古今和歌集』の和歌論に継承され、さらに『源氏物語』の物語論にまで受容されたことを確認しつつ、和歌、物語という文学ジャンルがどこで文章経国論からの差別化を図ったのか、それぞれのジャンルの特性をどのように確認したのかを検討する。勅撰漢詩集の揚言した文章経国の文学論は、初めての勅撰和歌集であった『古今和歌集』にとっては先例としても手本としても無視しえないものであったことは理解しやすい。一方で漢詩とは異なるジャンルの特色をどこに見定めるかは重要な課題であったはずである。他方『源氏物語』の物語論は女子供の娯楽の読みものとしてしか認知されていなかった物語を、いかに和歌や漢詩のような勅撰集の地位に匹敵する文学として意義づけうるかという点を揚言するのである。ここでも文章経国の文学論は明確に意識されていた。それを意識しつつ物語というジャンルの特性を宣揚したのである。文章経国の文学論が平安文学史の冒頭を飾ったことは、その後の平安文学史に骨太な骨格を与える意義を有したといえよう。同時に、それぞれのジャンルの特性を明らかにしようとする文学論にとって文章経国の文学論は格闘の対象になったのである。


【テーマ発表】

テーマ 年間テーマ「インターセクショナリティ(交差性)」キックオフ勉強会~「2年目のインターセクショナリティ」のために~テーマ委員による問題提起およびテーマに関する相談会 

 2023年度に続き、2024年度も年間テーマ「インターセクショナリティ(交差性)」が継続されることになった。2年目を迎えるにあたって、このテーマについての基本文献を紹介したり、各自の研究にどう活かすことができるかアイディアを出し合う機会として、今回はキックオフ勉強会を企画する。いたってカジュアルに、今までテーマとの距離を遠く感じていた方にこそ気軽に口を開いて頂けるように。

 ひとりの人間は、階級、ジェンダー、年齢、などの複数の要素を持っている。現代を生きる私たちだけでなく、光源氏だって浮舟だって、名前すら書かれないあの人物だって、それぞれが複数の要素が「交差」するところに存在している。この「交差」によって生まれる独特の抑圧や権力関係を見つめるために、新たな年度の最初の一歩としたい。

 当日は、次のような流れで進めていく予定である。

 特に大事なのは、3である。

 ――4月のテーマ発表者が決まらない。あちこちお願いもしたけれど全滅。ならばテーマ発表委員が発表すればいいと思われそう?でも、委員は全員はじめに発表している。仮に委員ばかり繰り返し発表するとしたら、関心を持ってもらえていないようで、なんだかむなしい。

 でもさ、インターセクショナリティって古典文学にもかなり使えそうだと思うんだよね。もしかしたら、コリンズ&ビルゲの『インターセクショナリティ』をまだ読んでいない人も多いのかも。自分の研究との関わりが見つからないと思われているのかも。だから、まずは勉強会をやってみない? 基本的なことから説明をはじめて、発表したくなってしまうくらい興味を持ってもらえるように。そう、春だし、サークルの新歓をやるような気持ちで。

 そんなZoomでの委員の相談から始まった企画。「あ、年間テーマって継続になったんだ」と今気づいた方にも、ぜひ参加して頂きたい。