【自由発表】
日向一雅「朱雀院と光源氏―朱雀院に見る皇統の重み―」
光源氏の五十余年の人生にもっとも長く深く関わった人物は紫上をのぞくと、朱雀院と頭中将が代表的な人物であろう。その関わり方は頭中将は権門として、朱雀院は皇位継承者として、それぞれ源氏の人生を深く規制した。本稿では朱雀院を取り上げる。物語の中では朱雀院の人物像は弱弱しく見える。その人生については光源氏の「敗者」「負け犬」(注1)、あるいは「光源氏に対する影のような脇役」(注2)といった評価がされる一方で、「桐壺聖代を理想視」する点で源氏は朱雀帝を「共感しあえる存在」(注3)と認めていたとも評された。朱雀院の物語は複雑で堅牢な制度の問題を基底に据えており、それが源氏の人生にもっとも厳しく立ちはだかり規制したものであった点に注目したい。具体的には朱雀院の立坊、即位、上皇・法皇という人生における皇統の制度である。それは源氏の及ばなかった朱雀院の地位であり、そういう制度の問題について朱雀院、源氏ともどもさまざまなかたちで向き合う。そのような角度から朱雀院の物語を光源氏のありかたと併せて検討してみる。
【テーマ発表】
内田裕太「夢みることの困難―木村紅美「夜のだれかの岸辺」と川端康成「眠れる美女」における〈眠り〉の位相―」
「夜のだれかの岸辺」は、二〇二三年一月号の『群像』に発表された、木村紅美の長篇小説である。〈私〉こと梛木茜は十九歳の春から秋にかけて、母から紹介された、あるアルバイトに従事することになる。その内容は、橋本ソヨミという八十九歳の女性に、毎晩「添い寝」をする、というものであった。茜は映画の仕事をしたいという漠然とした希望をもっていたものの、進学や就労をするでもなく、実家で所在ない日々を送っていたため、「添い寝」のアルバイトを引き受け、ソヨミと関係を深めていく。そうした中で、ソヨミの現在に暗い影を落としている、戦前の幼少期の出来事が徐々に彼女の口から語られるようになり、茜もまた、自身の過去と向き合うことになる。
「夜のだれかの岸辺」のこのような物語内容は(木村自身もインタビューにおいて発言しているが)、老人たちが金銭と引き換えに、「眠り薬」による「前後不覚の昏睡」に陥った少女と「添い寝」する宿を舞台とした、川端康成の戦後の代表作である、「眠れる美女」(『新潮』、一九六〇・一~一九六一・十一)からの強い影響が見て取れる。しかしながら、〈老人との添い寝〉というモチーフは引き継がれているものの、添い寝する側も女性であるという、ジェンダーの反転のみには留まらない差異も、本作からは見出すことができる。そのことは、『眠れる美女』への批評性を指し示すことにも繋がりうるだろう。
以上のことを述べたうえで、本発表では、『夜のだれかの岸辺』を川端『眠れる美女』との比較を通じて検討してみたいと考えている。とりわけ、「添い寝」という営みに注目し、両作品の位相を捉えることで、本作のみならず、『眠れる美女』のアクチュアリティを改めて考える契機としてみたい。
【テーマシンポジウム】異文化において〈よむ〉こと――越境・翻訳・制度のなかの読解――
「シンポジウム趣意文」
本シンポジウムは、物語研究会2026年度年間テーマ「よむ(誦・読・詠・訓)こと」の問題意識を踏まえ、とりわけ「外国語で(を)読む」、「異文化で(の)テクストを読む」、「国境を越えて読みが移動する」といった状況において、〈よむ〉とはいかなる行為であるかを問う。
「よむ」という行為は、しばしば普遍的で自明な営みとして想定されてきた。しかし実際には、「よむ」ことは特定の言語、書記体系、教育制度、文化的・政治的条件によって規定されており、これらの前提が異なる場では、「よむ」という行為そのものの意味や成立条件が大きく揺らぐ。音声と文字の関係、訓読や翻訳という操作、黙読という近代的読書形態の成立は、いずれも文化的・歴史的に形作られてきた「よむ」実践であり、異文化的視点にさらされることで、その特質が浮かび上がる。
昨年度までの物語研究会では、「よむ」行為の多義性や歴史的展開、制度との関わりが検討され、「よむ」ことが身体的実践や政治的力学を内包する複合的な実践であることが確認されてきた。本年度はその成果を踏まえつつ、とりわけ「よむ」ことを可能にしている前提条件――言語、本文、文法、書記体系、メディア、さらには国民国家や文化的枠組み――を、異文化的な視座から問い直すことを試みたい。
外国語のテクストを読むことや、異なる文化の立場から読むことは、単なる対象の差異にとどまらず、「よむ」という行為そのものの性質を変える。翻訳を通した読解や比較文学的な読み、さらにはポストコロニアルな文脈における中心/周縁の非対称性は、「よむ」ことがいかに文化的・政治的力学に規定されているかを明らかにするだろう。
本シンポジウムでは、日本文学研究に根差しつつも、比較文学や翻訳・翻案研究に加え、海外における教育実践を通して、異文化やメディアを横断的に捉えてきた3名のパネリストを迎え、それぞれ30分の基調発表を行う。異なる言語的・文化的条件のもとで行われる〈よむ〉を併置することによって、〈よむ〉という行為を普遍的概念として再主題化するのではなく、その都度の条件性と不安定さのなかで捉え直すことを目指す。
本シンポジウムが、〈よむ〉をめぐる思考を、国境や言語の境界を横断するかたちで深化させる契機となることを期待したい。
報告1:鈴木貞美「『竹取』三題―評価史へ」
今回のシンポジウムは「ナラティブ」(narrative, 語り方)の対義語「レセプティヴ」(receptive, 受け取り方:聞き方および読み方)における諸問題について考えようという趣旨と受け取りました。わたしは『「日本文学」の成立』(2004)のころ、ドイツのハンス・ロベルト・ヤウス『挑発としての文学史』(1970)が作家還元主義から脱する契機をはらんでいることを評価しつつも、受容美学は西欧近現代美学=芸術論の範疇にあり、概念編制史ならびに評価史一般へ転換することを提案していたつもりでした。わたし自身が日本の近現代文芸を西欧近代の「文学」概念を超えて批評してきましたし、現在も「日本の『文学』概念、ふたたび―前近代の下位ジャンルと文体様式を問いなおす」という探究を続けています。
今日は、その一環として、①『竹取物語』と②『今昔物語』〔巻31第33話〕「竹取翁見付女児養語」、それに③『海道記』(1223〔貞応2〕)〔13蒲原〕に引かれた「鶯姫伝説」を加え、比較することで、日本の作り物語における『竹取物語』の特異な性格を再考してみたいと思います。いわゆる初期物語論は「伝承性」が平安時代の「当代性」を帯びて展開しはじめた段階説(鈴木一雄「物語文学の形成」日本古典文学全集『竹取物語・伊勢物語・大和物語・平中物語』小学館、1972)を、どれほど脱しているのか、わたし自身よく把握できていないのですが、この三篇では帝のもつ「当代性」の内実が、それぞれの記された時期とは無関係に、まったく相違することを論証します。
[付]今日、『今昔物語集』については法相宗による編纂が平家の南都焼討 (1180年)後、それほど経たない時期に放棄されたと推察されており(原田信之『今昔物語集南都成立と唯識学』勉性誠出版、2005)、それによって院政=鎌倉時代における説話の増殖、および書き換え、再編過程が引き出せるようになり、また芳賀矢一『攷証今昔物語集』(1913, 14, 21)の歴史的相対化とともに彼の仕事が皇国史観に立つ日本の人文学史に向かったことも明確になりました。他方、彼の主情主義的国語国文学史観は第二次世界大戦後も風巻景次郎らによって継承されてきたことも間違いありません。これらもまた評価史の問題です(今回の発表のために、鈴木貞美「『今昔物語集』とは何か?」季刊iichiko 2024, no164・165・166。等を7月初旬に「鈴木貞美hp」にアップロードする予定です)。
報告2:武藤那賀子「無化される越境--『伊勢物語』「東下り」のカキツバタと八橋」
本発表は、『伊勢物語』「東下り」における三河の国の場面に焦点を合わせ、越境経験の構造がいかに視覚文化の中で再編されていくのかを考察するものである。発表者の既発表論文では、「東下り」を都からの離脱に伴う共同体的基盤の喪失として捉え、八橋・宇津の山・隅田川などの境界空間において、都人としての自己認識の揺らぎが和歌を通じて顕在化することを論じた。また昨年度の国際会議での発表では、当該場面における翻案作品群(絵画・工芸・服飾等)を検討し、「東下り」の各場面の翻案の中でも三河の国の翻案作品群が一定でないことを指摘した。そのうえで、飲食行為を越境儀礼の観点から再検討し、身体的移動と象徴的越境のあいだにずれが生じる「未完了の越境」こそがその要因であると論じた。
これらを踏まえ、本発表では、三河の国の場面が後代の絵画・工芸・服飾において反復される過程に注目し、その図像的展開を検討する。そこでは、移動や境界性を前提とした物語的文脈とは異なる観点において、モチーフそのものの意味が再配置されていく点に焦点化する。視覚的な反復の中で生成する意味の変容に着目することで、「東下り」における越境経験がどのように読解可能性を変化させていくのかを、「よむこと」の問題として考察する。
武藤那賀子「ディアスポラを志向する昔男:『伊勢物語』「東下り」の和歌と境」『日本文学』71巻3号、日本文学協会、2022年3月
(口頭発表)武藤那賀子「〈八橋〉の翻案から読み解く「東下り」(『伊勢物語』第九段)」Theorizing Japanese Literature: Modality, Adaptation, and Gender、Sofia University(ブルガリア)、2025年8月27日
報告3:シュミット堀佐知「英語を通して日本文学作品を読むことの政治性を考える」
周知の通り、日本文学作品は、過去150年以上にわたり、世界中で享受されてきた。源氏物語は、非西洋の古典として唯一「世界文学」だと認識されている作品であり、村上春樹や村田沙耶香のように、世界中で人気を博す現代作家もいる。私はアメリカで英語話者に向けて日本文学を教え、研究する日本出身者として、このような日本文学の評価を喜ばしく感じる。それと同時に、英語を通して日本文学作品を読むことの政治性について、長年複雑な思いを抱いてきた。
そもそも、現代社会において、文学テクストを読む・読ませるという行為は、常に政治性をはらんでいる。なぜなら、そこには作者・読者・仲介者(民間の業者や公的機関など)の、「読ませたい・読みたい」思惑が交錯するからである。そして、言語や文化を越境したテクストであれば、その政治性は一層複雑化する。例えば、日本文学を西洋の読者が読む・読者に読んでもらうために、日本が西洋に対する「他者」であるという前提を活用しない訳にはいかない。何が英訳されるに値し、どんな翻訳が英語話者の関心を掻き立てるのか。どんなテクストが大学で教えられるべきなのか。その目的とは何なのか。私の複雑な思いは止まないのである。
読むことの政治性自体は善でも悪でもない。ただし、政治性への無自覚や無関心は、日本文学研究の国内/国外の分断を強化すると思う。本シンポジウムでは、このテーマでお話させていただきたいと考えた所以である。
【自由発表】(17日)
畑恵里子「浦島伝説の祝祭性と乙姫」
祝祭性という観点から照射した場合、浦島伝説は流動的な作品と解することができる。
上代の浦島伝説では、『萬葉集』『丹後国風土記逸文』などに、老いや死への言及が散見される。だが、中世になると、『御伽草子』などに、鶴と亀との組み合わせから長寿への言及がなされるようになる。ことに近世では、長寿や祝賀などにかかる寿ぎが、草双紙や錦絵などに散見されるようになる。ところが、近現代に至ると、そうした祝祭性へのまなざしはすっかりひそめるようになるようである。
そこで、本務校やそれ以外で実施したアンケート結果などをも踏まえて、祝祭性という観点から本伝説を改めて問い直す。そして、流動する祝祭性の背景には、乙姫と呼びならわされている異界の姫君の存在があることを指摘する。
【自由発表】(17日)
池田大輔「歌川国貞画「源氏物語 はゝき木巻」を〈読む〉―「琵琶を弾く女」と「紅葉の下で眠る男」の正体をめぐって―」
本発表では、江戸時代後期に歌川国貞(三代豊国、以下国貞)が描いた大判錦絵三枚続の源氏絵を取り上げ、同図が『源氏物語』をどのように取り込み、いかなる〈読み〉が生起するのかを考察する。
国貞は、柳亭種彦『偐紫田舎源氏』の挿絵を長年にわたり担当するなど『源氏物語』への造詣が深く、晩年には一枚物シリーズ「源氏香の図」54 帖(および表紙絵、序文)を手掛けている。三枚続は一枚物シリーズに先行しており、一枚物では表現し得なかった物語世界の視座を、三枚続という空間の広域化によって実現したと考えられる。そもそも源氏絵においては、単なる特定の場面の再現性にとどまらず、それを媒介とした物語世界の拡張性こそが重要であると考えるからである。
このことについては、すでに拙稿において三枚続シリーズの「朝顔巻」「若菜巻」を取り上げ、異時同図法の視点から考察を試みてきた。前者では「藤壺の霊」を描いた可能性(*1)、後者では「二人の女三の宮」と「三人の柏木」を描いた可能性(*2)の〈読み〉を提示した。
これらを踏まえ、本発表においては「源氏物語 はゝき木巻」を取り上げ、三枚続絵のうち右図「琵琶を弾く女」と、左図「紅葉の下で眠る男性」の正体の解明を中心課題に据え、この物語空間の〈読み〉の可能性を探りたい。なお、対象とする絵は下記 URL(*3)より確認できるため、事前に各自の解釈や〈読み〉をご用意の上、議論にご参加いただければ幸いである。また、これまでの考察において手薄であった「享受者層」「販売方法」「販売数」などの観点からも、広くご教示を仰ぎたい。
「近世源氏錦絵のアイデンティティ――三枚続「源氏物語 朝兒ノ巻」の〈挑戦〉と〈読み〉――」『物語研究』 第 25 号、2025 年。→https://www.jstage.jst.go.jp/article/mgkk/25/0/25_21/_article/-char/ja
「歌川国貞画「源氏物語 わかなの巻」三枚続を「読む」――物語の「発見」と「読み」の重層性――」『滋賀文教短期大学紀要』第 26 号、2024 年。→https://s-bunkyo.repo.nii.ac.jp/records/2000009
発表者架蔵の源氏絵と同図(早稲田大学九曜文庫所蔵)。
→https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko30/bunko30_b0006/bunko30_b0006.pdf
【自由発表】(19日)
中川智寛「谷崎潤一郎「母を恋ふる記」論 ―人物造型と古歌に着目して―」
谷崎潤一郎の小説「母を恋ふる記」(一九一九年一~二月、「東京日日新聞」・「大阪毎日新聞」)を取り上げる。
同作は、主人公である男性人物が、母の所在を求めて彷徨う物語である。一人目の女性からは、「母ではない」と拒絶される。この男性が、女性から「潤一」と呼ばれる場面があること、また、作者情報として、谷崎が、この小説を執筆する少し前に実母の死に接していることの二点から、「母を恋ふる記」は、私小説的な読解も蓄積されて来た。作者谷崎が、そのように読者を誘導していると認められる箇所があるのは、事実である。
他方、作中の色のイメージに重きを置いたり、二人の女性の造型を抽象的に読解し、私小説的な方向性から脱却しようとする研究も、一定数存在する。
本発表では、それらの先行研究も振り返りつつ、触れられることの少なく、またエピグラフ的に配されている古歌の役割にも着目しつつ、発表者の読解を展開したい。
【テーマ発表】
橋本ゆかり「「女」の歌物語と変奏する〈敦道親王〉――『和泉式部日記』と『源氏物語』の相互連関」
昨年の夏の大会自由発表では、『和泉式部日記』を論じた。今回は視点を変えて、一条朝に書かれた『和泉式部日記』と『源氏物語』の相互連関で、双方の語りを読み解き、一条朝に変奏する〈敦道親王〉についての語り(物語)を考えてみたい。
『大鏡』や『栄花物語』などに語られる〈敦道親王〉とは異なり、『和泉式部日記』には恋する繊細な〈敦道親王〉、そして政治力ある〈敦道親王〉が語られる。『和泉式部日記』は「昔男」の歌物語に対する「女」の歌物語ではとの先行研究がある。また、同じ一条朝に成立と考えられる『和泉式部日記』『源氏物語』双方には、似た表現やエピソードが諸注釈で指摘され、和泉式部と恋をした〈敦道親王〉の姿が両テクストに揺曳していく。語られる〈敦道親王〉の記憶は亡霊なのか。今回は、『和泉式部日記』と『源氏物語』とを相互連関させながら読み解き、変奏する――三島由紀夫であれば「円環する」と称したかもしれないが――〈敦道親王〉をめぐる物語について考える。語られ、書かれ、読まれながら変奏する〈かぐや姫〉ならぬ〈敦道親王〉のアダプテーションを読む。
【自由発表】
坂本史帆「『源氏物語』「花のさかりは過ぎやしぬらん」再考――朝顔の文付枝から」
『源氏物語』「朝顔」巻において、光源氏は「にほひもことに変れる」朝顔の花につけて朝顔姫君に消息する。その際に詠みかけた和歌「見しをりのつゆわすられぬ朝顔の花のさかりは過ぎやしぬらん」は、姫君に容姿が衰えたかと問いかけていると読み得るもので、失礼であるとして様々に解釈が試みられてきた。
本発表では、光源氏の贈った手紙は姫君の美しさと諦めきれない恋心を訴えるものであることを論じる。「や+らむ」を反語として解し得ることを確かめたうえで、これまであまり顧みられてこなかった朝顔の文付枝に着目する。朝顔の花を添えることによって、光源氏にとって姫君は魅力的な女性であることを伝えようとしたことを示す。さらに、「ほほゆがむ」という朝顔姫君に特有の語とも関わらせつつ、モノである植物がやりとりの中で果たす機能について考察する。
【テーマ発表】
太田麗月「『源氏物語』による『竹取物語』の読みと引用―「女の身」と苦悩をめぐって―」
『源氏物語』は先行作品や漢籍、引歌など、多くの引用が見られる作品である。中でも絵合巻において「物語の出で来はじめの親」と評される『竹取物語』は、非常に多くの場面で引用される。『源氏物語』における『竹取物語』引用の研究は、主に登場人物とかぐや姫の重なりを中心に展開されている。須磨巻での「月の都」を詠み込んだ和歌や貴種流離の話型に注目し、光源氏にかぐや姫の要素を読み取る分析をはじめとして、藤壺や紫の上、玉鬘、浮舟などの女君たちに対する『竹取物語』との関連が指摘されてきた。
本発表では、三人の女君をめぐる『竹取物語』引用の比較を試みる。具体的には、玉鬘物語における求婚譚、紫の上臨終場面におけるかぐや姫昇天場面の引用、『竹取物語』を繰り返し引用する浮舟物語に着目する。それぞれの女君とかぐや姫との重なりは、彼女たちの苦悩を浮き彫りにさせていく。また、ゆかりとされる女君や源氏との関わりから読み解いていくことで、『竹取物語』を取り込みながら『源氏物語』が見せる物語としての独自の展開を捉えることができる。女君たちとかぐや姫の差異は、物語を進めるための推進力を生み出す要素として働いているのである。それらを踏まえた上で、取り上げた三人の女君たちに関連する『竹取物語』引用を比較していく。物語内での引用の濃淡を見ることで、色濃く引用された場面に共通する「女の身」の苦悩を読み取っていく。昇天によって苦悩から脱したかぐや姫に対し、女君たちが誰一人として昇天という運命を辿ることはない。そのことに注目し、女君たちが苦悩とどう向き合うのかを辿りながら、『源氏物語』が『竹取物語』をどう読んだのか、その一面を明らかにしていきたい。
【自由発表】
蕗谷雄輝「『源氏物語』のマンガ翻案の展開―井出智香恵『源氏物語 美しの花乱』を手がかりに―」
『源氏物語』は現在にいたるまで、数多くのマンガ作品に翻案されている。マンガは、源氏受容において重要な媒体であるといえる。
本発表では、数ある源氏マンガのなかで、井出智香恵『源氏物語 美しの花乱』を取り上げる。レディコミ(レディースコミック)というジャンルに分類されるこの作品は、3度にわたって出版・配信されている。特徴的なのは、刊行形態が変わるたびに内容が増補されていくという点である。最初の単行本である蒼馬社コミックス(2002年 全2巻)では、桐壺巻から末摘花巻までだったが、ホーム社漫画文庫版(2008年 全2巻)では、紅葉賀巻から澪標巻までが新たに収録されている。さらに、「令和新装版」として2024年から複数のウェブサイトで配信が開始された電子コミック版では、新たに蓬生巻から篝火巻までが配信されている。既存の源氏マンガが再刊されること自体は珍しくないが、刊行のたびに内容が増補されていくのは管見の限りこの作品のみである。
『源氏物語 美しの花乱』の表現を分析することで、レディコミに翻案された源氏マンガの特徴を明らかにすると同時に、刊行の過程で増補されていくというこの作品の特質を、現代における源氏翻案の動向のなかに位置づける。
【テーマ発表】
斉藤昭子「「女」の歌を「よむ」―物語の和歌とジェンダー―」
和歌を評する言葉の中に、古くから「女の歌」(『古今集』仮名序)、くだって「女歌」(『八雲御抄』)という語がある。和歌には早くから「女」のカテゴリーがあり(つまりジェンダーの線引きがあり)、それは時に応じて内実を変容させながら取り上げられてきた。近代以降では折口の「女歌」論(「女流短歌史」等)が出発点となり、以後大きな影響力を持ちつづけた。折口の「女歌」は生物学的性差による本質論である。その後は女歌とされてきたものの「発想」や「作中主体」の性差論、また「歌ことば」のジェンダー論へと展開している。
虚構である物語で歌は、どのように表現されているか。現実世界でなされた、あるいは贈答された(とされる)歌とは同列に扱うことはできないが、そこにはそれまで「詠まれた」歌の「読み」がある。例えば物語の男女が相対する恋愛場は多くの場合歌を内包し歌によって定位され、「男」「女」の歌の持っている分厚い文脈が流れ込んでいる。旧稿では源氏物語の恋愛場は蓄積された歌の表現と語りの特質から、引用・反復によって女君たちの主体の位置を構築しつつ、既存の意味のずらしや再意味づけを行うさまざまな力学の働く場となる様を捉えることを試みてきた。機関誌25号の拙稿は、末摘花をめぐる物語のインターセクショナリティを解き明かす準備として、「女」呼称の使用や、異性愛物語の文脈との距離、その特異な詠歌について論じた。
本発表では、物語内のさらにいくつかの詠歌場面を取り上げ、女の歌の「読み」がどのように「詠み」として展開しているかを見る。どのように和歌のジェンダー規範が再演されたりずらされたりするのか、あるいはそのずらされ方のバリエーションについて、物語の言説とともに考察したい。さらに、物語の和歌のジェンダーがどのように「読まれ」、現実世界の歌にどのようなインパクトを与えたのかについての素描を試みる。
【自由発表】
西原志保「動物の死を代弁することは可能か――児玉小枝『どうぶつたちへのレクイエム』について」
保健所や動物愛護施設など、動物収容施設で殺処分される犬や猫の写真集である、児玉小枝『どうぶつたちへのレクイエム』(桜桃書房、2000年/日本出版社、2005年)を取り上げ、動物の死を代弁することは可能なのか、また代弁するためにどのような戦略がとられているのか考えたい。
動物の死として私たちが身近に経験するもののひとつに伴侶動物の死があり、それは文学作品や映画、ドラマなどで繰り返し描かれてきた。しかしながら動物は人間のことばを語らないため、彼等自身の視点でことばが語られる場合、動物の内面を勝手に言い換えてしまうことになる。そのため、動物の言葉を人間が簒奪してよいのかという倫理的問題が議論されることがある。また、人間とともにあり、ときに人為的に繁殖させられる伴侶動物の殺処分は、人間社会に倫理的な問題を突きつけてきた。そこで、人間のことばで話さない伴侶動物たちの殺処分の問題を、彼等に代わって訴えることを目的とする本書を取り上げ、上記について考察する。
なお、本発表は動物の死の表象に関する論集に寄稿予定の論文をもととするが、語ることができないものについて語ることや、写真や絵と言葉との関係は、本研究会においても重要なテーマであると考える。
【テーマ発表】
高木信「「浅ましく」てやがて「かなしき」異類婚姻譚」
〈読む〉ことは、ギンズブルグに倣って言えば「テクストを逆撫ですること」だと思っている(カロル・ギンズブルグ『歴史を逆なでに読む』みすず書房 2003年)。語り手が安住する〝常識〟や語り手と共犯的にその〝常識〟を受け入れ、あるときには拡散していく読者たち、安定したコードやコンテクストのなかで読まれるテクスト、そのようなコードやコンテクストを解釈共同体に備給するテクスト、そのようなものたちをいかに逆撫でできるのか。〈読む〉ことの価値はそこにこそある。
本発表では、複数の異類婚姻譚を読むことで、そこにある家父長制や家の再生産をいかに人間中心主義のもとで行っているかを考えたい。その上で、村上克尚『動物の声,他者の声 日本戦後文学の倫理』新曜社 2017年)が、小島信夫のテクストにみたような家父長制を揺るがすような動物の可能性が、中世の物語にあるのかどうかを見極めてみたい。
参照予定のテクストは、「木幡狐」「小男の草子」「一寸法師」「藤ふくろ」「狐の草子」「鼠草子」「鼠の草子(鼠の権頭)」「かざしの姫君」である。
[参考文献]
高木信「異〈人=神=獣〉が「村」にやってくる YEAH! YEAH! YEAH!」(「物語研究 第22号」2022年)
高木信「〈読む〉ことと〈倫理〉をめぐるエセー―テクストの未來へむけて」(「物語研究 第26号」2026年)
[分類表(案)]((a)は悲恋系、(b)は拒絶系、(c)は二人が幸せになる系)
(1) 女性の元を訪れる異類の物語として、
(a) 恋愛の末に異類が死ぬ
「雁の草子」
「かざしの姫君」
「壺の碑」(恋愛描写ほぼなし、碑が砕かれる=異類の死?)
(b) 異類を殺害する
「藤ふくろ」
「鼠の草子(鼠の権頭)」
「鼠草子」(猫に襲われる、死んではない?)
「化物草子」(拒絶)
(c)二人で幸せに暮らす
「小男の草子」「一寸法師」?
(2) 男性の元を訪れる異類の物語として、
(a) 恋愛の末に異類が去っていく
「蛤の草子」(恋愛?)、
「木幡狐」
「鶴の草子一冊」
「桜梅草子」
「むらくも」
(b)退治譚になっている
「雪女物語」
(c)二人で幸せに暮らす
「鶴の草子三冊」(別れた後転生再婚)
(3) 女性が異類の元を訪れる物語として、
(a) 異郷に行く
∅?
(b)退治譚になっている
「玉藻の草子」
(c)二人で幸せに暮らす
「天稚彦草子(蛇系)」(七夕系のため年に一度会える)
(4) 男性が異類の元を訪れる物語として、
(a) 別れてしまうものとして
「諏訪の本地(甲賀三郎物語)」
「地蔵堂草子」
「俵藤太物語」
(b) 最終的に異類を拒絶するものとして
「橋姫物語」(描写なし、話の流れ的にここかも?)
「狐の草子」
(c)二人で幸せに暮らす
「浦島太郎」?
「貴船の本地」?
※「浦島太郎」や「貴船の本地」などを純粋な異類婚姻譚と言っていいか(モチーフの一つでしかない)、「一寸法師」は異類婚姻譚かどうかなど、問題は残る。