2020年度(令和2

2020年度(令和2年度) 3月例会


物語研究会×怪異怪談研究会 共催企画 ミニシンポジウム「異人論の今を問う」


【趣意文】

 異人論は、主に文化人類学・民俗学の分野において様々な論が展開されている。

主に、折口信夫「まれびと論」・柳田国男「山人論」・岡正雄「「秘密結社」メラネシア社会史の日本文化への暗示二十三項目」の指摘(今の社会学も記号学も全部含めた予見的な指摘)」、「異人歓待」の習俗に対し「異人排除・異人虐待」の側面に焦点を当て、その実態を浮かび上がらせた小松和彦等の論が想起される。

 近年に至り、山泰幸・小松和彦『異人論とは何か ストレンジャーの時代を生きる』(ミネルヴァ書房 2015年)が刊行されるなど、今日における異人論の可能性を探る研究が注目されつつある。

 本シンポジウムでは、物語研究会で討議の蓄積されてきた「物の怪」論や折口・柳田学、また2016年度テーマ「主体」で、あまりふれることの叶わなかった問題(絶対的他者としての異人)に関する継続討議を試みたい。そのためにも、近年、怪異・怪談に関して精力的に活動の場を広げている怪異怪談研究会の方々とともに討議を行っていきたいと思う。

 当該の討議を、物語研究会という「内」なる枠組の中で収束させるのではなく、怪異への眼差しや怪談に集約された物語の内実の追究を先鋭的に実践している怪異怪談研究会とともに議論していくことで、「異人論」に関する、より有益な議論が展開できると確信している。

 平成から令和へと移行する過渡期・到来を目の当たりにした私たちが見据える「異人論」の新時代とはいかなるものか。今だからこそ問うべき問題であると考える。

 当該企画の流れとしては、まず、伊藤好英氏に、異人論に関して折口学の観点から言及いただく。次に、正道寺康子氏に、物語を中心とした異人論について樹木怪異譚の視点から論じていただく。次に、高木信氏に、語りの主体性・異類の主体性という観点からテクストにおいて焦点化される主体という問題系を探っていただく。最後に、廣田龍平氏に、超自然的な異人としての妖怪について文化人類学の視点からご発言いただく。

 さらに、コメンテーターとして、阿部好臣氏・一柳廣孝氏に加わっていただき、今、異人論を問う意味、そして当該分野における新たな可能性を模索し提示することを試みる。

当該シンポジウムを通して、これから取り組むべき新たな課題が掘り起こされることを期待している。

(主要参考文献)*名前の順*   

  • 相田洋『異人と市 境界の中国古代史』(研文選書70 1997年)

  • 相田洋『橋と異人 境界の中国中世史』(研文選書103 2009年)

  • 赤坂憲雄『異人論序説』(砂子屋書房 1985年)

  • 安達史人『日本文化論の方法 異人と日本文学』(右文書院 2002年)

  • 伊藤好英『折口信夫 民俗学の場所』(勉誠出版 2017年)

  • 大塚英志編『柳田国男山人論集成』(角川学芸出版 2013年)

  • 岡正雄『異人その他 日本民族=文化の源流と日本国家の形成』(言叢社 1979年)

  • 『折口信夫全集』第一巻 古代研究(国文学編)(中央公論社 1975年)

  • 小松和彦『異人論 民俗社会の心性』(青土社 1985年)

  • 小松和彦「異人論―「異人」から「他者」へ」(『岩波講座 現代社会学』第3巻 岩波書店 1995年)

  • 小松和彦編『異人・生贄』「怪異の民俗学7」(河出書房新社 2001年)

  • 正道寺康子「『うつほ物語』・『源氏物語』の大樹―「死と再生」の物語」」(山口博監修・正道寺康子編『ユーラシアのなかの宇宙樹・生命の樹の文化史』アジア遊学228 勉誠出版 201812月)

  • 住谷一彦・坪井洋文・山口昌男・村武精一『異人・河童・日本人 日本文化を読む』(新曜社 1987年)

  • 諏訪晴雄・川村湊『訪れる神々―神・鬼・モノ・異人』(雄山閣出版 1997年)

  • 山泰幸・小松和彦『異人論とは何か ストレンジャーの時代を生きる』(ミネルヴァ書房 2015年)

  • Eduardo Viveiros de Castro, The relative native: essays on indigenous conceptual worlds (Chicago: HAU Books, 2015)

【発表要旨】

伊藤好英「折口信夫の異人論」

 折口信夫は、『古代研究』国文学篇(昭和4年)において、体系的な「まれびと」論を展開した。ところで、彼にはその後(昭和10年代後半)『古代研究』国文学篇第二部刊行の計画があり、そのための大部の校正刷りが折口博士記念古代研究所に残されていて、目次の再現も可能である。実は、この幻の「国文学篇第二部」で折口は、新しく「異人」という語を多用しながら、自身の「まれびと」論を再構成しようとしているのである。もしこの書が計画通り刊行されていたなら、われわれの「まれびと」理解も、もう少しスムーズに進展していたのではないだろうか。

本発表では、この書に入ることになっていた三本の論文、「日本文学の発生──その基礎論──」「日本文学の発生」「唱導文学──序説として──」の読みを通して、折口信夫の「異人」論(「まれびと」論)を再考してみたい。さらに、これらの論考を参考にすれば、やはり難解とされる『日本文学の発生 序説』(昭和22年)中の「文学と饗宴と」「異人と文学と」「翁舞・翁歌」の理解も深まるはずである。この機会にこの部分の「異人」論も検討してみたい。これらの検討結果の中心には、「国文学篇第二部」の巻頭論文となるはずであった「日本文学の発生──その基礎論──」の冒頭の章題に使われている「異人の齎した文学」なることばが来ることが予感される。

正道寺康子「日本古典文学における「樹木と異人」」

北欧神話(『スノリのエッダ』)では、最初の人間アスクはトネリコの木から創られ、女性エムブラはニレの木から創られたという。

古くより樹木は人間と深く関わり、信仰の対象となってきた。樹に神が宿る・樹が人になる・人が樹になるといった神話や伝説・説話は洋の東西を問わず数多く存在する。

樹木、特に天にまで届くような大樹(宇宙樹・生命の樹)は、ミルチャ・エリアーデの定義する「中心のシンボリズム」の最たるものであり、他界との交通を可能にする「境界」を示し、「死と再生」の象徴であるという点に注目したい。

古代日本でも樹から異人が現れる話が散見されるが、『万葉集』大伴旅人の日本琴の歌と題詞(巻五・810811)では、大樹からつくられた日本琴が夢で「娘子」となってその出自や願望を語り、『竹取物語』では竹筒の中からかぐや姫が登場し、『源氏物語』では、浮舟の失踪直前に、匂宮とおぼしき男性が「大きなる木のありし下より」出てきたような気がしたと、浮舟が後に述べたりしている。樹木が異人になったり、樹木から異人が出てきたりといった設定には、東アジアに伝わる樹木怪異譚の影響が考えられる。

本発表では、東アジアの樹に纏わる不思議な話を視野に入れつつ、主に日本古典文学における「樹木と異人」の描かれ方を検討し、樹木への畏怖の念から、人間が樹木とどのように繋がり、そこから異人を生み出したのか、そして、神話・説話・物語の世界でどのように「樹木と異人」を描いたのかを考察したい。

高木信「異〈人〉が村にやって来た―異類婚姻譚と異人論―」

自分自身のキャリアを振り返ってみると、山口昌男の「中心と周縁」論から、小松和彦の「異人」論がその出発点であった。「異人」の共同体への侵入と排除とによって強化される〈共同性〉。その構造化の暴力を批判し、暴き出すことを目標としてきた。

 と同時に、高橋亨「前期物語の話型」(『物語と絵の遠近法』ぺりかん社 19911986年)を元に、異郷から来訪する〈モノ〉の性別によって「異〈人〉」訪問譚の構造の違いがあることも考えてきた。

 ここで〈人〉にこだわったのは、異人訪問譚の「人」とはなになのかを考える必要があると考えるからである。「人」として来訪した〈モノ〉は「人」なのだろうか。もちろん、異人論的には周縁的存在が疎外され排除される。そして共同体の想像力では、〝それ〟は「人」でなくてもよい。「人」を「異物」として構造化することで「異〈人〉」論は成立するだろう。

 しかしそれは観察主体においてのみ可能となる視点であり、観察される場の内部にいるものにはそのような視点は持ちえないのではなかろうか。

 今回の発表では、異類婚姻譚において来訪する〈人〉=動物を、どのように〈カタル〉ことが可能となっているのかを、考えてみたい。

廣田龍平「異人論が異人と出あうとき―超自然的妖怪がわれらを客体化するそして食らう」

本発表は、アニミズムの観点から異人論の〈超自然的〉転換を試みるものである。これまで異人論の多くは、人間側が主体として「歓待する」「排除する」ことに焦点を当てていたが、柳田國男「妖怪談義」にあるように、異人側が主体となる契機も存在する。この状況を考察するにあたり、本発表では南米アマゾンの民族誌をもとに展開される現代アニミズム理論を参照する。

アニミズム世界においては、霊魂は同じだが身体の異なる無数の小集団が群立している。ヒトであるアマゾンの先住民にとって、人類学者や警察、動物、精霊、人食い鬼、死者などは、等しく自身と異なる「人外」である。ヒトと人外との関係性はシャーマニズムや狩猟、婚姻、戦争、国家支配などとして実現するが、そうした接触行為は「妖怪談義」が示唆するような、異人に「化かされる」状況として捉えることが可能である。アニミズム社会が自然と文化の構造的関係を反転させることを論じたヴィヴェイロス・デ・カストロは、この状況を〈超自然〉として概念化した。それはみずからが客体化され、異人の側に移ってしまう恐怖である。

この概念に基づく事例分析をとおして、本発表自体が客体化を実践することにより、今後の議論に資することを目指す。


2020年度(令和2年度) 9月例会


【自由発表】

上原作和このクラスにテクストはありますか 定家本『源氏物語』/校訂本文/解釈共同体」

 昨秋の定家本「若紫」の出現は、源氏千年紀以来、久しぶりに『源氏物語』が全国ニュースとなった出来事であった。そこで、都合五帖が揃った四半本本文を検討し、その本文史と本文特性について報告する。

 その前提として、本文伝来史上欠くことの出来ない徳川本『源氏物語絵巻』「関屋」巻詞書を分析し、古伝本系別本と定家本との懸隔を確認する。ついで、定家本五帖(若紫、花散里、行幸、柏木、早蕨)に加え、阿仏尼本帚木巻の六帖を対象に、新編全集で校訂された全箇所の本文批判を行うことによって、阿部秋生らの選択した「系統別多数決」の理論が、結果的に定家本本来の本文特性をほぼ完全に消し去り、室町から江戸時代に流布した青表紙本系本文を再生産する結果になっていること、あわせて、古典敬語法の前提とされる文法理論の前提が、定家本『源氏物語』では統一されておらず、大きく揺れているために確言できないことを報告する。これらの調査結果を踏まえて、わたくしたちは、今後、『源氏物語』本文とどのように対峙すべきかの私見を提示したい。

 今回の報告は、物語研究者のみならず、古文の試験問題作成に携わる国語教員のみなさんにもお聞きいただくことを希望する。

参考文献

  • 上原作和「『源氏物語』の校訂本文はどこまで平安時代に遡及し得るか」『古典文学の常識を疑う』勉誠出版、二〇一七年

  • 佐々木孝浩「『源氏物語』本文研究の蹉跌ー「若紫」帖の発見報道をめぐって」「日本文学」七月号、日本文学協会、二〇二〇年七月

  • 杉崎一雄「平安時代の「給ふる」についてー源氏物語異文間の差異を中心に」『平安時代敬語法の研究ーかしこまりの語法とその周辺』有精堂、一九八八年、初出一九五三年

  • スタンリー・フィッシュ/小林昌夫訳『このクラスにテクストはありますか 』一九九二年、原著 Stanley Fish『Is There a Text in This Class?: The Authority of Interpretive Communities』一九八二年

  • 渋谷榮一「定家本「源氏物語」本文の研究ー自筆本「奥入」所載本文と定家本原本・明融臨模本・大島本」「定家本「源氏物語」本文の研究と資料」(令和二年六月十五日更新)

  • 藤本孝一『定家本源氏物語 行幸・早蕨』八木書店、二〇一八年

  • 藤本孝一『定家本源氏物語 若紫』八木書店、二〇二〇年

  • 室城秀之「『源氏物語』本文に対する疑義ー「給へらむ」の表現をめぐって」『源氏物語読みの交響Ⅲ』(新典社、二〇二〇年)

  • 室伏信助「人なくてつれづれなればー源氏物語の本文と享受」『王朝日記物語論叢』笠間書院、二〇一四年、初出一九九三年


2020年度(令和2年度) 8月例会


【テーマ発表】

武藤那賀子「『日本霊異記』の動物化した人々」

本論では、『日本霊異記』における動物になってしまった人々を扱う。具体的には、人間であったときの行ないによって、輪廻転生により動物として生まれ変わった人々である。動物として生まれ変わったにもかかわらず、彼らは言葉を話し、人間として意思疏通を図る。彼らは動物の身体を持ちながら、人間として人間と接する。とするならば、彼らは人間なのであろうか、動物なのであろうか。その境界線は曖昧となる。そもそも、「人間」とは何をもってそうなるのであろうか。なぜ彼らは動物になってまで人間として話すのか。

「動物論」は読んで字のごとく、「人間ではないもの」の観点で物事を見る理論である。『日本霊異記』に出てくる動物の身体を持つ人間を考える際に、この理論を足掛かりとする。これらの人々が登場する話を起点に、日本における動物の扱われ方を律令や仏教の観点から捉え直し、古代社会において人間と動物がどのように分けられてきたのかを考えてみたい。

なお、この論が現代社会に内在する差別を考える視点に通じるのではないかとも考えている。

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