2019年度(令和元)

2019年度(令和元)1月例会


【自由発表】

富澤萌未「語り直される物語の力学―『大和物語』147段を中心に―」

『大和物語』147段は、菟原処女の伝承を語る章段である。菟原処女の伝承は、『万葉集』巻9・1801~1803の田辺福麻呂の歌、同じく巻9・1809~1811の高橋虫麻呂の歌、巻19・4211~4212の大伴家持の歌で詠まれている。

この伝承は、『万葉集』では長歌と短歌という形態で語られる。一方、147段では、①物語の概要、②その物語をもとにした絵の存在、③それに対して人々が登場人物になりかわった和歌、④後日談のような物語が語られており、伝承をどのように語り直しているのか、その動きを確認することができる。この絵と和歌への語り直し、また最後の後日談が付けられていることが本章段の特徴となっている。『大和物語」のその他の章段も伝承は掲載されている。しかし、伝承が語られるのみで、この章段のように最後に伝承を享受する人々がその伝承をどのように語り直しているかが示されているものはない。先の①~④の過程には、伝承がさまざまな媒体によって変換されることで新たな物語が生じていることがみいだせる。

この章段についてはさまざまに研究されその成果が積み重ねられているが、本発表では、それらの研究を踏まえた上、年間テーマ「翻案(アダプテーション)」という観点から、語り直しから新たな物語が生じる力学を捉えてゆきたい。


2019年度(令和元)11月例会


【自由発表】

増田高士「浮舟の「和歌」論―贈答歌と手習歌―」

 本発表では、『源氏物語』の浮舟の和歌を扱う。浮舟の和歌は、先行論においてはとりわけ手習歌が論じられることが多い。手習歌を扱った主要な先行論において、浮舟の手習歌は自己に向けて書く、自閉的な営みであると解釈されてきた。しかし、近年の論文では、浮舟の手習が他者を意識したものであるという指摘もなされている。そのような先行論を確認した後に、本発表でも浮舟の手習歌を扱うが、そのアプローチは従来の先行論と異なり、浮舟の贈答歌を検討するところからはじめる。その理由は、浮舟の手習歌について、他者への意識を問題とする以上、浮舟が実際の他者と歌を詠み交わした場面もあわせて検討し、手習歌と比較する必要があると考えられるからである。「浮舟」巻における匂宮との贈答を検討した後、「手習」巻における手習歌を検討し、贈答歌と手習歌を関連させることで浮舟の和歌の特徴を探ってみたい。


【テーマ発表】

蕗谷雄輝「六条御息所の翻案の諸相―林真理子『六条御息所 源氏がたり』を手がかりにして」

『源氏物語』の女君のひとり六条御息所は、その強烈な印象からか、翻案される際に特徴が出やすい傾向にある人物といえるだろう。『源氏物語』の翻案について考えるうえで、六条御息所に注目することは有効であると考えられる。

六条御息所の翻案について考察するにあたって、林真理子の小説『六条御息所 源氏がたり』を手がかりにしてみたい。

本作品は、『和樂』の2008年10月号から2012年6月号までの期間に連載された。2010年から2012年にかけて全3巻の単行本が発行され、2016年には文庫化されている。

『源氏物語』の現代語訳ではなく、いわゆる翻案小説に位置づけられる本作品の最も大きな特徴は、六条御息所の死霊が語り手となり正篇世界を語るという設定にある。

本発表では林真理子という作家の『源氏物語』の解釈を明らかにすることを目的とするのではなく、この作品を手がかりに六条御息所という人物が翻案される際にどのような変容を遂げていくのか、その要因は何であるかを探ることを目的とする。謡曲「葵上」「野宮」などの他の翻案作品も参照しつつ、六条御息所の翻案における文化的諸相を明らかにしていきたい。


2019年度(令和元)9月例会


【自由発表】

草野勝「『とはずがたり』における〈鳥〉の表象」

 これまで中世文学研究者および源氏研究者によって開拓されてきた『とはずがたり』だが、そうであるがゆえに中々テクスト内部の表現の機微にまで追究されてこなかったのが研究史の実情だろうと思われる。表現論として優れたものは、岩佐美代子「『とはずがたり』における和歌表現」および三田村雅子「『とはずがたり』の贈与と交換」による〈衣〉の表象、日下力「『とはずがたり』の鐘」による〈鐘〉の表象、河添房江「女流文学における父親像」による〈露〉の表象などが挙げられるが、それでも数えるほどしか無いのが現状であろう。本発表は、それらの先達とは別角度からの表現論的アプローチを試みる。

 『とはずがたり』は、他の文学作品に比しても、〈鳥〉が数多くテクストに立ち現れ、しかもそれぞれの〈鳥〉が作中人物と密接に関わりながらテクストを重層化している。そうした表象を分析する過程では、『伊勢物語』『源氏物語』引用や、前篇・後篇の間にある語りの位相差といった問題も関わってくるが、多角的な視点から『とはずがたり』というテクストを読み解いてみたい。


【テーマ発表】

千野裕子「日本古典文学を演劇化するとき―翻案の現場から」

 演劇作品の上演には劇作家や演出家、俳優だけでなく、各セクションのスタッフをはじめ多くの専門家の存在が必要であることはいうまでもない。ある作品をもとに演劇を制作する場合には、企画から上演にいたる過程のなかで、各セクションで様々な角度から翻案が行われることになる。

 発表者は、日本古典文学を演劇化するという活動を細々と行ってきた者である。文学作品、とりわけ日本古典文学を演劇化する際には、どのようなプロセスで翻案が行われるのか。翻案者の立場から、発表者が実際に試みてみたものを事例として考えていきたい。


2019年度(令和元)8月大会


【自由発表】

笹生美貴子「『源氏物語』「手習」巻における物の怪「行ひせし法師」の解釈をめぐって―紺青鬼説話・樹木怪異譚の視座から―」

 浮舟は、僧都により「森かと見ゆる木の下」にて瀕死の状態で発見される。「身を投げし涙の川のはやき瀬をしがらみかけて誰かとどめし」等からも分かるように、入水を意識していた浮舟が、川ではなく木の根元で発見された点は注目されよう。

 本発表では、浮舟に取り憑いた物の怪「行ひせし法師」そして、浮舟が物の怪に連れ去られる際に「宮と聞こえし人」と思い至った部分の解釈について注目し、古来より指摘のある紺青鬼説話の影響を視野に入れつつ考察する。さらに、志怪小説・伝奇小説・『うつほ物語』に描かれる樹木怪異譚の系譜にも着目したい。

なお、本発表は、2020年3月に行われる、物語研究会ミニ・シンポジウムに関連する発表でもあることを付言しておく。

[主な参考文献]

  • 阿部好臣「執着するもの―宇治の物の怪」(『物語文学組成論Ⅰ―源氏物語』2011年11月笠間書院【初出】2008年11月))

  • 正道寺康子「『うつほ物語』・『源氏物語』の大樹―「死と再生」の物語」(山口博監修・正道寺康子編『宇宙樹・生命の樹の文化史』(アジア遊学228)2018年2月)


東原伸明「『伊勢物語』第23段の語りと言説分析―冒頭文、漢詩文発想の可能性追究―」

 標的とする『伊勢物語』第23段、冒頭の一文は、センテンスが異常に長い。管見によれば、このセンテンスを説明している注釈を知らない。

昔、田舎渡らひしける人の子ども、井の許に出でて遊びけるを、大人になりければ、男も女も、恥ぢかはしてありけれど、男は〈この女をこそ得め〉と思ふ、女は〈この男を〉と思ひつゝ、親の合はすれども、聞かでなんありける。(天福本)

 『竹取物語』ならばともかく、『伊勢物語』の言説を漢詩文の発想から説く論は、少ない。例えば当該文を山口仲美は、「こうした話し言葉を中心にするやわらかい語り口調は、漢文や漢式和文や漢字カタカナ交じり文では到底表すことができません」と言い、そこに漢詩文の影響力は考えていないようである(「文章をこころみる―平安時代―」『山口仲美著作集4』風間書房、2019年)。

論者が漢詩文の発想にこだわるのは、「対句」の、シンメトリカルSymmetricalな構想力と構成力を考えるからである。

 例えば阿部俊子は、「この二十三段の話は、もともとは、いわゆる筒井筒の話で「つひに本意のごとくあひにけり」で終わっていたものであろう。ところがそれに、『古今集』雑下の「題しらず 読人しらせず」の994の歌の左注による話を加え、さらにその後日譚の形でまれまれかの高安に来てみれば」以後の話を加えたものと見られる(「二十三 筒井つの 〈補説〉」『伊勢物語(上)』講談社学術文庫、1978年)と説いている。

こうした増補に至る潜在的な力を、漢詩文の発想によるという見通しのもとに発表を試みたいと思う。


張培華「前田家本『枕草子』本文再検証―漢籍に由来する表現から見た楠説―」

 前田家本『枕草子』は異本がなく、鎌倉中期に書写された最も古い写本とされている。しかし、近年前田家本『枕草子』についての研究はすくない。その理由としては、「前田家本は伝能因本と堺本とを底本として集成して作られた後人による改修本である」という楠説の影響があるだろう。しかもこの説は、その後「定説」と認定された。そのため、『枕草子』写本としては最も古いにも拘らず、前田家本『枕草子』本文は言及されてこなかったのである。しかし、楠説は本当に正しいのか。「前田家本は伝能因本と堺本とを底本として集成して作られた後人による改修本である」ということを信じなければならないのだろうか。この問題の解明への手掛かりを得たいと思っている。解明する方法としては、『枕草子』における漢文学の視点を据えて、改めて前田家本『枕草子』本文を再検証してみたい。


【テーマ発表】

武藤那賀子「『源氏物語』「若菜下」巻における「女楽」の翻案とその焦点の所在」

 『源氏物語』は、日本史上最も多く翻案された作品である。とくに「女楽」は華やかな場面であり、『とはずがたり』においては「女楽」を実演しようという試みもあった。しかし、「女楽」の翻案の種類はあまり多いとは言えず、「見せるもの(絵)」あるいは「再現/再構成」されたものとなることが多い。また、人物の位置関係が有耶無耶になってしまったり、4人の女君の順番が入れ替わることも多い。なぜ、このように精密な翻案が行われないのか。本発表では、「女楽」における音や楽器と人物に着眼し、「女楽」が翻案される際に焦点化される「もの」について考えていきたい。


【シンポジウム】

斉藤昭子「シンポジウム趣意文」

 本シンポジウムでは、イギリス文学、日本近代文学、そして日本古典文学の領域から、物語のアダプテーションを考える。

 アダプテーション論の基本的立場として、「原作」とその二次的なものという位置づけではなく、対話的関係として物語とX(絵画、演劇、映画…)を捉える。昨年のテーマの議論の基礎となっていたヤコブソンの「翻訳」の三領域のうち、三つ目に挙げられていた「記号間翻訳」(メディアの移し替え)で生じることを見ていくということでもある。ただし、このように広義の「翻訳」とそのバリエーションとして括る言語学的説明では捉えられないことがらについて、本テーマ「アダプテーション」では考察を広げていきたい。

 伊澤氏は16 世紀末~17 世紀のイギリスの演劇や詩、現代に至るまでのシェイクスピアやオースティンの作品の受容や、翻案について詳しい。最近のイギリス文学のアダプテーション研究を紹介していただきつつ、「ロミオとジュリエット」を中心にシェイクスピアによる/からのアダプテーションの考察をご報告いただく。

 山田氏は夏目漱石や三島由紀夫や村上春樹のテクストから映画や漫画・ドラマまで広く研究を展開している。今回は、三島の短編「橋づくし」の分析である。もとは近松「心中天網島」の「名残りの橋づくし」パロディーを作るつもりだった、と三島自身がいうこのテクストの再演性の問題とテクスト自身が持つ模倣性の問題をご報告いただく。

 三田村氏には「異本伊勢物語絵巻」の「異本」性の問い返し、中世における享受とそこにはたらいた力学を考察していただく。ご存じのように三田村氏はこれまでも、物語テクストと絵の関わりについて、独自の切り口で分析を展開してきた論者でもある。

 本シンポジウムを通して、広く物語←→Xによるジャンルを超えた移行、アダプテーションのありようを議論したい。関わりの深いこれまでの物語研究会の年間テーマ――インターテクスチュアリティ、語りの視点、引用などなど――の成果を踏まえつつ、本テーマならではの切り口から物語の提示の手法、表現的特質や効果に関する議論を深めたいと願っている。


伊澤高志「翻案作家シェイクスピアを翻案することについて」

 おそらく英語圏の作家で(あるいは他の言語圏を含めても)もっとも頻繁にその作品がアダプテーションの対象となるのは、英国の詩人・劇作家ウィリアム・シェイクスピアであろう。時代と場所を越え、さまざまなメディアにおいて産み出され続けるシェイクスピアのアダプテーションは、枚挙にいとまがない。

 その一方で、実はシェイクスピア自身が類まれなアダプテーション作家であったともいえる。シェイクスピアの戯曲の多くには材原があることが確認されており、いわば彼は既存の物語をアダプトしながら自身の演劇を立ち上げたのである。

 そこで本報告では、イギリス文学とアダプテーションをめぐる最近の研究動向を踏まえながら、シェイクスピアによるアダプテーションと、シェイクスピア作品のアダプテーションについて、『ロミオとジュリエット』を具体例として、その実践を紹介する。物語詩、戯曲(演劇)、散文物語、ミュージカル、映画と、姿を変えてゆく恋人たちを追いかけてみたい。


山田夏樹「三島由紀夫「橋づくし」の現在性―「猿真似」の果て」

 四人の女性たちによって行われる、七つの橋渡りによる願掛けの姿を描いた三島由紀夫の短編「橋づくし」(「文芸春秋」一九五六・一二)に注目する。

 近松門左衛門「心中天網島」(一七二〇)の「名残りの橋づくし」をエピグラムに引いている本作は、従来、そこで行われる儀式のゲーム性が指摘されてきた。実際、本作をめぐる受容、読解のあり方自体が、その儀式、ゲームをその都度再演しているような趣がある。

 そして、「「橋づくし」の娘たちは、その後、変貌する東京で、どのように生きたのだろうか」(『東京百年物語3』岩波文庫、二〇一八・一二)と幻視されもするように、本作は、同時代的な文脈、時間性を超越したもののようにも捉えられていく。

 今回、その再演、リプレイの中で見出されてきた解釈の形を検証していくことによって、そうした反応を生み出し続ける「橋づくし」自体が内包する行為の模倣性の意味を明らかにし、その上で現在に至るまでの戦後日本のあり方を捉え返していきたい。


三田村雅子「「異本」伊勢物語絵巻の「異化」を問う」

 東京国立博物館蔵の「異本伊勢物語絵巻」は19世紀前半に狩野養信とその一門によって模写された鎌倉時代ころの絵巻で、独自な画面と変わった本文によって注目される絵巻である。「異本伊勢物語絵巻」とは、片桐洋一によって命名された、非定家本系の本文を持つ絵巻の意味だが、それはどのような意味で「異本」なのか。何が足され、削られたのか。本文・注釈・絵画化の歴史の中で、伊勢物語を享受し、中世神話として再生する営みと力学を考えてみたい。


2019年度(令和元)7月例会


【自由発表】

越野優子「源氏物語(国冬本等)研究の現況分析と考察」

 本発表は自由発表ではあるが期せずして年間テーマに接近することを諒とされたい。「翻案は世界中に氾濫しているが、その多くは二次的・派生的なものとしてネガティヴに捉えられる傾向がある」(注1)とある。これを〈マジョリティとマイノリティの図式〉に置き換え自分の研究に引き付けて変換すると〈通行本文〉対〈それ以外(別本)〉となるだろう。約10年前は本文研究という枠組みの中で〈象徴〉・〈喩〉・〈メタファー〉について問うてもほぼ反応は無かった(注2)。2019年(令和元年)の現在はどうか(注3)。本発表ではまず本文研究の原点を再確認した上で(注4)、若干の未検討の用例(国冬本等)を挙げて多方面から検討を加え、新たな本文研究の可能性を考察したい。

  1. 武藤那賀子 年間テーマ呼び掛け文(HPより) 2019

  2. 拙稿「ひかるきみという呼称の意味―本文研究の中で〈象徴〉を問うこと」p115、武蔵野書院 2016)

  3. ピエール・ブルデュー(Pierre Bourdieu)「2 作者の視点 文化生産の場の全般的特性」『芸術の規則Ⅱ』(“Les Règles de l’art — Genèse et structure du champ littéraire”)特に85p、藤原書店 1996

  4. 関連する批評・書評・学会時評等(藤井貞和氏・上原作和氏・武藤那賀子氏・加藤洋介氏・加藤昌嘉氏等のものを予定)


【テーマ発表】

三村友希「語り出す紫の上/浮舟を救う光源氏―『源氏物語』と少女漫画の文法―

 先ごろ、大和和紀『あさきゆめみし』のカラー原画が、海を渡り、日本文化をアメリカに紹介する祭典「ジャパン2019」の一環として企画された、ニューヨークのメトロポリタン美術館における北米最大となる源氏物語展(The Tale of Genji: A Japanese Classic Illuminated)にて展示された。メトロポリタン美術館でも漫画の原画展示は初のことで、これに合わせて、英語版『あさきゆめみし』のデジタル書籍が日本を除く全世界180か国以上にて配信されることにもなった。大和和紀によるトークショーも開催され、「一目で伝えられるのがマンガという表現分野。いろいろな国の方に読んでもらい、原典も読んでみたいと思ってもらえたらうれしい」と語った(『読売新聞』)。以前、大和和紀は、『源氏物語』は難しいが、田辺聖子の『新源氏物語』を読み、これならば漫画化も可能ではないかと思ったと話しており、『あさきゆめみし』は、いわば『源氏物語』を翻案した『新源氏物語』のさらなる翻案でもありつつ、筆が進められるにしたがって原作に忠実になっていったという経緯がある。そして、『源氏物語』の漫画化は、牧美也子、きら、江川達也などによってもなされ、今も『源氏物語』を原作とした少女漫画が連載されている。今回の発表では、私自身の過去の研究を踏まえつつ、『源氏物語』を少女漫画の「フィルター」を通して描くこと、その翻案の文法について考えてみたい。そこには、物語を単純化してわかりやすくするだけでない、語り直しの方法・文法があるはずである。


2019年度(令和元)6月例会


【テーマ発表】

近藤さやか「『伊勢物語』から在原行平の伝承・伝説へ」

 在原行平は『伊勢物語』にも登場する業平の兄である。そして、『古今集』『後撰集』の歌人であり、因幡守という地方官として、勧学院を創立した教育者としての業績を残す人物である。また、須磨に謫居したとされ、『源氏物語』にも影響を与え、謡曲『松風』などの題材となった。弟の業平ほどではないが、須磨と因幡を中心に行平にまつわる伝承・伝説も少なからずある。享受史の一端として、この「在原行平」という人物像について考えたい。


2019年度(令和元)5月例会


【自由発表】

兵藤裕己「物語の語りと「文体」―草双紙から泉鏡花へ―」

 谷崎潤一郎は、明治末年の自然主義によって成立した言文一致体(谷崎のいう現代口語文)小説への再考をうながし、その対極として、泉鏡花の文章をあげている(「現代口語文の欠点について」1929年)。そして一つのセンテンスに複数の主語や文脈が輻輳する鏡花の文章を、『源氏物語』等の和文の語法を自家薬籠中のものとしたとして称賛するのだが、そのような鏡花の文章について考えることは、たしかに三島由紀夫が述べたように、「日本近代文学が置き忘れた」何かを問うことになるだろう(兵藤「泉鏡花、魂のゆくえの物語」『アジア遊学』2018年12月)。

 本発表では、泉鏡花の幼少期の草双紙体験を起点として、独歩や藤村とうそんの口語文はもちろん、谷崎の「物語」文体とも異質な、近代の小説文体のもう一つの(未発の)可能性について述べてみたい。

〈参考文献〉兵藤裕己「泉鏡花の近代」『文学』2012年11月


【テーマ発表】

深澤徹「「第四の壁」をとりはらえ!―『更級日記』のテキスト実践にみる〈翻案〉の諸相―」

 テーマに即した発表ということで、新しいネタを考えるゆとりがなく、旧稿で述べたことを〈翻案〉のテーマに即して位置付け直すという形での発表で、今回はお許し願いたく存じます。発表の趣旨は、紙の上に書かれた2次元テキストを3次元化すること、すなわち演劇の舞台空間になぞらえて読みなおすことです。『源氏物語』に対する読者論として『更級日記』のテキスト実践をとらえたとき、このテキストの目的は、夕顔や浮舟などの物語の登場人物と自らを重ね合わせ、その心情に限りなく同化、一体化していくことにあったといえましょう。それがさらにエスカレートすると、悪役を演ずる役者に腹を立て、天井桟敷から当の役者をピストルで撃ち殺した正義感旺盛(?)な観客が、かつていたように、また敵討の芝居で、助太刀いたすと舞台に駆け上がり敵役の役者の腕を切り落として殺傷事件を起こした義侠心(?)あふれる観客が、かつていたように、舞台空間と観客席とを隔てる「第四の壁」をとりはらうかのような相互嵌入が、『更級日記』のテキストでは起っているのではないか。そんなことを考えてみたく存じます。要は2.5次元コスプレオタクとして孝標女を位置付けようとの、悪意に満ちた企てです。

 以下にネットで検索した参考文献を2・3挙げておきます。東陽子「3つの視点から見る2.5次元 2.5次元ファンの舞台の見方」(『美術手帳』68、2016・7)、増山賢治「2.5次元ミュージカル活性化の諸相―演目と作曲家の多元性に着眼して」(愛知県立芸術大学紀要45、2015)、増山賢治「日本の創作ミュージカルの新潮流としての2.5次元ミュージカルに関する一考察―その展開とカテゴリー形成をめぐって」(愛知県立芸術大学紀要44、2014)。


2019年度(平成31)4月例会


【自由発表】

大塚千聖「『我が身にたどる姫君』皇后の宮系統の再検討―密通を視座として―」

 『我が身にたどる姫君』(13世紀成立)は、7代45年にわたる天皇家・摂関家の歴史を描く、中世王朝物語屈指の長編作品である。本作に登場する皇后の宮系統(水尾帝の皇后の宮を始発とした我が身姫・皇太后の宮/女三の宮・後涼殿・初草姫君/麗景殿・忍草姫君)は皆、母親譲りの美貌を持つほか、全員が密通の当事者もしくは不義の子で、本物語のテーマに関わる宿命を背負った系譜としてその重要性が指摘されてきた。

 密通のモチーフは先行物語にもしばしば見受けられるが、『我が身にたどる姫君』のそれは、母から娘へと引き継がれる点、物語全編で繰り返し描かれている点、不義の子が全員女子である点の3点において、他の物語とは一線を画す。さらに、これらの要素は皇后の宮系統の女造型にも大きな変化をもたらしているものと考えられる。

 本発表では『我が身にたどる姫君』の皇后の宮系統に描出される密通について、先行物語との差異を起点に再検討するとともに、その独自性が彼女らの人物造型とどのように関わっているのかを考察し、密通を通して本作に描かれる新しい女君像を論じる。


【テーマ発表】

橋本ゆかり「『竹取物語』とアダプテーション―『源氏物語』からジブリ映画『かぐや姫の物語』まで―」

 『竹取物語』は「物語の出来はじめの祖」と『源氏物語』の中で言及され、『源氏物語』をはじめ次々『竹取物語』を引用した新たな物語が紡ぎ出されてきた。『竹取物語』にはメディアを異にした享受もあり絵巻にもなっているが、近年ではジブリ映画『かぐや姫の物語』が上演され、DVDやBlu-rayも売れて、多くの人々に享受された。何が現代享受者の心に響いたのであろう。そこには、新たな『竹取物語』への解釈が提示されている。

 本発表では、ジブリ映画『かぐや姫の物語』を『竹取物語』のアダプテーションとして論じたい。この時、『竹取物語』引用をした『源氏物語』や、日本文学・文化における「衣」の表象の歴史、そのジェンダー批評などについても言及する。『竹取物語』では、かぐや姫が天の羽衣を着る場面がある。映画では、天の羽衣以外の〈衣〉の着脱行為も反復して描かれることは注目される。また、映画では、八月十五夜、月の人がかぐや姫を迎えに来る図は、平安時代中期以降に絵巻でしばしば描かれてきた阿弥陀来迎図を彷彿させ(引用し)「死」のイメージで視覚化される。この映画は2013年に公開された。「死」は穏やかな一人一人の日々の中にも、戦乱や震災などのたくさんの人々が共有する事件の中にも訪れる。生と死の別れ、それにまつわる記憶がラストで焦点化される『竹取物語』のアダプテーションを批評することによって、どのような対話が開かれていくのか、『竹取物語』というテクストが孕む「未来」への応答を試みてみたい。

(参考文献)

  • リンダ・ハッチオン『アダプテーションの理論』(晃洋書房、2012年)

  • 武田悠一『差異を読む―現代批評理論の展開』(彩流社、2019年)

  • 武田悠一・武田美保子編『増殖するフランケンシュタイン―批評とアダプテーション』(彩流社、2017年)

  • 米谷郁子編『今を生きるシェイクスピア―アダプテーションと文化理解からの入門』(研究社、2011年)

  • 大橋洋一「いつシェイクスピアはシェイクスピアであることをやめるのか?―アダプテーション理論とマクロテンポラリティ」(『舞台芸術』06号、月曜社、2004年)

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