【ミニ・シンポジウム】「琉球文学から日本文学を読むこと――中心地と周縁地の観点から」
福里将平「趣意文」
現在刊行中の『琉球文学大系』について、編集委員長である波照間永吉氏は、1992年に関根賢司氏が「琉球文学古典体系(略)という企画を構想しなければならない」と書きつつ、その実現は「ほとんど絶望的だ」(1)としたことを受けて、「氏が負の要素として挙げた研究者の協力体制は整い、そして編集・刊行の経済的問題も、(略)道が開けた。幻ではなくなったのである。」(2)という。藤井貞和氏も同エッセイの同箇所を引用し「幻でなく、絶望的でもなく、沖縄の現実としていま、進みつつあるのだ」(3)という推薦の言葉を寄せている。関根氏の構想が今に引き継がれ『琉球文学大系』に結実したともいえるが、なぜ関根氏は「構想しなければならない」といったか。それは「日本文学研究の、研究対象としての〈日本文学〉から、アイヌ文学や琉球文学を排除するいわれはな」く、さらにそれらを「国文学の内部に閉じこめるのではなくて、日本文学史、日本文学研究を解体せしめる存在として対象化しなければならないもののようである」(4)と考えたからであった。『琉球文学大系』の発刊によって関根氏の目論見も達成しうるのであろうが、果たして琉球文学を受け入れる土壌が、今の日本文学研究にあるだろうか。
一方、沖縄では、すでに沖縄学じたいが批判的に検討されている。例えば、沖縄学の父と呼ばれる伊波普猷の研究は、「日本人と沖縄人は祖先が「同じ」でありながら、日本人と「同じ」になるために沖縄人は不断の努力をしなければならないということが、一つの思想として示された」「矛盾した同化思想」がある(5)、と指摘される。ここでは、ポストコロニアルの観点から、沖縄学も解体されつつある(6)。
さて、琉球文学の一つである「琉歌」は、1609年の島津による侵略によって「おもろ」が断絶したことにあわせて登場してきたといわれる。その成立には「大和の影響が認められる」が、「琉歌は決して模倣の文学ではない」(7)。「琉歌」という言葉は「芸能としての「琉歌」と文芸としての「琉歌」という二つの側面を持つ」(8)。そのようなことが関係するのか、歌唱から詠吟へ移行した和歌は「抒情詩としての成熟を促し、言語表現としてもみごとな様式美を達成した」が「貴族文学として閉塞的になる歴史をたどった」(9)。一方、「三線などの伴奏を伴って歌われる歌謡」(10)としてありつづけた琉歌は「同じ短詩形文芸ながら、独自に育まれた良き性格」(11)である。また、「「日琉両属のマイナージャンル」という位置取りが「学問上」確定」(12)していた琉球和文学は、1992年の『岩波講座 日本文学史』において「閉塞の時代状況を生きる〈個〉の精神が〈制度〉としの軋轢を表現するにふさわしい主題」(13)があるとされ、研究が進み、『琉球文学大系』全三十五巻の二巻を占めるに至った。
酒井直樹は「世界の国際性とは、言語というものを数えることができ、明確に区別可能であり、相互に比較可能である不可分の統一性として事前に想定するという一連の前提に支えられた生権力の配置のことに他ならない」(14)という。また、北川眞也は、不変なるものとされていた地理・地図が「地政学という実践によって創出されている」ことを明らかにし、「支配や戦争、国際政治と結びつく地理をめぐる知識、そしてそこにおいて国家の行動を促したり、正当化したりするように編み上げられる地政学的物語を検討」し、そのような世界の地図化を可能としてきた「地図学的理性」を問題化する(15)。同様の動きが、日本文学/琉球文学という枠組みを設定する理性/前提にもあるのではないか。本シンポジウムでは、各パネリストに琉球文学(とされているもの)がどのようによまれてきたかを発表していただく。その上で、「日本文学/琉球文学」という枠組みそのものを見直すきっかけを提示することを目的としたい。
[注]
関根賢司「アンソロジー〈琉球弧の文学〉の構想」(『テクストとしての琉球弧』(1993年、ロマン書房)所収。初出は『省察』4号、1992年10月、西田書店)
波照間永吉「刊行にあたって」(『琉球文学大系』(ゆまに書房)刊行のパンフレット)
藤井貞和「『琉球文学大系』の開始」(『琉球文学大系』(ゆまに書房)刊行のパンフレットより。藤井氏は『古日本文学発生論』「まえがき-文庫版に寄せて」(2024年、人間社)にも同様の言葉を掲載している)
関根賢司「琉球文学 序説」(『テクストとしての琉球弧』(1993年、ロマン書房)所収。初出は『現代詩手帖』、1988年2月、思潮社)
玉城福子『沖縄とセクシュアリティの社会学』51頁(2022年人文書院)
当然、沖縄学の功績がすべて植民地主義的なものというわけではない。伊波の有名な言葉「地球上で帝国主義が終りを告げる時、沖縄人は『にが世』から解放されて、『あま世』を楽しみ十分にその個性を生かして、世界の文化に貢献することができる」(『沖縄歴史物語』1998年、平凡社。初出は1946年)に見られるように、「沖縄学は日本と世界の中で揺らぐ沖縄の危機意識の中から生まれた」(石井正己「解説」『沖縄文化論集』2022年、角川書店)とも考えられる。ただし、伊波『沖縄歴史物語』は戦後に書かれた伊波最後の著作であるが、ここにも依然として植民地主義的発想が強く残っているという批判もある(伊佐眞一『伊波普猷批判序説』2007年、影書房)。
森岡健二「琉歌の特質」(外間守善編『沖縄文化論叢4 文学・芸能編』1971年、平凡社 所収)
前城淳子「『琉歌』(中巻)解説」(『琉球文学大系 琉歌 中』2024年、ゆまに書房 所収)
森朝男「琉歌讃―和歌の方から―」(『琉球文学大系 琉歌 上』2023年、ゆまに書房 月報)
前城淳子、注(8)論文
森麻男、注(9)論文
大胡太郎「『琉球和文学 上』解説―和文から和文学へ―」(『琉球文学大系 琉球和文学 上』ゆまに書房、2024年 所収)
関根賢司、上里賢一「琉球の和文学と漢文学」(『岩波講座 日本文学史 琉球文学、沖縄の文学』1996年、岩波書店 所収。和文学の箇所は関根氏筆)
酒井直樹「言語の数え方・人類の分け方」(『ポストコロニアル研究の遺産』2022年、人文書院 所収)
北川眞也『アンチ・ジオポリティクス』2024年、青土社
[参考文献]
外間守善『南島文学論』1995年、角川書店
報告1:前城淳子「琉歌はどのようによまれてきたか」
「琉歌」とは一般的に8886音の4句からなる短詩形歌謡のことを指す。三線などの伴奏をともなって歌われる芸能としての「琉歌」と、歌会で題を掲げて詠むなど、歌うことを前提としない文芸としての「琉歌」という二つの側面を持つ。だが、文芸として詠まれた琉歌が三線音楽にのせて歌われることもあるなど、両者は分かちがたく存在している。
本発表では『大島筆記』(一七六二年)に記された琉歌や琉歌集明治期の新聞に掲載された琉歌などを参照しながら、琉歌がどのようによまれてきたかについて考えたい。
報告2:大胡太郎「琉球和文から和文学へ-トリリンガル状況の中の和文(学)-」
琉球語による琉歌を「共同体論的言語」あるいは「自然言語」による「自然化」された「感情」としたとき、琉球において、自然言語によらない「和文学」や「琉球漢詩」はどのような位置におかれるのか。また、沖縄で「和文学や琉球漢詩は「本場」と比べてどうなのか?」という疑問はよく聞かれるものである。この自らを琉球語ネイティブの位置に置きつつ「外国語」による文学作品の「出来」を問う「素朴なナショナリズム」による声はおそらく絶えたことがない。琉球文学大系『和文集』についての沖縄県内の新聞の「新刊紹介」でも、これは同様であった。このことから、現在もそのような日本語=和文の「抑圧」に「曝されている」沖縄が浮かび上がる。しかし、琉球時代においてなら、それは同様であったか?同様でなければならないか?という問いが浮かび上がる。近世において、「本土」各地の「諸国」においてなされた、近世擬古文学のための古典語による「擬古文和歌、和文学」は、どの諸国の文人にとっても実際は等距離であったのではないか?
しかしそれは、「和文」=擬古文体で書くということが可能であるという能力を前提としてもいる。和文学の前に和文体で書くという前提的な能力は、琉球では『中山世鑑』、『喜安日記』やその他の近世琉球初期の和文作品があることによって知られる。そしてこの和文は、和歌という和文も、「強いられた日本化」とは異なって、琉球王府がしばしば禁止した「日本化」が対中国の政策と並行していた。島村幸一、末次智が指摘しているように、琉球和文学はこの和文体で書かれる「琉球和文」を前提としており、『喜安日記』などの和文の随想、日記があり、その中には、琉球語による「語り」が前提される「家譜」なども見られる。そして、1700年代に平敷屋朝敏の「和文学」物語、随筆作品は、その延長にして飛躍とされるべきものであろう。
すなわち、「自然」化された「共同体論的言語」から離れた和文学は、「共同体論的」叙情や鎮魂から離脱し、例えば平敷屋朝敏は、和文学、和歌というポジションをとおして、新たな「民の声」を自ら発し聞くというポジションを可能にしたのではないか?
報告3:葛綿正一「琉球文学の周辺」
分厚い蓄積をもつ琉球文学の研究に立ち入ることは容易ではない。本発表では、琉球文学を読み進めながら、気づいたところを述べてみたい。具体的には『遺老説伝』を中心に考える予定である。できれば琉球文学と和文学をめぐる理論的な問題にも踏み込んでみたい。
報告4:岩下雅子「南満洲鉄図書館の図書館職員が目指したもの検証する」
満洲国は1932年から1945年まで存在した国家で日本の傀儡国家と見做されている。僅か13年間存在した国家であるが、その間、南満洲鉄道株式会社図書館(以下満鉄図書館)は27館開設されている(分館3館を含む)。満鉄図書館は「調査部の中で社業の参考のために社員に閲覧させる」「沿線各地に居住する社員や家族らに教養や娯楽を与える」という二つの目的のもとに開設されている。27館のうち大連、奉天の2館は経費図書館で、それ以外の図書館は公費図書館と分けられている。経費図書館とは主に調査研究に資すべき図書を備付け(経費支払)、公費図書館は教養娯楽のための図書を主に備え付けることを目的としている。
当時満州国は日本民族、満州民族、漢民族、モンゴル民族、朝鮮民族の「五族協和」による「王道楽士」建設をスローガンとしている。満鉄図書館は、日本が「満洲」という外地で初めて手がけた図書館であるが、外地の図書館としてどのような図書館を目指していたのだろうか。「企業図書」「公立図書館」として、さらに中国の貴重書、稀刊書の収集・保管という大きな仕事も担っていた満鉄図書館の図書館人は、前述のスローガンよりも「東亜文化の建設」という文言をよく使っているが、このことに対してどのように理解していたのだろうか。
当時の満洲国におけるスローガンの一つである「共存共栄」を満鉄図書館が目指すならば、満鉄図書館の運営は上記の2つの目的以外にさらに①日本人と満洲人が共に力を合わせて対等な立場で図書館運営を協議し人々に図書館を活用してもらう②今後の満洲における図書館発展のためにも満州における図書館人の育成に努めるという2つの視点が必要であると考える。図書館を文化として捉え、大陸における「東洋の図書館」建設という大きな目的では、一貫したグローバルな視点が求められるはずであるが、「満鉄図書館をどこが管轄し、どのような運営方針が決定されるのか」で度々満鉄図書館の運営は翻弄されていく。満鉄図書館は満鉄を拡大するための図書館であるのは勿論だが、満洲人も含めて満洲国の文化・教養を高め現地の知力を向上させるための図書館としての機能は、当時の日本人には植民地支配という概念の中からは生み出すことの出来ない限界があったのだろうか。
満鉄図書館の図書館業務内容に関しては詳細な資料が残されている。満鉄図書館が行っていた業務内容は現在の日本における図書館運営にも多く受け継がれている。当時の図書館員はどのような業務を遂行していたのかを振り返ることで、満鉄図書館の実態はより具体化されると同時に、当時の図書館が抱えていた課題が、戦後80年を迎えようとする今日の図書館界の課題にも繋がっている。図書館司書の視点から考察したい。
ちなみに当時の満鉄図書館が使っていた図書分類は、台湾の国立台北教育大学図書館の図書分類に引き継がれているのは興味深い。
【自由発表】
久冨木原玲「日本韻文史への一視点 ―ブラジルの多彩な俳句文化を補助線として―」
ブラジルには世界的にも稀な多様な俳句文化がある。特に注目されるのはポルトガル語ハイカイである。それらはしばしば絵が付され、最近では日本近世の発句を都市の路上で身体表現する実験的な試みも現われた。ブラジルにおけるこうした斬新な俳句受容は日本古代の和歌表現に見られる特質を想起させる。そもそも「俳句」の語源は1100年前の『古今和歌集』「誹諧歌」に求められ、そこには豊かな身体表現があった。そしてそれは1300年前の『万葉集』巻16「戯咲」歌に一層、先鋭的に発現する。それらは歌謡・民謡などに端を発し祭や宴席などで歌われたと思われる身体の動きや音声を彷彿とさせる。近世の俳画や日本詩歌の根源を想起させるブラジルの俳句受容を手がかりに和歌・連歌・俳諧・俳句への流れをたどってみたい。
【テーマ発表】
草場英智「「インターセクショナリティ」から読み解く玉鬘巻――糾える縄のような複雑な生の一端を掴むために――」
先行研究において玉鬘は比類なき美貌や賢さ、したたかさを兼ね備えた女であるとされ、それら人物造型が物語にどのような影響を与えるのか、あるいは作中人物にどのような欲望を喚起させるのか、という点が議論の俎上に挙げられてきた。たしかに、『源氏物語』を解釈していくという文学的な営みのなかで、玉鬘という特異な人物の造型とそれがもたらす機能を解き明かしていくことは重要である。しかしながら、これでは玉鬘個人が被った理不尽や困難、その背景にあった抑圧構造が詳述されていないのではないか。すなわち、テクストを読むことで立ちあがってくる玉鬘の複雑な生のあり方について、深く検討できていないのではないか、という疑念である。そこで着目したのが、物語研究会で二〇二三年から二〇二四年にわたって、テーマとして議論されてきた「インターセクショナリティ」という思考の「方針」 (注1)である。ともすると我々は実際の社会的な問題においても、文学で登場人物について考えるときにも、複数の要因によって抑圧される様態を、ベン図の重なった点のように捉えてしまいがちだが、それでは複雑な抑圧構造を捉えていくのには固定的な視点に過ぎる。相互に働くことで当事者が被る困難は「掛け算」のように、相互の関わりのなかで強化(あるいは弱体化)される(注2)。そのような複雑な抑圧構造の内実を丁寧に紐解いていくことで、従来、玉鬘の超人的ともいえる資質に回収されて話題にもされなかった玉鬘を取りまく複雑な抑圧構造の一端を掴まえることができるのではないか。本発表は以上のような問題意識に基づいた『源氏物語』解釈の一試案である。
【注】
森山至貴「今度はインターセクショナリティが流行っているんだって?」(『現代思想』 青土社 「特集 インターセクショナリティ 複雑な〈生〉の現実をとらえる思想」 二〇二二年五月)は「インターセクショナリティという語の多義性をあらためて理解すると、「各々の権力関係の合算に還元できない形で複数の権力関係が交差しているという事実」と「その事実に着目すべき方針」に分けることができるだろう。」と述べている。
土屋和代「「インターセクショナリティ」に何ができるか」(土屋和代・井坂理穂編『インターセクショナリティ――現代世界を織りなす力学』 東京大学出版会 二〇二四年六月)はパトリシア・ヒル・コリンズの論考をふまえて「レイシズム、セクシズムとった抑圧を別個のものではなく、「支配のマトリックス」を構成するさまざまな特徴・様相ととらえ、それらの抑圧が「足し算」ではなく「掛け算」として機能する姿をとらえられるような、統合的なアプローチ」の必要性を述べる。
【自由発表】
福里将平「「見る存在」から「語る存在」へ――『在明の別』の侍従」
平安末期から鎌倉初期に成立したとされる『在明の別』巻一の主人公は、女性であるが夢告によって男装し、右大将として出仕している。右大将は家の存続のため子をなす必要があるが、右大将自身は身体的女性であるため、外の女性と子をなすことができない。そこで、左大将による性暴力被害に遭い、懐妊した姫君(後の対の上・左大将とは継父・継子の関係)を盗み出し、生まれる子を右大将自身の子と偽装することで家の存続問題を解消しようとする。このことは決して漏洩してはならない秘密であるため、ごく一部の人物しか知らないとされる。ところが、姫君付きの女房である侍従は、右大将にまつわる多くの秘密を目撃しており、秘密を暴露しようとする場面で物語は終わる。『在明の別』の侍従は、巻三において、故右大将(偽死後、その妹を装い入内し、女院となる)の子とされる左大臣・中宮の出生の秘密を明かすことから、語る性格をもっていることを指摘する論考は既にある(注)が、物語前半で様々な事件を見る存在であることを考察するものは、少ないようである。本発表では、物語前半では見る存在であった侍従が、いかにして語る存在へと変化するのかを考察する。
(注)野村倫子「「侍従」考―平安末期物語および鎌倉時代の物語にみられる脇役女房史―」(『『源氏物語』宇治十帖の継承と展開―女君流離の物語―』二〇一一年、和泉書院)
【テーマ発表】
富澤萌未「継子譚の再検討――『源氏物語』「蛍」巻における「継母の腹きたなき古物語」という言葉から――」
『源氏物語』「蛍」巻における光源氏の「継母の腹きたなき昔物語も多かるを」(新編日本古典文学全集③216)という発言にもある通り、平安時代には継母が継子を虐待する物語が多くあったことが窺える。このような物語は、現在では継子譚、継子物語などと呼ばれる。継子譚を確認すると、継子を虐待するのは、ほとんどが継母である。したがって、継子譚という言葉を用いているにもかかわらず、継子譚を扱う際に、継母あるいは実母に焦点を合わせて論じることが多い。本発表では、光源氏と玉鬘、紅梅大納言と宮の御方、常陸介と浮舟、『有明の別』の左大将と対の上といった継父と継子の場面を確認することで、さまざまな力関係が継子に交差する様子を捉えることを目標とする。その上で、物語において複数の要因によって不利益を被る子どもたちに関しても範囲を広げ、継子譚という枠組みを再検討したい。そして、物語によってある一定の考えが強化されてしまう一方で、そうした枠組みから零れ落ちた自己を、登場人物が物語を参照することで捉え直すあり方が物語内自体に見られることを確認する。
【テーマシンポジウム】古典文学における「インターセクショナリティ(交差性)」
「シンポジウム趣意文」
物語研究会の2024年度年間テーマは、昨年度に続き、「インターセクショナリティ(交差性)」である。インターセクショナリティは「交差する権力関係が、様々な社会的関係や個人の日常的経験にどのように影響を及ぼすのかについて検討する概念」(パトリシア・ヒル・コリンズ&スルマ・ビルゲ『インターセクショナリティ』人文書院、2021)であり、人種、階級、ジェンダー、セクシュアリティ、年齢といったアイデンティティにおける数々のカテゴリーが交差する際、そこには単なる権力関係の合算には還元できない差別や抑圧が生まれることに着目するものである。
この度のテーマシンポジウムは、このインターセクショナリティ(交差性)の視角をもって特に古典文学を捉え直した際にどのような読みがそこに浮かび上がるのかをパネリストとフロアの相互的なやり取りの中から発見していく試みである。黒人女性に対する差別が黒人に対する差別と女性に対する差別の合算には決して還元できないというブラック・フェミニズムの問題意識から発生したインターセクショナリティの歴史的背景は、黒人が登場することのない古典文学の背景とは異なる。しかし、古典文学の中に登場する者、書く者、書き写す者、そして読む者のすべては、交差する権力関係のその交差点に立っている。現代とは異なる階級やジェンダーが現われる古典文学の作品内部における権力関係はもちろん、書く者のアイデンティティの複雑性は、作品のことばとどのように関わっているのか。また、書き写し、読み、注釈し、さらには別の形へと変容させていく行為の中に、交差する権力関係はどのように作用するのか。
インターセクショナリティは年間テーマではあるが、今までの物語研究会の蓄積と決して無縁なものではない。ジェンダー、アダプテーション、動物論、そして語り、読みといった問題意識と密接に接続するものである。
本シンポジウムでは、まず斉藤昭子氏が『源氏物語』の「恋愛場」における「男」/「女」呼称の力学について報告して下さる。そこでは2021年度年間テーマ「物語研究会50年の歩み」におけるジェンダー論との接続が明確に意識されている。また、池田大輔氏の報告は錦絵の源氏絵を取り上げ、そこに存在する複数の潜在的な抑圧、そして源氏絵のアイデンティティを考察するものである。さらに、三田村雅子氏は、『有明の別れ』物語の「作者」としての慈円について、男性性と女性性、漢文・かな文字・カタカナ文字、摂関家論といった多岐にわたる点からの報告をして下さる。
今回、例年であればゲストの入ることの多いパネリストをすべて会員の方にお願いしたのは、このテーマを会員各自がいかに受け止めて展開していくか、そして、物語研究会のこれまで/これからとどう接続していくかという点において、重要な節目のときであるという認識からである。ぜひ多くの方々の積極的な参加を期待したい。
報告1:斉藤昭子「恋愛場における「男」/「女」呼称の力学とインターセクショナリティ」
源氏物語における「恋愛場」(異性愛場)における「男」/「女」(「女君」)呼称の力学をインターセクショナリティの視点の基本に立ち戻って再考する。源氏物語の「恋愛場」は、歌表現と同化的な言説という特質から、引用・反復によっておもに女君たちの主体の位置を構築しつつ、既存の意味のずらしや再意味づけを行う、さまざまな力学の働く場である。ただしそれぞれの人物は「男」/「女」であるのみではなく、それぞれが社会の諸制度のもと割り当てられている「階級」の他、年齢やアビリティが掛け合わされてそこに相対している。それぞれの複雑な生のありようについて、物語の「恋愛場」(語りと和歌の言葉)が覆い隠すものとそうでないものとを見定め、機関誌22号の拙稿「物語研究とジェンダー論のあとさき」の五節「残された課題 これから接続するべきこと」に示した古典物語研究におけるジェンダー論の課題に応じるものとしたい。
報告2:池田大輔「源氏絵のアイデンティティ―歌川国貞画「源氏物語 朝皃ノ巻」の挑戦と喚起する〈読み〉―」
江戸時代後期に消費されるメディアとして人気を博した錦絵の源氏絵を取り上げる。特に、源氏絵の構図は、絵師や時代が異なっても、概ね類型的に描かれる。それは、源氏絵の没個性と捉えてもよいであろう。そこには、潜在的な抑圧が複数あることを認めることができよう。
つまり、物語テクストと人々(読者・未読者)のイメージの具現化、そして絵(構図)の伝統という複数の呪縛の中、消費者に向けた商品としての価値も付加しなければいけなかったという複数の関係性に目を向けてみる必要があるということである。源氏絵を複数の関係性のもと成立した集合体メディアとして捉え、それを解体していくことで、源氏絵のアイデンティティについて考えてみたい。
今回中心に取り上げるのは、歌川国貞(三代豊国)画の大錦三枚続「源氏物語 朝皃ノ巻」(1843~1847)である。この源氏絵は、他も巻もあるシリーズ物であり、三枚続という広い空間を確保したことで、これまでの源氏絵では表現されてこなかった「藤壺の霊」を描いている。また、『源氏物語』の光源氏ではなく『偐紫田舎源氏』の光氏を描くという挑戦もしている。なぜ、そのような挑戦をしたのか、抗おうとしたもの(権威・権力)とは何だったのか。
源氏物語テクストという絶対的権威のもと、物語世界をどのように視覚化し、翻って物語の「読み」にどのように還元できるのか、源氏絵のアイデンティティについて、みなさんと考えたい。
報告3:三田村雅子「越境・交差する慈円」
「有明の別れ」物語の「作者」としての慈円を考えていきます。従来から慈円和歌と「有明の別れ」和歌には深い関係があるのではと指摘されてきました(金光説)が、今回さまざまな角度から検討した結果、慈円と考えて間違いなかろうという結論に達しました。その上で男性性と女性性の越境の問題、玉女の夢が示唆するもの、摂関家内の対立、漢文とかな文字、カタカナ文字の相克、愚管抄の天皇論と有明の別れの摂関家論、仏教世界と世俗世界、武家政権と王朝世界、有職故実と年中行事、隠者論(折口信夫)の視点など、多岐にわたる境界越えのありかたがどう慈円という一人の人間の中に統御され、また、切り替えられているかを考えてみます。
【自由発表】
東原伸明「『源氏物語』「自由間接言説」のアナログ・ロジカル―もしくは「現れ」としての 「自由間接言説」・〈語り〉と〈言説〉の連続的分析」
「自由間接言説」とは何か、どのようなものとして規定できるでしょうか?本発表では、その「発生」から説き明かし、対象とする場面に標的として「現れ」た具体的なものに関して、〈語り〉と〈言説〉の視座から連続的に、アナロジックに捉えた分析結果をお示しいたしたいと考えます。これは、アナログ思考的な分析だと言えます。また、当該言説の典型的な例として、柳田國男の『遠野物語』を対象に取り上げ、『今昔物語(集)』の言説と照らし合わせた分析結果も、提示いたします。予見的に言えることは、「自由間接言説」とは、物語などの散文文学に頻出し現象しているオーソドックスな言説ですから、特に珍しいものでもなんでもなく、散文においては、ごく普通のものであるということになります。
【自由発表】
ローレン・ウォーラー「翻訳理論の視点から考えるイソップ寓話―その日本語訳に見える「起点」と「目標」の構造」
翻訳という行為は、「起点テキスト」と「目標テキスト」の軸で想定され、翻訳を「直訳」と「意訳」という二項対立で分類するのもその関係に基づいているのであろう。近年、ローレンス・ヴェヌティが「流暢な」翻訳を批判し、起点テキストの他者性が消されることに注意を促し、有力的な理論家として位置付けられている。
しかし、世界的に広く翻訳されている「イソップ寓話」を考えてみれば、通説として想定されている二項対立が問題視される。それぞれのイソップ寓話集の異なる「教訓」の豊富さはよく知られているが、編集者と原本の間の問題のみならず、読者側の解釈の問題も見逃してはならない。
「イソップ寓話」は1つだけの原本を有しないテキスト群(ジャンル)である上、歴史的なイソップ寓話の書物を見れば、「イソップの生涯」と呼ばれる伝記物語もよく附されている。その「起点」とされるイソップ像も、寓話の「目標」である教訓とも関係している。「イソップの生涯」で描かれるイソップ像と、寓話自体と、その教訓という構造が、イソップ寓話の「翻訳」の実態を作り上げる原因の一つである。
本発表では、そのイソップ像は「イソップ寓話」というジャンルを作り上げる効果があり、「イソップの生涯」を有しない書物でも、「イソップ」という人物の前提がその寓話の目標とされる教訓の表現とその背景に想定される倫理を作り上げる効果があることを論じる。
今回の調査では、主に1593年刊行の『エソポのハブラス』、万次2(1659)年刊整版本の『伊曽保物語』、そして1873年の渡辺温の『通俗伊蘇普物語』を比較し、日本におけるイソップ寓話を検討した上で、世界の翻訳理論の問題点を考えたい。
【自由発表】
加藤希「広瀬大忌祭の神話的風景―「山口の神」と「さくなだり」」
四月と七月に行われた穀物の豊穣を祈る祭祀、広瀬大忌祭にて宣読された広瀬大忌祝詞(『延喜式』巻八)について考察する。広瀬大忌祝詞は構成や章句に問題点の多い祝詞とされ多くの先行研究で検討されてきたが、いまだ定まった説はない。とくに後半に登場する「倭の国の六つの御県の山の口に坐す皇神等」を祀ることに関し、この神々が農耕に関わらない神であることから濫りな詞章として捉えられている。人々の生活に直結する豊穣の祈請が粗略なものであるはずはなく、「山口の神」への理解が不十分であると考える。「山口の神」は『皇太神宮儀式帳』『止由気宮儀式帳』や『延喜式』祈年祭祝詞では殿舎の用材を切り出す際に祀る神として表れるが、広瀬大忌祝詞内では五穀、特に稲の生育に不可欠なよい水を下してくれる神として描かれている。
「山口の神」は山という異界から人間の世界への回路をひらく神であり、広瀬大忌祝詞はこの神が水を「さくなだり」に下すという表現を用いることにより神話的風景を参集者に想像させる。「さくなだり」という語は大祓詞(『延喜式』巻八)にもあらわれ、地上から祓われていく罪はまず「さくなだり」に流れ落ちる水によって運ばれる。この「さくなだり」は、神々の世界から人間の世界へと移動させる際に欠かせない作用であった。「山口の神」と「さくなだり」に焦点を当て、祝詞が紡ぐ神話的風景を鮮明にすることを試みる。
【テーマ発表】
年間テーマ「インターセクショナリティ」第2回勉強会
7月例会は、4月例会での「キックオフ勉強会」に引き続き、テーマ委員2名(石垣・内田)による「インターセクショナリティ」の第2回勉強会を行う。
森山至貴の論考、「今度はインターセクショナリティが流行ってるんだって?」 (『現代思想』2022.5)を俎上に、文学研究(主に古典領域)から「インターセクショナリティ」にアプローチするための具体的な方法について、前回の勉強会を更に発展させる形で検討できる機会になればと考えている。同論文は、「インターセクショナリティ」に関する無知や誤りを含んだ理解に対して理論的に応答する形式で書かれており、初学者にとっても読みやすく、なおかつ概念理解にも資することから今回取り上げることにした。
「勉強会」においては、まずテーマ委員が概要説明を行った後、ディスカッションを通じて実践的なアプローチの方法を検討することを目指している。是非多くの方に気軽に参加していただきたい。
【自由発表】
袴田光康「平安期における「名所」の形成」
今日でも観光の「名所」などと言うが、単に風光明媚な土地として有名であるだけでなく、訪れたことがない人にでも何となくその土地のイメージを喚起させることができる地名を「名所」と呼んでいるように思う。この「名所」の概念は、「歌枕」の基盤として10世紀頃から形成されたものと見られるが、そこは和歌だけでなく、寝殿造様式庭園、州浜、名所屏風絵など総合的芸術の相互作用の場でもあったと考えられる。ただし、庭園、州浜、屏風絵などは当時のものは全く現存せず、専ら屏風歌の研究に依拠してきたのが実情である。屏風歌の研究の進展に伴い、屏風に描かれた名所絵についても解明されてきたが、そもそも倭絵における四季絵の中からどうして名所絵が独立していくのか、その理由さえ明確でない。そこで、本発表では庭園の方面からアプローチしてみたい。『作庭記』(11世紀)には諸国の名所を庭園に取り込むことを強調されており、源融の河原院が塩釜を模したことで知られるように庭園が「名所」と密接に関係していることは明らかである。庭園の池と中島には蓬莱島の表象であるが、そこには常世や浄土の理想性も重層化していると考えられる。庭園の常世のイメージが、歌合などの場に設えられた州浜が青松白砂の風景を再現するものが多いこと、あるいは屏風歌に詠まれた「名所」も難波、住吉、須磨などの海辺の地が多いことなどと関係するのか、それもしないのか、まずはそのあたりから考察をしていきたい。
【テーマ発表】
武藤那賀子「言語化不可能な存在――『日本霊異記』における半人半牛」
発表者は、「『日本霊異記』の動物化した人々」(『物語研究』第21号、2021年3月)において、「人」であった際の罪業によって、次の生において動物になった人々について論じた。その際に、上半身が牛で下半身が女性の死体が出てくる話(『日本霊異記』(下巻)「非理を強ひて債を徴り、多の倍を取りて、現に悪死の報を得る縁 第二十六」)を特異な例として位置付けた。動物化した人々を、当該論文では「あわいの存在」としたが、本発表では、その存在そのものについて考察していく。「あわいの存在」は、その存在そのものを言語で語ることができない。また、その存在そのものが語ることもできない。このように「言語化不可能」であるという点においては、「現実界」(ジャック・ラカン)に通じるところがある。そのため、本発表では、「現実界」を文学で表したものととらえることのできる『はてしない物語』および『ナルニア国物語』を入り口とする。そして、半人半獣あるいは人の姿と獣の姿の双方を取るという設定のものについて考察し、『日本霊異記』の例につなげたい。参考文献として、以下のものを掲げる。
武藤那賀子「『日本霊異記』の動物化した人々」『物語研究』第21号、2021年3月
ミヒャエル・エンデ『はてしない物語』
C.S.ルイス:ナルニア国物語(とくに『さいごの戦い』)
小野不由美:十二国記(とくに『白銀の墟 玄の月』)
阿部智里:八咫烏シリーズ
【自由発表】
西原志保「人形と共感―『源氏物語』と『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』」
両大戦間のヨーロッパを思わせる架空世界を舞台としたアニメ作品『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』(原作暁佳奈、京都アニメーション制作、2018年)について、主人公の名前「ヴァイオレット」が紫色の花であること、年上の男性と少女の恋物語であることなどから、個人のブログ等で『源氏物語』との類似性が指摘されている。『源氏物語』若紫巻の一部が国語教科書に採録されていることから、光源氏と若紫の物語が制作側享受者層双方に共有されていてもおかしくはなく、エヴァーガーデンという姓(孤児であるヴァイオレットを引き取った養母の姓)も六条院の四季の町を思わせる。
ただ、本発表において特に注目したいのが、『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』に登場するタイピストのような職業が「ドール」と呼ばれること、ヴァイオレットが「ドール」となり、人間の「心」らしきもの、とりわけ「愛」を理解していくことである。『源氏物語』においても若紫が男女関係を理解し、「愛」を身につけていく過程で、手習や雛遊びが機能すると指摘されるからである。
そこで本発表では、人形(「ドール」と「雛」)と書くことに注目し、『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』を『源氏物語』のアダプテーションとして考察することによって、「ドール」という職業名が、「愛」や「心」が何よりも作られた、人工的なものであることを指し示す装置として機能すると指摘する。
【テーマ発表】
張培華「『源氏物語』に見る三世代の悲恋の交差性」
『源氏物語』における悲恋についての研究は、すでに様々な角度から優れた業績が積み重ねられている。しかし、近年の現代思想の方法としての一つであるインターセクショナリティの観点からの探求はまだ多くは見られない。そこで、本発表は、インターセクショナリティの主旨を据えて、貴族社会における「複合的な差別の構造」や「権利の偏重」、そして「利害関係」などに焦点を当て、『源氏物語』における三世代の悲恋が起きた原因について、新たな視点から考察してみたい。
具体的には、次のような三世代の悲恋を中心として考える。一世代は、桐壺巻をめぐって、桐壺帝と桐壺更衣の悲恋についての交差性を考察する。桐壺帝が身分は低い桐壺更衣を寵愛したために、宮廷の中で非難、嫉妬や虐めなどが起こり、桐壷更衣は耐えられず亡くなったのである。その際、作者が楊貴妃の事例を繰り返し引用していた。楊貴妃の死は如何に桐壺更衣と繋がっているのか。二世代は、光源氏と藤壺の悲恋についての交差性を考究する。光源氏は三歳に母を失ったために、母と似た義母である藤壺を愛してしまい、実らぬ恋に堕ち込んだ。藤壺が光源氏を避けたことにより、光源氏の恋慕の心は苦しくなる。苦しい光源氏は如何に自らの恋情を他の女性に拡散したのか。三世代は、薫と浮舟の悲恋についての交差性を分析する。なぜ薫は浮舟への純愛を成し遂げられなかったのか。おそらくライバル匂宮いたからであろう。如何に匂宮の策略が薫へ影響を与えたのか。
以上のような悲恋の事例を取り上げて、本発表はインターセクショナリティの視点から、『源氏物語』に見る三世代の悲恋の原因を新たに探究してみたい。
【自由発表】
日向一雅「文学論の時代――九~十一世紀の詩論・和歌論・物語論――」
平安時代初期から中期にかけての日本文学史における文学論の展開を詩論・和歌論・物語論のジャンルにわたって概観する。具体的には最初の勅撰漢詩集『凌雲集』『文華秀麗集』『経国集』の「文章経国」の文学論が、これまた最初の勅撰和歌集『古今和歌集』の和歌論に継承され、さらに『源氏物語』の物語論にまで受容されたことを確認しつつ、和歌、物語という文学ジャンルがどこで文章経国論からの差別化を図ったのか、それぞれのジャンルの特性をどのように確認したのかを検討する。勅撰漢詩集の揚言した文章経国の文学論は、初めての勅撰和歌集であった『古今和歌集』にとっては先例としても手本としても無視しえないものであったことは理解しやすい。一方で漢詩とは異なるジャンルの特色をどこに見定めるかは重要な課題であったはずである。他方『源氏物語』の物語論は女子供の娯楽の読みものとしてしか認知されていなかった物語を、いかに和歌や漢詩のような勅撰集の地位に匹敵する文学として意義づけうるかという点を揚言するのである。ここでも文章経国の文学論は明確に意識されていた。それを意識しつつ物語というジャンルの特性を宣揚したのである。文章経国の文学論が平安文学史の冒頭を飾ったことは、その後の平安文学史に骨太な骨格を与える意義を有したといえよう。同時に、それぞれのジャンルの特性を明らかにしようとする文学論にとって文章経国の文学論は格闘の対象になったのである。
【テーマ発表】
テーマ 年間テーマ「インターセクショナリティ(交差性)」キックオフ勉強会~「2年目のインターセクショナリティ」のために~テーマ委員による問題提起およびテーマに関する相談会
2023年度に続き、2024年度も年間テーマ「インターセクショナリティ(交差性)」が継続されることになった。2年目を迎えるにあたって、このテーマについての基本文献を紹介したり、各自の研究にどう活かすことができるかアイディアを出し合う機会として、今回はキックオフ勉強会を企画する。いたってカジュアルに、今までテーマとの距離を遠く感じていた方にこそ気軽に口を開いて頂けるように。
ひとりの人間は、階級、ジェンダー、年齢、などの複数の要素を持っている。現代を生きる私たちだけでなく、光源氏だって浮舟だって、名前すら書かれないあの人物だって、それぞれが複数の要素が「交差」するところに存在している。この「交差」によって生まれる独特の抑圧や権力関係を見つめるために、新たな年度の最初の一歩としたい。
当日は、次のような流れで進めていく予定である。
基本文献の内容の報告(テーマ発表委員)―コリンズ&ビルゲ『インターセクショナリティ』(2021 人文書院)を中心に
研究事例紹介&古典文学研究への活用例の提案(テーマ発表委員)
質疑、意見交換(参加者全員)―テーマに基づいてどのような実践ができそうかアイディア出し
特に大事なのは、3である。
――4月のテーマ発表者が決まらない。あちこちお願いもしたけれど全滅。ならばテーマ発表委員が発表すればいいと思われそう?でも、委員は全員はじめに発表している。仮に委員ばかり繰り返し発表するとしたら、関心を持ってもらえていないようで、なんだかむなしい。
でもさ、インターセクショナリティって古典文学にもかなり使えそうだと思うんだよね。もしかしたら、コリンズ&ビルゲの『インターセクショナリティ』をまだ読んでいない人も多いのかも。自分の研究との関わりが見つからないと思われているのかも。だから、まずは勉強会をやってみない? 基本的なことから説明をはじめて、発表したくなってしまうくらい興味を持ってもらえるように。そう、春だし、サークルの新歓をやるような気持ちで。
そんなZoomでの委員の相談から始まった企画。「あ、年間テーマって継続になったんだ」と今気づいた方にも、ぜひ参加して頂きたい。