2022年度(令和4)
2022年度(令和4)3月例会
【ミニ・シンポジウム】「物語論と注釈――分断から再結合への祈りを込めて」
越野優子 「趣意文」
今文学研究は岐路に立たされている。二〇二二年二月にロシア・ウクライナ間で軍事侵攻が行われた昨年において、食糧事情が悪化しそれに伴う便乗値上げが横行し、世界は背に腹は代えられぬ困難の中にある。経済問題が優先し結果が目に見える形で出、経済状況の改善に直結する学問に予算が横取りされる傾向に加速度が増したのである。
このような状況の中で文学研究なかんずく古典文学研究は一層厳しい状況に立たされている。文学研究の意味が問われるときに私たちは答えられるのか、否か。その岐路において細分化された研究状況は悲しい。文学を愛し憧れてきた仲間である私たちは、研究の視座の如何に拠らず再結合できないか。そのことをずっと夢見てきた。
学問はそもそもギルド(guild)のもつ要素が否定しきれない。ギルドは中世ヨーロッパにおいて発生した商工業者の団体を指すが、学問も徒弟制度・口伝によって進んできた歴史もあり、その折に志や主義主張を同じくする団体が生まれるのはむしろ必然であったであろう。私たちは恩師から有形無形の財産を受け継ぎそれを再生産することで学問に関わっている。その際学閥が無関係であるわけはない。そのことはむしろ学派の多様性のためにも必要なことだ。しかし没交渉になるのはいただけない。
champ(場・フランス語)という言葉がピエール・ブルデューによって深い意味をもつことになった。「芸術作品の価値の生産者は芸術家なのではなく、信仰の圏域としての生産の場である」「つまり正統性いう磁極に向けて導こうとする強烈なベクトルが恒常的に働いている」(『芸術の規則』2 藤原書店、一九九六年 )。これを日本文学研究に当てはめると、「正統性」をめぐり、注釈で資料としてある意味科学的に文学を分析する方向と作品内部の論理を読み解く「物語論」の方向は、争ってきたのではないか。しかしそんなことをしている暇はない。文学研究(とりわけ古典)自体が生産性のないものとして追いやられつつあるのだから。さらに、巷で話題のchatGPT(注1)が精度を増せば、我々は追いやられるかもしれぬ。物語と注釈の研究の二方向は再結合できないか。そのような思いをこめて本シンポジウムの企画に関わることにした。
上記の趣旨を基に、物語と注釈の架け橋となる立ち位置を求めて三人の報告者にそれぞれの問題意識を基に自在に論じていただき、コーディネーターにおまとめ頂く予定である。
登壇者は結果として全て「注釈」と深いご縁がある方々だが、関わり方がそれぞれ異なる方々である。
『源氏物語』の中世の古注釈『河海抄』について著書がおありなのが松本大氏である。陽明文庫本を底本とした『源氏物語』の注釈もされておられる。
上野英子氏は三條西実隆本の伝本を中心に室町時代の享受ついて論じておられる。昨年度の科研報告書にて紅梅文庫旧蔵源氏物語(注2)についてまとめられた。
山本貴光氏はゲーム作家の顔とともに、マルジナリア(注3)の功罪について古今東西の事例を基に論じておられる。皆様のお力でこのようなお三方が来て下さることになった。
こうした両者の架け橋のお立場としてコーディネーター的に、今更説明の必要もないが両者で業績を残された藤井貞和氏におまとめ頂くことが良いと考えた。
基調報告者同士の討論を行い、このあと会場との討論を行う。
本シンポジウムを通して、分離していた〔仲間〕との再会と再結合(注:これはお互いに阿(おもね)るということではない)を行い、文学研究のあり方を考えるまたとない機会を作りたいと心から願う次第である。
chatGPT・・・オリジナルのテキストを生成することができる人工知能ツールまたはそれによって作成されたテキスト。OpenAIが二〇二二年十一月に公開したもの。
紅梅文庫旧蔵源氏物語・・・https://genji-koubai.jp。こちらにまとめられている。PDFで報告書を見ることが可能
マルジナリア・・・余白への書き込み。marginalia: (written in a margin)
報告1:松本大「古典籍享受の実相と作品世界の把握」
本発表では、古注釈書・享受史研究を専門としてきた発表者が捉えた、日本古典籍の享受上の構造的特徴を示しながら、古典文学作品が広範な作品世界を潜在的に有する可能性を示すことを目的とする。
現代の研究状況を見ると、校訂本文を使うことがごく当たり前の営為として存在している。『源氏物語』であれば、大半の研究者が、新編全集・新大系・集成のいずれかを用いる状況であり、その校訂本文の世界のみが作品の世界であると捉えられがちである。しかし、現在までの古典籍の伝来・享受の様相を捉えると、校訂本文のみへの依拠状況は、日本文学史上、ある意味で特異な状況であることに気付く。
今回の発表では、その特異な状況に対して、いくつかの事例を扱いながら、どれほど自覚的であるべきなのか、諸賢に問いたいと考えている。勘違いしないでいただきたいのは、発表者は、特異なこと=悪であると否定的に捉えるとか、いまさら特定の伝本・校訂本文に対する讃美・批評をするわけではない。主旨は、我が国における本来的な文学作品享受、それは非常に豊かなものであり、多様性を持っていたはずであったのに対し、現状では矮小化した享受を行ってしまっているのではないか、という問題提起である。
以上、偏頗な卑見を繰り広げることになろうが、討議を通して今後の研究の参考になれば、幸甚である。
参考文献:
拙稿「併存と許容の物語読解――「可随所好」を端緒として――」(岡田貴憲・桜井宏徳・須藤圭編『ひらかれる源氏物語』、pp.155-187、勉誠出版、二〇一七・一一)。
報告2:上野英子「三条西家の源氏物語本文と注釈」
三条西家の源氏学は、応仁の乱の焼け跡から出発した。旧来の伝統的な枠組みや価値観が音を立てて瓦解していく厳しい状況ではあったが、視点を変えれば、灰燼のなかから新しい何かを掴み出そうとする自由を手に入れた時代でもあった。
源氏物語の本文についても然り。実隆以前の碩学らが「各雖証本皆有異同…善者従之古人美言也」(『河海抄』)「源氏の本一様ならず、人の好む所に従ふべし」(『花鳥余情』)と述べていたのに対して、三条西家では当流の本として、それ以前から「既に世に絶たるか」(『師説自見抄』)とまで言われていた青表紙本を選び取った。応仁の乱が無ければ、実隆もまた兼良と同じ諸本観に安住していたかもしれないのである。しかも彼らが手にした青表紙本は、定家の〈四半本〉を継承した大島本とは異なって、むしろ〈六半本〉に近いものだった可能性がある。そこに至る迄にはどのような経緯と論理があったのか、三条西家の本文史を辿り、また注釈書から逆照射される彼らの書写態度を論じ、最後は証本と校訂本文について言及したい。
参考文献:
片桐洋一『平安文学の本文は動く』(二〇一五年 和泉書院)
拙著『源氏物語三条西家本の世界――室町時代享受史の一様相――』(二〇一九年武蔵野書院)
科学研究費報告書『室町時代源氏物語本文史の研究――紅梅文庫旧蔵本を中心に』(二〇二二年 課題番号19K13063)※「紅梅文庫旧蔵本源氏物語」https://genji-koubai.jp/にて紅梅文庫旧蔵本の影印および報告書を公開中
報告3:山本貴光「物語をつかまえる、物語につかまる」
「物語」は動く。人から人へ、人からモノへ、モノからモノへ、モノから人へ。
「物語」は変わる。誰かの頭の中で、人びとのあいだで、物質や言語のあいだで。
「物語」は、ひとたび誰かの声として空気を震わせたり、文字として書きつけられたりしたそのときから、さまざまな経路を辿って枝分かれしてゆく。
例えば、ことを文字で表されたものに限ってみても、ホメロスの叙事詩や「聖書」、「古事記」や「源氏物語」がそうであるように、「物語」は語られ、聴かれ、書かれ、編まれ、写され、刷られ、読まれ、直され、解され、書き込まれ、書き換えられ、訳されるたび、さまざまに動いてきた。近現代の印刷される「物語」も、程度に差こそあれ同様である。また、デジタルゲームに至っては、人が遊ぶたび「物語」が変化するのをご存じかもしれない。
私たちはそのような動き回る「物語」をどうやってつかまえられるだろうか。あるいは、「物語」に触れ、これを観察し、記述するとき、実際にはなにをしていることになるのだろうか。しかも、認知能力が限られていて、例えば「物語」の細部に満ちた全体を覚えたり、一度にそれを思い浮かべたり読んだりすることのできない人間の身でありながら。
今回は、従来の物語研究を念頭に置きつつ、総合人文学としてのフィロロジー、夏目漱石による一般文学論の試み、認知文芸科学の発想などを手がかりとして、「物語」の生態(ecology)とそのつかまえ方について考えてみたい。それは裏腹に、少なくとも文字が使われ始めてから五千年のあいだ、「物語」を手放さずにきた、あるいは「物語」につかまってきた人類について考えることでもある。
参考文献:
『物語研究』創刊号から第22号(物語研究会)
越野優子『国冬本源氏物語論』(武蔵野書院、2016)
藤井貞和『物語史の起動』(青土社、2022)
夏目漱石『文学論』(大倉書店、1907)
今野真二『乱歩の日本語』(春陽堂、2020)
拙著「文学のエコロジー」(「群像」、講談社、連載中)
拙著『文学問題(F+f)+』(幻戯書房、2017)
James Turner, Philology: The Forgotten Origin of the Modern Humanities, Princeton University Press, 2014
August Boeckh, Encyklopädie und Methodologie der philologischen Wissenschaften, Druck und Verlag von B. G. Teubner, 1877〔抄訳:アウグスト・ベーク『解釈学と批判──古典文献学の精髄』安酸敏眞訳、知泉書館、2014〕
Edited by Lisa Zunshine, The Oxford Handbook of Cognitive Literary Studies, Oxford University Press, 2015
コーディネーター:藤井貞和「〈物語〉観と注釈」
コーディネーターということで、いくらかの意見を事前に述べたい。第一に、旧大系の再評価である。私の始まりは山岸に溺没した。現代語を破壊してまで異様な括弧を多用する頭注、補注、校異、本文。そして文法。ちなみに新岩波文庫は(読んでもらえばわかる通り)、旧大系のあり方をひそかに踏襲する。ぜひ旧大系の本文をつくり直し、新しい校注書にしてほしい。第二に、全集、新編全集ともにわかりにくい校訂付記で、本文は約一〇万箇所が手を加えられ(概算)、そのうち約五千箇所はその付記によって知られるように、底本が独自だと(ほとんど機械的に)他の異文によって置換され、結果は読みやすく、われらの『源氏物語』と化している。頭注や現代語訳はこんにちに適切なガイドであるものの、構想論の伝統を受け継ぐ面が多いように思う。第三に、陽明文庫本、国冬本、鎌倉源氏、絵巻本文などが物語成立史に迫りつつある。成立論の突破口は和辻、阿部、玉上、武田らがひらき、構造論の走りとなったが、むろんのちのちの構造主義とは関係が薄い。ごく乱雑に言えば、構想が作者論、構造が作品論、そして清水や野村の「文体」はテクスト論への途を用意する。こうして物語論の季節がやって来る。改めて王権、ジェンダー、「語り」というような新奇な視野からの接近である。思い出したいのは、二〇世紀後半に残された人文科学の可能性(=予言)として、M・フーコーが(『言葉と物』で)挙げた、精神分析学、文化人類学、言語学の三点セットで、それにさらに(だれが言ったか、バフチンだったか)、口承文学を加えれば、現代に地に墜ちたとは言え、依然として物語論の可能性であり続けると、さいごに(第四として)申し述べたい。
2022年度(令和4)11月例会
【自由発表】
張培華「『源氏物語』「末摘花」意象考」
『源氏物語』「末摘花」については、従来の考察では「若紫」と並んで同時に構成された物語と言われている。確かに「若紫」と「末摘花」に登場された二人の女性は、いずれも後の巻で活躍する登場人物である。「若菜」巻における紫の上は源氏の一生に関わる重要な女性であり、「蓬生」巻における末摘花は源氏にとってあまり重要ではなく、ほぼ忘れられてきた女性である。紫の上は源氏の恋した藤壺に似ていて、優しくて、愛情をこめて、明石の姫君を養育した。これは作者が源氏の理想として良妻賢母を創り出した意象と思われる。ところが、末摘花はまったく源氏の予想通りに行かない女性である。いくら源氏から消息を送っても末摘花の返事はない。末摘花は美人とは言えず、世の中から愛されている源氏にとって、一般の女性と違い、空蟬と似た性格がある。末摘花は源氏が須磨に退去してから十年ほどずっと「蓬生」の中で源氏を待っていた。こんな決心を持つ女性は末摘花の以外、ほかには見当たらない。いったい末摘花はどのような花の意象なのか。作者がどのようにこのような性格の女性を創り出したのか。これらの問題について、本発表では、古代中国の文学理論である意象論の視点から新たに考えて試みたい。
2022年度(令和4)9月例会
【テーマ発表】
武藤那賀子「古典籍が「貴重書」となるとき――玉里文庫本古筆源氏物語を例に」
古典籍は、いつ「貴重書」となるのであろうか。また、同様に、国宝や重要文化財はいつ、何をもってその位置付けとなるのか。変体かなを「字」と認識できないとき、人は、変体かなそのものが書かれた古文書や古筆切を「貴重書」と位置付けるであろうか。また、変体かなを「字」と認識できたとしても、それを文章として読めなかったときには、同様のことは起こるのであろうか。
本発表では、こうした問題点を、玉里文庫本古筆源氏物語を例に挙げて考えていく。なお、参考として、以下の口頭発表や先行研究を掲げる。
ローレン・ウォーラー「モノが語らなくなった時―文学における非人間の行動的主体性を傾聴する」(物語研究会、二〇二二年大会シンポジウム、口頭発表)
Sheldon Pollock ’Future Philology? The Fate of a Soft Science in a Hard World’ (Vol. 35, No. 4, The Fate of Disciplines Edited by James Chandler and Arnold I. Davidson (Summer 2009), pp. 931-961, The University of Chicago Press)
ヒューバート・ドレイファス、チャールズ・テイラー(著)、村田純一、村田純一、染谷昌義、植村玄輝、宮原克典(訳)『実在論を立て直す』、叢書・ウニベルシタス一〇四五、法政大学出版局、二〇一六年
また、その他に、ケーススタディとして掲げる玉里文庫本古筆源氏物語の書誌情報に関しては、以下を参照のこと。
徳満澄雄「鹿児島大学付属図書館蔵玉里文庫本古筆源氏物語について 」『語文研究』第二三号、一九六七年四月
武藤那賀子「玉里文庫本古筆源氏物語(鹿児島大学附属図書館蔵)再考(一)」『国際文化学部論集』第一九巻第二号、二〇一八年一〇月
武藤那賀子「玉里文庫本古筆源氏物語(鹿児島大学附属図書館蔵)再考(二) 」『国際文化学部論集』第一九巻第三号、二〇一八年一二月
2022年度(令和4)8月大会
【自由発表】(22日)
石黒秀昌「言文一致体再考;直示中心を設定する「た」を用いた非報告体として」
現代の小説は言文一致運動によって新たに生みだされた話法によって書かれている、と柄谷行人や柳父章、野口武彦とをはじめとする論者に指摘されてきた。しかし、それがどのように新しいのかということについての実証的な研究は乏しい。それは言文一致運動のなかで多様されることになった終助詞の「た」に関して言語学的な研究がいまだ十分になされていないこととは無縁ではない。そこで、直示中心という概念を用いて「た」の働きを新たに定義することで、現代小説の話法の文法的な記述を試みたい。
【大会シンポジウム】(23日)
「〈外部/内部〉の思考を、〈内/外〉化する―〈もの〉からの視点を内在化するために―」
事務局「シンポジウム趣意文」
カントの「物そのもの」、ラカンの「現実界」、新実在論の「実在」、われわれはさまざまな〈もの〉に囲繞されている。そして、研究者はそれを〈見て〉、そして〈分析〉しているつもりになっている。
しかし、じつは〈われわれ〉は〈もの〉からも見つめられているのである。「動物に見つめられ」、「本に見つめられ」、「無意識に見つめられ」、「理論に見つめられ」……。そのような意識することができていない〈モノの視点〉を自らの裡に内在化させ、〈もの〉と〈観察主体〉とが共振し、変化していく瞬間を捉える、理論のそのような可能性を見つけだす切っ掛けとしたい。
本シンポジウムは、このような問題を意識しつつ、「〈外部/内部〉の思考を、〈内/外〉化する」ことで、新たな物語研究の可能性を追求したい。この「/」の位置は固定化されるものではない。いろいろな場所に移動しながら、世界を二分化しようとする。しかし移動するということは、世界を分ける線が、複数発生してくるということでもある。一本の「/」だけで分けられた世界を、いかに複数化し、流動化するか、その可能性を、議論を通して進めていきたいと考えている。
その上で、具体的に次の3つの観点から議論を進めてゆく。
①欧米の文学研究のあり方や方法のあり方から、現在の日本における日本文学研究がどのように見えるのか。
ここで言う〈外部〉はオーソドックスな文学研究(諸本論、成立論、影響論、理論的根拠のない「作品論」)とは違う、〈理論(セオリー)〉からテクストに向かい合う立場をさす。と同時に、日本文学研究を、理論を前提として行っている欧米系の研究者をも意味する。欧米の文学研究のあり方や方法のあり方から、現在の日本における日本文学研究がどのように見えるのか。
②実証研究を重視しがちな日本文学研究者に、海外の最新の〈理論(セオリー)〉に基づく日本文学研究を共有したい。
日本から海外の学会に来る研究者と海外に在住の研究者および理論系の研究者との間にある溝とは何か。お互いに「〈外部/内部〉の思考を、〈内/外〉化する」こと」で何が見えてくるのか。
③研究者のあり方ばかりではなく、〈理論〉的な立場から読むと、テクストがこのように別のものとして読めるという具体的な例を示したい。
シンポジウム全体の流れとして、まず園山千里氏に、「世界文学」という枠組みから見る「日本文学」をエコクリティシズムの観点からご報告いただく。
次に、ローレン・ウォーラー氏に、物質文化研究やモノ理論の先行研究をご紹介いただき、それが日本文学において、どこまで適応できるのかをお話いただく。
最後に、ゲストとしてお呼びしたダリン・テネフ氏に、『源氏物語』の「若菜(上・下)」にある女三宮と柏木のストーリーを促す猫の役割を理論から読み解いていただく。
本シンポジウムを通して、ポストヒューマニティ時代における日本以外の理論や方法から日本文学を分析していくことを通して見えてくる可能性や、そこから生じるさまざまな問題点などを議論した上で、これからの日本文学研究のあり方を考えることを目指す。
報告1:園山千里「「外」から見えてくるもの」
日本文学を「日本」ではなく、あえて日本以外の違う国で触れたいと思い、ヨーロッパに飛び立ちました。「世界文学」の視点から日本文学をみることの面白さや難しさを感じ、また母語以外の言語にこれほどまでに親近感を得るとは思いませんでした。言葉が違うことで世界も文学も違って見えてきます。ポーランド・ヤギェロン大学の日本学科の学生や現地の日本学研究者が興味を持っているテーマや理論について紹介したり、私が感じたりしたことをほんの少しですがお伝えできればと思います。ポーランドでは現地の言語・文学・歴史をできるかぎり吸収しようと努めてきました。ポーランドだけでなく、スラブ学まで視野を広げるようになると、日本文学を世界の文学という枠組みのなかでみるという世界観は、私のなかでさらに広がりを持ちつつあります。今回、エコクリティシズムの観点から日本古典文学をあらためて読み直すことで、文学と自然との関係について何らかの問題提起ができればよいと考えています。
報告2:ローレン・ウォーラー「モノが語らなくなった時―文学における非人間の行動的主体性を傾聴する」
1980~1990年代には、英米の考古学や社会文化人類学を始め、人文学における「物質的転回」(material turn)が指摘されています。文学研究では、ビル・ブラウン(2001、2003)が「モノ理論」が導入し、「ものが私たちのために働かなくなったとき、はじめてそのモノのモノ性に直面する」と説いています。物質文化研究の成果の一つに、「もの」(objects)を受動的な客体・対象(passive objects)ではなく、行動主体性(subjectivity)のある主体(subjects)として捉え直す傾向が見られます。ガヤトリ・C・スピヴァクのエッセイ「サバルタンは語ることができるか」などの理論からの視点も考え、モノに文化的・外部的につけられた意味だけでなく、モノの「声」にも「耳を傾け」、その内部的な意味を考える研究も現れています。
例えば、花鳥風月などの生物・無生物を比喩にし、作者の「こころ」を表現する和歌では、その「モノ」の比喩的意味はもちろん外部的に定められます。「はかなさ」を表すモノが多くありますが、そのモノ自体の内部的な特徴は他にもあるのです。また、文学(和歌)の材料として取り上げられない(傾聴されない)モノもあり、その「こころ」を伝えるすべがありません。モノの視点から考えてみれば、人間が作った文学的世界の限界・偏見が明らかになるのです。作品の中で固定されていくモノの比喩的意味と、作品の外部的世界で見られる性質を合わせて考えれば、そのモノ自体の「こころ」の複雑さに気づくことができます。
このエッセイでは、物質文化研究やモノ理論による先行研究で見られる視点の特徴を確認し、日本文学研究における適応性の可能性を考えたいと思います。
報告3:ダリン・テネフ「一匹の猫の理論的使命―ナラティブな諸モダリティに向けて」
本発表の目的は、古典の研究者でない発表者は、ボルヘスが指摘していた「故意のアナクロニズム」という技法を利用し、『源氏物語』の「若菜(上・下)」にある女三宮と柏木のストーリーを現在でよむ意味を考察し、物語理論(ナラトロジー)を発展するということにある。そこで三つの要素を検討し、その絡み合いを分析して、ストーリーを促す猫の役割を探りたい。
三つの要素とは、(一)物語の軌道を形成する、そして物語に隠蔽されてしまう、修辞の働き、(二)物語が基礎としているモダリティ、(三)テーマのレベルでそういった形式的措置の支えとして機能している唐猫の形象、といったものである。
子猫がついている綱を引っ張って、御簾が引きあがり、柏木が見てはいけないもの、つまり女三宮の顔を見てしまった後、女三宮の代わりに、見る機会を偶然つくってくれた猫をもらい受けるが、ここで猫は女三宮の換喩(メトニミー)として登場し、換喩的置き換えがストーリーを動かすわけだが、ジャック・ラカンがいうように欲望の対象が常に換喩的である限り、女三宮自身も一つの換喩として読み取れるとすれば、猫は換喩の換喩、言い換えると、メタレプシスとして登場するといえよう。モダリティのレベルで、偶然性がストーリーに書き込まれることで、感覚的モダリティ(perceptive modality)が欲望(volitive modality)を促して、欲望のほうが(柏木が女三宮と接する)可能性(alethic modality)を作る方向に進行するが、そこからモダリティ自体が告示性的(indexical)であって、対象を指し示すだけではなく、必然的に他のモダリティをもさすことがうかがわれる。話の中で換喩の換喩として登場した猫が、次に隠喩(メタファー)に変わって、換喩の偶然性が隠喩の準必然性に変遷し(猫との関係は偶然的なものではないかのように、柏木が「むかしの契り」によってこの猫と結びついていると言い出す)、ますます言語に還元されつつあると同時に、一方、言葉そのものが(少なくとも柏木の言葉が)、藤井貞和が指摘しているように、猫語になっていく。そこで偶然性の変遷によっていかに文学的可能態が変わっていくか、ということを探ることが可能になるだろう。『源氏物語』の「若菜(上・下)」における猫はシニフィアンでもなければ、イメージでもなく、主体が直接に接触することのできないものに接するところで、想像界と象徴界とが共同に生産する幻想の場に置かれている形象である、といえる。が、言語に生成しつつある猫がもはやテーマとして分析しきれないものとして、物語の措置にかかわっている。その形象が幻想でありながら、幻想によって表現されない、把握できない、虚構そのものの成り立ちを指し示し、その理論化を可能にする、虚構内存在である。
2022年度(令和4)7月例会
【テーマ発表】
富澤萌未「和歌の引用と語り――〈歌と語りの構造〉1980」
物語研究会で多く議論されてきたことに、物語文学における語りや言説(ディスコース)といったテーマがある。一九七八年の「物語文学における〈語り〉」、一九七九年の「〈語り〉の構造」、一九八〇年の「歌と語りの構造」、一九八四年の「語りの視点」、一九八五年の「物語の視点」、一九九〇年の「現代・ナラトロジー・物語」、一九九三・一九九四年の「言説(ディスコース)」など、物語研究会では、物語文学に関する語りの研究を先導してきた。その他のテーマの発表でも、語りについての議論は常に念頭に置かれていた。また、テーマにはなっていないが、語りは、近年でも引き続き問題にされている。たとえば、二〇一七年のミニシンポジウムは「「古代の日本語文学と主語・人称・待遇」について」、二〇一八年度のミニシンポジウム「特集・語りの〈声〉」をテーマに報告が行われ、活発な議論がなされた。それらの議論・研究は、会員それぞれの著書に結実し、さらにそれをもとに発展し続けている(一)。
語りについては、さまざまに研究されてきたが、本発表では、特に「自由直接言説」、「自由間接言説」(二)、「四人称(物語人称)」、「ゼロ人称(語り手人称)」(三) 、「もののけのような作者」(四) 、「心的遠近法」(五)、「ヘテロフォニー的な複数の話声の重なり」(六)と称されるような、位置が不明瞭な語りについて考察する。このような語りについては、その特徴については研究が進んでいるが、その語りが生まれる仕組みについてはまだ議論が進んでいない。この点について、発表者は、二〇一三年度物語研究会六月例会のテーマ発表において、形容詞に注目して発表を行った(七)。そして、形容詞(または形容動詞や知覚動詞)は主格が未分化であるからこそ、語りの位置が不明瞭になることがあると論じた。さらに、形容詞は、属性を語る言葉であるため、時間に関する辞がつくことが少なく、今ここを語る性質を持っていることを指摘した。これらの特徴は、「心物対応構造」(八)と呼ばれる和歌を引用する、引歌、歌ことばも持っている(九)。
近年、和歌と語りに関する研究についても議論が進んでいる(一〇)。本発表は、これらの議論を踏まえ、引歌、歌ことばによって、語りの位置が不明瞭になっている仕組みを解き明かすことを目指したい。
多くの研究成果があり、要旨が長くなってしまうため省略する。
三谷邦明『源氏物語の言説』(翰林書房 2002)など。
藤井貞和『平安物語叙述論』(東京大学出版会 2001)、藤井貞和『文法的詩学』(笠間書院 2012)など。
高橋享「物語の〈語り〉と〈書く〉こと」(『源氏物語の対位法』 東京大学出版会 1982)。
高橋享「源氏物語の心的遠近法」(『物語と絵の遠近法』ぺりかん社 1991)。
陣野英則『源氏物語の話声と表現世界』(勉誠出版 2004)。
拙稿「形容詞から考える『源氏物語』の語り」(『人文』18 2020・3)
→file:///C:/Users/User/Downloads/jinbun_18_182_196.pdf
鈴木日出男『古代和歌史論』(東京大学出版会 1990)
注(7)拙稿にて課題として挙げている。なお、形容詞に関する議論も今後さらに考えてゆきたいが、本発表では、和歌の引用と語りの関係を中心に考察する。
兵藤裕己「和歌と天皇」(『王権と物語』岩波書店 2010、初出は1985)、土方洋一「『源氏物語』と歌ことばの記憶」(『国語と国文学』85 (3) 2008・3)、土方洋一「『源氏物語』と「和歌共同体」の言語」(寺田澄江・高田祐彦・藤原克己編『二〇〇八年パリ・シンポジウム 源氏物語の透明さと不透明さ――場面・和歌・語り・時間の分析を通して』(青簡舎 2009)、渡部泰明「縁語的思考」(安藤宏・高田祐彦・渡部泰明『読解講義 日本文学の表現機構』岩波書店 2014)、高木信「亡霊の時間/未来からの記憶、あるいは〈今・ここ〉が散種される――『義経記』、謡曲《二人静》、『伊勢物語』」(『亡霊たちの中世 引用・語り・憑在』水声社 2020、初出は2014)、松井健児『源氏物語に語られた風景』(ぺりかん社 2022)など。
2022年度(令和4)6月例会
【自由発表】
藤井貞和「物語/和歌を支える文法の構築―krsm立体と漢字かな交じり文」
ここで言う文法は、物語や和歌を稼働させる〈言語としての装置〉で、意味の世界から独立する。国語学者の時枝誠記が特質を〈詞〉と〈辞〉とから成ることに見いだした日本語を、意味語と機能語というように呼び直して、意味語を支える機能語のあり方に、助動辞、助辞の関係構造を見いだし、文学テクストが永続的に生産、再生産される秘密の一端がそこにあるとしたい。日本語の表記が言語中枢に関与するさまを漢字かな交じり文に求める。(参考文献:藤井『文法的詩学』笠間書院、同『同・その動態』同、同『日本文法体系』ちくま新書、時枝『国語学原論』岩波書店、同『日本文法』同・講談社学術文庫、大野晋『係り結びの研究』岩波書店、N・チョムスキー『統辞構造論』岩波文庫、酒井邦嘉『チョムスキーと言語脳科学』インターナショナル新書、岩田誠『脳とことば』共立出版、藤井「漢字かな交じり文・神経心理学・近代詩」iichiko153、同「戦後を越えてきた朗読」現代詩手帖2022/5、『源氏物語』1・9、岩波文庫)
【テーマ発表】
中丸貴史「これからの文学について―研究者の凡庸すぎる悪と大衆批判―」
次の10年へということだが、悲観的になれば次の10年はない。今までの問題意識をひきうけることだけでは足りない。
私(たち)は口をふさがれている(多くは自分を守るために、口をつぐんでいる。コロナ下にあって、マスクはそれを効果的に促進する)。味方もいない(いないことはない。本当は多くの人がそう思っているかもしれない。でも、もし私が声をあげたら、彼等のほとんどは私から目をそらして下を向くだろう)。なぜこうなってしまったのか。
本発表では、研究者の多くがこうした状況を悲観しつつも、自らを省みないことへの批判(できるだけ痛烈に)と、「あたりまえ」とされていること(文学/物語/大学)を確認することによって、次の100年(あるいは1000年)に向けての可能性を考えてみたい。
今回の私の発表を聞いて腹が立つ人がそれなりにいることと思うが、しかしその中の少なからぬ人々は実は問題意識を共有しているがゆえの腹立ちなのであって、ここで対立してはいけないと思う(建設的な批判を乞いたいのと、連帯の可能性を探りたい)。今回の発表は、第一にこの発表を聞いて腹が立たない人に向けたものである。
なお、本発表に関連した既発表の拙文として、『日本史研究』第700号の「特集 日本史研究を捉えなおす――「隣人」としての提言――」に掲載「軍靴の響く場から「文学」を叫ぶ」(日本史研究会、2020年12月)および『物語研究』第21号の「小特集 ウィズ・コロナ/ポスト・コロナ/アフター・コロナ以降の文学研究」に掲載「病の起源とその願望――遣新羅使・和泉式部・藤原師通を語るテクスト生成――」(2021年3月)をあげておく。
2022年度(令和4)5月例会
【自由発表】
白窪怜「『源氏物語』のニオイ―「人香」考―」
『源氏物語』には多くの香り・ニオイ(匂/臭)についての場面があり、中には空蝉巻における「人香」のような独自のニオイ表現がある。先行研究では「人香」について言及しているが、いずれもその詳細な読解まではしていない。「人香」について、『日本国語大辞典』『角川古語大辞典』では「人の移り香。人のかおり」「衣服や楽器など常に用いる物に染み込んだ、所有者のにおい。」と書かれ、空蝉巻の注釈では「衣服にたきしめられた香や着ていた人の体臭などのまじった匂い」とのみ書かれている。本発表では、漢籍や日本漢詩文、『源氏物語』以外の物語作品等での「人香」の用例を確認したうえで、「人香」が『源氏物語』内でどのような使われ方をされ、意味を持っているのかを考えていきたい。
なお、以下のものを主要参考文献として掲げておく。
アラン・コルバン著 山田登世子・鹿島茂訳『においの歴史―嗅覚と社会的想像力―』
三田村雅子『源氏物語 感覚の論理』有精堂 一九九六年
吉海直人『『源氏物語』「後朝の別れ」を読む―音と香りにみちびかれて―』笹間書院 二〇一六年
田中圭子『薫集類抄の研究』三弥井書店 二〇一二年
安田政彦『平安京のニオイ』吉川弘文館 二〇〇七年
【テーマ発表】
本橋裕美「〈性差(ジェンダー)〉1994年・〈性(セックス)〉1995年」
ジュディズ・バトラー『ジェンダー・トラブル』は1990年に刊行された(注1)。邦訳は1999年である(注2)。1994年度の〈性差(ジェンダー)〉、1995年の〈性(セックス)〉という年間テーマは、物語研究会が比較的早い段階から、「ジェンダー」概念がもたらした社会学に留まらない認識のあり方に鋭敏に反応していたことを示している。1970年代の欧米における重要な文学的課題であったフェミニズムを扱うことなく、ジェンダー、そしてセックスへとテーマを展開させたことは興味深い。
本発表では、物語研究会の研究発表や論文、また『源氏研究』など、中古文学研究におけるジェンダーの扱いを当時から近年まで概観する。ジェンダー論の導入は、確かに文学研究において大きな変化をもたらした。一方で、導入から30年近くを経た現在、中古文学研究において言えば明らかに意識された研究が減っている。ジェンダー論は「すでに自明のもの」として語らないスタンスとは本来的に相容れないはずである。中古文学研究、特に『源氏物語』研究を中心に、ジェンダー論の受け止め方について考えた上で、ジェンダー、セックス、セクシュアリティ、クィアからアプローチする物語文学の成果と課題を明らかにしてみたい。
注1 『Gender Trouble: Feminism and the Subversion of Identity,』(1990)。邦訳で社会学的な「ジェンダー」を扱うものとしては、イヴァン・イリイチ『ジェンダー:男と女の世界』(玉野井芳郎 訳. 岩波書店, 1984.10 Ivan Illich『Gender』 (1982))がある。用語として日本で人口に膾炙したのも同時期の1980年代だろう。
注2 竹村和子訳『ジェンダー・トラブル――フェミニズムとアイデンティティの攪乱』(青土社、1999年)
【参考文献】
小松原織香『当事者は嘘をつく』筑摩書房 2022
ゲイル・サラモン『身体を引き受ける―トランスジェンダーと物質性のレトリック』藤高和輝 訳 以文社 2019
ジュディス・バトラー『アセンブリ―行為遂行性・複数性・政治』佐藤嘉幸+清水知子訳 青土社 2018(原著2015)
ジュディス・バトラー『問題=物質となる身体―「セックス」の言説的境界について』佐藤嘉幸 監訳 竹村和子 越智博美ほか 訳 以文社 2021(原著1993)
2022年度(令和4)4月例会
【自由発表】
久保田千仁「『枕草子』の音楽場面―記号化する楽器―」
『枕草子』には平安期に使用されていた楽器がほぼ出てくる。『枕草子』に書かれる楽器は殆どが演奏されず、演奏されても音色に言及している章段は稀である。『枕草子』内で音楽演奏がされないことについて先行研究では公式行事などの通過儀礼を書かず、その周辺を書き表すことにより定子と中関白家の栄華を表しているとする。 そもそも音楽・音を文章で書き表すことは不可能である。楽器は音楽演奏があったことを示す表記であると考える事が出来るが、草子内のすべての楽器を抜き出し表にまとめた結果、それだけではないということが分かった。
本発表では、ジャック・デリダのエクリチュールとパロールの論を使用し、楽器に与えられた演奏以外の役割について考えていく。
論の展開は以下の通りである。『枕草子』に出てくる楽器の整理をし、名前の付けられた楽器について言及する。そして清少納言が好んだ楽器について述べ、演奏が行われている場面を「楽」と「あそび」とに分類していく。さらに草子内に引用される『琵琶行』について論じていく。
【テーマ発表】
草場英智「〈交通〉をめぐる新たな展開/転回―中世前期紀行文をめぐって」
物語研究会で前に〈交通〉がテーマとして取り上げられたのは一九八九年のことであった。このころの〈交通〉は共同体間の「コミュニケーション=交換」(注1)を意味する概念で、〈越境〉や〈他者〉(注2)というタームとともに論じられていたはずだ。すなわち、ここでいう〈交通〉とは、共同体の内部から外部(あるいは外部から内部)へと〈越境〉し、そこで〈他者〉と遭遇することを指した。このように共同体を内/外に隔て、差異化することは、非対称性を生み、西洋/東洋、中心/周縁、宗主国/植民地、といった不当な優劣を作りかねない。そのため、〈交通〉に関わる論考や批評の射程は、共同体を隔てる境界を引く近代国家(ネーション=ステート)という制度や、それを可能にする帝国主義、あるいはそれらを成り立たせている言説にまで及んでいた。ちょうどこのテーマが行われた一九八〇年代後半は、アンダーソンが『想像の共同体』(注3)をサイードが『オリエンタリズム』(注4)を出版したころで、柄谷が『日本近代文学の起源』(注5)を出版したころでもあった。これらの著作に影響を受けて、以降、人文科学系の隣接諸学において、ポストコロニアル批評が隆盛を迎える。そして、物語研究会はいち早く〈交通〉や〈共同体〉をテーマとして取り上げ、意欲的に取り組んでいた、ということになる。
それから約三十年の歳月を経て、〈交通〉という概念は周知のごとく大きな変化を遂げている。全世界を結ぶ交通網は空路を中心に驚異的な発達を見せ、グローバル化が推進されてきたし、九〇年代から普及し始めたインターネットは、今や全世界にその網を張り巡らせて「コミュニケーション=交換」を即時的にかつ、疑似的に再現してみせる。つまり、交通網の発展は単純な他者との物理的接触の場として、単線的なコミュニケーションを志向するのみでなく、網目状に拡大し続け、複線化(あるいは複々線化)した情報交換を可能にしてきた。それに付随して、〈交通〉という概念に関しても大きな展開/転回(注6)があった。
以上を踏まえたうえで、これまでの〈交通〉に関わる議論を継承しつつ、今日的な〈交通〉の次元でもって、中世前期の紀行文の諸テクスト(具体的には『海道記』、『東関紀行』、『十六夜日記』の三作品)を読み直していくことにする。
これらの紀行文は、執筆する主体(以下、「執筆主体」とする)が物理的移動を伴う点で〈交通〉と関わる作品であり、その背景には鎌倉幕府成立に関わる京―鎌倉間の街道の整備があった。執筆主体は街道を行くなかで、その土地の景と出会い、そこでの自身の感慨を述べていく(注7)。そこで彼ら/彼女らが共通して用いたのは、和歌であり、歌枕を詠み込むことで心情を表した。この背景には和歌(歌枕)をめぐる情報網が張り巡らされており、紀行の執筆主体は交通網と情報網のなかに組み込まれながら、その広がり(あるいは制限)のなかで紀行文を書いていることになる。本発表ではこのような紀行文の執筆主体がネットワーク上に広がる(あるいは制限される)〈交通〉空間のなかでどのように紀行を紡いでいったのか、その過程について〈交通〉をめぐる議論や、記号論や実在論の今日的実践(注8)を援用しながら、解き明かすことを目標とする。
注
柄谷行人『探究Ⅱ』(講談社 一九九四年四月)の定義に拠る。
こちらも柄谷行人が『探究Ⅱ』で論じたターム。柄谷の言う〈越境〉は共同体の内部/外部を隔てる境界を侵犯すること。〈他者〉は共同体外部に存在し、共同体内部の規範や「言語ゲーム」(ウィトゲンシュタインが『哲学探求』で使用した用語を柄谷は借用している)を共有し得ない存在のこと。
アンダーソン、ベネディクト『想像の共同体』(一九八三年:邦訳『想像の共同体: ナショナリズムの起源と流行』白石隆・白石さや訳 リブロポート 一九八七年)
サイード、エドワード『オリエンタリズム』(一九七八年:邦訳『オリエンタリズム』今沢紀子訳 板垣雄三・杉田英明監修 平凡社 一九八六年一〇月)
柄谷行人『日本近代文学の起源』(講談社 一九八〇年→『定本 日本近代文学の起源』 岩波書店 二〇〇八年)猶、柄谷は後に「言語と国家」(『文學界』 第五四巻第十号 二〇〇二年一〇月)のなかで、『日本近代文学の起源』を英訳する折、アンダーソンとサイードの著作に触れたことを明らかにしており、「私の考察はすべて、近代のネーション=ステートの形成における諸要素にほかならないということに気づいたのです」と述べている。すなわち、同時代的に近代社会制度への懐疑が蔓延しており、それを打破するために〈交通〉あるいは〈他者〉をめぐる議論が要請されていたということになる。
三宅和子・新井保裕編『モビリティとことばをめぐる挑戦』(ひつじ書房 二〇二一年一二月)では社会言語学の立場から「モビリティ(=移動)」に関する現代的な諸問題の解決が図られている。そのなかで三宅和子(「モビリティ、21世紀に問われる社会言語学の課題」)は、グローバル化の中で、人の移動に伴って生じることばやコミュニケーションの問題についてBloommaert,Janの論考を参照しながら、その「移動性」「流動性」「複雑性」に注目している。また、社会学者のアーリ、ジョン(『MOBILITIES』(二〇〇七年→邦訳:『モビリティーズー移動の社会学』 作品社 二〇一五年三月)についても言及しており、彼の提唱する「移動的転回(モビリティーズ・ターン)」(これまで個別に論じられてきた社会科学の学問の諸領域が「移動」という観点から領域横断的に論じられるようになり、文学や歴史などの研究とも結びついていくこと)を言語研究にも敷衍しようと試みている。このように、アーリの議論を中心として、領域横断的な〈交通〉をめぐる議論の土壌が整備されつつある。
日記紀行文学の研究の草創期に池田亀鑑「日記紀行文學の本質」(『国語と国文学』 四巻四号 一九二七年四月)は「日記紀行文學」の特徴について、「獨語となることが多い。従つて、自照的な性質を多分にもつ」としており、その自己言及的性質をいち早く指摘している。また、中古文学テクストの自己言及的性格を明らかにしたものとして、深沢徹『自己言及テキストの系譜学―平安文学をめぐる七つの断章』(森話社 二〇〇二年一〇月)がある。
新しい記号論の代表的なものとして、石田英敬 東浩紀『新記号論 脳とメディアが出会うとき』(株式会社ゲンロン 二〇一九年三月)を挙げておく。また、新しい実在論については岩内章太郎『新しい哲学の教科書 現代実在論入門』(講談社 二〇一九年一〇月)が入門として優れている他、本発表ではドレイファス、ヒューバート テイラー、チャールズ『実在論を立て直す』(二〇一五年:邦訳 村田純一監訳 法政大学出版局 二〇一六年六月)を参考にする。
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