私が最初にアフリカに興味を持ったのは、ガーナのカカオ農園での児童労働問題を知ったのがきっかけだった。そのため東京外国語大学のアフリカ地域専攻を目指す受験生だった頃から、私の中では「アフリカの国といえばガーナ」で、自分が初めて行くアフリカの国はガーナ(画像1)だと思っていた。入学後、協定校にガーナ大学の名前を見つけ、2年生の秋に迷わずガーナ大学の派遣留学にエントリーした。
画像1: 奴隷貿易の拠点だったケープコースト城
留学期間は2023年10月から2024年8月まで。ずっとガーナに滞在していたわけではなく、他国で旅行やインターンも経験した(画像2)。この体験記では、11ヶ月間で私が行った場所、体験したことを時系列順に振り返っている。最初にガーナに渡航した時点では、ガーナ大学の1学期目が終了した後のことは何も計画しておらず、旅行やインターンは全て留学を始めてから決めたものであるため、こんなに多様な経験ができるとは留学前の自分でも思っていなかった。
画像2:留学中に訪れた場所(筆者描画)
表向きのメインはガーナ大学への派遣留学だったが、私にとっては留学中に起きたことと考えたこと全てがメインというくらい盛りだくさんの11ヶ月だった。留学中はつらいこともたくさんあったため、特に前半は暗い体験記になっているかもしれない。
しかし、そのつらかった経験も含めて、全てが私にとってとても大切な時間だったこと、たくさん落ち込んで考えた結果、最終的には「楽しい」留学生活になったことが伝われば嬉しいと思っている。
なお、留学準備やビザなどの手続き、寮の設備などに関しては最近の状況を一緒に渡航した久我桃子さんが詳しく書いているので、ガーナへの渡航や留学を検討している方はそちらを参考にしていただきたい(久我さんの体験記)。
外大以外の日本の大学から留学する学生を含めた4人で一緒に日本を出発した。首都アクラにあるコトカ国際空港に到着した10月1日のことは、今でもはっきりと思い出せる。預け荷物を待っていると、首から社員証のようなものを下げた男性が近づいてきて、「手伝うよ」と言いながら半ば強引に私たちの荷物をカートに乗せた。荷物を待っている間、彼は「俺はアジア人の女と結婚したいんだ」というような話をしていた。
しばらくするとまた違う男性が話しかけてきて、今度は「中をチェックするからここでスーツケースを開けろ」と言ってきた。目的を聞いてもよくわからなかったが、一緒にいた学生の一人が恐る恐るスーツケースの1つを開けて見せると、満足したのかいなくなった。
荷物をすべて受け取って空港の外に出ると何人ものタクシードライバーが客引きに来たが、大学から迎えに来たスタッフと落ち合うと、彼らは離れていった。荷物運びを手伝ってきた男はずっと着いてきて、最終的に大学のスタッフにまでチップを要求していた。
空港からガーナ大学(画像3)までは車で20分ほど。大学と空港はアクラの中でも栄えている地域にあり、多くの車が通る大きな道路に面している。その道路では多くの人びとが路上生活をしており、到着してすぐにうっかり歩いてしまった時は何人もの子どもに囲まれて、バッグに手を伸ばされ、初めて子どもが怖いと思った。後から授業で聞いた話によると、路上生活をしている人たちの多くは国外から避難してきている難民だということだった。
画像3:キャンパス中心にある図書館
私たちが到着した日はまだ寮の準備が完了していないと言われ、一時的にゲストハウスに滞在することになった。ノルウェー人の大学院生とのルームシェアだったのだが、彼女はほぼ毎日クラブに行って午前4時ごろに帰ってくるので、生活リズムが合わなくて大変だった。授業が始まって数日経つと、ようやくInternational Student Hostel(国際学生寮)の一人部屋に引っ越すことができた。寮の名前からして外国人ばかりが住んでいるのだと思っていたのだが、実際は9割ほどがガーナ人学生だった。
1学期目に履修した授業科目は以下の通りだ。
Introduction to General Psychology(心理学基礎)
The History of Black Diaspora(黒人移住の歴史)
Rural Sociology(農村社会学)
Urban Sociology(都市社会学)
Sociology of the Family(家族社会学)
Ensemble(ブラスバンド)
事前にシラバスは公開されておらず、2017年度の授業一覧(最新版)に載っているタイトルと数行の説明文を読んで授業を選んだ。授業が始まる数日前に時間割が各学科の建物に張り出されるのだが、せっかく選んだ授業がすでに閉講していたということもあった。私は社会学、歴史学、音楽など複数の学科から、なんとなく惹かれたタイトルのものを受講した。
授業はおおむね1コマ2時間で設定されていたが、担当教員が開始時刻に来なかったり、マイクやプロジェクターの調子が悪くて待機させられたりするようなことが頻繁に起こり、ほとんど時間通りには行われなかった。
一方で、開始時刻を1分でも過ぎたら教室に入れないという厳格な先生にも2人ほど出会い、その時は逆に驚いてしまった。勉強よりも、授業自体が無事に受けられるのかという心配に毎日気を取られていた。
私が授業を受ける上で最も大変だったのは、ガーナ人の英語を聞き取るのが難しかったことだ。特に地方出身の学生の話す英語はアクセントや発音が独特で、1割も理解できないということもあった。
毎回担当の学生がプレゼンをする形式の授業があり、私はプレゼン内容がほとんど理解できないため、その授業に行くのが嫌で嫌でしょうがなかった。
しかし、私がプレゼンをした日、ある学生に「すごく強いチャイニーズアクセントで聞き取りにくかった」と面と向かって言われて、私が彼らの英語を聞き取れなかったのと同じように、彼らにとっても私の英語は聞き馴染みのないアクセントだったことに気がついた。
1学期目の強烈な思い出の一つに、教会に行った日のことがある。ガーナでは人口の約7割がキリスト教徒で、普段の会話の中で神のことを話題に出すこともあるくらい敬虔な信者も多い。
毎週土曜日には多くの人が教会に通っており、私も一度友人に連れられてその集まりに行った。コンサート会場のような巨大な施設に200人ほどの信者が集まり、ステージに次々と信者が登壇し、耳が壊れるほどの大音量で音楽を奏で、教会メンバーの結婚を祝い、歌って踊った。
それがやっと終わったかと思えば、今度は牧師が登場し、これまたマイクの音で鼓膜が破れるかのような熱量で演説をした。内容はおそらく聖書の一説で、時々信者たちが歓声を上げて拍手をしたり「Amen!」と叫んだりしていた。
私は聖書をきちんと学んだことがなく、またマイクを通した牧師の英語がほとんど聞き取れなかったため、残念ながらありがたみを感じることはできなかった。演説が終わると募金を集めて会が終了したのだが、その時すでに4時間経過していた。これが年に1度の特別な行事ではなく、毎週土曜日の「いつもの集まり」だということが信じられなかった。
その後は会場の外に出て、友人に連れられて彼女の家族や仲間たちに挨拶回りをした。後でわかったことだが、ガーナではこの挨拶回りが結構大事にされているようだ。50人ほどに自己紹介をし、同じ数の自己紹介をされたが、誰の顔も名前も覚えられなかった。
私は日本にいる時から大きい音と人混みが苦手なので、教会へ行った日は本当に疲れてしまった。集会の形式は教会にもよるのだろうが、1回行けばもう充分だと感じ、その後は教会への誘いを断ってしまった。
ほとんどの授業で、私は教室の中でたった一人の外国人だった。大学内を歩いているだけでも目立つため、1日に何度も「ニーハオ!」と言われた。数少ない留学生の中でも珍しい「アジア人の女」だったことで、多くの学生が興味津々にいろいろなことを聞いてきた。
「日本人の女は黒人の男と結婚できるのか?白人と結婚したいのか?」
「日本人は私たちを動物だと思ってるでしょ?」
「日本人はレイシストだから、俺が日本に行ったら殺されるだろ?」
一番多かったのは、「私」ではなく「日本人」の人種に関する考え方について。聞く側は悪気がない場合がほとんどなので、頑張って、笑顔で、私には差別感情がないということを答えるようにしていた。しかし、こういった質問をされるたびに、「白人(注1)」「外人」「レイシスト」という言葉に自分が乗っ取られていくような気がした。
注1:ここでの「白人」は黒人以外の人種を指し、アジア人も含んでいる。
今はもう笑い話にできる程度の思い出になったが、私は何年もガーナに来たくて、ガーナのことを勉強してきて、おそらく無意識に、ガーナ人の友人たちと楽しく過ごす未来を期待して渡航してきてしまった。
だから誰も私自身には興味がないこと、「外人」でなくなることができないことに気がつき始めた時はとてもショックで、「来なければ良かったかもしれない」とまで思うようになってしまった。今思えば私自身を見てくれていたガーナ人の友人ももちろんいたのだが、1学期目の後半はどんどん暗い方向にものを考えるようになってしまった。
1学期目の授業が終わった後、ルワンダに行った。私にとっては2カ国目のアフリカの国。街中の道路がとても綺麗に整備されており、ガーナでは一度も見なかった歩行者信号があることに驚いた。物乞いもほとんど見なかったと思う。海沿いで平地のアクラと、内陸で「千の丘の国」とも呼ばれるルワンダの首都キガリは、全く景色が違った。
KISEKIという、現地の女性や子どもを支援するボランティア施設を訪れ、スラムツアーに参加した。私たちを笑顔で迎えてくれるスラムの人々、走り回って遊ぶ子ども達を見ていると、彼らがここでの生活を楽しんでいるように見えてしまいそうだった。実際は、人々は常にスラムを出ることを望んでいる。
バスでルサカという地域に行き、コーヒー農園(画像4)も見学した。想像以上に厳しい山登りは大変だったが、頂上からの景色と、その場でローストして飲んだコーヒーは最高だった。
虐殺記念館にも行った。信じられないほど悲惨な出来事が、私が生まれるたった8年前、実際にこの地で起きたのだということを痛感した。混乱の中のレイプによって生まれた方や、被害者と加害者の妻たちがともに働く姿の紹介が忘れられない。「許す」ということについて考えさせられた。
画像4:コーヒー農園の頂上からの景色
セネガルインターンを4ヶ月にするのは少し長いような気がしたので、1年間の留学中の冬休みということにして、イタリアに住む叔母のもとで約1ヶ月お世話になった。アフリカに関係ない話になるので長くは書かないが、毎晩夕食後に叔母と話したことで自分の考えが整理され、留学へのモチベーションを失いかけていた状態から少し回復したように思う。
叔母は20年近くイタリアに住んでいるため、数年に1度来日した時にしか会ったことがなかった。初めてしっかりと話をして、叔母が叔母自身としてイタリアで生きているのだということを感じた。
当たり前に思えることかもしれないが、ガーナでの生活を経て周りと違う人種であることがすっかりコンプレックスになっていた私にとって、これは重要な気づきだった。「外人」という肩書きに乗っ取られ、「私は異分子だ」と思い込み、自分の肩身を狭くしていたのは自分だったのかもしれないと思った。
ガーナ大学は1月から4月までと学期間の休暇が長く、その間寮の滞在費が跳ね上がることと、せっかくだから他の国も見てみたいという理由で違う国に行くことを考え始めた。調べる中でセネガルの首都ダカール(画像5)にある日本食レストラン「大和」の存在を知り、そこで3ヶ月間インターンをすることに決めた。
仕事内容や生活に関しては別に体験談も書いている(インターン体験談)。滞在した3ヶ月のうち、1ヶ月目は内装やメニューなどの準備、2ヶ月目からはお店がプレオープンして、キッチンの手伝いもするようになった。一日中缶詰で働いているわけではなかったので、散歩したり本を読んだりしながらのんびりできる時間も多かった。
画像5:セネガルでよく見る漁船
このインターンに参加して一番良かったのは、学生ではない立場で生活できたことだ。ガーナにいる時はほぼ完全に大学内だけで生活しており、交流があるのは学生と教員ばかりだった。
一方セネガルでは、レストランのスタッフとして、マルシェ(市場)で買い出しをしたり、現地の人たちと話したりすることができた。マルシェではいろいろな人が働いていて、観光地ではないからか、売買が発生しない限り過剰に話しかけてきたりはしなかったので、自分もそのいろいろな人の一部になれているような気持ちになった。
私はもともとフランス語が苦手だったのだが、想像以上に英語が通じないことに気がついた時にはかなり焦った。それでもテーラーに発注するときやタクシーを拾う際にはフランス語を使わなければならなかったため、最初の頃はその日使うであろう表現をできるだけメモしてマルシェに出かけ、相手が「D'accord (わかった)」と言うまでその表現を繰り返すという方法で強行突破していた。
それを繰り返しているうちにだんだん相手が何を言っているのかが理解できるようになっていき、会話が成立するようになった時には嬉しかった。何度も通うと何度も会う人たちができて仲良くなっていき、家族や故郷の話をしてくれる人もいた。会うたびにウォロフ語を教えてくるおじさんや、「今日はなんの仕事?」と聞いてくれるおばさんがいて、マルシェに行くのが毎回楽しかった(画像6)。
画像6:テーラーに振舞われたアタイヤというお茶
ガーナでは日本人に会う機会がほとんどなかったので、セネガルでは現地に住む日本人の方々に何人もお会いできたのが印象的だった。国連や商社、個人の仕事など、さまざまな立場でセネガルに住んでいる日本人がいるのを見て、イタリアで叔母と話した時と同じようなことを感じた。
「〇〇に住む」というのは「〇〇人になる」というのと同じではなくて、もちろん現地の礼儀や習慣を理解して尊重することは重要なのだが、自分が心地良いと思うことを大切にすることも、同様に重要なのだと思った。これに関しては、体験談の終わりの方でまた書きたいと思う。
レストラン(家)にいるだけでも、オーナーの原田さんとそのご家族や、何人ものインターン生といろいろな話をすることができた。ガーナでは自分の事ばかり考えていたので、それぞれ異なる思いでセネガルに来ている、住んでいる彼らの話を聞くことは、凝り固まった頭を解放させてくれた。帰国してからも連絡を続けたり、ご飯に行ったりできる仲間ができてとても嬉しい。
ガンビアはセネガルの中にある細長い形の国だ。ダカールからはまず「セットプラス」と呼ばれる7人乗りの車で国境まで向かう。
ぎゅうぎゅう詰めにされ、人が誰も住んでいないような場所と村を交互に通過しながら、5,6時間ほどで国境に着いた。アフリカで初めて陸路の国境越えを経験したのだが、飛行機で旅行するよりも「来た」ということを実感することができてなんだか嬉しかった。
国境を越えたら次はフェリーに乗り、首都のバンジュルに行った。バンジュルでは博物館やワニ園に行ったり、事前に知り合った日本人の方とビーチでご飯をご一緒したりした。
バンジュルに着いた後は特に大きな移動もせず、2日後に来た道を戻る形でダカールに帰ったのだが、とにかく空が綺麗だったことが印象的だ。ビーチで見た夕日、ホテルのプール沿いで寝転がりながら見た星空、港(画像7)で見た朝日は忘れられない。
画像7:バンジュルの港
セネガルの家を離れる寂しさと、嫌な思い出がいっぱいのガーナに戻る恐怖で、飛行機の中ではずっと泣いていた。しかし、空港に到着すると想像以上に「帰ってきた」感が強く、案外安心している自分がいた。空港に迎えにきてくれたのは顔見知りのスタッフで、「Welcome back!」と言ってくれたのがとても嬉しかった。
2学期目に履修した授業は以下の通りだ。
Societies and Cultures of Africa(アフリカの社会と文化)
Family Welfare(家族福祉)
Women and Children's Rights and Protection(女性と子どもの権利と保護)
Working with People in Need of Protection(保護が必要な人びとと働くこと)
長期休暇の間に福祉について学びたいと思うようになり、2学期目は福祉学科の授業を多く選ぶことにした。授業の中ではガーナやアフリカの話題に触れることも多く、新しい発見や、今後深めていきたいと思うようなことが見つかった。
福祉学科ではフィールドワークもあり、実際に起きていることや福祉の現場を見ることができたのはとても良かった。路上生活者にインタビュー(画像8)をしたり、孤児院に物資を持って訪問したり、小学校で環境保護といじめ防止の講義を行ったりした。
画像8:路上生活者にインタビュー
1学期目は閉鎖的な大学の中でしか生活していなかったことを反省し、2学期目は大学の外にも居場所を作ろうと考えた。セネガルにいる間にGoogleマップでガーナ大学の周りを見ていた時、New Horizon Special Schoolを見つけた。もともと障がい者福祉に興味があったこともあり、履歴書と共に「ボランティアをさせて欲しい」というメールを送ると、快く承諾してもらえた。
New Horizon Special Schoolは知的障がい者のための学校で、子どもから大人まで多くの人が通っている。国内の私立の特別支援学校としては最も古く、長い歴史を持つ学校である。生徒は勉強する教室とワークショップのどちらかに所属しており、ワークショップではカゴや編み物を作り、それを校内のショップで販売していた。
基本的には教員が足りていない教室に入り、授業や食事の手伝いをした。他にも教員が手書きで書いた成績表をWordに打ち込むという事務作業や、最後の方には歯磨きの指導などもさせてもらえた。
私が英語で教育を受けてこなかったので、英語で生徒に何かを教えるということ自体が難しかった。また、私はじっとしていられない生徒や喧嘩してしまう生徒たちを上手く指導することができなかったのだが、先生が登場すると一気に生徒たちがまとまって快適そうな顔をするので、いかに自分が無力かを実感した。
しかし、先生方が私を学校の一員と認めてくれていたのが本当に嬉しかった。ボランティアは週に2日だけだったが、生徒たちもだんだん私のことを覚えてくれて、一緒に歌ったりご飯を食べたりする時間はとても幸せだった。
帰国前に最後の挨拶に行った際は、すべての先生が「God bless you」と言ってハグをしてくれた。学校ではない所属先を持ったことは、精神の安定をかなり助けてくれたように思う。
ガーナでは、知的障がい者が働ける環境がほとんど整っていない。教育に関しても、高い学費を払える両親がいなければ十分に受けることができない。それに伴い、彼らの人権に関する問題が山積みである。教頭先生は「すべての子供達がニーズにあった教育を受け、働ける場所を作っていかなければならない。ガーナにはそれが全く足りていない」と言っていた。
私は、基本的には下の名前で呼ばれていたが、一人の友人が私の苗字を気に入り、ずっと私のことをEgawaと呼んでいた。ナイジェリア人に同じような苗字がいるようで、本当に稀だが「父親がナイジェリア人なのか?」と聞かれることがあった。
下の名前のRinaに関しては、英語で話す時のための名前だと思われることが日常茶飯事で、自己紹介すると「Japanese nameは?」と聞かれることが多かった。英語話者にも耳馴染みがあり、伝わりやすく覚えてもらいやすいのは利点だった。
ガーナの言葉で、白人(黒人以外の人種)をオブロニ、黒人をオビビニと言うので、初対面の、特に女性からはオブロニと呼ばれることも多かった。日本で誰かに向かって「白人」「黒人」などと呼んでしまえば大変なことだが、ガーナ人がその言葉を使う時にはほとんど差別感情はなくて「ようこそ」というくらいのものなのだと思う(ということを2学期目でやっと受け入れることができた)。
また、私は1年間の居住ビザを持っており、それを証明する「Ghana Card」と呼ばれるIDカードを持っていた。後述するコートジボワール旅行から帰る際、国境でそのカードを提示したのだが、「White Ghanaian!」と言われた。それを聞いて悪くない気持ちになった時、いつの間にか、ガーナが私にとって居心地の良い場所になっていたのだなと思った。
2学期目の授業が終わった後、ガーナの隣国コートジボワールのアビジャン(画像9)に行った。行き方の情報は10年前に1人の日本人が書いたブログのみ。ガーナにはVIPやSTCという長距離バスの会社があり、とりあえず西に行けるところまで行こうということでタコラディという都市に向かった。
画像9: 聖ポール大聖堂
タコラディの駅でアビジャン行きのバスがないか聞くと、今日の便はもう行ってしまって、次の便は3日後だと言われた。私たちは旅行後に期末試験を控えていたので、待ってはいられない。そこでトロトロ(注2)ステーションへ行き、トロトロで国境まで行くことにした。
注2: トロトロは、ガーナでの乗り合いバスの呼称。ワゴン車を改造して20人ほど乗れるようにしたもの。
国境が閉まるギリギリの時間に到着し、なんとか入国してアビジャン行きのトロトロ(コートジボワールで何と呼ぶのかはわからない)に乗り込んだ。しかし、警察の荷物チェック(?)で何度も下ろされたり、乗客のお爺さんとドライバーがつかみ合いの喧嘩を始めたりと、なかなかスムーズに進まなかった。
やっと宿に到着したのはなんと深夜1時。アクラの寮を朝の3時に出発したので、22時間もかかってしまった。もしこれを読んでいるアクラ〜アビジャン間の旅行を考えている人がいたら、中間地点のケープコースト(画像2参照)あたりで1泊することをおすすめする。
コートジボワール旅行は思い出の8割が移動と待ち時間だったため、これ以上書くことはあまりないのだが、想像を絶する大都会で、夜景がキラキラしていたのは忘れられない。アクラも十分都会だと思っていたが、アビジャンから帰った後は砂っぽく見えるようになってしまった。
羽田空港に到着した時、あまりにも静かで驚いた。そして、スーツケースを2つ抱える私を誰も助けに来ないことが、なんだか少し寂しいと思ってしまった。
留学前半はかなり辛くて帰国することも考えていたくらいだが、帰国しないで本当に良かったと思う。もし1学期目で留学を終えていたら、ガーナはもう二度と戻りたくない、嫌な思い出でいっぱいの国になっていたかもしれない。
生まれ育った土地を3週間以上離れた経験がなかった私にとって、慣れない場所で生活するのは簡単ではなかった。しかし、いろいろな人と出会い、いろいろな景色を見て、自分のことをたくさん考えていたら、いつの間にか居心地が良くなっていた。
1学期目は周りの目線や言葉に過剰に反応してしまい、ガーナに馴染めていないように感じてとても苦しかったのだが、一度離れてみたことで、必ずしも馴染む必要はないのかもしれないと思えるようになった。ガーナ人は音楽がかかるとみんな同じように体を動かすことができるが、私はそうではない。
でも、私と同じ興味関心を持っているガーナ人や、私と同じものが好きなガーナ人もいる。変えられないことにとらわれるよりも、私が私のままでいることを大切にするようにしたら、「日本人」ではなく「私」と仲良くしてくれる友達が増えた、というよりも、そういう人たちをちゃんと認識することができるようになったのだと思う。
留学前、「留学に行けば自分は何か変わるかも!」という浅はかな考えを持っていたが、実際に留学を終えた今、自分がすごく変わったとは思っていない。それよりも、以前よりも自分の輪郭がはっきりして、自分の変えたくない、大切にしたいことがわかってきたという感じだ。
今後の人生で全く知らない環境に飛び込んだり、何かよくない方向に引っ張られたりといったことがあったとしても、いつでも自分に戻って来ることができるような気がしている。それと同時に、自分と違うものを大切にしている人のことも理解し、攻撃的にならないでいられるバランス感覚を持った人間になっていきたい。
また会いたい人たち、見たい景色がたくさんできたので、ガーナにもセネガルにも、いつかまた帰りたいと思っている。願わくば、今よりも少し成長した姿で。
ここまでお読みいただきありがとうございました。かなり私の内面にフォーカスした体験記になってしまいましたが、少しでも楽しんでいただけていれば幸いです。
最後に、指導教員かつガーナ大学派遣担当の坂井先生、神代先生をはじめとする展開力アフリカオフィスの皆様、留学生課の皆様、ガーナ大学の先生方やスタッフの皆様、原田さんとちゃあこさんをはじめとする「大和」「和心」で出会った皆様、New Horizon Special Schoolの先生方や生徒たち、大切な家族や友人たち…。
ここには書ききれないほど、遠くから、近くから、たくさんの方々に支えられて無事に留学を終えることができました。この場を借りて、心からの感謝を申し上げます。
最終更新:2024年12月14日