第2ホームベース、

ウガンダ


by 花田珠里

大学院総合国際学研究科博士前期課程・2020年度入学/2022年度修了

1.はじめに

こんにちは。2024年3月に大学院修士課程を修了した花田珠里と申します。ここでは、私のウガンダでの1年と8か月について書きたいと思います。

私は、1年間在ウガンダ日本国大使館で草の根・人間の安全保障無償資金協力の委嘱員として勤務し一時帰国した後、再渡航して8か月間は修士論文のための実地調査をしながら、ローカルNGOでボランティアでの調査助手として働きました。1年8か月という時間は長く、とても濃い時間でした。色々な人の出会いに恵まれ、手助けしていただいたおかげだと心から思います。

2. ウガンダをどのように選んだか:平和構築の具体を探るため

私は小さい頃から様々な国の文化を知るのが好きだったのですが、アフリカに強い関心を持ったのは学部3年~4年時のドイツ留学がきっかけと、あまり早くありません。ただ、戦争や貧困の問題には中高生時代から強い関心があり、武力紛争の再発防止に貢献できる人になるためのキャリアを歩んでいきたい、と大学学部時代に決めました。

大学3年生の時、ドイツの難民キャンプでボランティアをするなかで、様々なアフリカの国々からの難民の方々と仲良くなっていき、太鼓やピアノ、バスケなどを一緒にしながら、アフリカの人たちの温かみを知っていく一方で、留学先の大学の紛争解決学の授業内に出てくるアフリカの紛争についての事例研究には残酷な殺戮が多く掲載されており、そのギャップが理解できませんでした。

単純に、「なぜこんなに温かい人たちがこんなに残酷な殺戮を繰り返すことになるのか」が、すごく疑問でした。その授業内の課題図書(注1)のなかで特にショックだったのが、ウガンダ北部で1986年から2006年に起きたLRA(神の抵抗軍)と政府軍を主とした内戦の若者への影響についての報告書でした。

注1: Annan, J., Blattman, C., & Horton, R. (2006). The state of youth and youth protection in Northern Uganda. Uganda: UNICEF, 23. 103pp. URL: https://archive.crin.org/en/docs/uni_avi_nuganda.pdf

LRAは子供を多く兵士として徴用したため、絶対服従をさせるために、家族を強制的に殺させる、命令に少しでも反した兵士には恐ろしい拷問を加える、または仲間の兵士に死刑執行を強制するなど、非常に残酷な手法を取りました。また、この内戦は20     年と長期に及んだため、教育機会や土地の問題、精神的な問題など、若者を中心に現在に至るまで多方面の影響を及ぼしています。 

しかし、2006年~2007年頃の停戦プロセス以降は、南スーダンやコンゴなどの隣国で武力紛争が繰り返されているなかで、ウガンダでは新たな内戦は生じていません。修士課程に進学した私は「紛争を再発させないためのヒントがウガンダにあるのではないか」と考え、ウガンダ北部を研究対象地域に選びました。

武力紛争の再発防止に役立つプログラムを考えられるようになるには、現地のニーズや状況、社会秩序・構造、文化などを包括的に捉えられるようになる必要がある、と思い、開発経済学やアフリカの歴史などをコロナウイルスの感染防止対策で大学院にもほとんど行かれない中、オンライン授業で学んでいました。

そして、修士2年の夏ごろ、ウガンダに行かずにウガンダについて修論を書くことに悶々としながらも、就活を始めました。そこで ご縁を頂いたのが在ウガンダ日本大使館での草の根委嘱員の仕事でした。文献で読んだことしかないウガンダで実際に働くことができる、ということがとても嬉しく、まさに心躍る気持ちでした。

3. ウガンダでの草の根委嘱員の仕事

いよいよ本題、ウガンダでの生活についてです。ウガンダに来て最初に実感したのは、私はウガンダのことを研究してきたけれど、ウガンダのことを全然知らなかった、ということでした。

そのため、最初の1年目の目標をウガンダ全体について幅広く理解を深めること、と定め、新聞やテレビ、職場や友人からたくさん話を聞くことで、全国で約50以上もの言語をもつ多様な地域の特色、社会経済状況、文化、そして教育・保健などの分野ごとの知識の理解を広げることに注力しました。

草の根・人間の安全保障無償資金協力(以下、「草の根無償」)は、人間の安全保障(注2)の理念を踏まえ、発展途上国の地域に根差す比較的小規模な事業を行う非営利団体に資金を供与することで、ベーシック・ヒューマン・ニーズ(注3) および人間の安全保障にかかる重要性の特に高い分野(教育、保健・医療、水・衛生、地雷除去など)について支援を直接的・機動的に行うという援助スキーム(注4)です。

注2: 「人間の安全保障」は、恐怖からの自由、欠乏からの自由、尊厳を持って生きる自由、という人間の生活にとって基本的な一連の自由を保障するため、国やコミュニティによって異なるこれらの自由が脅かされる要因に対し、各国のオーナーシップに基づく解決策を強化する、という考え方。2005年世界サミット成果文書『人間の安全保障』で強調され、すべての人々が潜在能力を機能として発揮できるようにするための環境の整備を進めていくことが唱えられた(参考:「人間の安全保障」 | 国連広報センターウェブサイト)。

注3: ①衣食住などの個人消費の最低限を保障し、②基礎的な社会サービス(インフラ)を整備し、③仕事への十分な報償を保障すること、などすべての人々が享受すべき基本的な生活水準。全体的なの経済発展の恩恵は貧困層にも行き渡るという考え方(トリ クル・ダウン)が1960年代まで主流であったが、むしろ経済発展に伴い貧困が拡大する現象に注意が払われるように なり、1970 年代に唱えられるようになった考え方。     

注4: 詳しくは、以下を参照:「(ODA) 草の根・人間の安全保障無償資金協力」 | 外務省ウェブサイト

日本政府による開発協力の大半はJICAが主体となっているのに対し、草の根無償については大使館が主体となっており、足の速い支援であること、日本との関係性を草の根レベルの地域に拡大できることが特徴です。

ウガンダの日本大使館の扱っていた案件では、学校の教室棟建設(写真1)や保健センターの病棟増設や手術室の整備など、教育・保健分野が主でしたが、コーヒーの協同組合への加工用機械の供与などもあり、申請書類から団体を選定し、案件形成、運営管理、案件終了時の式典、完了後2年後のフォローアップ視察を行うところまで、各案件のすべての段階に携わることができたことで、案件開始後に生じた問題の防止策を案件形成時の手続きの改善に役立てられるなど、業務改善に創意工夫を重ねることができたことがとても楽しかったです。

写真1:草の根無償資金協力の供与金で建てられた学校の女子寮

委嘱員は、大使館の中で最も被供与団体や地方の状況を知る機会に恵まれた立場にあるため、それぞれの地域の課題・ニーズと被供与団体の能力を適切に把握し、効果的な援助の実施を目標とする大使館との間に入って現地の課題解決に向けて折衝するような役割を果たすことが重要だと考えていました。

そのため、まずは各地域や分野の理解を深めるとともに、日本の政策やウガンダの政治家の関心事項なども捉えるよう努めました。ウガンダはアフリカの中では比較的統計情報や政策文書は入手しやすい国なのですが、実態についての報告は十分とは言えず、また、報告書を読んでも具体的な内容や背景の理解が難しかったため、地方出張で現地の学校や保健センター、地方自治体の行政官などに直接聞くことと、文書で探すことを繰り返しながら理解を深めていきました(写真2)。

写真2:ウガンダ東部の地方都市ソロティへの出張時の草の根委職員チームでの写真。

案件によっては、現地の建設会社の構造部分や塗装などの質が悪く、案件が止まってしまうことや、様々な問題で案件に時間がかかりすぎて被供与団体にやる気がなくなってしまっている場合など、問題のある案件もありました。いつも円滑に進むわけではなく、苦心したこともありましたが、それらを先輩の委嘱員の方や現地職員の方などと相談しながら被供与団体の方々と話し合い、乗り越えていくなかで信頼関係を築いていく過程で得られた学びはとても大きかったです。

また、周囲の大使館の職員の方々の中には、ウガンダでの経験が長い方、世界の様々な国での経験を持っている方など、魅力的な方々が多くいて、現地職員にもそれぞれの出身地のことを教えていただくなど、非常に人にも恵まれた社会人一年目でした。

4. カンパラでの生活

ウガンダ首都カンパラは、人口も多く経済活動も自由に盛んに行われていて、非常にエネルギッシュな街です。地区によって特色も異なり、中~高所得者層の行くおしゃれなお店や高級住宅街が立ち並ぶエリアからバイクで10~20分ほど行けば、売り込みの声と人々とバイクが忙しく行き交い、活気に満ちた市場があるなど、様々な人たちが入り混じる、面白いところです(写真3)。

写真3: カンパラ市内。中央タクシーパークと市場の間の通り。活気溢れる場所。

また、カンパラは都会ながら緑豊かで、街を歩いていても緑の涼しいそよ風が吹き抜け、鳥の声が聞こえるのが好きなところです。カンパラは7つの丘が中心となっており、丘の上の方から見える景色は美しく、最高でした(写真4)。

写真4: 朝方のカンパラ。朝霧か排気ガスかは分からないが、朝は涼しく幻想的。

一方、私がカンパラでいつも罪悪感と葛藤していたのは、肌身に痛感する格差でした。おしゃれなデパートのカフェでご飯を食べている自分のガラスの壁一枚向こう側には物乞いをしている人がいて、渋滞だとストリートチルドレンが沢山集まってきます(写真5)。

写真5: カンパラ市内のショッピングモール内。映画館やエスカレーターもある

私はここにウガンダのマジョリティの人たちのことを知って理解を深め、その人たちと共に働きたい、と思って来たのに、贅沢な暮らしをしているような自分に葛藤を感じていました。マジョリティのウガンダの人たちと同じような暮らしから離れていることに悶々としていました。

関わらないと、相手のことがわからないので、恐れが先立ち、偏見が生まれていくようにも感じ、日本人や外国人の間では偏った見方を持つ人もしばしば見られました。私のなかにも恐怖感などから偏見が芽生える可能性を自覚したため、早くできるだけ自分から関わっていこうと思い、現地語を覚えて普段の生活のなかで現地の人たちと交流すること、そして信頼できる友人を少しずつ作っていき、ウガンダの様々な人たちの暮らしを学ばせてもらいました。

また、首都にいると地方のことがなかなか具体的に理解できなかったので、業務で毎月地方出張に行くほか、自分でもできるだけ友人などを伝って地方に行く機会を見つけ、少しずつ理解を深めていきました。

ウガンダの人々は、陽気で温厚、フレンドリーな人も多いですが、シャイな人も多く、挨拶するとはにかみながら返してくれるようなところに親しみやすさを感じました。様々な文化の違いをその人たちの文脈で理解して受容していましたが、お金の感覚に関する価値観は、金銭のやり取りを通じて、どうしても異なる文化として理解するだけでなく自ら文化の違いの影響を被ることになるため、ただ異なる文化として自分と切り離して受容することはできず、時に受け入れるのが難しいこともありました。

ウガンダではお金を持っている人が持っていない人に払うべき、と考える傾向が強く、お金の貸し借りも日本人よりも気軽に見られます。助ける余裕のある時に、余裕のある人がそうでない人を助ける、という考え方なので、日本のように貸し借りをイーブンにするような義理の文化とは異なります。私はいつも「外国人」というレッテルのために、買い物では値引き交渉が大変なことも多いですが、それは交渉をできるだけして受け入れられるとしても、「友人」という関係性においても私が支払うのが当たり前、と考えられると複雑な気持ちになりました。

私はより高い給与を得ているから、と高い値段を払うことを許容してもよかったのですが、迷った結果、私はできるだけ相手と腹の内を話しあい、互いに納得できる妥協点を見つけるように努めました。異なる文化として受け入れるだけではなく、異なる文化と分かったうえで、自分が嫌だということは相手に伝えることも人と人の相互理解においては重要なのでは、と思いました。

4. 転職へ

カンパラでの生活は、現地職員や大使館の警備員さん、通勤路のジャックフルーツ屋さん、よく運転を頼んでいたウーバー運転手の方々やボダボダ(バイクタクシー)の運転手さんたち、近所の様々な国籍の方など、友達も増えていくとともに楽しくなっていきました。

また、大使館の方々をはじめ、JICAや開発コンサルタントの方、国連職員の方、など、様々な専門性を持った日本人の方々との交流から、保健や難民支援などの専門分野についてだけでなく、開発業界で働く方々のキャリアや生活の知恵を学ばせていただけたことも大きな糧でした。

ただ、「武力紛争の再発を防止するためのヒントをウガンダから得たい」という目標から考えると、「現地の人々の視点をもっと理解できるようになりたい」という思いを持ちながらも、大使館の仕事ではその実現に限界を感じていたこと、また、大使館という立場だからこそ業務が円滑にいくこともありながら、その「特権」のないところでウガンダの人たちとの対等な関係性の中で活動してみたい、という思いが強まっていたことから、委嘱員の仕事を離れようと考え始めました。

また、草の根委嘱員の仕事で開発援助の一端に業務で携わるなかで、支援が中間層に集中し、最も深刻な問題を抱えている人々には届きにくいこと、援助依存の問題、開発援助で用いられている枠組みや基準が先進国の社会モデルを見本として、それと比較して不足している部分を見つけ、開発課題として問題視する傾向があることの3点について、問題を感じていました。

そのため、現地NGOでの仕事とウガンダの大半の人たちの暮らしを経験することで、現地の人の価値観をできる限り理解して現地の人々の本当のニーズを考え、現地の人の視点からより適切な援助の在り方について異なる立場からアプローチすることでこれらの問題の改善策を考えたいと思い、中規模くらいで比較的財政・運営状況の良い現地GOで働くことに決めました。

その現地NGOは法的支援を地方など法的サービスの届きにくいところに広げる活動をしており、電話やSMS等での無料での法律相談や、地方での暮らしの問題(相続、土地問題、結婚・離婚、家庭内暴力など)に関する法律についてワークショップを行うなどの活動をしています。そのため、私の研究テーマである土地問題とその相談・対応先である法的機関を調査するにあたっても、この現地NGOで調査助手として働くことが最適である、と考えました(写真6)。

写真6:勤め先のNGOの同僚たち(北部チーム)との写真。バラ町の事務所前。

4. 現地NGOでの勤務

ウガンダで初めの一年を終えて一時帰国した後、再度渡航し、私は2月から9月までBarefootLawという現地NGO(注5)で働きました。約30人ほどから構成される本団体は人権や法的支援に関心の高い北欧、欧州の援助を定期的に得ており、事業を近隣国や国内の他地域に拡大しようという活動が活発でした。

注5: 公式ウェブサイトのURL: https://barefootlaw.org/

職員の大半は弁護士資格を持ち、大半の地域言語に対応できる法務部、へき地に対して法的サービスの普及・宣伝、および生活に関わる法律に関する研修実施等を行う渉外部、プロジェクトやサービスの管理・評価を行う管理・評価部、外部からの資金調達を主に行う開発部、広報部、人事部、会計部、そして地方の支部から構成されています。

BarefootLawは、首都カンパラの本部に加え、コレ県バラ町(地図、北部の第二の都市リラ市からバイクで約40分)に小さなコンテナオフィス(支部)を持っており、そこは周辺地域の人々の子供の養育や結婚生活、婚資、相続、土地問題など法律が対応できる生活の中の問題への対応(弁護士と当事者、職員による調停、法律相談)や、法律に関するワークショップの実施、北部の他地域での活動拡大の拠点として機能していました。

地図:ウガンダにおけるBarefootLawの活動地域と調査拠点

バラ町はコレ県の中では経済的中心地となっており、畑と沼地と住居の中心部にちょっとした商店街もあり、ネットの接続がよかったことから、教会やオフィスで直接法律についての研修や相談を受けるだけでなく、オフィス内に大きなテレビ画面を設置し、カンパラから遠隔で弁護士が家庭の問題の調停を行ったり、女性貯蓄グループ(VSLA)のトレーニングを実施するなど、画期的な取り組みをしていました。

私は、評価・管理部に調査助手として所属し、このバラ町のオフィスと北部の中的都市グル市周辺の町村を主な拠点として、土地問題と家庭の問題についての現地調査に加え、週2回の会議や法律に関するワークショップの運営、インターン生の研究指導などの業務も行いました。ただ一人の外国人でボランティアという立場でしたが、他の職員と同様に一職員として扱ってくれるのがとても有難く、貴重な時間でした(写真7)。

写真7:北部バラ町のオフィスにて女性の貯蓄グループへの講習実施後の集合写真。

6. 研究と地方での生活について:土地問題、貧困、平和

私の研究テーマは、土地問題をめぐる多元的法体制です。ウガンダでは農業を主な生業としていることから、土地は社会経済的な基盤として重要な一方、その分土地をめぐる争いも多く、北部では内戦の影響から内戦後に土地をめぐる争いが増加しました。しかし、それらは武力紛争に発展していない、ということから、土地問題に対処する法的な組織、仕組みが比較的積極的機能を果たしているのではないか、と考えました。

そのため、ウガンダ北部の土地問題に慣習法に基づき対処する伝統的な組織、地方自治体の司法組織、近代法に基づく裁判所などの司法組織、多くの人の相談先となっている教会と宗教的団体についてインタビューや司法記録の調査、実際の土地問題の調停への参与観察によって現場調査を進め、質的データと量的(統計)データを集めました。

また、現地調査の中で土地問題と密接な関わりが明らかとなった家庭の問題(結婚生活、婚外子、養育、家庭内暴力、婚資、相続の問題など)についても、調停や研修運営などの業務の中で関わることが多かったことから、調査しました(写真8)。

写真8:土地をめぐる紛争の調停の様子。これは大規模な争いのため宗教的指導者による団体が仲裁。

研修の運営などの業務をしながらも(写真9)、現地での時間の約3分の2ほどは調査に充てることができ、ほぼ毎日のように伝統的な組織の長や土地問題の当事者、裁判所や警察などで調査を行っていました。長距離はバスか乗り合いタクシー、それ以外はバイクで畑や商店街を両手に、牛やヤギの交通渋滞に遭ったり、近所の人たちと挨拶や立ち話をしながら、でこぼこ道を走り、調査する日々はとても楽しかったです。特に調査地に自宅があったバラ町についての調査は、暮らしを通して人々同士の関係性や歴史がだんだんわかってきたため、インタビューの仕方やインタビュー結果の分析に役立てることができ、非常に興味深かったです。

写真9:コミュニティのリーダー(行政的・慣習的指導者、警察官)向けの講習。ビデオ通話とプロジェクターでカンパラのメンバー(弁護士)ともつないで実施。

調査以外の業務で最も印象的なのは、法律に関する研修の運営の仕事です。

BarefootLawは、現地の指導者、一般の人々、または女性組合や貯蓄グループ(VSLA)など、異なる対象向けにそれぞれ法律に関する研修を実施しており、現地語が日常で使う基本的な言葉以外はできず、弁護士でもない私は、予算の見積もり、企画書の政策、資金調達、ニーズの事前調査、研修教材の作成補助、機材準備など、運営の裏方を行っていました。

それも最初はまず職員の方たちのやり方を学ぼうと、機材運びや     資料配布など、ほんのお手伝いから始めたのですが、毎回の研修後の会議で意見を言っているうちに運営を任されるようになり、同僚と協力して2~3回ほど研修を運営しました。現地語ができなかったのでできることが限られていましたが、その中でも自分のできることを探して動いていた結果、仕事を任せていただけたことは嬉しく、また同僚と改善を重ねる試行錯誤の過程が楽しかったです。

現地調査の個人的なサブテーマとして、私は上述したように、現地の大半を占める一般的な人々の暮らしを共にすることで、現地の人々の価値観に対する理解を進め、貧困や男女格差などの開発課題とされていることが現地の人々にとってどの程度問題であり、また問題がある場合はどのように問題なのか、を考えることに設定していました。

そのため、私はまず現地の人々から暮らしの方法をすべて学ぼうと、その暮らしに没入しようと試みました。バラ町では長屋のようなアパートの一室に住み、グルではグル市郊外のウガンダ人の友人家族宅に住まわせていただいていました。アチョリ地域の女性の仕事や振る舞い(男性に対しては跪いて挨拶や給仕をする、など)も、最初のころは抵抗が少しありましたが、他の女性とできるだけ同じように心掛けました。

薪での料理やトウモロコシの種はがし、ハネアリ(北部の人々の好物)の採集、大家族の洗濯など、一通り対応はできましたが、その中でも、井戸の水くみだけは最後まで苦手で、10リットルのジェリカン(灯油ボトル)しか運べず、25リットルを頭にのせてもう一方の手で10リットルを持つ子供たちの笑いものでした。

特に乾季には、毎朝日の出前に起きて水くみに行ってくれる子供たちなしには生活できませんでした。友人宅に居候させていただいていた時には、できるだけ手伝おうとはしていたものの、家事マスターの子供たちにはかなわず、毎晩美味しい料理を作ってもらっていました。食後の洗い物や、洗濯、朝食づくりを子供たちとする夜の時間がとても幸せでした。

このように暮らしを共にする中で、異なる文化をそのまま受容することが難しかったこともありました。特に、ジェンダーと体罰については、どのように介入すべきか迷いながら過ごしました。一緒に友人家族や近所の人たちと生活する中で、男女間の関係性も、文化的な行動規範や性別分業によって簡単に「男尊女卑」と捉えるのは一面的で、相互に敬意があるなど、男女間の関係性はもっと多面的で複雑であると感じました。

それでも、やはり女性が弱い立場に置かれやすく、町の市場で捨て子が見つかったり、結婚生活が上手くいかず、実家に戻っても女性の土地は残されていなかったり、貧しく土地もなく、身寄りを求めて多くの男性と関係を持ってしまい、育児放棄に陥っている女性、レイプ事件などを身近で見聞きしていると、どうしようもない気持ちになりました。

これらは、性別分業や文化的な男女関係が主要因ではないとしても、一因ではあるといえる状況と考えられました。一方、「女子が家事を多くさせられるのは教育機会の損失として問題だ」、という点については再考を迫られました。私の友人宅をはじめ、多くの家で女子のほうが厳しく家事や立ち振る舞いをしつけられていました。そして葬儀や妊娠など家の用事で学校を休むのは大抵女の子で、居候先の家庭でも同様でした。

私が少し行き過ぎているのでは、と感じたときに尋ねると、友人は、「アチョリの女性として責任を持てる女性になってほしい」との思いで厳しくしている、と説明していました。確かに、現時点のアチョリ社会で生きるには、家事が完璧にできること、女性としての立ち振る舞いができることが重要なのかもしれない、と思いつつ、長時間に及ぶ家事により、勉強ができない子供たちを見ると複雑な気持ちでした。

体罰についても、一つの屋根の下で過ごす中で、本当に愛情から親がしつけとして行っていることが分かってきても、やはり見ているのは辛く、どうすべきか度々迷いました。ウガンダでは体罰はよくない、としながらも多くの家や学校で当たり前ですが、一部では変えようと動いている人々もいます。

7. 最後に

このような1年と8か月のウガンダでの体験を報告させていただきました。現地の人々にとっての貧困や格差、ジェンダーについて、思考を重ねてきましたが、理解できたとはまだいえません。

私はウガンダの地方部での暮らしが好きで、多くの良いところを挙げられますが、一定期間だけ体験するのと、一生その場所にいるのとでは、話が全く変わるため、ただ一定期間経験しただけでは判断できないことが多くありました。また、考えても理解できないことも多々ありました。

それでも経験する前とは各段に問題を考えるときの具体的な理解が深められたことは大きな糧であると思います。これからも、今の自分の経験に基づく理解がごくわずかでしかないことをよく意識して、現地の人たちと働く姿勢を大切に、学び続けていきたいと思います(写真10)。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。学生生活、思い切り楽しんでください!!

写真10:3か月ほど住まわせてもらった友人(左)家族との写真。最初は緊張していた子供たちとも仲良くなれて、嬉しかった。この赤ちゃんは滞在中に友人が出産。

最終更新:2024年8月26日