暮らしの雑記

~ルワンダにて〜

高尾タビタ

アフリカ地域専攻、2018年度入学

カバー写真の説明:コーヒー・プランテーションで有名な、フイエマウンテンの頂上からの風景。山がちな地形がよく分かる。筆者撮影。

0. はじめに

この留学体験記を書くのは、怖さ半分、楽しみ半分という感じです。でもどうせなら、最初から最後までよろこんで書きたいから、思いきって好きかってに書いてみることにしました。

ここには、いままで留学の報告会やレポートなんかでは明かす機会がなかったような、わたしがルワンダで暮らしながら考えていたあれやこれやを楽しく書いていきたいと思います。

  1. 体力のないわたしがアフリカで暮らす


アフリカに行く日本人に、どんなイメージがあるでしょうか。


別に、アフリカでなくてもいいです。中南米でもアジアでも、その他の地域でも、いわゆる「貧しい国」に「わざわざ」行く人に対して、視野が広くてバイタリティがあってアクティブなイメージを持つ人って、多いんじゃないでしょうか。というのも、わたしもそう。わたしもアフリカに行くからにはそんなアクティブな人間だ、というのではなくて、わたしもアフリカに行く人にはそういったイメージを抱きがちです。「すごいなあ」って単純に思ってしまう。


わたし自身は約2年前にアフリカのルワンダに渡航し、1年ほど暮らしました(2019年9月〜2020年8月)。東アフリカの大国たちとコンゴ民主共和国に挟まれた、山がちの小さな国(カバー写真)。暮らしていたのは南部のフイエ(Huye)で、標高は1700メートルくらい(注1; 地図1)。暮らしやすい涼しめの気候でした。

注1: わたしが留学していたプロテスタント人文・社会科学大学のある町。

地図1:ルワンダ共和国とフイエの位置。筆者作成。

そしてわたしは、ルワンダに渡航する5年前には南米のエクアドルにいて、そこにも高校生の交換留学という名目で1年ほど暮らしていました。ちなみに、そのとき暮らした町も山の中でした。アンデス山脈のチンボラソ山中腹、標高は2500メートルを超えてさらに涼しい気候(地図2)。土地柄が似ていたこともあって、ルワンダにいる間、わたしはことあるごとに自分が暮らしたエクアドルのことを思いだしました。だから、この文章の中にもエクアドルでの話がすこし登場します。

地図2: 南米大陸とエクアドル共和国の地図。筆者作成。

「エクアドルに行った」、「ルワンダに行った」と話すと「すごいねえ」とか「よく暮らせたねえ」とよく言っていただきますが、そんなときには「暮らしてる人がいるから、暮らせますよ」とわたしは返します。

「住めば都」ということわざがあるけれど、わたしはそのとおりだなと思っています。わたしたちがこの国で暮らしの最低条件だと思っているものは、慣れてしまえば案外必要でもない。もちろん慣れるまでは苦労するけれど、むしろその過程にこそ魅力がある。


留学のための海外生活の中で、「ただ暮らす」ということをそこまで大事だと意識している人はもしかしたらあまりいなくて、暮らしの不便さ以上に大事な目的のために我慢して暮らすものだと思う人が多いのかもしれないです。


けれど、見に行って見たことや聞きに行って聞いたことだけでなく、暮らしそのものに多くの学びがあるから、ただ我慢して暮らすのではもったいないと思う。エクアドルでの暮らしもルワンダでの暮らしも、わたしがそれまで知らなかった、世界の別の顔を見せてくれました。


だから、わたしはコロナ禍でもルワンダに暮らしつづけることにしました。2020年の3月以降はほとんど外に出られず、授業もそのほかの活動も中断されてしまい、ただそこに「いるだけ」だったけれど、わたしにはそのこと自体に意味があったと思っています。

逆を言うと、わたしは暮らすので精一杯になってしまう質でもあります。


とにかく体力もやる気も貧弱なので、学校の体力測定はいつもD評価。時間があればすぐ寝るし、性格も内向的。つまり、言うならばわたし自身は自分が持っている「アフリカに行く人」のイメージとはかけ離れているし、「すごいねえ」とほめてくださる方々がおそらく想像しているような活発な人間でもないです。


そんなわたしが、アフリカで楽しく暮らしました。あえて自慢できるようなこともなかったけれど、周りの人に助けられながらその地に暮らした中で、たくさんのものを得られました。この文章を読んでくれる人にも、アフリカをそんなふうに暮らす場所として身近に感じてもらえたら嬉しいです。

2. 名前のタビタ


自分のこのタビタという名前については、話はじめればネタがつきません。幼いころは当然のようにからかわれたし、性別もしょっちゅうまちがえられました。先日免許証を取得する際には、あやうく「タピタ」という名前で発行されるところでした(ヒに丸。わたしの名前はヒに点々)。きっと数年前からはやっているタピオカのネームバリューのせいだ。

わたしがこんなふうに自分の名前で苦労するのは、わたしの経験では日本でだけです。海外で名前をまちがえられることはほとんどありません。


たとえば、ルワンダで長距離バスのチケットを取るときには自分の名前を口頭で伝えるけれど、ルワンダ人になじみのない日本人の名前はまちがえられやすくて、毎回どんな名前になるかが日本人の友人たちにとってはちょっとしたイベントでした。


他方、わたしはまちがえられたことがないどころか、「ルワンダ語の名前じゃないか!」なんて言われたこともあります(ルワンダ語で言われたので正確に聞き取ったわけではないけれど、あれはまちがいなくそう言ってた)。日本人なのになじみのある名前をしていると印象に残るのだろうけど、あいにく名前ばかり目立ってひとり歩きしてしまって、留学当初は日本人の女性の友人たちまでしょっちゅう「タビタ」と呼ばれていました。


タビタがなぜこんなに知られた名前なのかというと、新約聖書にでてくる女性の名前だからです。しかし、登場するのは一度だけで(注2)、クリスチャンネームとしてはマイナー中のマイナー。だから、「ルワンダ語の名前」と言われたときには、この名前が知られているほどキリスト教が浸透しているのかと、すこし驚きました。

注2具体的には新約聖書の使徒9:36以下のくだりで登場する。

すこし、複雑な気持ちもあります。それだけキリスト教が浸透していることと、植民地支配があったことは無関係ではないから。けれど、暮らしていくうちにそれだけではないこともわかっていきました。いまたしかに、信仰の力に救われている人たちもいる、その力でつながっている人たちもいる、と。


週に一回、わたしはある小さな工房にボランティアで通っていました。工房のメンバーは、ジェノサイドの加害者家族と被害者家族として和解のために集まった女性たち。


わたしが手伝っていたのは、彼女たちがキテンゲ(アフリカの華やかな生地)でブックカバーやトートバッグなどを製作する活動で、ボランティアの最後の日まで誰が加害者側で誰が被害者側なのかは、はっきり知ることはありませんでした。身体に傷があることが見てわかったり、それぞれ心の傷や生活の難があることが想像できたりはしたけれど、だからといって誰がツチで誰がフツなのかとか、そういったことを知る必要もないなとわたしは感じていました。


毎回いっしょに活動するたびに、お互い言葉が通じないのにおしゃべりできてるような気持ちになったし、自分のことを小さい頃からかわいがってくれているわたしの教会の婦人たちとお話ししているときのような、温かい気持ちになりました。


活動が終わると毎回みんなで輪になり、一人が代表して祈ります。残念ながら、その内容が分かるほどにわたしのルワンダ語能力が上達することはありませんでした。けれど、コロナが流行する前には手もつなぎ、流行するようになっても十分に距離を取りながら向かい合って祈りが捧げられてるのを聞いていると、ここにいるすべての人を想って祈ってくれているんだろうなあ、と伝わってくるのでした。


キリスト教はやはり外来宗教にちがいないけれど、いま、それを信じる力に主体的に頼り、ともに信じることをつながる力とし、日々過去と向き合いながら生き延びている人たちがいる。ルワンダでそんな人たちに出会うたびに、「みんなみんな、サバイバー(注3)だな」とわたしは思わされていました。

注3英語のサバイバー(survivor)は、ルワンダでは1994年に起こったジェノサイドを念頭に、そこからの生存者という文脈で使われることが多い。ここでは、このことを踏まえつつも、一般名詞として、いまだに少なからず問題を抱えているジェノサイド後のルワンダ社会で精一杯生きている人たち、という意味でもちいた。

その工房での出来事で、いまでも鮮明に覚えていることがあります。ある日、製作をしながらひとりの女性が「タビタ〜タビ〜タ〜」とわたしの名前に節をつけて歌いはじめまたのです。

その人はおそらくいろいろな面で困難を抱えている人で、時にはとても気難しい様子でわたしからうまく関わることができないこともありました。けれどその日はよく笑ってくれて、わたしの名前もとてものびのびと楽しそうな感じで歌ってくれていました。


自分の名前があんなに楽しく聞こえたのは初めてだったし、自分の名前をあんなに頼もしく感じたのも初めてだった。(タピオカのせいで名前をまちがえられたときは、その名前が本当にうっとうしく、頼りなく感じたのに。)アフリカ人のあの独特の節にのった、日本人である自分の、日本語でないクリスチャンネーム。素敵な、忘れられない経験になりました。

3. キャッサバとの再会


タピオカといえば、あまり知られていないけれど原料はキャッサバです。サツマイモより筋が多くて、ゴボウよりも太い芋のキャッサバ。

わたしは、エクアドルで初めてキャッサバに出会いました。


エクアドルでは夕飯は軽食で済まされることがおおく、働いていたホストマザーの帰りが遅くなるときにはよく、パックのキャッサバを茹でて食べていました。ちょっとパサパサしているけど、ほんのり甘くてわたしは大好きでした。ただ、エクアドルではスペイン語でユッカ(yuca)と呼ばれることが多いので、わたしはそれがキャッサバだとはずっと知りませんでした。


自分の食べていたものがキャッサバだったのだとちゃんと確認できたのは、ルワンダでキャッサバに再会したとき。ルワンダによくあるバイキング形式のレストランで、見覚えのある白い芋を見つけて迷わずお皿に盛ったときは、ひとりワクワクと再会を喜びました。


わたしはこのとき、キャッサバのことをだいぶ知った気になっていたけれど、いま振り返ってみると、わたしはまだキャッサバのことをぜんぜん知らなかったです。その後のルワンダ暮らしでキャッサバには何度も遭遇したけれど、キャッサバのことをキャッサバらしく知ることができたのは、2020年4月、大学寮に引っ越してからでした。

2020年の4月、コロナが世界的に流行しはじめてルワンダでもロックダウンが続いていた中で、わたしはとある事情により大学の外から大学の寮に引っ越しました。寮で暮らした数ヶ月間は、とても楽しくて、いま思い出しても心が躍る宝もののような日々です。たくさん語りたいことはあるけれど、ここでは主に料理の話をしましょう。


それまではほとんど、煮たキャッサバかふかしたキャッサバしか食べたことがなかったのが、寮に入ってからはキャッサバ粉でつくったウガリ(練りがゆ)や、縦に切って卵を絡めて揚げたキャッサバなども日常的に食べるようになりました。キャッサバのいろんな顔を知って、「こんな食べ方もあったのかー!」と喜びましたが、もっとも衝撃的だったのは、生のキャッサバ。


料理当番になったあるとき、初めて調理されていないキャッサバを手にしました。エクアドルで自分で食べていた時も、皮が剥かれてパックされスーパーに置かれた状態のものを茹でていただけなので、そもそも皮がついた状態のキャッサバを見るのが初めてでした。それをリンゴのように剥いたりゴボウのように剥いたりして四苦八苦していたら、見かねた友人が正しい剥き方を教えてくれました。


ついでに、「皮には毒があるから剥いてしっかり火を通さないといけない」とも。さらっと言われたのでとまどい、検索してみたら、本当に青酸とかシアンとかが含まれると書いてありました。「キャッサバってそんな食べ物だったの!?」とギャップに驚き、やっとキャッサバのことがすこしわかった気がしました。次はぜひ、畑に植わっているキャッサバに会ってみたい。

寮ではこの料理当番がなかなか大変で、まず炭を使うから火おこしが必要だし、マッチの軸は木製じゃなくて紙製。日本に昔よくあったような紙マッチではなくて、マッチ箱に入っているマッチの軸が紙製で、なよなよしていて非常に火をつけづらいです。実は、この紙軸のマッチ、エクアドルでも一般的でした。


キャッサバとの再会はとても喜んだけれど、このマッチとの再会は喜べなかった……。火おこしはなんとかマスターしたけれど、アフリカ料理をおいしくできるようにはなかなかなりませんでした。別に自分は料理が下手だと思ったことはなかったのに、勝手がちがいすぎて基礎ができてなかったのです。野菜を切るのにまな板を使えないとか、米の炊き方がちがうとか。あとたぶん、そもそも気長さが足りない。


また、わたしが寮で料理に砂糖を使ったときには、周りにとても驚かれました。日本の家庭なら大体どの料理にもちょっとは砂糖やみりんを入れますよね?しかしアフリカ人の友人たちには「料理に砂糖を入れるなんて聞いたことない」と言われて、「たしかに砂糖は高いし料理に使うなんてもったいないのかもしれない」とわたしはそのとき初めて思いました。

それで思い出したのが、高校生の時に通っていた塾の英語の先生が授業中に話していたことです。その先生はミルクティーが大好物でよく飲んでいたのが、あるときからまったく飲まなくなったそうです。その先生が言うには、「あれは帝国主義の権化」とのこと。


残念ながらミルクの説明を忘れてしまったけれど、紅茶も砂糖ももともと植民地でプランテーション栽培されて、帝国の富裕層がそれらを混ぜて飲むものだったと説明されていました。たしかに、そう考えるといかにも帝国主義ありきの飲み物。その先生は、そのことに思い至って以来飲まなくなったということでした。

わたしはやっぱりまだ料理には砂糖を使ってしまうけれど、植民地期のプランテーションが元植民地国のモノカルチャー経済の問題に続いていることは知られています。なにも考えずにおいしく食べたいときもあるけれど、食べ物から見る社会はこうして考えはじめるとすごくおもしろいなとも思います。

4. よそ者としての関わり


こうして少しずつルワンダでの暮らしに馴染んでいったけれど、わたしは自分がアウトサイダーであるという意識が強かったです。

エクアドルに暮らしていたときはホームステイをしていたので、ホストファミリーとは本当の家族のように仲良くなり、交換留学のコーディネーターだった人には、「タビタみたいにラティーナ(Latina:スペイン語で「ラテン人」の女性形を意味する)になって帰っていった日本人の留学生は初めてだった」とのたまわせました。一方で、エクアドルでの暮らしを経験してわたしに残ったのは、「自分はやはり日本人なのだ」という自覚でした。


あのときは年齢もまだ若かったので、「周りに合わせる」ことがいまよりもっと大事でした。スペイン語の習得もがんばったし、ラティーナになるべく交友を広めました。しかし、馴染もうとすれば馴染もうとするほど文化の違いを学び、そして最後に、「わたしは日本人だ」という当たり前のことに気づいたのです。日本の学校ではいつもからかわれたり、仲間外れにされたりすることが多く、「自分はあんまり日本人らしくないんだな」と思っていたわたしには皮肉な話でもありました。

アウトサイダーとしての関わり方について、特に、お金のことはいつも考えさせられます。エクアドルでもルワンダでも、「お金を貸してほしい」と言われることがありました。日本人としては、たぶん意外とよくある悩みだと思います。

わたしはエクアドルで、友人に10ドルを貸したことがあります(エクアドルの通貨は米ドル)。友人は、「返す」と言いながらなかなか返してくれませんでした。ホストシスターに「たいした額じゃない」と言われたりもしながら、わたしはその友人と会うたびに返してくれるよう頼みました。最終的にお金は返ってきましたがその友人とは疎遠になり、お金を貸したら友達になれないのだ、とそのときに実感しました。


他の友人にお金を借りたってよかったのに、「わたしが日本人だからお金を借りたのか」と考えました。「お金を持ってるからいいだろう」と思われているんだろうとか、「外国人だから」「お金があるから」仲良くしてもらえるのかとか、思うことはたくさんありました。実際は、日本で高校生になったばかりだったわたしは、自分で稼ぐ手段も持たなかったし、ぜんぜん金持ちじゃなかったのだけど。


わたしにとっての10ドルは、そもそも親のお金で、親のお金はわたしの頼みの綱でした。10代の女子が家族から離れてひとり外国で暮らしていたので、インターネットと送金が唯一家族とつながっている手段で、どうしてもナイーブになってしまうところでした。

ルワンダでも、何度かお金を貸してほしいと頼まれたことがありましたが、「学生だから」「大学からもらってる奨学金だから」と断るようにしていました。


わたしは、自分が人のためにお金を使うことをためらう方ではないと思ってるし、あまりためらうべきではないとも思っています。ただ、お金そのものをあげるのはちがう。助けになりたい気持ちはあるけれど、求められた額のお金を渡すということじゃない。時間とか、物や労働であればいつも精一杯差し出したいと思っているのに、それを求められたことはありませんでした。

わたしがお金を貸す・あげる行為に気持ち悪さを感じるのは、お金の貧富が価値基準になる資本主義の社会で、お金をあげる行為がどうしても「お金を遣る」行為に見え、見えない上下関係をつくるように感じてしまうからだと思います。


助ける行為としても、ただお金をあげることは究極的には本当の助けにならないと思うし、自分のいままでの経験からも、微妙な不誠実さを感じるようになりました。そして、大学で少しずつ社会学や文化人類学などを学んでいくうちに、このようにお金に特殊な性質があるという考え方が意外とよくあるものだとも知りました。

ぜんぶ、人を助けない言い訳なのかもしれない、と自分で思うこともあります。だからなおさら、言い訳ではないことを示すためにも、自分の時間を使い心と身体を使って、お金をあげるだけではない方法で、人の助けになっていくことをライフワークにしたいです。

5. 新型コロナウィルスが見せたもの


最後に、わたしがコロナ禍になって気づいたことを少しだけ書きたいと思います。


わたしはコロナ禍で求められたのは、コロナに「勝利する」ことでも、それぞれが自分の身を守ってそれぞれ生き延びることでもなくて、わたしたちがどれだけ協力的に、包摂的に、わたしたちの暮らしをマネジメントできるか、だと思っています。

ルワンダでコロナの世界的流行を感じはじめたのは、中国からの輸入品がスーパーや市場から姿を消しはじめたときでした。それから、そのころ海外旅行に行った友人たちはコロナ差別に遭ったと教えてくれました。わたしも一度だけ若い学生たちに「Corona virus!」と言われたけれど、ルワンダではそういうことはあまりなかったです。エクアドルで「China!(チーナ)」ってしつこく言われたり、とつぜんバケツの水をかけられたりしたときの方が怖かった。


エクアドルでは平時でもそんなことがあったから、ルワンダ人は穏やかだな、と思っていました。治安もいいです。


ただ、ルワンダの治安の良さには政府の権力の強さもある程度関係していると考えています。ロックダウンの中での警察による取り締まりについて、実際どれくらいの取り締まりがされていたのかわからないけれど、周りのアフリカ人の寮生たちはわたしたち日本人からするとちょっと異様なくらいに、警察を恐がりました。「People are not afraid of COVID but they are afraid of police(みんなコロナは恐くないけれど、警察が恐い)」と彼らもよく言っていました。


考えてみれば当たり前だけれど、コロナ禍という非常事態は権力というものの強さを露わにしたようでした。そしてそれは、きっと世界中で起こっていたこと。アメリカのBLMも、香港の一国二制度が揺らいだのも、ミャンマーが軍政に戻ったのも、すべてがコロナ禍で起こったのはある程度、偶然ではないと思います。

日本もきっと他人事ではないよなあと漠然と思います。いまの民主主義政治にも不完全さがあり、政治体制はより包摂的で平等な形を絶えずめざしていくことが必要だと、わかったのではないでしょうか。

6. おわりに


書き終わる最後まで、やはり「怖さ半分」は残っていたので、アフリカをあまり知らないわたしの友人が読んでくれることを思い描いて書き進めました。そのために、むしろちょっと好きかってに書き過ぎてしまったかもしれないけれど、とりあえずよしと思うことにします。ひとつだけ、後悔するとしたら、エクアドルについての言及がネガティブになりがちだったこと。わたしは、エクアドルも大好きです。ただ、今回はアフリカ留学の体験記なので控えました。

コロナ禍のご時世で、誰もが少なからず不安を抱いてるものだと思います。自分は大学卒業まであと半年という時期に置かれていることもあり、なかなか将来への不安は尽きないし、正直挫けそうになることがあります。そんなときに、このような機会を与えていただいたことに、この場で感謝を申し上げます。


もう一度自分の中でアフリカと向き合うことができました。同時に、ルワンダで出会った人たちにも、エクアドルで出会った人たちにも改めて感謝の気持ちを覚えることができて、再び勇気をもらいました。また特に、アフリカ地域専攻の大石先生にはわたしが書き終えるまで長いあいだ待っていただいて、たいへん感謝しております。

この文章は、自分の備忘録としてもこんご何度も読み返すだろうと思います。そしてせっかく公開してもらえるのだから、読んでくれた人にアフリカの暮らしを少しは感じてもらえないかな、と願います。

最終更新:2021年9月6日