ルワンダ留学+帰国後体験記

~ジェノサイド和解とルワンダで会った人たち~


梅津知花

(西南ヨーロッパ地域専攻、2016年度入学)

1.はじめに

国際社会学部イタリア語科4年梅津知花です。2018年10月から2019年9月まで、ルワンダ共和国に留学していました。早いもので帰国して10カ月が経ちましたが、ふとした瞬間にルワンダを思い出します。アルバイト先で大量の食品の廃棄処理をすれば、街で会うたびに100ルワンダフラン(約10円)をせがんできた子供たちを思い出します。

また、コーヒーを飲めば、よく行っていたコーヒーショップの店員さんを、バナナやゆで卵を食べれば、朝ご飯を食べに行っていたキオスクのお姉さん(自己紹介していないのになぜか私の名前を知っていた)を思い出します(写真1)。この留学体験記を書くために、さらに色々なことを思い出していると、ルワンダのあの空気感が懐かしく、帰りたくなってきます。

写真1:フイエにあるコーヒーショップのカフェラテ。自分の名前を言ったことはないのに、ここの店員のお兄さんにもなぜか名前で呼ばれる。日本では、エチオピア産コーヒー豆が良く売られているが、たまにルワンダ産コーヒー豆が売られているのを見ると嬉しくなる。

私は、ゼミで平和構築を専攻し、武力紛争や武力を伴わないが問題となっている衝突が起こる原因や要因、そしてそれらを解決するにはどうしたらいいかなどを学んでいます。留学先にルワンダを選んだのは、ジェノサイドを経験し、国民間の和解が現在も進められているルワンダであれば、当事者に近い環境で平和構築を勉強できると考えたからです。

ルワンダでは、プロテスタント人文・社会科学大学(Protestant Institute of Arts and Social Sciences:PIASS)との交換留学制度を利用し、平和紛争学部で勉強しました(写真2)。その他に、ジェノサイド後の和解のための活動を行っている現地NGOでのインターンシップ、和解のための女性協働グループでのお手伝い、アフリカ布で製作したオーダーメイド服を日本で販売するソーシャルビジネスのスタッフとしての仕事なども行いました(写真3)。

その中でも特に和解に関して印象に残っているエピソードを紹介したいと思います。

写真2: Alternatives to Violence Projectのワークショップ。暴力に頼らず紛争解決を図る能力を養う。平和紛争学部以外の学生も参加する。ここで得られる知識というよりも、このワークショップに参加したということ自体が、問題を平和的に解決しようという意識を育むのではないかと思う。

写真3: JICA青年海外協力隊員さんが企画した原爆の展示会。他の学生を誘って訪問した。

2.謝罪や和解をしたくてもできない

ルワンダでお世話になった佐々木和之先生(1)ご夫妻が関わられているウムチョ・ニャンザキニャルワンダ語で「ウムチョ」は「光」、「ニャンザ」は活動地域名)という女性協働グループの活動に私も関わらせていただきました。ウムチョ・ニャンザは、ジェノサイドの被害者と、殺人や殺人幇助の罪で有罪が確定した加害者を夫に持つ女性から成るグループで、花の栽培・販売、ブックカバーや洋服、小物の製作を他のメンバーと協力して行うことで、現金収入と和解を目指しています写真4

写真4: ウムチョ・ニャンザの女性たち。普段はとても和やかに仕事をしている。追悼式に参加した時は、そのいつもの穏やかさからは分からない悲しみが伝わってきて、私も辛かった。

この活動は、今までにルワンダに留学した学生も関わってきましたが、私の滞在中の活動はこれまでとは違う動きだったのではないかと思います。これまでは、女性たちがメインの活動が多かったと思いますが、私が滞在していた時は、刑務所に収容されている夫たちとの活動も始まりました注2

数人の女性メンバーが、ウムチョ・ニャンザとして初めて刑務所を訪問し、収監されているメンバーの夫と話をしました。この貴重な機会に私も同行させていただきました。被害者側の方が刑務所を訪問することはそれまで一度もなかったようで、刑務所で働く人たちも驚いていたと聞きました。

その訪問で印象的だったのは、刑務所に収容されている方たちが、「自分の代わりに妻が和解活動に関わってくれてありがたい」「自分たち自身もきちんと謝罪をして和解をしたい」とおっしゃっていたことです。ウムチョ・ニャンザのように刑務所を訪問する団体はあまりないので、刑務所にいる限り和解のチャンスがないことを残念がっていました。

刑期中に何かチャンスがないだろうかと思う一方で、被害者の中には、加害者を見たくもないという方もいるかもしれません。和解の問題を考えるとき、双方の立場に立って、バランスをとることが想像以上に難しいものであると思いました。近くに当事者がいて思いが伝わってくるからこそ、意識して双方の意見を聞かないとどちらかに偏りそうだと感じました。

注1: 2005年からルワンダで現地NGOと協力し和解プロジェクトに関わっていらっしゃる。2011年にはPIASSの教員として平和紛争学部の設立に携わり、現在も同大学で教鞭をとられている。

注2: 「ウムチョ・ニャンザ」プロジェクトの計画として、和解を女性たちの中で完結させるのではなく、いずれは和解の輪を彼女たちの子供たち、男性、そしてコミュニティに広げようとしている。子供たちを対象とした活動は2017年から始まった。一方で男性たちを対象とした活動は、女性や子供向けの活動との兼ね合いもあると思うが、刑期を終えてコミュニティに帰ってくる男性がこれから増加することを見据えて最近始まった。

3.加害者と被害者

私の留学中は、ウムチョ・ニャンザの女性たちの被害者・加害者認識が変わった時期でもあったと思います。彼女たちは、虐殺資料館への訪問を自分たちの意志で決め、実際に訪問しました。しかし、これがきっかけで体調を崩してしまった女性がいました。この方の夫は加害者として刑務所に収監されていました。

しかしながら、彼女の親戚にはツチもいて、ジェノサイド時に犠牲になった人がいたそうです。彼女は微妙な立場に立っていました。彼女が体調を崩したことをきっかけに、他のメンバーたちが、加害者や被害者への認識を変えました。

被害者側の女性は、「これまでは被害者である自分たちが語ったり、ケアを受けたりすることが多かったと思う。しかし、加害者側の人にも語りやケアが必要なのではないか。」とおっしゃっていました。私自身にとっては、ルワンダのジェノサイドが、関係者を加害者と被害者に容易に分けることができない問題であることを実感した出来事になりました。

加害者側として分類されていたとしても、親戚が犠牲になっているかもしれません。また、夫が刑務所に収監されていることで、女性が経済的・社会的・心理的負担を負っているかもしれず、そのような女性はある意味で被害者であるかもしれないと思うようになりました。

4. どうやって赦すの?

留学中は加害者サイドに関して気づくことが多かったのですが、帰国してから被害者側「赦す」という行為がいかに難しいものであるのかを考えるようになりました。私は帰国後、ある友人との関係がうまくいかなくなりました。その人は謝ってくれましたが、なかなか快く赦すということができていません。

ジェノサイドの経験と私個人の経験はもちろんまったく異なるものですが、赦すということの難しさを実感し、ルワンダの人はどうして赦す気持ちになったのだろうかとまた考えるようになりました。ルワンダで和解をした方たちのことを思い出しながら、少し時間はかかりますが、関係を修復できればいいと思っています。

5. 留学を一言で表すと…

ルワンダでの留学を一言で表すと「愛」です。ストレート過ぎて若干照れ臭い気もしますが、愛について考え、周りからの愛をとても感じた時期でした(写真5)。現地NGOの最初の研修でスタッフがおっしゃっていたのが、Love yourself(あなた自身を愛しなさい)でした。

写真5: 家のオーナーのお手伝いさんカラマンティーネとその子供シンティア。カラマンティーネがシンティアを叱っている声や笑い声、お祈りをする声が壁越しに聞こえてきた。私が滞在中にウガンダに引っ越してしまった。新しい電話番号を知らないので、連絡をとることが難しい。シンティアは小学校に通い始めたのだろうか。カラマンティーネは今も陽気な笑い声を響かせているのだろうか。

誰かの役に立ちたい、助けたい、和解をしたい、という気持ちがあっても、自分自身を大切にできなければ他の人を大切にすることもできない。当たり前のことのようですが、自分のことは二の次になってしまうことが多いので、この言葉を心に留めておきたいなと思っています。

また、同じ時期に留学をした日本人学生、PIASSの他の学生、一緒にご飯を食べていた他のアフリカからの留学生、半年間同じ敷地で暮らしたオーナーとそのお手伝いさんと子供などからの愛を感じながら一年過ごすことができました(写真6; 写真7)。

写真6: 留学生コミュニティが開いてくれたフェアウェルパーティー。留学後半は、昼と夜ご飯を一緒に食べていた。基本的に、米、豆、芋、キャベツ、キャッサバなどを食べていた。たまにお肉料理が出るときは、皆が平等に食べられるようにお肉を分けるミートキーパーがいた。そして、いつもは食べ終わるとすぐ帰る人も、その日は余ったお肉をもらうために遅くまで残っていた。

写真7:日本人留学生。ルワンダや他のアフリカ諸国からの学生との関わりだけではなく、日本からの留学生との関わりも私にとっては大事なものだった。ルワンダで感じたことや日本の社会問題など様々なことについて語り合った。

今年に入って、新型コロナウイルス感染が拡大する中で、ルワンダで一緒に過ごした多くの学生から私や日本を心配するメッセージをもらいました。留学期間が終わっても、ルワンダに私を気遣う人がいて、私が逆に元気か尋ねたくなる友人たちがいるということはとても嬉しいことだと思いました。

6. 帰国後

私が帰国をするとすぐに、PIASSからオクターブとヘレンが交換留学生として日本にやってきました。特にヘレンとは、ご飯やお茶をしたり、買い物に行ったり頻繁に会っていました。正直、ルワンダ留学中は、ヘレンと二人で長く話したことはありませんでした。

しかし日本で話す機会が増え、ヘレンの家族や出身国のコンゴ民主共和国のこと、私が知らなかったPIASSでのアフリカ諸国からの留学生コミュニティの人間関係など、多くのことを話してくれました。私のヘレンに対する印象も、ルワンダで会っていた時と、日本で会っていた時では変わりました。

オクターブとヘレンと一緒にやりたかったことや行きたかったところがまだまだ残っているので、また、日本に帰ってきてほしいと思っています写真8

写真8: 2019-2020年交換留学生としてTUFSに来ていたヘレン、私と同時期に留学していた飯野真子さんと高尾山登山。私の地元である山形にも一緒に行きたかったが、新型コロナウイルス感染拡大により断念。ヘレンとは色々な話をしたが、その中でも家族の話題が多かった。とても個性豊かな家族に私も会ってみたいので、ヘレンの故郷に行きたい。

7. 最後に

連絡をするたびに、「いつルワンダに帰ってくるの?」と尋ねてくる友人がいます。これまでは「今年の夏にいくよ」と伝えていたのですが、新型コロナウイルスの感染拡大によって行くことができなくなり、とても残念です。

今は、「状況が改善したら行く」としか伝えられずにいます。具体的にいつ行くと伝えられるような日が早く来ることを願うばかりです。

写真9: 連絡をすると「When will you come back to Rwanda? (いつルワンダに戻ってくるの?)」と必ず尋ねてくる友人レイチェル。できることならすぐにでも行って、イキヴグト(飲むヨーグルトのようなもの)を飲みながら話をしたい。

最終更新:2020年8月13日