いなかを救いにいなかを旅する

~いなかっ子のフランス、マダガスカル留学記~


下出采果

アフリカ地域専攻、2017年入学

みなさんはじめまして。アフリカ地域専攻2017年入学の下出采果です。

私は2019年9月から2020年3月まで休学し、産学官共同留学奨学金、「トビタテ!留学JAPAN」のプロジェクトを使用してフランスとマダガスカルに留学しました。山あり谷ありで心を揺さぶられることが多く、とても有意義な時間だったと感じています。今回はその留学生活を意思決定のプロセスとともに皆さんに紹介したいと思います。

書き出しですのですこし堅くなってしまいましたが、ここから先はもう少しフランクに、より私の現実に即したことばでお届けします。また、おもしろおかしいエピソードについては私の『note』(URL: https://note.com/getsuccess)にいくつか掲載しているのでそちらもあわせてご覧ください。

目次

1. はじめに

2. 留学に行こうと思ったきっかけ

3. 私と「いなか」と悪あがき

4. 常にワクワクできる留学とは

5. 語学は行けばなんとかなる

6. フランスいなかぐらし

7. マダガスカルいなかぐらし

8. 留学と新型コロナウイルス

9. おわりに

1. はじめに

例えば、英語科であるアフリカ地域専攻からフランス語圏のフランスとマダガスカルへの留学を勧められたら、皆さんは何を感じますか?「フランス語が特にできるわけじゃないし。」「2年間で8単位程度のレベルでフランス語圏留学なんて無理でしょ。」「アフリカに行きたいなら、英語圏でもよくない?」などなど。ハードルが高く、現実的ではないと感じるのではないでしょうか。

実はこれはすべて私がフランス語圏に留学を決めてから渡航するまでの約1年、この選択で正しかったのか何度も悩み、そのたびに思っていたことです。フランス語科じゃないけど、アフリカ地域専攻だけど、フランス語圏へ留学するということはそれほど難しいことではありません。ごく普通のアフリカ地域専攻の学生である私のフランス語圏への留学記を通してフランス語圏留学のハードルを下げられたらなと思います。

2. 留学に行こうと思ったきっかけ

私は幼稚園の頃に読み聞かせてもらった吉田遠志さんの絵本『はじめてのかり』(吉田遠志著、リブリオ出版、2001年:現在は絶版)でアフリカに憧れ、大学はアフリカに長期で行ける学部に行こうと思って志望校を選びました。残念なことに、第一志望校には前期試験で落ちて外大のアフリカ地域専攻に入学したわけですが、第一志望校に落ちたことに盛大な劣等感を抱いていた私は、外大にしかない価値を探していました。

外大のアフリカ地域専攻の強みとは何か。私が見つけた最大の価値はフランス語をきちんと学べることでした。ご存じの方も多いと思いますが、アフリカ地域専攻は英語科の専攻地域の一つです(注1)。

注1:東京外国語大学の学科の仕組みについて。学部の中に専攻語ごとの「語科」という区分がある。国際社会学部ではこの語科の中にさらに地域ごとの区分が存在する。例えば国際社会学部の英語科の中には「北西ヨーロッパ」「北アメリカ」「オセアニア」「アフリカ」の4つの専攻地域がある。

専攻語は英語ですが、英語科の他の地域と異なる点は1、2年次にフランス語(もしくはポルトガル語かアラビア語[2017年入学生の場合])が必修科目である点です。その気さえあれば母語である日本語のほかに、英語とフランス語を使えるマルチリンガルになれるのです。2年の春学期にこの価値を最大化する方法としてフランス語で留学することを視野に入れました。

しかし、どちらかというと好奇心旺盛でお転婆、動き回りたいタイプの私は2年のころにはすでに大学の講義だけの生活には退屈していて、大学への留学(=派遣留学)を全うする自信がありませんでした。そもそも、フランス語での留学も実用的なフランス語力を身に着けることが目的だったので、大学での勉強にこだわる必要はなく、当時の私が最も楽しめていたことを留学の軸にすることにしました。

その軸とは、当時ゼミ選択の際に考え、卒論に向けたテーマでもある、「過疎農村の維持・振興」です。このような紆余曲折を経て、以下の3点を留学先国の選定条件にしました。

  • 将来仕事でつかえるようなフランス語力を身につけられること

  • 憧れ続けたアフリカにいけること

  • 留学の軸に対して有益な活動ができること

詳細な理由は割愛しますが、2年の夏休みに、条件①と条件③を満たすフランスと条件②と条件③を満たすマダガスカルに約半年ずつ留学することに決めました。この半分真面目で半分不真面目な動機を踏まえ、次の節では私の軸であり、留学計画の伏線でもある「過疎農村の維持・振興」の背景について文字を割いていこうと思います。

3. 私と「いなか」と悪あがき

本題に入る前に前節で述べた私の軸について少しお話します。

「過疎農村の維持・振興」というテーマを研究の軸に置いたのは2年生の夏でしたが、この軸は大学に入ってからの私の公私にわたる行動の根底にあるものでした。このきっかけになったのが私にとっての「いなか」である村です。(普段この村のことを「ヤマ」と呼んでいるため、表記をヤマに統一します。)

私は石川県の出身で、曾祖母(通称:ヤマのばあちゃん)は国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている加賀市東谷地区に住んでいました。幼いころからヤマで過ごすことが多く、豊かな自然も、豪快で畑仕事がうまく、ヤマに詳しい曾祖母も大好きでした(写真1)。

写真1:曽祖母と弟とヤマの畑でカブをとっているところ。幼い頃から畑仕事を曽祖母に教えてもらっていて、今もこの畑を家族と耕している。

しかし、私が高校1年になった年に曾祖母は雪かきの途中で怪我をし、ヤマを少し降りたところにある施設に入ることになります。高校時代を通して私のヤマへの足は遠のきました。勉強や部活を理由にしていましたが、今思えば元気で強かった曾祖母が怪我をしたこと、曾祖母がヤマの家にいないことを受け入れたくなくて離れていたようにも思います。

大学生になり、今度は石川からも離れて進学した私は、自然が少ない東京から帰省すると反動で再びヤマに行きたいと思うようになります。

こうして久し振りにちゃんと訪れたヤマで衝撃を受けました。曾祖母が親しかったおじいちゃんやおばあちゃんがほとんどいなくなっていたのです。他界された方、病院や施設に移った方、子供や孫の住む町へ出た方など、理由は様々でしたが私がヤマに行かなくなっていた約3年のうちにヤマの様子は大きく変わっていました。

ヤマは私にとって愛すべき「いなか」であるとともに、古くから炭焼きの文化があり、特徴的な家屋が作られてきた文化的に貴重な場所です。また、ヤマを含む東谷地区の人々は金沢方言とは違った独特の方言を話します。ヤマが廃れていくことはすなわちヤマの文化の消滅だと感じました。

何事も体験ベースで学ばせようとしてくれた両親、祖父母、曾祖母の方針をそのまま自分の価値観にした私はヤマを後の世代に受け継げないかもしれないことに危機感を抱き、ヤマのためになることをしようと動き始めました。

大学2年の夏には獣害問題に悩まされている家族やヤマの人々の力になれればと狩猟免許を取得し、都内のジビエ料理店でアルバイトを始めます。大学3年の夏には所属している大石ゼミの夏合宿をヤマで開催し、曾祖母が住んでいたヤマの家に泊まって、私が好んでいたヤマでの過ごし方の一部を体験してもらいました(写真2)。

写真2:ゼミ合宿中、ヤマの家の裏を流れる川にて。いつも私がしているような川遊びをゼミの仲間に一緒に楽しんでもらえたことが1番嬉しいことだった。

近くの集落で若者向け、子供向けのイベントがあれば同世代の地元民として参加し、一緒に楽しむことでヤマを好いてもらい、関連人口を増やせるようにしてきました。

ヤマに移住してくれた人も何人かいましたが、定着率は低く、2~3年もすれば出ていってしまう人がほとんどです。山間村で虫や獣が多く、電波は極弱、テレビはつかず、冬は1メートル以上の雪に覆われる僻地に人が住むというのは現代では難しいことなのかもしれません。もともとそんな生活に慣れていたヤマの関係者ならまだしも、初めて来た人が適応するには厳しすぎる環境だということは私もわかっています。そして今から私が研究をし、ヤマのためになるような仕事に就いたところでヤマが廃れていくのを止めることはできないでしょう。

でも往生際の悪い私には、ヤマが廃れていく過程を見ながら放っておく、などという選択ができませんでした。その結果、研究や卒論という形で大好きなヤマが存在していたことを残し、その過程で一人でも多くの人にヤマを知ってもらおうと微力ながら悪あがきをしているのです。

そんな大学生活をかけたずいぶん長期的な悪あがきの最たる例が私の留学でした。留学中の話をすると多くの人が頭に「?」を浮かべて聞いてくれます。大学時代の留学としては些か変わった土地に変わった計画で行ったからでしょう。次節からは留学の行先や計画、当時の生活についてお話します。

4. 常にワクワクできる留学とは

机に向かっているだけでは退屈してしまう私にとって、アドレナリンが出続けることとは、学んだことの実践と未知のものに体当たりで突っ込むことでした。そんな私の留学の受け入れ先と予定期間がこちらです。

  • エクス・マルセイユ大学(フランス):2020年9月~2020年12月(4か月)

  • シャトー・ド・ドゥリアンヌ(フランス):2021年1月(1か月)

  • アンバト・フィ(マダガスカル):2021年2月~7月(6か月→[新型コロナウイルス感染拡大のため]2か月で帰国)

第2節であげた留学先の条件①と条件③で選んだフランスでは大学への留学と農場でのインターンを行い、条件②と条件③で選んだマダガスカルでは農村で生活改善を行っているNGOでインターンをする計画でした。

5. 語学は行けば何とかなる

5節、6節でフランスでの生活に触れる前に、滞在していた場所の位置関係をご紹介しましょう(地図1)。

地図1:フランス留学で滞在した場所の位置。

☆:Aix en Provence エクス・マルセイユ大学がある街で、大学に通っていた期間はここに住んでいた。

♡:Le Puy en Velay シャトー・ド・ドゥリアンヌがある田舎町。

恥ずかしながら、渡航時の私のフランス語の会話レベルはある程度詳細な自己紹介や簡単な日常会話程度といったところでした。日本の大学での語学学習では読み書きは上達するものの実践で苦しむことが多いと思います。私もその典型でした。

日本ではフランス語科でもない限りなかなか実践的なフランス語を身に着けられる場は少ないのでこの点は渡航後にできるだけ早く解決すべき課題として設定しました。この課題解決のために選んだのが1か所目のAix-Marseille Université(エクス・マルセイユ大学)の外国人向けフランス語コースです(写真3)。

大学のフランス語コースなので退屈な時間を過ごすかと思っていましたが、ちゃんとドタバタ楽しい日々になってくれたので良い時間だったと感じています。クラスメイトの中に英語を話せない人が思いのほか多かったので必然的にフランス語を使う機会が増えました。

写真3:学期最終日にクラスメイトと。

留学費用節約のためエージェントを通さなかったので、フランス到着後の手続きや住まい探しが最初のミッションでした。大学に通う間の住居となったのはAix en Provence市街のアパルトマン(注2;写真4-5)でした。

注2:アパルトマンとはフランス式集合住宅で家具付きの賃貸。ヨーロッパの市街地でよく見る出入り口が一つでやたらと縦長の建物がフランスではアパルトマンであることが多い。あくまで私の体感だが、Aix en Provence市街ではアパルトマンの1階がテナントであることが多かった。

写真4:この写真は私の住んでいたアパルトマンではないが、テナントの隙間に出入り口があり、2階以上が賃貸である点は同じ。

写真5:家具付きなので日用品をそろえる手間もなく留学生にとってはありがたい賃貸形式だった。食器などもすべてそろっていた。

このアパルトマンの大家さんやパン屋のおじいちゃんに不動産屋のおじさんとおばさん、マカロン屋のおかあさんなどなど、ご近所の人々がはとても親切でいつも声をかけてくれたのですが、すべてフランス語だったのでご近所づきあいも私にとっては勉強の一種でした。また、趣味で通っていた弓道教室(写真6)の仲間たちが私を家に招いたり、パーティに連れだしたりとフランス人コミュニティに引き込んでくれたことにも感謝しています。

当時20歳だったことや女性であること、日本人は幼く見えることなどが関係していたのかもしれませんが、南フランスのフランス人たちはとにかく陽気でいい意味でおせっかいでした。話の途中に発音のミスを訂正されることもありましたが、学びと楽しさや充足感が直結していると感じていました。この日常生活のおかげで随分とたたき上げられた気がします。

写真6:エクス弓道場にて

今ではコテコテの南仏なまりのフランス人ともちょっと難しい会話ができたり、聞き流しのラジオやテレビの内容が頭に入るようになりました。留学の第1フェーズの目標だったフランス語を磨き上げるということについては目標達成でした。

個人的にこの期間に一番フランス語の上達を実感したのはフランス語で言い合いになったときでした。クラスメイトの不快だった言動に対して、感情や論理をきちんとフランス語にできている自分に驚きました。結局、相手の母国で女性をほめるときに使う言い方をフランス語にして使った結果、日本人である私が不快に感じる表現だったということで、相手とは和解することができました。

日本を一歩出てみると褒め方ひとつをとっても多様で、こんな文化の違いの壁に何度もぶつかりました。そんな一つ一つと向き合ううちに、言語力だけでなく、問題を何とかする力と精神力が鍛えられていったように思います。

6. フランスいなかぐらし

2か所目の受け入れ先はChâteau de Durianne(シャトー・ド・ドゥリアンヌ)という農場でした。この農場はLe Puy en Velayという田舎町にあり、家族経営の団体としてオーガニック農場を経営する傍ら、エコツーリズムや林間学校の受け入れをしていました。

このインターンはWWOOFという農場インターン斡旋サイト(URL: https://wwoof.fr)からのご縁でした。システムとしては、参加者が労働力を提供し、受け入れ側が寝る場所と食べ物を提供するものです。農場にもよるとは思いますが、シャトー・ド・ドゥリアンヌでは農場の一家にホームステイするような感覚で、とても愉快なお母さん、単身赴任で週末に帰ってくるお父さん、ちょっと不思議系の長男とちょっと頑固なおじいちゃんと一緒に住み、一緒に働いていました(写真7)。

写真7:農場にて。この地域固有の豚と私が毎日戦っていたガチョウたち。

日本の曾祖母の村の農業形態(注3)とは全く違うやり方の農場経営に参加する日々はとても充実していて自分が活き活きしていることを実感する日々でした(写真8)。この農場はとてもオープンな性質のものらしく、近所の人や以前私と同じようにWWOOFで来ていた人などが突然訪ねてきて一緒に作業するということがしばしばありました。農場にかかわった人にとってのサードプレイス(自宅でも職場でもない第三の居場所。)的役割を果たす農場で、多角的な運営を目の当たりにし、机上の空論になりかけていた卒論の方向性に大きな影響をもらいました。

注3:私は、さしあたり日本の中山間地農業の特徴は、①一人当たりの耕作面積が小さいこと、②大規模な機械化が難しいこと、③農業の担い手が家族単位であることだと考えている。フランスの農場では小規模有機農業だったが、この真逆で耕作面積が広く、耕作機械を所有・使用していた。また、農業の担い手は農場主である一家の母が主で、次いで私のようなインターン生と週3日ほどのアルバイトの若者だった。忙しい時や土日におじいちゃんやほかに仕事を持っている一家の父、息子が加わっていた。

写真8:農場にて。子羊の耳にタグをつける作業。奥で髪を振り乱しているのが私。屈強なお兄さんが2人もいるのになぜか私が子羊の捕獲係になってしまい、笑いのツボにはまった愉快な農場のお母さんが撮影。

犬に引きずられて山を2時間も駆け回り、敵対心の強いガチョウと毎日のように戦い、言うことを聞かないロバを古くなったフランスパンでおだてて放牧に連れて行く私の様子がどうも農場のお母さんのツボにはまったようで、いつも爆笑しながらかわいがってくれました。

上京して一人暮らしを始めてから忘れかけていた温かさをくれ、いつでも帰ってきていいからね、とフランスに帰る場所を作ってくれた農場の一家は今でも忙しい時の私の心に余裕を作ってくれる特効薬です。

7. マダガスカルいなかぐらし

ここでもマダガスカルの地図とともに滞在場所をご紹介します(地図2)。

地図2:マダガスカルで滞在した場所の位置。

☆:Fianarantsoa NGOサイトの最寄都市。ここから車で1時間の村で活動していた。この都市の女子修道院に住んでいた時期もあった。

♡:Majunga 渡航後最初に滞在していた亜熱帯の街。NGOサイトに入る前に事務作業やマダガスカル語の勉強をしていた。

受け入れ先3か所目であるONG Ambato Fy(日本語表記:NGOアンバト・フィ)では、中部の街・フィアナランツォから車で1時間ほど離れた村に住んで活動していました。この時ちょうどNGOの5周年記念祭があり、その際の記録もかねて牛の解体についてミニフィールドワークレポートを作りました(写真9)。卒論には直接つながりはしませんが、それまであまり実践の機会がなかったフィールドワークを行えて研究へのモチベーションがとても上がった出来事でした。

写真9:NGOが活動している村にて。NGOの5周年記念祭を前に解体する牛を捕獲しているところ。この時牛も村人も高揚しているような恐れているような不思議な空気感だった。若者がとびかかって捕まえる方法だったので危ない場面が何度もあった。

NGOの対象地域は草でカバンや敷物を編む習慣のある村で、稲作も行っていたため、生活改善の一環としてわらじの編み方を実演し、「0 Ariary Kapa(=0円の靴)」ワークショップを行いました(写真10)。このときに傍にいた小学校高学年くらいの女の子が私の作業の見様見真似だけでわらじを編み始め、NGOスタッフとともにとても驚きつつ、新しい生計手段としてのわらじの可能性を感じたことが鮮明に残っています。

写真10:NGOが活動している村にて。わらじの編み方ワークショップ中。左端の女の子が見よう見まねで編み始めたので身振り手振りで少しずつ教えているところ。

しかし、この直後、新型コロナウイルスの影響でマダガスカルの国境封鎖が決まり、急遽インターンを中止して帰国することになりました。わらじの編み方ワークショップを当初の帰国予定だった7月まで継続できていればあの女の子の将来の生計手段を増やせたのではないか、衛生環境が悪い村で多少は健康状態の改善に役立てたのではないか、という心残りはもうすぐ1年がたとうとしている今も引っかかっていることのひとつです。

マダガスカル滞在中はNGOの関係で村の他にフィアナランツォの女子修道院や北部の街・マジュンガに住む期間があり、フランス以上に不思議なことの多い土地で、何種類もの全く経験したことのない生活を送り、文字通りの完全アウェイを体感してきました。これが平時には常に楽しいものであることを知って、ますますこの先の長い人生に対する漠然とした期待を抱く理由になりました。今はまだ国境を越えて移動できる状況ではありませんが、また元のような世界に戻ったら一番にマダガスカルに行きたいと思っています。

8. 留学と新型コロナウイルス

先述したように、私の留学は7か月が経過したところであまりにも唐突に不本意な形で終わりを迎えました。

世界中で新型コロナウイルスの影響によるアジア人への差別があり、その時期に海外にいた日本人が差別の対象になるということは日本のニュースでも流れていたかと思います。フランスでもマダガスカルでもその差別を経験してきました。この場ではあまり深く言及はしませんが、マダガスカルでの差別は期間も長く、周りにアジア人がほとんどいない環境だったために帰国後もそのダメージに苦しむ期間がありました。

しかし、あの有事の時に海外にいた経験はしようと思ってできるものでなく、日本人として日本で普通に過ごしていたらあれほどの差別を受けることもないでしょう。あの時はただただ苦しいだけでしたが、今までなんとなく遠い世界の出来事で、漠然と抗議すべきものだった壮絶な差別が、この経験のおかげで自分に関するものとして向き合うべきものになったことは私の人生において大きな収穫だったと考えています。

たいへん不本意な終わり方をした留学でしたが、普通の終わり方では得られなかった経験をできたという点ではこれも有意義だったのかもしれません。

9. おわりに

この留学を通して私が得たものの中で一番大きかったものは自信です。フランス語圏は各国、首都を除いて英語圏ほど在留邦人が多くありません。情報が少なく自助努力を迫られる場面が多いなか、アウェイの環境を乗り切ってこられたことが根拠となって事実ベースの自信になってくれます。

言葉の壁は行けば何とかなるもので、大抵のトラブルや課題は頑張れば解決できてしまうものです。ほんの少し勇気を出してちょっとしんどい環境に飛び込むことこそ、自信をつけて強くなる近道なのだと思います。後輩の皆さんには、ぜひ思い切ってフランス語圏に飛び込んでみてほしいと思っています。

こうしてアウトプットの機会をいただいて留学を振り返ってみると、予定通りにいかなかったことは多いものの、結局波瀾万丈で学び多く、ワクワクする時間だったと納得することができました。社会に出る前に視野を広げ、視座を高くする機会をいただけたこと、その中で人生を豊かにしてくれるようなたくさんの人や出来事と巡り合えたこと、本当に貴重だったと感じています。

留学するにあたって準備段階から帰国した今も快く力を貸してくださった皆様にこの場を借りて感謝申し上げます。ありがとうございました。また、寄稿依頼をくださった大石先生、貴重な機会をありがとうございました。

最終更新:2021年4月24日