ルワンダで2年間働いてみて

――2021年3月〜2023年3月 在外公館派遣員


by 渡辺晴海

(アフリカ地域専攻、2019年入学)

1.はじめに

私が「在外公館派遣員」(注1)の求人に応募することを決意したのは、コロナ禍真っ只中の2020年9月でした。「絶対に在学中に一度はアフリカ渡航をしたい。」という思いとは裏腹に、留学も個人での海外渡航もほぼ不可能という状況でした。

特に、私はFemme Café (勝手に説明すれば「ルワンダコーヒー愛好会」です)というサークルの代表もしていたので、ルワンダに行ってコーヒー生産者さんに会うことが一つの目標でもありました。

「このまま、4年間、ルワンダに行くことが出来ないまま卒業するのか」と思い詰めていた最中、在ルワンダ日本国大使館での派遣員ポストの求人が出ていて、応募〆切が3日後であることを知りました。迷わず、急いで応募書類を揃え、オンライン出願しました。

注1:「在外公館派遣員」とは、各国にある日本政府の大使館や領事館や代表部で、バックオフィス要員として外交活動を支える仕事です。一般的な仕事内容は、文書作成・整理、会計事務、大使館員が移動する際の車の手配、出張者が現地で飛行機乗り換えをしたり宿泊したりする際のサポート、などなど。私が派遣された在ルワンダ日本国大使館(以後、「大使館」)は小さな公館だったため、それに加えて広報文化関係の仕事も任せて頂きました。

ルワンダでの生活は、皆さんが思うような「アフリカらしさ」を散りばめた刺激的なものではなかったと思います。なぜなら、私は「首都の立派な家に住む、高給取りの外国人」として生活していたからです。


首都キガリの道路は黒々としたアスファルトで綺麗に舗装され(写真1)、中心部には高層ビルが立ち並び、大多数のルワンダ人にとっては高めの(私にとっても高めの)値段のレストランやホテルが多く軒を連ねます。大使館員としてセキュリティ重視で選んだ新居は、外国人が多く住むアパートでした。


写真1: 首都キガリの夜景と整備された道路。この道を歩ける時は歩いて通勤していました。

貧富の差が大きいルワンダで、私が買っていたスーパーのトマトは、ローカルマーケットで買うトマトの5、6倍の値段はしたと思います(にもかかわらず、品質は全く同じかローカルマーケットの方が新鮮なのです)。


対して、キガリの大通りを外れたエリアや、地方の村では、色とりどりのキテンゲ(アフリカンファブリック)を身に纏って赤ちゃんをおんぶしたお母さんたち、赤土の道路、ローカルフード、アフロビーツ、近所の人々との団欒、散歩する家畜のヤギ…そういった光景が広がります写真2, 3, 4

写真2

写真3

写真4

写真2-4: 友人のツテで、地方の村でのコミュニティ奉仕活動に参加させてもらった様子。ルワンダでは毎月、「ウムガンダ」という地域総出のボランティア活動があります。内容は地域ごとに異なり、大体清掃や土木作業ですが、この日は、土煉瓦を運んで積み上げ、誰かのお家のキッチン小屋を建てました。

私の生活風景は前者の方でした。現地語のキニアルワンダ語も一時期勉強したものの、忙しさにかまけて挫折。英語とカタコトのキニアルワンダ語で生きて行けるコンフォート・ゾーンを出なかったことは、ルワンダ生活で唯一にして最大の後悔です。


そんな、アフリ科生らしくないアフリカ生活。しかし、私にとっては今後の人生をも左右するかもしれない大切な2年間になりました。

写真5: ルワンダ王宮博物館で大切に飼育されている牛。伝統的なダンスの振り付けでも表現され、富の象徴として婚資として贈られることもある牛は、ルワンダでは特別な存在です。王宮にはかつて、王様専属の神聖な乳牛がいたのだとか。

2. たくさんの出会いがあった

理由はいくつかありますが、一つ目は、素敵な出会いがあったことです。

人として尊敬する上司や同僚はもちろんのこと、さまざまな格好良い生き方をされている在留邦人の方々、企業やNGOの一員としてルワンダを出張で訪れた方、ルワンダ人の農学博士、仕事で関わったルワンダ政府の職員などなど。突然決まった仕事で、JICAルワンダ事務所の丸尾所長(当時)にインタビューさせて頂いたこともありました。

レセプション(大使館が主催するパーティー、小さな外交の場)の運営に際して一緒に仕事をしたルワンダ人のボーイさんは、自身が所属するイベント会社の共同企業家であり夢追い人でした。JICAのコーヒー専門家の方々には、休日にコーヒー農園に連れて行って頂いたり、お家に上がらせて頂いた上に、私の初歩的な質問攻めに対して沢山のことを親切に教えて頂いたりしました。

3. 自信がついた

 

二つ目の理由は、毎日自分にできることを積み重ねたことが、今後何をするにも大きな自信になったことです。


派遣員の業務は、正直「覚えてしまえばできる」仕事です。深夜の空港勤務や止むを得ない残業もあるので体力は必要ですが、事務・庶務がメインで、誰かの上に立つことがない分難しい利害調整も無いし専門知識もほぼ必要ありません。クリエイティビティもほぼ求められていません。


英語ができれば、一度仕事を覚えてしまえば、求められている最低限のことは出来てしまいます。(あくまで、「最低限はできる」という話で、求められている以上のお仕事が出来てしまう派遣員さんはすごいと思います。)


「2年間で、何のスキルが身についたのか?」


就活面接で怖い面接官にそう尋ねられたならば、私は口籠ってしまうかもしれません。でも、2年間の勤務で得たことが、2つあります。

①度胸 

「郷に入れば郷に従え」と言う通り、ルワンダで生活するならルワンダの常識に合わせるのが当たり前でしょう。知り合いが集合時間に遅れてきても気にしない、アパートの居室が水漏れで水浸しになっても怒らない(修理してもらった箇所から3回漏れました(笑))、タクシーや市場でぼったくられても気にしない(自分のキニアルワンダ語のせい)、相手の宗教観に配慮したり、せめて最低限の挨拶はキニアルワンダ語でしたりすることも含めて。

しかし、仕事となると、大使館は沢山の人が苦労して納めた税金を使って、日本政府の代表として仕事をするため、ルワンダ人と仕事をする場合でも成果に関して日本基準でシビアにならざるを得ない場面が多かったです。

日本の要人とルワンダ関係者の会食の準備をしたことがありました。他の日程との関係で1時間しか食事の時間が取れないのに、諸事情があり、なんと会場は、スローな接客が良い味を出している東アフリカ料理レストランでした。

写真6: キブ湖畔で食べたティラピアと豚肉料理。唐辛子調味料「ピリピリ」をつけていただく。

店長は「1時間でデザートとお茶まで出してくれないでしょうか」というお願いも含めて、会食の受け入れを「Of course, we can.」と快諾してくれました。無理なお願いに、二つ返事で「Of course, we can.」と言ってくれたということは、十中八九、当日3時間のコース料理を出してくれるケースでしょう(時間の捉え方が日本の常識と異なるというだけの話で、仮に3時間かかったとしても、そこに悪気は全くなく、むしろゲストをもてなすために丁寧に温かい接客をしてくれた結果だっただろうと思います)。

こちらから無理なお願いをしているので、「失敗したらこちらの調整不足だな」くらいの気持ちで、何回もレストランに足を運び、料理内容から調理と盛り付けと提供のタイミングまでの打ち合わせをさせてもらいました。

当日、案の定、要人とゲストが席に着いたタイミングで、盛り付けが半分終わっていなかったので、キッチンまで乗り込んで行って、「そこで立っているシェフも手伝ってください!私も運ぶの手伝うから、みんなで頑張ろう!」と声をかけ、なんとか食後のデザートまで乗り切ることが出来ました。要人とゲストが去った後、レストランの店長とスタッフさん達と、「俺たち、やったな!!!」のハイタッチをしつつ、安堵に胸を撫で下ろしたことを覚えています。

このように(電話やメールではうまく話が進まないので)何度も相談のために会いに行くことは日常茶飯事でしたし、進捗がないことに対して丁重なリマインドの電話をかけることは、ほぼ毎日ありました。

ルワンダに行く前は、自分に、しつこく相手を訪問したり、人様のお店の厨房に上がり込んだりする図太さがあるとは思っていませんでした。そして、こんなにも、約束の時間を破られたり、約束したことがうまく進まなかったりするドタバタが楽しいとは思いませんでした。今後、何が起きても、落ち着いて対処して行けるような謎の自信と度胸が、身についた気がします。

②信頼関係

「毎日、1mmの余裕を同僚のために残しておけば、お互いにぐんと働きやすくなる」というのは、2年間の勤務を通して感じたことの一つです。

働き始めの頃、同僚が仕事で留守にしている間に、彼のお子さんが亡くなるという出来事がありました。かける言葉が分からず、ただ、抱きしめることしか出来ませんでした。

派遣員の大切な仕事の一つに、配車スケジュールの管理というものがありました。大使館員が用務で外出する予定に合わせて、送迎車を出すスケジュールを組み、複数在籍しているルワンダ人のドライバーさんに仕事を割り振ります。私は彼らの上司ではなく同僚でしたが、お仕事をお願いする立場にはありました。

ドライバーは過酷な仕事です。深夜・早朝勤務も多く、仕事中は長時間座りっぱなしで、急に配車スケジュールが入ることもあるため、ドライバーさんによっては休日もお酒を殆ど飲みません。

仕事をお願いする立場として、同僚が心身の健康を保ったり、家族との時間をより多くとったりできるようにする責任があると感じていました。上の出来事があってからは特に、「同僚を待っている家族がいるんだ」と強く意識して働くようになりました。

まず、些細なことですが、毎朝の挨拶は忘れずにするようにしました。”How are you?” “How is your family?” は、日本では日常的に使ったことがない言葉ですが、出来るだけ大切にしました。

もちろん、皆ができるだけ早く帰れるように、配車スケジュールは可能な限り効率的に組みますが、その日のドライバーさんの体調や、家族の状況も加味するためです。その上で、配車スケジュールの変更をすることもありました(ルワンダ人の同僚たちの間には、「助け合う」という精神があり、むしろ彼らから学ぶことが多かったです。だから、「〇〇さんの娘さんの体調が悪いから、この仕事は▲▲さんにお願いをしていいですか?」という相談もしやすかったのです)。

次に、要人対応などで朝から晩まで配車スケジュールが詰まっている時には、空き時間に差し入れをしつつ「今どんな感じ?」のチェックをしました。深夜の配車スケジュールがある日には、非常時に頼れる体勢を出来るだけ維持して、ドライバーさんの仕事が終わるまで起きていました。

また、できるだけその道のエキスパートであるドライバーさんの意見を配車スケジュールに反映させつつ、自分のお仕事に対してオーナーシップを持って欲しかったので、コミュニケーションは密に取るようにしました。ただ、報連相がお互いに上手くいかない時も多々あり、すれ違いで大きなミスをしたこともありました。その時は、コミュニケーションの仕方について座って話し合う場を設けました。

些細で当たり前なことをしただけですが、毎日積み重ねることで段々、ドライバーさんたちが自分を頼ってくれるようになった時は、とても嬉しかったです(写真7)。

写真7: 同僚たちとビール。

ルワンダ人の同僚の間には、本当に「困った時はお互い様」という優しい空間があり、同僚の誰かが困って上司に相談をしていると、心配した他の同僚が集まってきて人だかりが出来る程でした。私が日本にいる祖母を亡くした時も、無理しているのを察してくれたのか、皆が集まってきて次々にハグをしてくれました。

たった数分の出来事でしたが、この時に同僚がくれた一言や、ぎゅっとしてくれた強めのハグで、私は優しさに包まれた気持ちになりました。「こんなにも、さりげない気遣いが、誰かにとっては救いになるのだ」と気付かされた瞬間でもありました。

生活していれば、体調が悪い日もあるし、忙しい日もあります。大切な家族や友人に気がかりなことが起こって、後ろ髪を引かれながら出勤する日もあると思います。でも、同僚のために1mmの心の余裕を残しておけば、結構いろんなことに気付けます。

顔色が悪かったり、いつもより口数が少なかったり、人間関係に悩んでいそうだったり、あるいは仕事が退屈そう(能力に見合ったことを任されていない)だったり。大切な人や物事がそれぞれにあるのは当たり前で、それを抱えながら仕事をしているのはお互い様。

1mmの余裕があれば、一言かければ、私が祖母を亡くした時のように、その一言で誰かが救われたような気持ちになるかもしれません。「1日の大半を一緒に過ごすのが職場だから、せめて1mmの気持ちを交換できればいい」ということを、ルワンダ人の同僚の姿勢から学び、それを目標に毎日を積み重ねました。

ただひたすら、時には1mmの余裕も残せないまま、たまには同僚とほぼ喧嘩状態になりながらも、働いて最後の出勤日を迎えました。思いがけず、同僚から「たくさんサポートしてくれてありがとう。一緒に働いていて、とても働きやすかった」と、涙目で言われた時には驚きました。

華々しい成果を出したとか、突出した何かを残せたわけではないけれど、彼らのColleagueとして毎日を過ごせたこと。沢山悩みながら、ぶつかりながらも、2年間を終えることが出来たこと。その積み重ね自体が、私が得たものなのかもしれません。

少しでもやろうとしたことが出来ていたのかな、信頼関係が築けていたのかな、と、いろいろなものが報われたような気持ちになりました。社会人の最初の2年間を彼らと過ごすことが出来たことは、今後どんな職業に就いたとしても、「私はこのまま歩いていける」という自信の拠り所になる気がします。

一緒に昼休憩中にバカ笑いしたり、休日に一緒にビールを飲んだりしたことが、今はひたすら恋しいです。みんな元気にしてるかな(写真8)。

写真8: 同僚たちと。

最終更新:2023年9月18日