ウガンダ共和国での

ボランティア・探究記


西川佑太

アフリカ地域専攻、2016年度編入学

こんにちは、アフリカ地域専攻2018年度卒業生の西川佑太と申します。ここでは、2017年にウガンダ共和国で経験したボランティアに関して記載します。ボランティアの内容だけではなく、ボランティア内外の私の意思決定の理由なども振り返りながら書かせていただきます。

目次

1. はじめに

1-1. ボランティアの動機

1-2. ウガンダ共和国を選択した理由

2. ボランティアの活動内容

2-1. 職業訓練学校での教員としての経験

2-2. 小学校での教員としての経験

3. その他の気づきや学び

3-1. 中国(人)に対する現地の人々の印象

3-2. 現地の生活を支える産業構造について

4. むすびに

1. はじめに

1-1. ボランティアの動機

まず、私がボランティアをしようと決意したきっかけは主に2つありました。

1つ目は「今後のキャリアを見据えて」という軸です。私は当時学部3年生を修了した段階であり、本格的な就職活動が目の前に迫っているという状況でした。その中でまず頭に浮かんだのは「国際協力」分野での就職です。

アフリカ地域の紛争解決・平和構築に関して強い関心があった私は、それに関連するゼミを選択し、勉強を進めておりました。こうした背景から、漠然と新卒で国際協力NGO等の組織に所属するのだろうと考えている一方で、本当にこの選択が正しいのか不安も抱えておりました。その不安を解消するという意味でもボランティアという形で国際協力に関わり、それが本当に私がやりたいことなのかどうかを見極めたいと考えてました。

2つ目は「説得力のある論文制作」という軸です。前述したように私は主にアフリカ地域の紛争解決・平和構築の学びを進め、卒業論文の準備に取り掛かっておりました。大学生活最後ということもあり、自分が納得した文章を書きたいと燃えていた私は、他者が読んだ時により説得力、共感を得るためにはどうするべきなのか考えました。

その結果、現地に行くということが私の目的に寄与するのではないかと考えるようになりました。フィールド調査をするかどうかの検討まではしておりませんでしたが、実際に現地に赴き直接情報を得た方が、発する言葉の説得力が変わるのではないかと考え、現地に行くことを決意しました。

大学などの教育機関に留学することも考えましたが、一つ目の理由も相まって、留学ではなくボランティアがしたいという考えに至りました。

また、上記の動機が、最終的なキャリアの選択や現在に至る私の意思決定にどのように影響を及ぼしているかに関しては、「4. むすびに」に後述させて頂きます。

1-2. ウガンダ共和国を選択した理由

数多くある国々の中でウガンダ共和国(地図1、以下:ウガンダ)を選択した理由はまず、生活環境の観点からです。どの国にしようか情報を収集している中で、英語圏であることや治安の良さ、ボランティアの受け入れ体制が充実しているという点で非常に魅力的だったからです。

ボランティア先の決定に関しては、ウェブ上で多くの機会を模索し、ウガンダ現地のNGOと提携を持つ日本のNPOを経由しての参加となりました。

また、ウガンダの歴史背景という点からです。私の今回の目的の一つである「説得力のある論文制作」を達成する上でも、ウガンダはもともと注目をしていた国でした。

1962年にイギリスから独立して以降、度重なる紛争を経験している場所であること。さらに、「元女性兵士の社会復帰」に卒論研究テーマを絞りつつあった中で、ウガンダでは紛争を通じて、多くの女性兵士が生まれた場所であるということに着目し、私の研究テーマに関連する情報を得る場所として最適だと考え、ウガンダを選択しました。

地図1: ウガンダ共和国の位置

2. ボランティアでの活動内容

ウガンダでの滞在中、所属をしていたウガンダ現地のNGOから派遣される形で、主に二ヶ所でボランティア活動に関わりました。首都カンパラ郊外のナンサナ地域の職業訓練学校と首都カンパラ中心街に位置する小学校での活動でした(地図2)。活動中は英語を使用しながら、生徒たちと一緒に過ごしましました。

地図2: 首都カンパラでボランティアをした2つの学校の位置(©Google)

2-1. 職業訓練学校での教員としての経験

職業訓練学校での活動には約4ヶ月間携わりました。郊外の貧困層が居住するコミュニティで運営されている私立の学校で、小学生ぐらいから30歳ぐらいまでの生徒がスキルを習得するために通っていました(写真1; 写真2)。

写真1: 職業訓練学校のすぐ近くに居住していた6人家族(母親は仕事で不在であった)

写真2: 6人家族の暮らしていた家の中の様子

学校の運営体制は営利目的というわけではなく、現地のコミュニティの青年がほぼボランティアで運営している学校でした。生徒の多くは女性であり、美容と服飾のクラスが大半の生徒を受け入れているという構成になっています。

そういった状況の中で、私が携わったボランティア活動の内容は、パソコンの基礎的な使い方の指導です。ウガンダでもインターネットが多くの地域で普及し、パソコンなどの機器に関する知識は就職をする上で必須条件になりつつありました。

そのため、Microsoft Word、Excel、PowerPointでの学習を通じたパソコン基礎スキルの習得をするための授業が開講されており、私は指導教員の一人として派遣をされました。このプロジェクトを選択した理由として、Officeのソフトについては日本での授業でもよく使用していたこともあり、それらの経験や知識から貢献できることがあるのではないかと考えたからです。

授業は、もう一人の現地職員と共に行うスタイルでした。当初おこなっていた授業内容は上記ソフトを用いて授業をしているものの、文字の入力や文章の編集といった基礎的な学習をテキストに沿って行うのみで、応用できる有効なスキルが身につかないのではないかと考えました。

そのため、ドリルを私自らが作成し、練習問題を通じてそれぞれのソフトでよく使うスキルの定着を目指すような授業スタイルに変更していきました。例えば、Excelのグラフ作成を学べるように、ある村の人口や職業といった仮想の条件設定をし、それに基づいて生徒が解答を作成していくといった内容にしました。在籍中に習得したスキルを活かして企業のインターンシップに合格できた女性も輩出できたので、非常に嬉しかったです。

さらに、パソコンの授業に加え、日本語・日本文化に関して授業をしてほしいと学校の校長先生から依頼されました。依頼の理由としては、郊外のコミュニティになると中国人やインド人が多く居住する首都とは異なり、外国文化に接する機会が無いため、生徒の外国人や海外文化への寛容性を促進させたいとのことでした。

そのため、授業としては15分ぐらいの長さとなっており、日本語の文法やメカニズムなどの細かい話よりも、簡単な挨拶やよく使うフレーズに焦点を絞り進めていきました。さらに、プロジェクター等の機器がなかったため、画用紙にイラストを描き、日本文化に関連する物事に関して紹介をしました。

最初は私に対して怪訝そうな顔をして受けていた生徒も多かったですが、次第に私に日本語で挨拶をしてくれる生徒も増えたことが非常に嬉しく感じました。

2-2. 小学校での教員としての経験

職業訓練学校とは別に、都市部の私立小学校でも日本でいう3年生ぐらいのレベルの算数の講師として、約1.5ヶ月間活動に携わりました(写真3)。

写真3: 現地小学校で、算数の授業を行っている様子

授業の前半は黒板で問題の解き方、定理の説明を行い、後半は実際に生徒達が問題を通じて学習するという時間になっていました。私自身が小学生の頃に授業の内容についていけなくなっている友人もいたと記憶していたので、出来るだけ丁寧に指導しようと心掛けました。

しかし、生徒によって授業への熱量は異なっており、積極的な参加をしてくれない生徒はいました。それでもできる限り全員とコミュニケーションを図り、包括的な授業実施ができるように取り組みました写真4

写真4: 授業後に一緒にサッカーをする様子

海外から来ているボランティアは私の他にドイツから来ている女性の方もいましたが、アジア出身の先生は他にいなかったので、私に興味津々で生徒が話しかけてくれたのは非常に楽しかったです。

一方、よく目にしたのは叩く・殴るなどの暴力を伴う生徒同士の喧嘩でした。一度喧嘩が始まると暴力の応酬が止まらず、大きな怪我に繋がりかねなかったので、喧嘩を見かけるとすぐに私が仲裁に入り止めました。

日本の学校教育においても友人同士の喧嘩、先生の指導としての暴力などを私も当事者として目の当たりにしてきましたが、それと比べても暴力の頻度がかなり多いという印象を受けました。(他のボランティア仲間の学校でも暴力は多発しているとのことでした。)

当然個人差はあるものの、容易に暴力を振るってしまうことに繋がる要因の一つは、家庭内等での両親から受けた教育的側面の暴力ではないかと私は考えました。

それらの暴力が子どもたちの生命を脅かすものであればかなりの問題ですが、大小問わず習慣的な暴力がある家庭も少なくないと現地の人々の話からは伺えました。

私にとっては単純に子どもたちの怪我に繋がるリスクがあったことと、暴力の伴う教育の弊害に関してエッセイや本などで読んだことがあったため、問題視をしていました。赴任期間中で何か問題提起をし、行動に移すまでにはいたりませんでしたが、改めて教育における暴力の問題について考えさせられるきっかけとなりました。

3. その他の気づき学び

ボランティア活動をする一方で、卒業研究のテーマ以外の軸でもより深くウガンダを理解するために、かつ知識の幅を広げるためにも、ボランティア以外に以下のような調査も行いました。

3-1. 中国(人)に対する現地の人々の印象

ウガンダへ行く前、日本の国内メディアを中心にアフリカに対する中国の支援に関して多くの批判的な記事や文章を目にすることが多く、まるで現地の人々は中国の支援に対してあまりよく思っていないかのように書かれていました。

実際に現地に到着すると、中国のプレゼンスの大きさは至るところに感じられ、道路、空港などのインフラ整備や小売店、テレビ番組の内容など多岐にわたっていました写真5

写真5: チオピアで飛行機の乗り換え時に目撃した、中国政府系列の企業によって建設中のボレ国際空港の建物

その一方で、日本における報道で目の当たりしたアフリカ大陸における中国の活動に対する一方的な中国批判については本当かどうか疑念を感じ始めました。

それで、現地で中国、中国人の印象について簡単なヒアリングをしてみました。具体的に質問項目を用意したという訳ではなく、日常会話の中でボランティア先の人々や相乗りタクシーで乗り合わせた人と気兼ねない会話をする中で尋ねていました。

その結果は、どの方々も中国の支援はウェルカムという感じであり、中国人に対する印象についても悪くないという回答がほとんどでした。理由としてはインフラ整備に伴い、現地雇用を生み出していることが大きな理由として挙げられることが多く、次に聞かれたのはお客として現地のお店等にお金を落としていってくれるという理由でした。

このように中国の経済協力へのポジティブな反応が聞かれたのとは反対に、インド(人)に対する現地の人々の印象はあまり良くありませんでした。その理由としては現地雇用を生み出さず、インド人だけでビジネスを完結させて利益を生み出しているという点に不満を抱いているようでした。

統計学的に意味のある調査をした訳ではないので、強いエビデンスにはなりませんが、日本や他の地域でメディアを介して得られる情報と現地で得られる生の情報では異なっている点があると実感することができました。

3-2. 現地の生活を支える産業構造について

現地に到着して以降、ウガンダの人々の生活を支えているモノはどこの国の資本が多いのか気になり、見かけるたびにメモをして下記の通りまとめておりました(表1)。


表1: 乗用車・IT関連サービス等の主要企業と資本国(2017年当時、筆者メモから抜粋)

シェア等は把握しきれませんでしたが、特に製造業やIT技術といった製品分野は海外企業に依存している印象を受けました。

さらに、走っている自動車の8割〜9割ぐらいは、日本車という印象を受けました。しかし、その大半は中古車であり、メンテナンスも最小限であったため、ショックアブソーバ等が機能せず、乗り心地はそれほど良くなかったです。

また、ガソリン等の資源関連はアメリカ、オランダ、ロシアといった世界中で高いシェアを誇る企業が占めており、ウガンダでの石油採掘プロジェクトもフランス資本のトタルが中心に担っているという状況でした写真6

写真6: 現地のガソリンスタンド

一方で、飲料メーカーや銀行部門では現地の企業のシェアも高い印象を受け、産業によってはアフリカ地域内やウガンダ国内の企業が力を見せていますが、海外勢力のプレゼンスが経済においてかなり強い印象を受けました。

ここで示した内容は調べたうちの一部ですが、何気なく生活している中でも疑問や興味を持って行動する姿勢は新しい学びに繋がることがわかり、非常に有益だったと思います。この時の習慣が今でも自分の中に根付いていて、仕事で役立っています。

4. むすびに

ここまで読んで頂いてありがとうございました。せっかくアフリカに行けるチャンスを得ることができたので、ボランティア内外でも色々チャレンジすることができました。

一点残念だったのが、渡航期間の途中で咳により体調を崩し、現地の病院で処方された薬で薬疹となったことがきっかけで途中帰国せざるを得なくなったことです。処方された薬の量が、日本で処方されるよりもかなり多かったことが後に判明したため、その辺りの確認も慎重にするべきだったと考えております。

そのため、志半ばでボランティア活動や論文に関わる調査も切り上げることになってしまい、少々悔いが残る結果となってしまいました。結果、体調不良も薬疹も大事に至ることはなく、熱帯病に詳しい医師をご紹介頂くなど大石先生や他のアフリカ地域専攻同期には大変助けてもらいました。改めてありがとうございました。

卒業論文に関しては上記した通り、「元女性兵士の社会復帰」をテーマに設定して執筆しました。目指していた内容・質には至らなかったかもしれませんが、ウガンダ現地で得られた書籍等の情報も交えながら自信を持って書き切ったと思います。

このウガンダでの経験を元に私の進路は大きく変更し、自動車業界に就職することになりました。国際協力の分野ではなくメーカーを進路として選んだ理由は、当時の能力では現地の問題解決に貢献できる能力や経験が足りないことから、まずは何かに貢献できる人材になるまで社会で揉まれてこようと思ったからです。

前節で記したように、日本の産業界の中では、自動車製造の軸からであればウガンダや他アフリカ諸国のビジネスに関われる可能性が十分にあるだろうと思ったのも、この業界を決断する要因となりました。

しかし、現在就職から1年半を迎える段階で退職をし、イギリスの大学院のビジネススクールに入学することになりました。理由は長くなるので割愛しますが、こうした決断力や行動力にも当時の思い切ったチャレンジ精神が繋がっていると信じています。

最終更新:2020年9月5日