「ルワンダ留学のたいへんざっくりとしたまとめ」
飯野真子(アフリカ地域専攻、2016年入学)
日本に帰国して、3ヶ月あまりが経ちました。ここ東京で送る大学生活が、ルワンダ渡航前に感じていたよりはるかにせわしなく、余裕がないように感じています。帰国前まで、東京が恋しいとずっと考えていたのが不思議なほどです。
一年間東京の実家を離れて「留学生活」がしてみたい、というのは、大げさに聞こえるかもしれませんが、中学生の頃から思い描いていた夢でした。日常から遠く離れ、海外の価値観や文化に直に触れながら学ぶことにずっと憧れがありました。
残念ながら高校在学中の留学はかなわず、国際協力への興味と、とにかく留学に行きたいという思いから、東京外国語大学に進学しました。大学入学時から漠然と、先輩たちもやっていて楽しそうだから、一年間休学してアフリカに行くんだ、と思っていました。
夢が叶い留学を終え帰国した今、留学生活を振り返る余裕もないくらいのスピードで時が流れているように感じます。
写真1:フイエの山の上からの景色。「千の丘の国」と呼ばれるルワンダはどこに行っても緑豊かで美しい。
ルワンダ・フイエでの新生活は、新しいことばかりで1日1日がとても刺激的でした。フイエは、首都のキガリから車で3時間ほどのところにある小さな街です(わたしに言わせればとても小さな街ですが、キガリに次ぐ人口の多さを誇る、第二の都市とも呼ばれているようです・・・)。東京では、欲しいと思ったものは家から出ずともすぐに手に入る、美味しいおやつもそこらじゅうにあるといった生活を送っていたため、他の日本人留学生たちと話してみてようやく、自分が超都会育ちでその生活をスタンダードと思うのはおかしい、と自覚しました。
フイエの大きな星空は今でもよく恋しく思います。停電するともともと少ない町あかりが消えるので、とりわけ多く星が見え、それを見上げながら「都会の暮らしが好きだけど、田舎で暮らすっていうのもなかなか良いな・・・」といつも考えていました。
写真2: フイエ街中の大聖堂付近の写真。
留学生活前半の5ヶ月間は、日本人留学生と二人暮らしをしていました。実家を離れて暮らしたことがない者同士、毎日片道40分歩いてマーケットに一緒に買い物に行き、一緒に試行錯誤しながらご飯を作って、「美味しいね美味しいね」と言いながら食べて、寝る直前までおもいおもいの時間を過ごし、共同生活ラスト二ヶ月は毎晩それぞれ下手なギターとウクレレを弾きながら好きに歌うという、振り返ると涙が出そうになるほど良い共同生活でした。生活しているうえでお互いいろいろ感じるところはありましたが(たぶん)、それでも振り返れば最高でした。
写真3: フイエ街中のマーケットの写真。食材や生活用品はここで、キニヤルワンダ語で値段交渉してから購入する。
また、その後帰国までの6ヶ月半ほどは大学付属の寮に入寮しました。狭すぎる生活空間(1部屋に3-4人でだいたい3-4畳くらい)で、アフリカ大陸各地から集結した皆(ルワンダ人2人、ブルンジ人2人、コンゴ人3人、マラウイ人1人、ナイジェリア人1人)と寝食をともにするというのは、何物にも変えがたい宝物のような経験でした。お互いを尊重しあいながらも、家族のように寄り添い合える、素敵な関係性の中で生活させてもらい本当に幸せでした(ごはんだけにはたいへん苦労しましたが・・・)。寮を離れた今、同じ屋根の下で過ごした皆のことを考えると、わたしも皆との日々を忘れずに、笑顔で、大切な人を大切に想いながら頑張ろうと思います。
写真4: ルワンダ人の友人の家に招待された時に出してくれた家庭のお料理。
写真5: 留学生の皆が寮で日本人留学生のためのお別れパーティーを開いてくれた時の写真。
わたしは、派遣留学という形でProtestant Institute of Art and Social Sciences(PIASS)の平和紛争研究学科で約1年間学ばせていただきました(詳しくは、前年に留学していた内田歩さんの記事をご覧ください)。ルワンダでの学びについて、正直にいえば、留学先で平和構築を学ぶということについて、特にこだわりのようなものはありませんでした。しかし、1994年のルワンダジェノサイドについて勉強すればするほど、わたしにとって「平和構築を学ぶ」ということが大切な意味を持つようになりました。
隣人どうしが殺し殺され、諸々のプロセスを経て和解するというのは到底信じられないことです。もし自分の家族が皆殺しにされたら、加害者のことをゆるすことすらできないだろう、と何度も考えました。しかし信じられないとは言っても、ウムチョニャンザの女性たちとともに活動させていただいたことをはじめとして、まさにジェノサイドの加害者と被害者が和解のプロセスにあるのを目撃する機会が幾度か与えられました。
ウムチョニャンザとは、1994年のジェノサイド後の和解を目的に、加害者を家族に持つ女性と被害者側の遺族である女性たちが一緒に、アフリカの布でブックカバーやカバンを作ったり、お花を植えたりといった活動をしているグループです(こちらについても詳しくは内田歩さんの記事をご覧ください)。お互いにしっかりと向き合い、対話をかさね、ともに同じ方向へ向かって歩んでゆく、その姿を見て、たいへん勇気をもらいました。
ウムチョニャンザの女性たちとともに5月に参列させてもらった、ジェノサイドのCommemoration Ceremony(追悼式典)は特別でした。そこでようやくジェノサイドが現実であったことを痛々しいほどに感じ、ゆるし・和解の尊さを知りました。もちろん和解というプロセスにたどり着けているのは当事者の方々のごく一部でしょうが、和解の「可能性」を目の当たりにできたことで視野が大きく広がりました。
写真6: ウムチョニャンザの皆さんと、Commemoration Ceremonyに参列させてもらった時の写真。
そもそもわたしがルワンダに興味を持ったきっかけは、デニ・ムクウェゲ医師の『女を修理する男』を観てコンゴ紛争及びDRコンゴとルワンダの関係性について勉強したことでした。その影響で、当初からルワンダについていちばん興味があったことは、1994年のジェノサイドが実際はフツ族とツチ族が双方向に殺戮し合った「ダブル・ジェノサイド」であったという説についてでした。
むろん「ダブル・ジェノサイド」という言葉がルワンダ国内で使用されるのは聞いたことはありませんし、残念ながら学生と個人的にこのことについて語り合うこともできませんでした(ぜひ話してみたかったのですが・・・)。しかし授業内で学生の幾人かからジェノサイド・イデオロギー法(フツ族はジェノサイドの加害者でツチ族は被害者であり、それ以外の真実は存在しないとし、RPF [ツチ族によって結成された旧反政府勢力であり現政権] の犯した戦争犯罪についての議論、批判を封じ込める法律)などについて貴重な意見を聞くことができたこと等はたいへん良い経験になりました。
また、課題として配布されたYuko OtakeさんのUnspeakabilityについての論文[1](政府勢力(ツチ族)がムサンゼでフツ族の大量虐殺を行い、それについて語ることを許されない人々についての論文)も衝撃的でとても印象深かったです。ジェノサイドから復興した奇跡の国、といえども、大きな課題が残されているということがもっと認知されても良いのではないでしょうか。本当の意味で自由にものを言える国になる日が早く来ることを、心から願っています。
[1] Otake, Y. (2019). Suffering of silenced people in northern Rwanda. Social Science and Medicine 222, 171-179.
写真7: 美しいキブ湖。対岸に見えるのはコンゴ民主共和国。
ルワンダでお世話になった佐々木和之先生ご夫妻、PIASSでともに学びともに生活した学生たち、先生方、ウムチョニャンザの女性たち、ピースインターナショナルの先生方と生徒たち、教会の皆さん、テイラーさんたち、そのほかいろいろな場面でわたしを支えてくださった方々のことを本当に恋しく思っています。
すぐ卒業してルワンダを離れてしまう学生などとまたいつ会えるかわからないのが辛い、とこぼしたところ、ある学生が「わたしたちは皆citizens of the world(世界市民)だから大丈夫だ」と言ってくれました。ルワンダで築いたつながりを今後も必ず大切にして、地球上のどこかで頑張り続けている皆に、感謝の気持ちを忘れず、関わり続けていければと思います。
写真8: PIASSの講義棟の前で、平和紛争研究学科1年生の皆と。
最終更新: 2019年1月6日