南アフリカを見つける、自分を見つめる

~動き回って、立ち止まって、一歩踏み出す二年間~

中村茉莉

アフリカ地域専攻、2016年度入学

はじめに

 みなさん、こんにちは! 東京外国語大学国際社会学部アフリカ地域専攻の中村茉莉です。

 私は在外公館派遣員という制度を利用して、2019年3月から二年間休学して在南アフリカ共和国日本国大使館で働いていました。今回は、私が二年間で経験したこと・感じたことを記すことで、皆さんが南アフリカに行くことや派遣員という仕事を考える際の一助になればと思い、簡単ではありますが、体験記を執筆しました。拙い文章ですが、お読み頂けると嬉しいです。

目次

1.在外公館派遣員という仕事

2.南アフリカという国

3.一年目:動き回る、アフリカを好きになる

4.二年目:立ち止まる、見つめ直す

5.これからのこと:離れられない国

地図1:南アフリカ共和国全体図。赤枠部分がプレトリア・ヨハネスブルグを有するハウテン(Gauteng)州(Google mapより筆者作成)

1.在外公館派遣員という仕事

まず、在外公館派遣員という制度について、ご説明します 。

これは、簡単にいうと、世界各国にある在外公館(=大使館・公使館や総領事館)で、派遣員として二年間働く、というものです(注1)。具体的に何をやるかというと、各大使館で業務は異なりますが、主には日本から出張者が来た際の空港での支援、会計・庶務等に係る書類の作成、広報活動の支援などです。在南アフリカ大使館での派遣員の業務は空港での支援と会計庶務業務が中心でした。

私は同じアフリカ地域専攻の先輩が派遣員の制度でアフリカに行っているということを知り、興味を持ちました。三年生になりたての当時の私は、アフリカ地域専攻に入ったのだからこの目で実際にアフリカを見たいという思いを持つ一方、具体的にどの国に行きたいか、何をしたいかがわかりませんでした。留学も考えたのですが、「留学して何を勉強したいのか?」という点を明確にできません。

そんな時にこの制度を知り、「二年間アフリカに滞在すれば、次に自分が何をやりたいのか、そのヒントを得られるのではないか」と考えるようになりました。また、大学を休学して、二年間働くという経験ができるということも魅力的でした(ちなみに、派遣員は大学在学中の人だけでなく、新卒の方、別の職業に就いていて転職という形で勤められる方など、いろいろな経歴の方がいらっしゃいます)。

そんな中で応募したところ、運よく合格でき、希望をアフリカ地域の英語圏の国で出していた中で南アフリカへの配属が決まりました(写真1)。

注1:より詳細な制度の内容は、派遣元の国際交流サービス協会のホームページ(http://www.ihcsa.or.jp/zaigaikoukan/hakenin-01/)を参照。

写真1:大使館のあるプレトリアの様子

2.南アフリカという国


「南アフリカ」と聞いて、みなさんが一番初めに思い浮かべるものは何でしょうか。ネルソン・マンデラ? アパルトヘイト? 喜望峰? ヨハネスブルグ?


人口5,778万人(2018年世銀)、面積は日本の約3.2倍の122万平方キロメートルの南アフリカは、私にとって、一言で表すと「温かい国」でした。道でも店でも、とにかく話しかけられる。路駐から出車しようとすると駐車場の兄ちゃんが話しかけてきて、なんか気に入ってくれたらしくバラの花をくれる。


道で「そのバッグかわいいね」と言われるから、「あなたの靴も素敵」と返す。スーパーのレジで突然「Happy Birth Day」の合唱が始まって、「どうしたの?」と聞くと、「この兄ちゃんの誕生日」、私も合唱に参加。私にとって、南アフリカは居心地の良い場所でした。


アジア人差別もあります(注2)。そして日本人は大抵中国人として認識されます。それでもやもやすること、悲しい気持ちになることもありました。それでも、コロナが流行し始めた時、「新型コロナウイルスはアジア発祥かもしれないけれど、それで差別するのはおかしいよね」と慰めてくれたコーヒーショップの店員さん(初対面だし、その一回きりしか会っていない)もいました。


あくまでも私の個人的な主観ではありますが、南アフリカでは人と人との壁が薄い、温かさが近い、そんな気がしました。

注2:南アフリカにおける日本人の処遇及び排斥に関する歴史については、例えば、山本めゆ2014「『中間性』の批判的検討―連邦期南アフリカにおける日本人とその待遇をめぐって」『フォーラム現代社会学』13: 5-17 を参照。

そして、天候の面でも暖かいです。とにかく晴れが多い! もちろん夏は暑いけれどムシムシはしておらず、最高気温も30度を少し超えるくらいです。冬も朝晩は一桁台まで冷え込むものの昼は20度弱まで気温が上がります。一年を通して過ごしやすい気候です。


一方で、暗い面もあります。何よりもまず治安。日本での南アフリカの治安の悪さのイメージは誇張されすぎかな(?)と思う面もありますが、やはり警戒して日々を過ごさなくてはならないのは事実です。犯罪多発地域の場所を覚えて、ここにはあまり立ち寄らない、通るときは常に前後左右に警戒しながら、など、二年間のうちに犯罪に対してすごく敏感になった気がします。カージャック、車上荒らし、強盗などが実際に起きている。大使館からは、邦人の方々に「基本的には歩かないでください」と呼び掛ける。それも南アフリカです。


また、社会問題としてよく取り上げられるのは格差です。様々な人びとの生活を格差という一言でくくってしまうことは乱暴ですが、南アフリカの、少なくとも私が住むハウテン州は、南アフリカの中心的な州であり、様々な人種・収入・文化の人びとが混じり合う場所であると同時に、生活の不平等さが鮮明に現れる光景が常にそこにありました。高級ブランドで溢れるモールや一流ホテルが立ち並び、南アフリカ屈指のリッチシティともいうべきサントンという街と、トタン屋根のバロックが並ぶアレクサンドラというタウンシップ(旧黒人居住区)は高速道路を隔てて隣接しています(地図2; 注3)。

注3: サントンとアレクサンドラの対比を撮影した写真は、https://unequalscenes.com/alexandra-sandtonを参照。

他方、私は大使館員というある程度保証された身分を頂いて生活していました。それは、警備の行き届いた家で、生活に困らないお給料を頂いて生きる、ということです。私も南アフリカにおける格差や不平等を生み出す歯車の一つになっている、それもまた事実です。このことは、後述しますが私の今後の研究課題を見つけるきっかけの一つにもなりました。

地図2:プレトリア・ヨハネスブルグ近郊図。星印は筆者が定期的に通っていたマーケットや店が並ぶ通り(Google mapより筆者作成)

写真2:ヨハネスブルグ中心街・CBD(Central Business District)の様子

3.一年目:動き回る、アフリカを好きになる

私の任期中の生活についてお話しようと思います。

まず、一年目。とにかく仕事を覚えることに必死でした。前任者の方からの引き継ぎ期間は一週間。それが終わったらもう独り立ちです。英語で仕事のやり取りをすること、会計のこと、外務省ならではの用語、そもそも働くということ。全てが初めてで、あっという間に一日が終わってしまいます。

それでも、周囲の方々、日本人の外交官の方々・現地の職員の方々、皆さん本当に優しく、明るい方ばかりで、たくさん助けてもらいながら、何とか日々乗り越えることができました。また、様々な機会を与えて頂き、ネルソン・マンデラ財団の定期講演会や喜望峰を有するケープタウン、東インド洋に面した海の街・ダーバンへの出張なども経験しました(写真3)。

写真3:ケープタウン出張の際にケープタウン派遣員と

プライベートでは、とにかく動き回りました。外大ではチアリーディング部RAMSに所属していたので、その経験を活かせればと思い、近所のプレトリア大学のチアリーディングチームに参加させてもらい、気が付いたら全国大会にも出場させてもらいました(写真4:笑)。

写真4:プレトリア大学のチアリーディングチームに参加

また、週末は車を走らせて、ヨハネスブルグの様々な通りを散策しました。南アフリカは高速道路がよく整備されており、主要な州間・都市間をつないでいます。私の住んでいたプレトリアからヨハネスブルグまでは、目的地にもよりますが車で30~40分ほどです。先ほど治安の問題についてお話しましたが、比較的安全で、路面店が立ち並ぶような通りもいくつかあり、そこでショッピングやランチをして楽しめます。

また、休日は至るところでマーケットが開催されています。いろんな人種の人びとで賑わい、生演奏がそこかしこで行われ、雑貨や古着の宝庫。私はすぐにヨハネスブルグが好きになりました。後述しますが、このヨハネスブルグ通いも、結果的には私の研究テーマと結びつきました。

写真5:ヨハネスブルグのマーケットにて

写真6:ヨハネスブルグにあるアパルトヘイトミュージアム(https://www.apartheidmuseum.org/)の入口。アパルトヘイトを追体験する目的で、白人/非白人に分けられている。チケットによってランダムにどちらかに振り分けられる

そして、一年目はアフリカ各国に留学している同期を訪ねに、セネガル、ルワンダ、タンザニア、モロッコと旅行に行きまくりました(写真7)。派遣員は週休2日で、ほかに有給休暇が年20日付与されます。また、南アフリカの祝日と日本の祝日の一部は大使館全体がお休みです。これらの有給と祝日を駆使して、飛び回っていました。

私にとってこれらの旅行は、新しい国・新しい文化と出会えるということと同時に、大好きな同期たちに会って、「みんなも同じ大陸の上で、それぞれの場所で頑張っているんだ、私も頑張ろう!」と思える、エネルギーチャージの旅でもありました。

写真7:セネガルでアフリカ専攻の同期たちと

同じアフリカ大陸に所属していても、国によって、文化も人びとも生活もまったく違います。例えば、主食であるトウモロコシ粉から作る白いおもちのような料理―南アフリカではこれを「パップ(pap)」と呼びます―の呼び方も「シマ(nshima)」(ザンビア)「ウガリ(Ugali)」(ルワンダ・タンザニア)など様々で、味や食感も少しずつ違います。また、アフリカの有名なものの一つでもあるカラフルな布たちの呼び方も、「シュエシュエ(shweshwe)」(南アフリカ)「キテンゲ(igitenge)」(ルワンダ)など異なり、柄や色合いも各国それぞれです。

現地では、同期たちに案内してもらい、いろんな景色を見せてもらいました。このままではただの旅行記になってしまうので割愛しますが(笑)、セネガルの海を横切る牛たち、ルワンダの丘の夜景、タンザニアの威勢のいい声が飛び交う魚市場、モロッコの迷宮のような市場、これらはみんなに連れて行ってもらったからこそ見られたのだと思います。また、これ以外にもナミビア、ポルトガル、メキシコと、とにかく旅行三昧の一年でした。

4.二年目:立ち止まる、見つめ直す

二年目に差し掛かろうとしている2020年3月5日、南アフリカでコロナウイルスの最初の感染者が出ました。発覚後の南アフリカ政府の対応は迅速だったと言ってよいと思います。感染者数が50人を超えた3月15日には「National State of Disaster」が宣言され、地域内感染が確認されたのは3月17日、その約1週間後の3月23日にはロックダウンの実施が発表されました。そして、宣言から4日後の3月27日、ロックダウンが開始されました。

このロックダウンは、食料品等生活必需品の購入、医療サービスの受診、およびエッセンシャルワーク(医療従事者や食料品店の店員等)以外の外出を禁止する、かなり厳しいものでした。その後少しずつロックダウンのレベルを下げていくという方針になり、通常業務の再開や国内旅行解禁、酒類販売解禁、国際線解禁、飲食店のイートイン解禁等が段階的に進められました。2020年末の第二波の影響で一時は規制が強化されたものの、それも落ち着き、2021年3月末現在では、「ロックダウンレベル1」として、マスク着用の義務化や集会の人数制限、夜間外出禁止令などの一部規則は残っているものの、通常の生活に戻りつつあります。

詳しい政府の政策等を説明する紙幅はありませんが、印象的だったのは、一つ一つの対策に関するラマポ―ザ大統領のスピーチです。大きな発表は、必ず大統領の発表と関係閣僚からの説明があり、テレビやインターネットで中継されました。大統領の国民に語りかける力強い言葉は、南アフリカ国民ではない私の所感ではありますが、リーダーシップを感じました。

コロナ、そしてロックダウンによって、派遣員の仕事も大きく変わりました。まず、当初のハードロックダウン下においては原則テレワークとなりました。平日も休日も家から一歩も出ない生活。それは、これまで、派遣員として赴任する以前から常に動き回っていた自分にとって、初めての経験でした。最初はまあなんとかなるだろうと思っていましたが、実際に家の中に引き籠っているというのは、精神的にかなり難しい日々でした。

特に、一人暮らしで、誰かと話す機会もなくなったことは大きかったです。それでも、日本にいる友達とテレビ電話をしたり、今まであまりできていなかった読書をすることで、気を紛らわしていました。そして、家に篭るという生活を通して、必然的に自分を見つめ直すことにもなりました。私は何のために二年間派遣員として働くことにしたのか? 私は南アフリカでの日々の中で何を得たのか? それは、ずっと動き続けていた私にとって、一度立ち止まって振り返る良い機会であったと、今なら感じます。

それと同時に、ASCセミナーで南アフリカのコロナの状況についてお話する機会やそれを発展させた形での論文を執筆する機会を頂き(注4)、南アフリカのコロナ政策と人びとの生活の変化を研究するという経験もできました。その中で、フィールドワークはできなかったものの、報道等を通して南アフリカの人びとがロックダウン下でどのように日々を生き抜いているのか、家の中で閉じこもっているだけでは「見えないもの」を見ようと外に目を開き続けることを意識することに努めました。

注4:2020年6月5日に、オンラインでおこなわれた第50回ASCセミナー「コロナ禍とアフリカ」。開催報告はこちらから読めます:http://www.tufs.ac.jp/asc/activities/ascseminar/ASCSeminar50report.html

ゴミの回収・分別を生業としているウエストピッカーと呼ばれている人たちが、規則に従っているにも関わらず、不当に取り締まられるという問題。営業停止を余儀なくされたレストランが、自らの技術と設備をスープキッチンとしてコミュニティへの食糧配給に役立てようとする取り組み。これらは、セミナー・論文執筆に際し詳しく調査することによって知ることが出来たことであり、南アフリカを表面的にではなく、深く学ぶスタート地点となりました。

また、アメリカに端を発したBlack Lives Matter運動が南アフリカにも波及した際には、私の南アフリカ人の友達も、南アフリカでの警察による暴力の問題、そして、アパルトヘイト撤廃から25年の今なおところどころで見られる人種差別的な制度の問題をSNS等でシェアし、 私自身も改めて人種差別という問題の歴史とその先にある今を学ばなくてはならないと考えるきっかけとなりました。

段階的にロックダウンが引き下げられていったあとは、前年はあまりできなかった国内旅行をしました。西海岸を10日間かけてロードトリップをして、海、山、花畑、星空、様々な自然の美しさに出会いました。「南アフリカにはなんでもあるんだ、全部あるんだ」と言っていた、現地の同僚の言葉が思い出されます。

写真8:ロードトリップで立ち寄ったナマクワランドの花畑

仕事でも、ロックダウン中の邦人の日本退避の支援など、これまでとは違う経験をしました。ロックダウンという制約の中でどのように職務を遂行していくか、このタイミングで自分は何ができるのか、非常時だからこそ自分でやるべきことを見つけなくてはなりません。もっとできたことがあったのではないかという反省もありますが、それでも、一年目よりは自分で考えて能動的に動くこと、少なくともその必要性に気付けたコロナ禍でもありました。

5.これからのこと:離れられない国

この体験記を執筆している今(2021年4月6日)、私は海外からの帰国者の14日間の隔離中なのですが、まだ南アフリカを離れたという実感が湧きません。ここに書いてきたことはほんの一部で、楽しかった思い出・感じたこと・考えたこと、それら全てをまとめようとしたら一冊の本になってしまうのではないかというほど、この二年間は濃く、大きなものでした。

離任の直前、いろんな人とお別れをする中で、よく聞かれたことがあります。

「この二年間で得たことは? よかったことは?」

私も離任直前から二週間余り、何度も自分に問い続けました。

何か国かあった「英語圏のアフリカの国」から配属された南アフリカ。私は自ら選ばず、選ばれるという何とも人任せな経緯でこの国に派遣されました。けれど、帰国した今、私は本当に本当に南アフリカでよかった、と心から思っています。

「具体的にどこが?」と問われるとそれらは細かすぎて羅列していたらきりがないのですが、その答えの一つは、「次のやりたいことを見つけたから」です。アフリカに行ってみたいけれど、何をしたいのかはよくわからない。そんな二年前の自分に、「ちゃんと私は見つけたよ」と言ってあげたいです。

これまでも触れてきましたが、私はヨハネスブルグに行くのが大好きで、けれど何度も通ううち、そこにある都市の構造に違和感を覚えました。ヒップな人たちで賑わう、ショッピングやマーケットストリートは、しかしながら一本別の通りに入ると雰囲気ががらっと変わる、ということが往々にしてあります。開発の進み高級化する通りとそうでない通りが入り混じる。それはつまり、誰もが開発の恩恵にあやかれていない、さらには開発によって高級化した場所にそれまで住んでいた人が住めなくなっていく、ということを意味しています。

私が楽しんでいる場所は、けれど同時に人びとの生活を搾取している場所、人びとを排除する場所でもあるのではないか。そのような疑問にぶつかり、もっと研究したい、そこから生まれる問題を分析して、その場に存在するすべての人びとが経済的・人種的理由などで排除されることなく、混じり合いながら共存していく道を模索したい、と考えるようになりました。また、公用語が11個 あり(注5)、様々な肌の色の人びとが住み、アパルトヘイトという人種差別的制度が支配していた南アフリカという国で暮らすことを通して、人種差別という問題の根深さを痛感しました。

注5:南アフリカの公用11言語は、英語、アフリカーンス語(Africaans)、ズールー語(isiZulu)、コサ語(isiXhosa)、北ソト語(Sesotho sa Leboa)、ソト語(Sesotho)、ツワナ語(Setswana)、ンデベレ語(isNdebele)、スワティ語(siSwati)、ヴェンダ語(Tshivenda)、ツォンガ語(Xitsonga)。

制度上は廃止された差別的ルールが、経済的な面、人と人との交流の面など、あらゆる側面で潜在的に継続していることを肌で感じます。これは前述した開発と排除の問題にも深く絡んでおり、この人種差別の歴史と今を紐解いていかなくては、外国人である私が南アフリカの研究を進めていくことはできません。けれど、外国人だからこそ、これら感じた違和感にまっすぐ向き合い、自分なりの視点で研究を進めていくことに意義があるのではないかとも思っています。

南アフリカでの出会い、経験、日々の生活の営みを通して、私は「やりたいこと」にぶつかりました。また、二年間働いたからこそ、自分の勉強不足を実感し、学業に戻りたいと考えるきっかけになりました。派遣員の経験は、私に新たな一歩をもたらしてくれました。これはあくまでも私の個人的な話に過ぎませんが、みなさんも新しい経験に飛び込むことで、得られるものがきっとあるはずです。この体験談が、挑戦への小さな後押しになれば幸いです。

最終更新:2021年4月16日