仕事人として、旅人として

アフリカに渡る

在外公館派遣員としての勤務と大陸縦断旅の記録


by 赤尾建祐

アフリカ地域専攻、2020年度入学

1.はじめに

皆さんこんにちは。私は2021年9月から2023年の9月の2年間の休学期間中に、エチオピアとナミビアの2か国の日本国大使館の在外公館派遣員として合計1年半勤務した後、3か月間アフリカ大陸11か国を旅行しておりました(写真1)。今回は、私のアフリカでの派遣員としての生活や、その後の旅行について書き記させていただきます。今後アフリカに渡航を予定されている方、アフリカに関心をお持ちの方に少しでも参考になれば幸いです。

写真1: エチオピア、ティグレ州に所在するアブレハ・アツベヘ教会の壁画

2.在外公館派遣員を志した理由

私がアフリカに滞在する最初の要因となった在外公館派遣員を志した背景については、当時大流行していた新型コロナウイルスが大きく影響していました。留学などの手段で長期間の海外(特にアフリカ)への渡航を夢見ていた私でしたが、入学した2020年当時は世界中がパンデミックによる混乱状態にあり、特別な事情でもない限り留学はおろか国を出る事すら許されない状況下にありました。

1年経ってもさほど変わらなかった現状に、「ひょっとすると海外に行けずに卒業することになるのでは」と焦りを感じていた私は、何とかこの状況下でも海外に出る方法はないかと探していた際に、私の1学年上の先輩がプレトリアの日本大使館で働くために渡航するという話を聞き、すぐに「これだ」と思い派遣員を志しました。

また、派遣員は、在外公館に派遣される派遣社員のような職業(注1)であるため、給与や各種手当が支給される上、外務省の管理下にあるため、外交官と同様のレベルで身の安全が保障されるなど、海外居住や社会人としての経験を養うという観点では非常に魅力的な制度だったことが派遣員への応募を更に後押ししました。

注1: 派遣員とは「各国大使館や総領事館等の在外公館に原則2年間、語学力を活用した様々な業務の支援(公用出張者来訪時の空港における作業やホテルの予約及び会計、文書作成や対外的な折衝への立ち合いなど)、館務事務補佐などの実務(参照)」を行う職業である。

一般社団法人国際交流サービス協会公式ウェブサイト  URL:https://www.ihcsa.or.jp/zaigaikoukan/hakenin-01/ 

3.派遣員としてのアフリカ滞在

3-1.エチオピアでの滞在

このような経緯を経て派遣員に応募した私は、無事に最初の赴任先である在エチオピア日本国大使館への配属が決定し、2021年9月に出発。首都アディスアベバの空港を利用したことがある方なら共感していただけるかと思いますが、到着した瞬間に感じる、夏場に急に雨が降った際に感じるアスファルトの匂いと排気ガスが混じったようなあの独特の匂いとじめじめした気候の感覚は今でも記憶に残るほど印象深かったです。

エチオピア(正式名称はエチオピア連邦共和国)は、大陸北東部、いわゆる「アフリカの角」の根本部分にある国で、アフリカで唯一植民地化されていない国として固有かつ豊かな文化が根強く残っている国です。独自の暦や宗教(キリスト教に沿ってエチオピアで発展していった「エチオピア正教会」)の存在や、コーヒーの原産国として有名なだけあり、独特な香をたきながらゆっくりとコーヒーを味わう「コーヒーセレモニー」(日本の茶会に近い印象)などの習慣、食文化(人によって好き嫌いがはっきり分かれる「インジェラ」や「Tera Siga」と言われる牛の生肉(写真2)など)を有している魅惑の国です。

写真2: Tera Sigaとインジェラ。肉に激辛ソースをつけて、インジェラと共に食べる。

そんなエチオピアでの生活は順応するまでが少々大変でした。「大使館職員が住む」という基準であるはずの家が、常に水漏れやアリの大量発生に悩まされ、毎日車線の種類が変わる穴と渋滞だらけの道を20~30分ほどかけて通勤し、衛生面の関係で赴任者はどれほど気を付けても必ず到着後すぐにお腹を下すというインドのような話を聞きながら案の定体調を壊す怒涛の赴任直後の1週間を過ごしましたが、人間の体は不思議と慣れてくるもので、2週間目には通常運転に戻っていました。

日常生活における食品や日用品の調達については、基本他国の外交団も利用している輸入品スーパー(中華系の調味料や食品、シリアルなどあらゆる物資が手に入る唯一の店)か、現地職員も利用している現地スーパー(生鮮食品系は大体揃う)、道路沿いに何店も連なっている日本のコンビニのような出店(野菜から飲料品、洗剤なども揃う割と便利な店)から調達するのが主な手段でした。初めの段階では心配から食品についてはすべて輸入品スーパーから調達していることが多かったものの、やはり値段がかなり高かったこともあり、次第に買える物はその辺で調達するという生活になっていき、火を通せば問題ないという発想のもと、野菜などもその辺の出店で買っていました(ちなみに野菜の値段には輸入品スーパーと道沿いの出店では2~3倍ほどの差があったと記憶しています)。おかげで、エチオピアの公用語であるアムハラ語の基礎をほんの少し習得する機会にもなりました。

エチオピアでは基本的に館員の移動(フライトの手配や空港までの配車等)や出張者の乗継・滞在支援(空港送迎や滞在先確保、市内の案内等)など、主にロジスティクスに関する仕事を多く担当していました。というのも、アディスアベバは日本からアフリカに渡航をする際の重要な中継点の一つになっていたため、コロナ禍で移動に制限があった状態下でも必然的に外交関係者や一部日系企業関係者が集まり、ある程度忙しい状況でした。

というような具合でエチオピアでの生活にも慣れ始めた頃に、早くも私にとって休学期間中で最も印象深い出来事が起こりました。渡航してまだ2ヶ月ほどしか経過していない時期に、突如内戦の影響で緊急退避帰国を命じられてしまいました。当時首都で生活している中でその実感は全くありませんでしたが、エチオピアでは連邦政府と敵対勢力(TPLF:ティグレ人民解放戦線)との間で2020年11月から北部で武力衝突が起きていたのです(注2)。

注2: エチオピアの内戦の要因・内容については複雑であるため、今回は割愛させていただきます。詳細について関心がある方は、以下のリンクから現代アフリカ地域研究センターウェブサイトの「今日のアフリカ」コーナーに掲載されている時事解説を参照ください。


URL: https://www.tufs.ac.jp/asc/information/post-718.html 

URL: https://www.tufs.ac.jp/asc/information/post-805.html 

その内戦が激化し、2021年10月ごろからTPLF側が優勢になり、10月後半にはTPLFが首都から北に200キロメートルの位置まで南下する事態に陥り、アディスアベバでの戦闘が起きることが懸念されるような状況になっていました。

この状況を受けて(加えて同年9月のアフガニスタン退避時の事例も背景にあったかと思いますが)、当初は想定されていなかったはずの退避でしたが、11月になったばかりのある日に突如外務省本省から翌日に国外退避するよう命令が下されました。

以降、私は自身の帰国準備に加えて、国外退避をする大使館職員とその家族分の航空券手配や、本省から容赦なく依頼される諸々業務を限られた時間内に終わらせるという、これまでの人生で最も忙しく感じた時間を過ごしました。

その後、無事日本に帰国し、引き続き日本から遠隔で業務に携わっていたものの、戦況は改善せず、エチオピアへの渡航に関する外務省基準の危険度が長い期間下がらなかったことに加えて、雇用契約の関係も相まって、最終的に派遣員としてエチオピアに戻ることは叶わず、エチオピアでの派遣員生活はあっさりと終わってしまいました。

3-2.ナミビアでの滞在

在エチオピア大使館派遣員としての役目が正式に終了したのが2022年の11月でしたが、代替として別の公館に勤務することが提案されたことで、派遣員としての勤務はその後も続きました。次に配属(自身で選択できたのですが)された国は、エチオピアとは東西南北真逆に位置するナミビアという国で、2022年2月に出発しました。

ナミビア(正式名称はナミビア共和国)は、南部アフリカの西側、大西洋沿岸に位置する国で、建国から34年(2024年時点: ナミビアは1990年に隣国南アフリカ共和国から独立)しか経っていないという、アフリカの中でも比較的新しい国です。

南アフリカから独立したという経緯もあり、現在でもナミビアは南アフリカの影響を多く受けています。一つ例を挙げると、ナミビアの通貨であるナミビアドルは、南アフリカの通貨であるランドと1:1の固定されたレートで取引されている上に、ナミビアではランドもナミビアドルと同様に使用できるという特徴があります(ただし、逆にナミビアドルは南アフリカでは使用できないので注意が必要です)。

また、ナミビアは人口支持力の小さい砂漠が国土の多くを占めており、世界で最も人口密度が低い国の一つという特徴もある一方で(編注)、この砂漠の景色を求めて多くの観光客が訪れる観光大国でもあります。加えて、牡蠣やロブスターなどの海鮮が獲れ、ドイツの植民地時代の影響を受けて非常に美味しいビールを生産しているなど、飲食においても魅力のある国です。

編注: ナミビアの人口が少ないことには、歴史的な背景もあることが知られています。ドイツによる植民地時代には、民族浄化が行われ、組織的にアフリカ人住民が殺害されて人口が急減しました。また、南アフリカの信託統治の時代にはアパルトヘイト政策が導入され、北部の狭い土地にアフリカ人が追いやられ、その他の大部分の土地を少数の白人が商業用農地として所有しています。そのため、現在でもいびつな人口分布状況になっています。

参考文献:水野一晴、永原陽子編(2016)『ナミビアを知るための53章』明石書店。

そんなナミビアでの生活は、エチオピアとは打って変わって非常に快適なものでした。というのも、空港を降りた瞬間から道路が非常にきれいに舗装されていることに驚いていたのですが、ナミビアの首都ウィントフックは、まるでヨーロッパのような街並みが広がっており、いわゆる「アフリカっぽさ」がほとんど感じられない風景でした(写真3; そのような風景も政府機関や外交団、有力企業関係者などが滞在する富裕層エリアに限られますが)。

こんな様子であるため、基本的に道路や電気、水道(パイプの破裂などは多発していたが)などのインフラ設備は良好、衛生面も基本的にしっかりしており、病院も日本ほどではないものの、非常に高い水準の医療を提供できる状態にありました。

写真3: ウィントフック市内の様子。手前にあるのが街のシンボルの一つであるChristukirche教会。

食品や日用品の調達についても、エチオピアと比較するとかなり容易で、日本のものとほとんど同じような現地スーパー(現地、外国資本の両方がある)がいくつもあり、肉や野菜、海鮮に加えて、醤油やワサビなども入手が可能でした。基本的にスーパー1つですべてが入手可能でしたが、中華街に足を運べば、調味料にとどまらず、「出前一丁(インスタントラーメン)」や「こくまろ(カレーのルー)」、「あきたこまち(中国産であるが)」などの日本食も調達可能です。

更に、大西洋沿いという地の利に加えて、発達したインフラに支えられた物流力のおかげもあり、刺身として食べられる生魚(サーモンやマグロなど)も調達可能という、非常に生活しやすい国でした。

ですが、大使館付きの職員として仕事をするとなると正直なところかなり大変だった印象です。本当であるかは定かではないですが、ナミビア人は周辺国の人たちからよく「Laziest people in Africa(アフリカいちの怠け者)」と揶揄されることが多いそうで、実際かなり動きが悪いです。特に政府機関はひどく、基本メールでやり取りを試みても返信がなく、電話に出ることもないので、仕方なく実際に顔を出しに行ってもお決まりの「すぐやる」の二つ返事だけでほとんど仕事が回りません。

個人的に極め付きでひどいと感じたのは、当時着任したての大使(大使館の長)が「信任状捧呈式(派遣先の任国の元首に対して自身の国の元首が記した信任状を提出する儀式)」に出席する際、前日にナミビア政府側の指示に従いながらリハーサルを行うのですが、このリハーサルが事前に共有されていた予定よりも6時間遅れることになり、加えて遅延に関する連絡もなかったため、ひたすらナミビア側からの指示を待たなければならないという状況になったことがありました。

この点はエチオピアでの勤務時と比較すると少し驚いた点で、エチオピアでも政府機関の動きの悪さ、仕事の遅さは目立ちましたが、エチオピア人は比較的勤勉な人たちが多かったため、リマインドや催促をすれば取り組んでくれることが多かったという印象でした。他方で、ナミビアではあまりしつこく詰めてしまうとプライドを逆撫ですることになってしまうのか、かえって逆効果になることもあったため、連絡の頻度も慎重に意識する必要がありました。

そんなナミビアでの生活において旅行や人々と交流していく中で感じたのが、あらゆる格差の存在でした。世界銀行によると、実はナミビアは、南アフリカに次いで世界で2番目に国民の経済格差が大きい国と言われています(注3)。

注3: 出典 The World Bank (2023) “The World bank in Namibia”. URL: https://www.worldbank.org/en/country/namibia/overview

経済格差については、ナミビアやアフリカ諸国に限らずどこでも存在するものではありますが、個人的にナミビアで見た格差はかなりインパクトがありました。かたや超豪邸に住み、農園を持ち、高級車を乗り回しながら非常にきれいなショッピングモールや世界的にも有名なホテルの施設で過ごしている人がいる一方で、街中で物乞いをして回ったり、いわゆる木で組み上げてビニールシートで屋根を補填したような家に住む人たちがいるという状況でした。

ウィンフックには、街の東西を行き来する「Sam Nujoma Drive」という大通りがあるのですが、この10キロメートルほどの道路を端から端まで走るだけでナミビア社会における格差の現状の一端を見ることができます。空港方面(東側)から走ると、まずはじめに大使館や豪華な飲食施設、私立学校や高級ホテルが立ち並ぶエリアを過ぎ、政府機関や商業施設が集中する街の中心部、少し西に抜けるとナミビアの中間層や労働者層の居住エリアを通ります。更に奥まで進むと区画整理もされていない難民キャンプのような状態の貧困者層の居住エリアへと抜けていきます。この景色の変化がたった10キロメートルという短い距離で起きること個人的にはかなり驚きでした。

また、ナミビアではそれまで自分が想像することのなかった少し変わった差別があったことも覚えています。いわゆる白人に対する差別です。ナミビアは、南アフリカによって管理されていた際にアパルトヘイトの影響も受けていたことから、富裕層の多くは白人であり、今もその影響が残っているのですが、この人種による格差解消のため非白人を優遇するような策が密かに採用されているようでした。

中でも興味深かったのは、旅行先でキャンプをした際に会った白人の農園保持者の話で、彼曰く、事業拡大のために新しく売りに出ていた土地を購入しようとした際に、オークション形式であったため自身がもう一方の購入希望者(黒人の方だったそうです)よりも多い金額を提示し、確実に購入できるように動いたにも関わらず、政府の介入があったため最終的に自身よりも低い金額を提示したもう一方の購入希望者に土地を購入する権利が与えられたそうです。このように、あまり表面化はしていないですが、白人に対する差別というあまり想像することができなかった現状も見ることができました。

4.縦断旅行:旅行者としてのアフリカ滞在

その後、諸々の事情により私はナミビアに配属されて1年後に派遣員を退職し、2023年3月に日本に帰国しました。帰国後、復学まで半年時間があることや、滞在経験のあったエチオピアやナミビア以外のアフリカも見てみたいという好奇心、そして「旅行者」という全く別の立場で訪れることで異なった視点の気づきがあるのではないかという期待のもと、長期間のアフリカ旅行に行くことを決めました。

2023年4月に再度アフリカへ渡航し、約3か月の期間で、エチオピア、ケニア、ウガンダ、ルワンダ、ブルンジ、タンザニア、マラウィ、ザンビア、ボツワナ、ナミビア、南アフリカの11か国を陸路のみで移動するという旅に出ました。旅の詳細について記すとあまりにも長くなってしまうため、各国の訪れた場所で最も印象に残った場所を皆さんに紹介していきたいと思います。

① エチオピア

なにかと縁があるエチオピア。幸いにも2023年11月に連邦政府とTPLFとの間で停戦合意が結ばれたので、今回の旅ではエチオピア滞在時から長らく行きたいと感じていた、エチオピア北東部、ジブチとエリトリアの国境付近にあるダナキル低地をメインに渡航しました(図1)。

図1: ダナキル低地、及びDallolの所在地(出典:vidiani、URL: http://www.vidiani.com/large-detailed-physical-map-of-ethiopia-with-all-roads-cities-and-airports/

中でも感動的だったのが、ダナキルの中に所在するアサアレ塩湖内にある「Dallol」という黄色や黄緑が映える色鮮やかな天然のプールを拝めたことでした(写真4)。その色彩は、付近の火山活動の影響で噴出する硫黄によるもののようです。また、付近に宿泊施設がないためハマデラという近くの村で文字通り野営して過ごしたのもかなり印象的でした。その後、縁があってティグレ州都メケレやその周辺の歴史遺産を訪問できたのは非常にラッキーでした(終戦後初めての外国人観光客だったようで、妙に周囲から注目されていたのも印象深いです)。

写真4: Dallolの硫黄プール

② ケニア

エチオピアから2日間のバス移動を経て訪れたケニアでしたが、到着した際に目の当たりにしたナイロビの中心街の近代都市具合に驚いたことを覚えています。ケニアで最も印象的であった訪問地は、ソマリアとの国境に少し近い、ケニア北東部に位置するインド洋沿岸のラム島という島です(図2; 写真5)。人口の9割がムスリムという7、8世紀のインド洋交易の影響が残る場所で、当時栄えた街並みが世界遺産に指定されており、島民はロブスター漁(現在は大半が中国への輸出用らしいです)などの漁業や、マンゴーやバナナなどトロピカルフルーツの栽培を行って生計を立てています。

写真5: 海から見たラム島の街並み

③ ウガンダ

個人的には、ジンジャという白ナイル川の始点にある町が印象的でした。流れが非常に急であるジンジャ付近のナイル川は世界有数のラフティングスポットとして有名で、世界中からラフティングをするために多くの観光客が訪れるそうです。私自身も記念にラフティングに挑戦してみましたが、ラフトの転覆位置が悪かったために危うく溺れかけたという思い出になりました。

④ ルワンダ

時間の関係で首都キガリのみの滞在となりましたが、個人的に関心があったキガリ虐殺記念館を訪問できました。1994年に発生したルワンダ大虐殺に関する展示がされており、虐殺の様子、被害者の証言や現在などについて知ることができ、実際に訪れたことで多くの学びがありました。

⑤ ブルンジ

世界で最も貧しい国の一つとされている国ではありましたが、非常に興味深い伝統と文化を有する国でした。旅行時はギショラという場所にある「Drum Sanctuary」を訪れ、17世紀に勃興したブルンジ王国時代から受け継がれている伝統的かつ神聖な太鼓のパフォーマンスを見ることができました(写真6)。この太鼓パフォーマンスはユネスコの無形文化遺産にも登録されており、重要な文化財として保存されています。

写真6: ギショラのドラムパフォーマーたち

⑥ タンザニア

今回の旅行で最も長く滞在した国となったタンザニアでは、これまでの人生で最も体力的に厳しい挑戦となったアフリカ大陸最高峰、キリマンジャロ登山をしてきました(写真7)。合計で6日間かけて標高差5895メートルを往復する登山で、高山病等の影響もあり四六時中消化不良などの体調不良が続いていましたが、気力で粘り、なんとか無事登頂を果たしました。頂上での絶景や爽快感は生涯残るものになったと思います。

写真7: キリマンジャロ山頂での登頂記念撮影

⑦ マラウィ

当初は訪れる予定はなかったマラウィですが、非常に記憶に残る国でした。中でも、ザンビアとの国境に位置する「Nyika National Park」は、壮大な高原地帯で、見渡す限り草原地帯という目を奪われる絶景が広がっていました。また、ここから見る夕日もかなりの絶景で、マラウィ国旗(図3)をそのまま現実に見ているかのような景色でした。

図3: マラウィ国旗。黒い帯は国民、 赤い帯は独立闘争で流された血、 緑の帯は豊かな国土、 太陽(昇る朝日)はアフリカ大陸の希望と自由の夜明けを表している。(出典:世界の国旗、URL: https://www.abysse.co.jp/flags/africa/malawi/

⑧ ザンビア

かの有名なヴィクトリアフォールズを訪れました。世界3大瀑布に数えられるヴィクトリアフォールズは、その地位にふさわしい迫力があり、まさに圧巻でした。周辺では落差111メートルのバンジージャンプや軽動力飛行機による遊覧飛行などのアクティビティも楽しむことができ、とにかく楽しい時間でした。

⑨ ボツワナ

時間の都合上訪れたのはチョベ国立公園という国立公園1か所だけでしたが、この公園が今回の旅の中でも上位にランクインするほど印象的な場所でした。陸と川の両方からサファリを行い、アフリカゾウ(写真8)をはじめ、ライオンやカバなど、アフリカを代表する動物たちを飽きるほど見ることができる動物天国でした。

写真8: チョべ国立公園では至近距離で像を見ることができる。

⑩ ナミビア

2度目の渡航となったナミビアですが、個人的に最も印象的だったのが、ソサスフレイというナミブ砂漠のど真ん中にある干上がった水溜まり跡です。5500万年前に誕生したとされ、世界最古の砂漠として知られるナミブ砂漠は、ナミビアの沿岸部全体を占める砂漠です。特にソサスフレイ周辺の砂漠の砂は赤砂であるため、その特性から朝日、夕日の時間帯では砂丘や砂漠全体がオレンジに染まる絶景を見ることができます(写真9)。

写真9: 早朝のソサスフレイ。日が差し込むことで、赤砂がオレンジ色に映える。

⑪ 南アフリカ

今回の旅においてアフリカ最後の目的地であった南アフリカでは、その発展具合に驚かされました。ナミビアから陸路でケープタウンまで移動したのですが、到着した際に目の前に広がる近代都市を見て呆気にとられた記憶が強く残っています。

南アフリカも時間があまりなかったため、ケープタウンのみの滞在でしたが、死ぬ気で登ったテーブルマウンテンが非常に印象に残っています。キリマンジャロに登頂したという成功体験から舐めてかかっていたら、テーブルマウンテン特有の急勾配にあっけなくやられ、かなりの疲労をためながら登ることになりました。ですが、頂上からの景色は、ケープタウンを一望できるまさしく絶景が広がっていました。

 

5. アフリカで過ごした時間で得たもの

派遣員として、また旅行者としてアフリカで過ごした2年間でしたが、あらゆるものを得ることができた非常に有意義なものであったように感じています。個人的には特に大きく分けて3つほどの重要な学び・習得したことがありました。

1つは、臨機応変さ、柔軟性が向上した点です。仕事においても旅行においても、急な変更や、予想すらしなかった出来事が起きるといったようなことをかなりの頻度で経験することが多く、それらに円滑に対処するためには常に打開策を模索し続ける必要があったからでした。

具体的に、旅行時の比較的軽度のものであれば、ルワンダからブルンジに越境した際にバスの遅延により深夜2時に土地勘が全くない新しい国にインターネット回線も頼れる人もいない中降ろされ困り果てたこともあれば、国境を渡るという話で乗ったバスがまさかの越境便では無かったことで、徒歩で1時間かけて国境を越えなければなかったこと、病院も無いような大自然の中で犬に噛まれたこと(アフリカではなく、同じ旅行の際に訪れたペルーでの話ですが)がありました。

派遣員時代に経験した重めのものであれば、上記でも紹介した唐突な国外退避命令や、ナミビアで勤務していた際に大使公邸で務めることになったタイ国籍の料理人さんの査証が当初の話と違ってナミビア側から付与されず、なんとかして不法滞在の状態になることを避けなければならなかったことなど、大小様々なハプニングに見舞われることがとにかく多かったです。

周りに助けられたことも多々ありましたが、自分の力でなんとかしなければならない事もあり、事あるごとに解決策を考えなければなかった環境下にあったため、それらに対処するための臨機応変さや柔軟性が大いに身に付きました。加えて、事前に対策を練るためにあらかじめ想定外を前もって予想する力も身に付いたように感じます。

2点目に、多くの人との出会いと人脈を得ることができました。派遣員として仕事をしていた際は、現地の政府関係者や、ホテルなどの経営者、日本から駐在員として派遣されている方々などと交流する機会が多く、通常であればなかなかつくることができない人脈を得ることができ、旅行中には、ローカルコミュニティや他の旅行者とのつながりも構築することができました。

いずれの場合も、出会った人たちの立場や視点ならではの情報や知識を教えてもらうことができました。例えば、相手が政府関係者であれば任国の情勢や動向などを、経営者であればその業界についての詳細、駐在員であればその方の企業や仕事内容について、さらには就職活動に向けたアドバイス、ローカルコミュニティの人たちや他の旅行者であれば、その土地の文化や風習、訪れるべき場所や移動手段など、ありとあらゆる情報を得ることができました。

これらの人脈から得た情報はとても有益でしたし、自身のキャリア等を考慮した際に、今後も何かしらの形で活きてくるものだと思います。

そして3点目が、「気負いしすぎない」という考え方です。日本で生活していると、なにかと時間に追われたり、突然将来への不安に襲われたりと、精神的に落ち着かないことが多々ありましたが、アフリカに渡り、アフリカのさまざまな国の人々と関わっていく中で、真面目に受け止めすぎないということや考えすぎないことを学びました。

もちろんアフリカに暮らす人々も「職がない」、「家族を養わないといけない」など私たちと同じような悩みや焦りを抱いてはいるものの、あまり気負いしていないのがとても印象的でした。彼らの中では、「まぁ、なんとかなる」というマインドがあるようで、追い詰めすぎてもしょうがないと考えているそうです(もちろん全員がそうであるわけではないですが、出会ってきた人達の多くがこのような感じでした)。

まさしく「ハクナマタタ(注4)」ですね。もちろん全面的に「ハクナマタタ」な状態になるわけにはいきませんが、自身も少しばかりそのような考え方を反映させて、気楽に生きることも必要であるように感じています。

注4: スワヒリ語において「心配ない」という意味。ディズニー映画の「ライオンキング」で聞いたことがある方もいるのではないでしょうか。

6.最後に

アフリカと聞くと、日本から遠く、あまり馴染みの少ない場所のように感じるかと思いますが、日本では得ることができないような多くの学びや発見、経験を期待できる非常に興味深い場所です。

私自身も、アフリカに関わった2年間で、今後の人生に大いに役立つであろう多くの学びや経験をすることができたように感じています。全く違う文化や価値観の人たちと仕事をすることや、自分の力に全面的に頼ること、不自由や不便が多い環境で生活し、それらにどのように対処するかを考えてみることなど、今振り返るととにかく知恵を最大限に駆使することが多かった時間だったように感じます。

「百聞は一見に如かず」という言葉があるように、特定の環境に実際に身を置くことで気づく事や学ぶことは大いにありますし、渡航前には想像もしなかったような出来事と出会うことで、結果的に大きく自身の力になるような事を吸収する機会にもなるかと思います。

長い文章となりましたが、お付き合いいただいありがとうございました。

最終更新:2024年4月1日