北ノルウェー留学雑記

第三国ノルウェーで見るアフリカンドリーム


by 森 麻里永

アフリカ地域専攻、2017年度入学

最初に正直に述べておくと、私は先生に頼まれてこの留学体験記を書くのが怖い。経験をことばにするのが、特に文字として残すのが怖い。生の体験という温かくてとろとろのチョコレートを、型に流し込んで冷やし固めてしまうような感覚がするからだ。


チョコならばそこで食やすくなって幸いかもしれないが、経験を文字にすると突然、それが私の唯一で真のバージョンの語りであるかのような様相を呈し、それ以降の自分自身をも縛ってしまう。しかし、これはただの雑記であって私の「最終版留学体験記」などではない。だから、これは月日が経てば編集しなければならない部分もおおいに出てくる日記と変わらないような雑記だということをまず記しておきたい。


さて、2019年8月から2020年8月まで私は北極圏ノルウェーにあるトロムソ大学-ノルウェー北極大学(Universitetet i Tromsø - Norges Arktiske Universitet、以下トロムソ大学:英語ホームページ)に派遣留学していた。ここでは、私の留学の様子とそこで考えたことなどを以下のような手順で書く。

目次

0. なぜ北ノルウェーに

1. 何をしていたかー学びと、光とゴハンを求めてー

 1.1. 授業

 1.2. 生活

 1.3. フィールドワーク

2. 第三国ノルウェーで見るアフリカンドリーム

3. 広がる・移る興味、変わるアイデンティティ、得た自由

0. なぜ北ノルウェーに

アフリカ地域専攻にいながらにして、なぜ留学先にノルウェーを選んだかから書こうと思う。いろんな分野の勉強をしている学生がいる総合大学が良い、日本からできるだけ遠いところが良い、机の上の勉強もちゃんとしたかったからアフリカの大学は先輩に聞く話では向かなそう…など色々後付けの理由はあったが、今振り返るに時期的な問題(派遣留学応募の締め切り時期が2年の外語祭の直前期であった)が一番大きかったと思う。


外語祭では語劇"AFRICA UNITED"の準備に大変切羽詰まっていて、その他インターンなども繁忙期でとにかく心に余裕がなく厭世的にもなっていた時期だった。夜な夜ないろんな大学のシラバスを見つつ、キャンパスがあるのがどんなところかネットで見ていた。トロムソをYoutube検索したとき、時間が止まったような北極圏の風景を見て、「一年間ここに逃げたい」と心のどこかで思った(写真1)。

写真1:極夜の昼間のやさしい空の色。こんな風景だった気がする 。

その感覚に辻褄を合わせようとするように、交換留学生は大学院の授業も取れるらしいとか、キャンパスは大きくて先生方も優しいらしいとか、いろんな情報を引っ張ってきては自分を安心させていた。極地で本当に人が暮らしているのか疑っていたが、留学の半年前にショートビジット(注1)でトロムソに行くと、そこには街があって人も動物も植物も、ちゃんと暮らしていた。

注1: 東京外大独自の「短期海外留学プログラム」のことで、夏学期と冬学期に、大学が指定する交流協定校実施のサマープログラム/ウィンタープログラムから希望先を選んで留学をする制度。詳しくは以下のページを参照: http://www.tufs.ac.jp/student/studyabroad/shortvisit/

1. 何をしていたかー学びと、光とゴハンを求めてー

当初色々と計画はあったが狂いに狂い結果的に、最初の7ヶ月は主に大学に通い、残りの6ヶ月はコロナ禍の毎日を生き延びつつフィールドワークをしていた(写真2)。

写真2:コロナ到来で普段の足であったバスがこのようになった。3月は大学から来る帰国勧告メールに怯えていてストレスフルだったが、北ノルウェーは人がそもそも少なく、シティセンター以外は閑散としているため息抜きに森歩きやスキーに行けたのは幸いだった。

1.1. 授業

大学では大学院の2つのコース(Master in Peace and Conflict TransformationとMaster in Visual Anthropology)にお邪魔していたのと、留学生のためのノルウェー語の授業を取っていた。受講した授業のリストと簡単な内容については下の通りだ。


各授業、大量の難解なリーディング課題が事前にあって、それまでの教育バックグラウンドや英語のレベルに関わらず、クラスの皆でヒィヒィ言っていた(クラスメイトについて補足すると、映像人類学コースの方は合計7名いて、協定のあるカメルーンからの3名以外出身地はバラバラだったが学部からストレートでマスター(大学院修士課程)に来た人や2つ目のマスターとして来た人がほとんどだった。平和構築コースの方は合計20名ほどで当時19歳の私から40代の人までいた。私たちの出身地域はバラバラでオセアニア以外の全地域から来ていた。学際的な分野ということもあり教育・仕事のバックグラウンドもそれぞれだった)。


教授陣は優しくて賢いため講義では難しいことも噛み砕いて解説してくれる。だからそれに頼ってリーディングをサボることも少なくなかった。授業は少なめ(大体1日1-2コマ)でそれ以外の時間の使い方は自由にできた。私は大体料理やリーディングに費やしていたが、もっと遊んでおけばよかった(特にその後コロナが到来したこともあり)という後悔が残っている。


学習・研究環境は、良い成果を出すためにいかによく休めるかに焦点があるような感じがして非常に人にやさしい。例えば、日本では院生室にしかない寝泊まりできそうな休憩室が学部生にもあったし、授業・シンポジウムなどでコーヒー休憩が多い。建築・内装の明るい色づかいは心を明るくしてくれた。学習のサポートや相談体制も整っていた。子どものいる学生や教員のために大学の保育園もある。また平和構築コースの方はかなりの資金力があるようだった(写真3)。

写真3:平和学研究所はキャンパス内に独立した建物をもつ。左端にあるのはガンディーの像。

<映像人類学コース>

  • Film in cross-cultural research

代表的な映像人類学作品をクラスメイトで分担して調べ、授業内プレゼンをし、そのあと皆で一緒に観てディスカッションするまでのプロセスを繰り返すことで映像制作の過程や映像の普及が異文化理解にどのように役立つのか検討した。映像人類学の基礎知識の習得に役立った。小さいシアタールームで行われるのが好きだったが睡魔が付きものでもある。


  • Visual Ethnography and Ways of Knowing

民族誌映画の制作に関わる議論(誰が、誰を、誰と、どんな問題意識で撮るか)の最前線の様子を学べた。現地志向(「よそ者」ではなく現地の人が制作過程において中心となる)は平和学にも映像人類学にも印象深く共通していることが分かった。


  • Nordic Eye Symposium

これは授業ではなく、トロムソに到着して早々にあったシンポジウムだ。主にノルディック諸国で活動している映像人類学者・民族誌映画家が集まり、幾度もコーヒーブレイクをはさみ長時間にわたる映像のスクリーニングとプレゼンテーションが数日間続いた。時差ぼけや新しい環境にくらくらしていた私は興味深く雄弁な映像の数々にぶん殴られたかのような衝撃を受け、民族誌映画の洗練を受けた。


<平和構築コース>

  • Development, Migration and Security

開発、人の移動、安全保障がどのように互いに関係しているのか、安全保障と開発の議論が人の移動や移民それ自体を脅威としているかを学んだ。自分のフィールドワークは移動した人を調査対象としていたが、当時の調査計画の姿勢の傲慢さ・危険さに気づく問題意識をここでもらった。というのは、私の当初の関心の中心は、ノルウェーにおいて「最も『社会統合』に失敗したグループと言われているソマリア出身者が、なぜそう言われるに至るのか、そしてヨーロッパのムスリム移民のイメージにもれずノルウェーで育ったソマリにも「過激化」の例があるがこれがどう起こっているのかだった。


しかし、この授業の先生が"Biopolitics of otherness"(その人の話す言語やアイデンティティなどの社会的特徴ではなく肌や髪の色などの生物学的特徴で他者性が判断されること。これは長年住んでいる移民や二世・三世などに不幸な状況を生み出す)と呼ぶものや、immigrantがcrimmigrant(crimeとimmigrantの合体語で、ただ移民であるという理由で潜在的な犯罪者とされる移民の意)とされつつある状況が制度レベルから日常レベルまで張り巡らされていて、これがどれだけそうした人々の尊厳や生活を制限しているかを学んだ。


ホスト社会が移民に対して使う「統合」の語やその裏にある前者の姿勢の権力性についても問題提起がされた。そのことで、彼らに出会いさえする前に私はソマリに対して「社会統合」ができていない、「過激化」の素因があるなどのイメージをすでに当たり前のものとしてもっていて、それに基づいてそこだけを見ようとするような調査を組み立てていたことに気づいた(このような私の先入観は後に触れるインフォーマントたちによって鮮やかに裏切られることになったが)。この授業の担当はバングラデシュ出身の社会学者の先生だった。


  • Culture, Conflict and Society

心理学、文化人類学がそれぞれどのように平和学に関係・貢献しているのかを学んだ。宗教、エスニシティと平和との関係についても検討した。皆で大量の論文を読み発表したのが印象的だった。主担当はエチオピア出身の文化人類学者の先生だった。


  • Methods in Social Research: An interdisciplinary approach

質的・量的社会調査法の方法論と実践的な方法についての授業で、ここでクラスメイトたちは修論の研究計画書のドラフトに取り組んでいた。担当はカナダ出身の社会学者の先生だった(写真4)。

写真4:授業風景

<ノルウェー語>


  • Norwegian A1

ノルウェー語のアルファベットから基本的な文法をさらった。


  • Norwegian B1

クラスメイトのレベルが高く私はダントツでビリだったが、ここでノルウェー語力が飛躍的に伸びてフィールドワークで使えるようになった。また、ほとんどのクラスメイトが学部生よりもマスター、PhD、ポスドク、トロムソ大学の外国人教員(マスター以上ではほぼ全てのプログラムにおいて教授言語が英語であるため外国人教員が多い)などだったが、経験豊富な彼らの話を聞くのは興味深かった。


自分の中の勝手な「研究者志望者」のイメージが壊れた(彼らにもリーディングやコースワークが気乗りせずサボりたいなどと思うことがあると分かった)し、ポスドクも自分と同じ人間であることを実感(彼らのプライベートの時間の過ごし方など研究以外の側面を見ることによって)することができた。

1.2. 生活

空が大好きな自分には、北極圏の忙しい(一日・一年を通して天気の移り変わりの激しい)空に身も心も翻弄される日々だった。留学が始まって間もない11月頃から一日中太陽の出ない極夜の時期が始まり、2ヶ月ほど続いて極夜が明けると、今度は日がぐんぐん伸びて、5月頃には太陽が一日中沈まない白夜の時期が来る(写真5, 6, 7, 8, 9)。

写真5:秋の昼過ぎ

写真6:極夜の1日の大半はこれかこれより暗い色

写真7:極夜の中で明るい方の真昼間

写真8:白夜の23時過ぎの私の部屋には強い西日が差していた

写真9:白夜の期間は北ノルウェーで農業ができる期間。24時間日光を浴びる野菜は文字通りぐんぐん育っていた。

極夜の晴れた日の昼間は最高に綺麗なのだが、その他は真っ暗な時間帯が多すぎて全体的な活動レベルが目に見えて下がり、頑張ることができなくなっていた。そのため本当に最低限のこと(食事、通学、洗濯など)だけやって良しとしていた。逆に白夜の時期は、太陽がずっと出ているのが嬉しくて夜にハイになって寝れなかったり、寝ても疲れが取れなかったりして別の苦労があるのだと学んだ。

しかし、低い太陽の降り注ぐ真夜中にハイキングに行けるのは最高だ。気候話は何時間でもできるが、まとめるならば、北極圏の空は独特で、雪に覆われた山と海と合わさって息が止まるほど綺麗な姿や、オーロラで空中が緑になって恐ろしい姿など色んな面を見せてくれて、見ていてとにかく飽きなかった。そして、太陽にどうしようもないくらい焦がれるようになった。これが、失って分かったありがたさというやつだろうか。

極地で生きてみて、私が必要だったのは光のほかに栄養だった(植物?)。身を保たせるためなのか、食べることへの執着がかなり強くなった。一食のカロリーは計算していないがかなり上がっていたと思うし、美味いものを食べるんだという気持ちも強くなった。寮暮らしで、物価が高いので自炊して基本的に日本食らしきものと私が「インターナショナルフード」と呼ぶ食事を食べていた(写真10, 11, 12)。

写真10:スカンジナビアのパンであんバター(右)

写真11:タコスと焼きおにぎりと卵とき汁。タコスはTaco Fridayといって毎週金曜に食べられるほどノルウェーに定着しているらしい。

写真12:大学にもって行ったある日のお弁当

共同のキッチンが広くて心地良くて、また近くのスーパーで手に入る限られた材料から自分の好みに合う品をつくり出すのに夢中になって、狂ったように料理し続けた。ここに何しに来たんだろう、と何度呟いたかわからない。友人たちを誘って料理して食べる会も時々やっていた。

また、食べ物の話で外せないのが”dumpster diving”(直訳:「ゴミ箱漁り」)だ。店員が帰るスーパーの閉店1時間後を狙ってゴミ箱のコンテナにダイブし、まだ食べれそうな食べ物を引きあげる。パン、野菜、果物、肉、お菓子…嬉しいものが次々と掘り出せる。正確には違法らしいが、皆目をつぶってくれているようだ。物価が高いノルウェーで、食費が浮くのは貧乏学生にありがたい(ダイビング中に中年夫婦と出くわしたこともあるから学生だけではないようだが)。

特に、ノルウェーの物価の高さに慣れていない留学生にはなおさらだ。おかげで、私はパンやバナナ、プラムなどはほとんど買わずに済んだ。友だちの中では食べ物だけにとどまらず家具を引きあげる強者もいた。コロナ以前までは、スーパーの廃棄食料を地元の市民活動グループが(正式に?)引き取り、参加者を集めて皆で好きなものを自由に料理し、食べて楽しむというイベントも頻繁にあった(写真13)。

写真13:パーティーが好きでない自分はこういうイベントの方が通いやすかった。

どうせだからノルウェーの小話もここで挟みたいと思う。私の文化人類学の好きなところの一つに、myth busterとしてのその一面がある。人びとが抱きがちな先入観や常識を、あっと言わせるほど鮮やかにうち破ってくれる。だから、ここでもノルウェーにまつわるmythを少し壊したい。


まず、ノルウェーに限らず北欧全般において「民主主義」「平等」「平和」などのイメージがあるのではないかと思う。別にノルウェーがそれにおいてダメダメなんだと言いたいわけではないが、私は何も考えずに「北」ノルウェーに留学したことで、そのイメージの裏側も見させられることになった。というのも、北ノルウェーという地域が、歴史的に周縁化されてきた場所であるからだ。


北ノルウェーは、地理的にはノルウェー・スウェーデン・フィンランド・ロシアにまたがる「ラップランド」と呼ばれる一帯の一部であり、「元々」は移動民である先住民のサーミの土地であった。世界の多くの国家とその領土内の先住民の関係は、ノルウェーにも当てはまる。サーミはノルウェー当局、キリスト教宣教師、人類学者などによって不当に扱われ、同化政策が進められた。


サーミの血を持つことが恥とされ、親が子にルーツを隠したことで自分の本当のルーツを知らない「失われた世代」なるものもある。トロムソで出会った私の親しい友人も、おばあさんのおじいさんがサーミであり、自分もサーミのルーツをもつことをつい最近発見した。現在も北ノルウェーには多くのサーミのルーツをもつ人が暮らすが、多くがサーミの文化や言語をあまり知らない。ごく少数の伝統的な暮らしを続ける人びとは、南の政策にひどい不平等を感じているようだ(注2)。

注2: 例えば、以下の記事のなかのトナカイ放牧をする少年の話を参照してほしい:朝日新聞GLOBE+記事「(ニューヨークタイムズ 世界の話)トナカイと生きる ノルウェー先住民の葛藤」(2019年1月21日付) URL: https://globe.asahi.com/article/12079199

そして、北ノルウェーは今日も開発から取り残された地域だ。インフラは必要最低限しかない、いや、それさえも満たさないこともある。その良い例が、政府が戦間期に約束したものの今日まで実現されていない鉄道建設の計画だ。だから北ノルウェーには鉄道がない(不凍港ナルヴィクとスウェーデンの炭鉱の町キルナの間だけはある)。人口が閑散としているからと言われればそれまでだ。北ノルウェーの人は、南の政府に声が拾われていないとこぼす。


北ノルウェーに暮らしてみて、そうした国内の格差を人々の日常的な言説からも自分自身の体験からも感じた。ただ、併せて述べ忘れてはいけないのは、そうした格差の中に位置しながらも私の留学していた北ノルウェーの中心地トロムソは人口増加と住民の国際化が速いスピードですすむ、活気のある都市だったということだ。北の発展の拠点・最大の雇用者の一つであるトロムソ大学をもち、住民の実に4人に1人が大学関係者だ。留学生や労働移民、難民も多く、街の角を曲がるたびに違う言語が聞こえてくるし、夕方の住宅街からはいろんな地域のメシの匂いがする。

1.3. フィールドワーク

交換留学に発つ一年前の夏、私はインターンの一環でナイロビにいて、そこではソマリ系の多い地区に暮らす「ギャング」の青年たちと交流があった。難民としてケニアに渡った彼らが辺境地の難民キャンプから都市であるナイロビに移り、厳しい構造的問題に囲まれながらも仲間をつくりドラッグしつつハッスルしつつ毎日を生きる様子はたくましく見えた。同時に、どうやって生活をやりくりしているのか、どんな生活リズムなのか、どんな家族構成なのかなどはたいそう不思議だった。留学が決まってから、ノルウェーにはソマリが特に多いと知ってトロムソに行ったらそこに住むソマリアからの移住者(多くは「難民」もしくは「庇護申請者」)に話を聞きたいと思った。

着いてみるとやはり数としては多く、道でソマリと思しき人にすれ違うのだが、見知らぬ人に無闇に声をかけるのはノルウェーでは文化的に憚られるので(それでも話しかければ良かったと今では後悔している)ずっとインフォーマントが見つからず、当初の予定では9月から聞き取りを始めるところが、12月に偶然な出会いがやってきたところでやっと始まった。

最終的には2人のインフォーマントと継続的に会って話をしていた。会う場所は色々で、大学や相手の寮に行ったり自分の寮に来てもらったり、中心街にあるソマリ料理店や海岸の公園で会ったりした(写真14)。

写真14:ソマリ飯を作ってもらったこともあった。私たちが手で食べるのをハウスメイトは神妙に見つめていた。

2人とも非常に多弁な方々で、いろんな話をした。コロナが広まってからは二人とも会いにくくなってしまい、一旦会えなくなった期間が数ヶ月あった。夏に近づくと状況が落ち着いてきたため、また色んなところで会うことができた。その頃に、映像も一緒に作ってみたら面白いのではないかと思い立って、それぞれと一緒に映像を撮り始めた。帰国してフッテージ整理をしていると自分のカメラワークの酷さに落ち込むが、それさえも私たちの映像の雰囲気を作る一つの要素になっていると前向きに捉えたい(写真15)。

写真15:Film in progress

さて、フィールドワークでは会う時間は一瞬のようなもので、先行研究を読んだり自分の調査、ひいては自分の将来について考えをめぐらす・憂う時間の方がずっと長かった。トロムソ大の社会調査法の授業で先生がよく言っていた「フィールドのデータを先行研究と繋げる、そこに位置付けようとするんだ」という言葉が頭に響いていたし、インフォーマントが語るのは彼らの生きてきた豊かな人生だから話は当然多岐な分野に及び、私のもっている知識量では消化しきれないため色々な文献を読み漁ってやっと話が分かるようになる。

また、調査者である私と被調査者である彼らのそもそもの立場の不平等性や、それなのに彼らが提供してくれる語りの価値に比しての私の調査が彼らに還元できる価値の少なさを思って、どうしようもない気持ちになる。するべき質問であると分かっていても、そのような関係性を考えると、厚顔に聞けないものもあった(例えば、海外送金の話。誰にどのくらいの金額をどのくらいの頻度で送金しているかなど)。

私の調査は「ソマリ」という特定の集団の人びとを対象にするが、それは今あるソマリ周りの分断(ノルウェーにおいて移民、特にムスリム移民、そしてソマリは敏感な問題であると言える)をさらに深めるものではないとどうして言えるのか、経済・社会的階級やジェンダーなど他の重要な要素があるなかわざわざ民族性(エスニシティ)を軸にするやり方は時代遅れだという指摘にどう反論できるのか、などという考えは常につきまとっていた。時々、自分の調査がどうしようもなく嫌いになることもあった。

そのたび、自分と同じく、現在進行形で自らの人生を生きている人間を邪魔しつつ(言い方は悪いが私の場合はよくそう感じた)調査する文化人類学というものはなんと厄介なんだ思った。こんなもんやめてしまおうと感情的になるのは簡単だった。しかし、インフォーマントと会ったり電話したりする時間はそんな気持ちが吹っ飛ぶくらい愉しくて、彼らも私の役に立つことを喜んでくれたため、ぎりぎり救われたような気分になって続いていた。

授業では南(Global South)諸国からの移民がセキュリタイズされてるとか、「社会統合」政策がどんな問題を生んでいるかとか、色々なことを学んだけれど、そうした色々な制度的事実がありながらも、その中で一人の人間が、一日一日、唯一無二の宝箱のような人生を生きている。教室の外で、私の実生活の中で、その人生に触れほんのわずかだが一部になれたことは、私の身を引き締めた(写真16)。

写真16:インフォーマントに会いに行ったあとはよく近くの山を歩きながらクールダウンしたり今後の調査の進め方に考えをめぐらせたりした。

2. 第三国ノルウェーで見るアフリカンドリーム

私はこの留学でアフリカ大陸ではなくノルウェーに行ったから、アフリカンディアスポラたちとたくさん出会った。その中で、私の中でアフリカ大陸への「幻想」あるいは「焦がれる気持ち」がふくらんだような気がする。というのは、私が出会ったアフリカンディアスポラの多くがソマリの男性だったが、彼らはトロムソや母国に色んな感情を抱いているようだった。


その中で特に印象的だったのが、北ノルウェーの異邦感やそれによる居心地の良さと悪さ、母国への懐かしさ、そこの家族や友人や太陽や、人々のコミュニケーションの取り方への焦がれだった。彼らの母国に関する語りを前にするたび、どうしたって私もそれを想像してしまって一緒にうっとりせざるを得なかった。紛争が終わったらすぐさまソマリアへ行きたい、ソマリアでなくともアフリカ大陸にまた「戻り」たい...彼らと一緒にそんな気持ちになることが多かった。


そのほか、インフォーマントと第三国(インフォーマントの出身国でも私の出身国でもない場所)で出会うことで、彼らの母国と、第三国と、さらに他地域が予想外にも繋がった。ソマリの人々は長引く内戦を理由として世界中に散っているが、他のエスニックグループと比べて強いネットワークをもっていることで有名らしい。


ノルウェー国内の大都市ではわりあい関係の濃いソマリコミュニティが存在することが分かった。国外では、私のインフォーマントも、母国や移動のプロセスで縁のあった国・地域、さらに北米など彼らの友だちの散らばっている世界の他の地域に広がるネットワークをもっていて、そこと日常的にやりとりをしていた。ノルウェーに移動した彼らとノルウェーで出会うことによって、主に母国を中心につながるそうした広い人的ネットワークの様子が見えてきた。


そう考えると、アフリカ本国に憧れを抱くと同時に、アフリカ研究は本国での研究が全てではないと思えてきた。海外に渡った人びとは、新しい層をまとう。移動した人びとだけでなく、移動先に暮らしていた人びとも同時に変化する(例えば、ムスリム移民のおかげで、ケバブは今やノルウェーの人びとの食生活の一部となった)。そうして、さらに重層的(本国に暮らす人びとも当然、単層ではない)になり、変化を重ねた人々の考え方(例えば宗教的規律が厳しい国から来た人の棄教という選択)、生活の仕方(例えば限られた食材で故郷の風味を再現させた食卓)は興味深かった。変化を重ねたゆえに同郷者や母国のコミュニティとの緊張が発生することもあるようだった。そんなふうに、本国/地域での研究とはひと味違うだろうが、地域外での研究ならではの面白さもあると感じた。


ただ、そうした第三国での私の研究は簡単ではなかった。まず、研究対象の文化でも自分の文化でもない文化にお互い身を置いている以上、そこの言語や文化(私の場合はノルウェーのそれ)を学ばなければならない。実際、インフォーマントの一人はソマリ語とノルウェー語しか話さなかったため、私たちの共通言語はノルウェー語となった。そしてそれらを学ぶからこそ、その文化と研究対象の文化の両方(もともと縛られている日本の文化に加えて)に縛られるようになった感覚にも陥っていた。


インフォーマントの前でそれらが対立するような場合に出くわすと、どちらに合わせて振舞ったらいいか迷った(主に女性としての振る舞い方や交友関係など)。先行研究の読み込みは、アフリカ地域研究とスカンジナビア地域研究の両方を追う余裕など全くないから、私はどっちも(特に後者が甚だしく)中途半端になっている。


しかし第三国にいるからこその面白さもあった。第三国ノルウェーで調査していることによってインフォーマントと私の関係が、アフリカで調査したのとは全く違うものになっているのではないかという感覚があった。もし私がアフリカ大陸に行って調査していたら、移動した人だったとしてもインフォーマントは「ホスト」としての意識をもち、私を「お客さん」なり「迎え入れる人」なりと認識していたであろう。


しかし北ノルウェーにおいて、私たちには移民としての共通の自己意識があった。もちろん個人のアイデンティティによる(長く住んでいたり二世・三世だったりするとアフリカのルーツをもっていてもアフリカンとしてのアイデンティティは薄いかもしれない)が、私たちの場合は、互いにそれぞれの意味でノルウェーにおいて「ホスト」ではなく「移民」「恐らくの外部者」だった。つまり、互いに自分とは異なる文化圏について色々思うところをもちつつ、それをこぼし合えて、心配したり助け合ったりして暮らしているということだった。また、家族の一部が暮らす母国と北ノルウェーの両方に(時にはさらに他の場所にも)同時に生きているような感覚や、両方に心が引き裂かれている状態が似通っているということでもあった。


こんな調子で、私は北ノルウェーの空気にさらされながらアフリカに関係する調査をしていた。ノルウェーで見るこのアフリカンドリームの後味は決してすっきりしているものではない。ノルウェーの平和ボケした呑気な人びとや豊かな生活と、ナイロビの喧騒・緊張感やインフォーマントが旅立ったハーシュな母国の風景とが、腰を抜かすくらいかけ離れていることで、私はなんとも言いがたい気持ちによくなっていた。


ある限られた意味で心地の良いノルウェーでアフリカの夢を見ながらも、それが現実になったら果たしてどうなのだろうか、でもいつまでも夢のままでも嫌だ、だから少しだけ遠い未来にこの夢が現実になるまでここでうたたねしていようかという、こう言葉にしてしまうと大変甘っちょろいと叱られそうだが、そんな感覚と言ったら良いのだろうか(写真17)。

写真17:この海が、ソマリアの海と繋がっているんだなぁと想像しようとし続けていた

3. 広がる・移る興味、変わるアイデンティティ、得た自由


さて、アフリカ地域専攻は、オセアニア地域専攻とともに英語科マジョリティ(北アメリカ地域専攻、北西ヨーロッパ地域専攻)と距離があるせいか(注3)、英語科に属するものの「英語科」ではなく「アフリ科」(=アフリカ地域専攻であること)にアイデンティティを感じる人が多いらしい。私もその一人だった。留学冒頭の頃に専攻を尋ねられると「アフリカ地域研究と平和構築やで」と答えることが多かった。日々を生きていても、「アフリカ」「平和構築」などというキーワードには反応せざるを得なくなっていた。それが問題なのではなく、問題は、私が「そのキーワードにしか反応せず他のものには無関心を決め込むマン」になっていたことだ。しかも、無自覚で、自分の意図とは別のところで、だ。

注3: 距離があるというのは 数年前から授業などが完全に別々になったことや、専攻の人数規模が大きく違うことなどから。

ノルウェーで暮らして/自分の人生の時間が進んで、新しいことを経験しそれらを自分ごとにしていくことで、学問的にアフリカ地域・平和構築を軸にしていたそれまでの2年半とは違うようなことも頻繁に考えるようになった。


例えば、移民としての苦楽(東アジア人が少ないところでヨーロッパ人にもアフリカ人にも主に外見的に溶け込めない心地悪さ、薄いホーム関係の繋がり、ホームのしがらみから逃れられる開放感)、女性としての暮らしやすさ(日本は法律・健康政策レベルからセクハラやジェンダー・プレッシャーなどの日常レベルまで女性としていかに生き辛いところなのか)、コスモポリタンな雰囲気の街における若者文化(ノルウェーの通過儀礼の「ルス」(注4)、移民が多く流動性の高い人口のなかでのソーシャライズ、どこでもあるものだが誰が誰とつるむかのせめぎ合い)などだ。また留学中に日本の家族の病気と治療を経験し、その苦しみから逃れるために体験を対象化したくていたら医療人類学なる学問とも知り合い、大学院、そしてその先でやってみたいと思うものができた。新しく私が巻き込まれたそれらすべての物事に学問的な(に限られないが)興味が広がった。

注4: 卒業前の高校生が大騒ぎ・大暴れする行事。二日酔いで授業に出たり、法的にグレーなことをできるだけたくさんする行事だというのが私の理解だ。詳細が気になる方はこちらhttps://news.yahoo.co.jp/byline/abumiasaki/20150521-00045906/

同時に、平和構築の研究への純粋な興味が薄れてきたのを感じた。「マクロな話ばっかりしてつまんねぇ!私ァもっとその下のレベルで内実がどうなってるのか知りたいねん!」といつだったか期末のエッセイ課題を書いているときに叫んで、そしてハッとした。これが自分の本音なんだと認めるしかなかった。インターンや転ゼミ前のゼミで、平和構築の現場で働くのがどれだけ過酷なことかを垣間見ていたが、私は人生の中で大事な存在を増やしすぎてしまい、それを手放してもそこに関わりたいかと聞かれるとそうではなかった。それに、映像人類学が面白くて自分が人類学に心惹かれているのも知っていた。アフリカ地域専攻に入って2年半、アフリカ地域研究や平和構築を半ば盲目的に勉強してきたけれど、それを望むのならこれから進む道は別にもっと広くて自由であっていい気がした。


いつの間にか、専攻を尋ねられると”Anthropology!”と一言で返すようになっていた。そして、転ゼミもして大石(人類学)ゼミに移ってきた。アフリカに関しては、確かにアフリカ大陸出身者を調査対象にしていたし、ソマリアやその周辺地域で現地調査をしたらなどと夢想することもあったものの、今、いちばん情熱のもてるものはそれではない。それを認められるようになった。


後から考えてみると、すごく単純だった。まだ学部に入って2,3年しかその分野を勉強していないのに、どんな形であれ、それに縛られる必要は全くない。何十年と研究している人だって、多分それに縛られる必要はない(すぐ金になるかは知らない)。留学先だって、専攻だって、いつでも自分の惹かれるものに近づけば良いし、違うと思ったら離れて、また違う接点で繋がったら再会すれば良い。


最後だけ読者を気遣うようなふりをして恐縮だが、私は2,3年生の頃、一度頭の中で作った筋道から逸れるのが腹のどこかで嫌だった、そしてそれが自分の素直な気持ちに蓋をしていた。だからもしそういう人がいれば、自由になればいいじゃんと言いたい。学問、それ以外の生活関係なく、ともするとまた特定のキーワードにしか反応しなくなるかもしれない自分に釘を刺し続けたい。そして、また時間が進んで新しい場所で新しい苦楽に巻き込まれることになるのは、楽しみが半分、あとの半分は怖くてしょうがないが、経験の幅を増やし硬い自分をほぐしてくれるものだということも信じたい。

それでは、ここまで読んでくださってありがとうございました。みんなの未来に乾杯!

最終更新:2021年4月4日