私は、1990年代前半に私大の西洋史学専攻を卒業し、20代終盤にオーストラリアで生活し、30代は長崎県の高校で教員として平和学習を担当した。40代からは埼玉県の県立高校で政治経済と世界史を担当し、現在は休業中である。
なぜ休業(無給)し大学院で学びたかったか?理由は2つある。一つは、私自身をアップデートしないと教員を継続できないと考えたからだ。自身のアップデートとは、教える内容、教授法、そして一番求めたことは私が教えている歴史学を今、大学ではどのように教えているか、世界の紛争や平和をどのように分析し学生に教えているかを学ぶことだった。私が大学で学んだのは30年以上前だからだ。
もう一つの理由は、日本の平和学習を変えるためだ。皆さんは、これまで平和学習として何を中学・高校で学んできただろう。修学旅行で広島、長崎、沖縄に行ったと答える人も少なくはないだろう。では何を学び、その学びによって自身の行動は変化しただろうか?
東京外国語大学の皆さんは、変化した結果、もしくは変化したかったから東京外大を選んだ人もいるだろう。しかし、多くの高校生の行動は変化しない。長崎県で平和学習を担当し、歴史を学び、祈るだけでは、平和は作れないと当時の高校生から教えられた。
日本の平和学習は平和学にならなくては、平和を作ってゆく若い人材を育てることは難しいだろう。非暴力の理論や方法論、非暴力運動の例などを学び、実践できるような授業をしたい。それには、ルワンダのPIASS(注1) が最も適していると考えたため留学先にした。
PIASSでの授業や、寮での生活、インターンなどは、既に留学された他の学部生さんたちにお任せし、ここでは、これを読まれているであろう学生さんたちの親御さんとおそらく同世代の50代の院生が、ルワンダで修士論文の調査をどのように行ったかについて記したい。
注1: プロテスタント人文社会科学学大学(Protestant Institute of Arts and Social Sciences)のこと。2024年にルワンダプロテスタント大学(Protestant University Of Rwanda, PUR)に校名変更となったが、ここでは派遣された2023年当時の名称を使う。
ルワンダ渡航は2度目だった。日本出発前にオンラインで旅行者ビザを1ヶ月分取得し、入国に必要なPIASSからの招待状とパスポートを空港の入国審査官に渡した。最初のルワンダ渡航時には実にスムーズに入国審査を通過した経験から、直ぐに通過できると信じ込んでいた。
ところが入国審査官は、職業、日本で学部を卒業しているのか、日本で大学院に在籍しているにもかかわらずなぜルワンダで学部に留学するのか、留学先で何を学びたいのか、なぜルワンダなのか、修士論文のテーマは何か、夫はどこにいるのか、など私を質問攻めにした。
少し面食らいながらも、ルワンダの政治体制をある程度理解していたため当たり障りのない返答をし、やっと解放されて通過できた。上手くかわした気持ちで空港を後にしたが、ここでの経験は学生ビザの申請後に思い出され、この質問攻めの意図を理解することになった。
PIASSのあるフイエでの生活は極めてスムーズにスタートできた。直ぐに始まった授業を楽しみながら、オンラインで学生ビザの申請をした。
ルワンダでは、「lrembo」という政府のオンライン手続きシステムを利用してビザ申請をし、クレジットカード支払いで手続きを完結できる。そしてビザの準備が出来ると、移民局からメールが来る仕組みだ。ところが一向にメールが来ない。
そろそろ旅行者ビザが切れてしまうので心配になり、同時期に申請した他の日本人留学生に様子を聞いた。すると彼女たちにはすでに学生ビザが発行されていた。おかしいと思っていた矢先に、PIASSの佐々木教授から連絡を貰った。
それは、PIASSのバイス・チャンセラー(日本では学長にあたる)宛てに移民局から問い合わせがあったとのことだった。要は、50代で既に学部を卒業している人間が、学部しかないPIASSに留学していることに対して、本当は別の目的があって入国しているのではないかという移民局の疑念が向けられ、そのために学生ビザ発行が許可されなかったのである。
どこの国でも、自国に危害を与える可能性がある人間の入国は阻止する。移民局が慎重に仕事をするのは当然だ。しかしルワンダの場合はそれだけではない。事実上一党支配の政治体制であり、現政権の批判を公的に行うことは危険を伴う。
「現政権に不都合な人間」と認識されると、ビザは発行されない。加えて、ルワンダでは学位を取得(ここでは敢えて修得とはしない)する目的で高等教育機関に進学する。それ以外の目的、例えば仕事のスキルアップや教養のためといった学ぶ理由は想定されにくい。この段階で初めて、ルワンダへの入国の厳しさを理解した。
入国審査官から私へのあの数々の質問意図は、先進国の50代の院生がルワンダの学部に留学する事への不信だったのだ。しかし、まだ楽観視していた。正規の派遣留学生であること、「ルワンダ政府に不都合な」ことは何もしていないことがその根拠だった。
結局、佐々木教授が東京外国語大学の指導教官に連絡を取ってくださり、指導教官からPIASSへ連絡とレターが送られ、PIASSから正式な留学生であるというレターが発行された。それを追加書類として移民局に提出し、申請から2ヶ月後に待望の学生ビザを発行してもらえた。
この一件で、「外国で生活するということはどのようなことなのか」の認識を新たにした。ビザが発行されないと滞在できないという、極めて当たり前のことを再認識した。これまで複数の外国に滞在したが、ビザの発行が難しかったのは初めての経験だったからだ。
そして、日本の指導教官からも佐々木教授からもこのタイミングで「修士論文調査では決して無理をしないように」とご助言を頂いた。このご助言で、修士論文の主題を変更せざる得ないことが、直ぐにはっきりとした。
そして、「不都合なこと」をしたか否かは申請者自身の自覚によるのではなく、当局が決定することなのだという現実や、ビザ発行までに2ヶ月かかるのはまだ短い方であることなどを、さらに後になって知ることになる。
皆さんは、日本のワンストップセンターを知っているだろうか?「YES」と答えた方は、最寄りのワンストップセンターはどこにあるか知っているだろうか?恐らく、ほぼないのではないだろうか。個人的な実感だが、日本ではワンストップセンターはほとんど知られていない。
ワンストップセンターとは、ジェンダーに基づく暴力(英語でGender Based Violence、以下GBVの略称を用いる)、例えば痴漢、レイプなどの性暴力の被害者、国によってはドメスティック・バイオレンスの被害者が、被害直後に駆け込むことの出来る急性期施設であり、被害者の必要とするケア、具体的には婦人科、外科、精神科の治療や処置、DNA採取、警察による取り調べや調書作成、一時滞在などのサービスを一箇所、つまりワンストップで提供している。
病院、警察などに被害者が何度も足を運び、被害状況について同じ話を繰り返すことを解消する発想から、マレーシアで生まれた施設名だ。日本のワンストップセンターは「ワンストップ」でもない、年間を通じて24時間無休というわけではないため(注2)、利用のしやすさからはかけ離れている。
注2: 24時間受付している電話サービスは始まっている。
病院と併設されたワンストップセンターが少しずつ増加してはいるが、需要に対して供給が全く追いついていない。国会議員や経営者・役員・管理職などで女性の割合が低いだけではなく、ジェンダー平等、フェミニズムの理解や意識が非常に低い日本の特徴が社会の至る所で見て取れる。
このような意識で世界を俯瞰したとき、一見ルワンダは手本のように見える。ルワンダは、ジェンダーギャップ指数が世界トップレベルであり、特に国会における女性議員の割合は61.3%(IPU、2023年: 注3)を占め世界一と、ジェンダー平等政策の優等生である。
注3: Inter-Parliamentary Unionのウェブサイトより。 URL: https://www.ipu.org/resources/publications/reports/2024-03/women-in-parliament-2023 (最終閲覧日: 2024年9月18日)
植民地時代に醸成された家父長制が強く市民の心と日常生活に影響しているルワンダ社会で、どのようにしたらこのようなジェンダー平等政策を行えたのか。これが、ルワンダのジェンダー政策へ興味を持ったきっかけだ。
さらに、ルワンダには政府が設置したワンストップセンターが全国に44箇所あり、病院に併設されている。費用は利用者負担ゼロである。そこでは、DNA採取、性感染症の検査、アフターピルの投薬、外科、婦人科の治療、刑事局による犯人捜査と調書の作成、メンタルケア、一時的滞在などのケアサービスが提供されている。
一方、ワンストップセンターは外国からのファンドを引き出すための手段なのではないかと、先行研究を読み思うようになった。本当に必要な人がいつでも利用しているのか。アクセスが悪い人は利用できているのか。住民には周知されているのか。
これらの疑問の結果として、「ルワンダにおけるワンストップセンターはなぜ機能していないのか」が留学前の修士論文テーマとなった。このワンストップセンターを事実上管轄しているのが、Rwanda Investigation Bureau、つまり刑事局である。
ルワンダ到着直後から、ルワンダ人の友人たちにワンストップセンター訪問の口添えをお願いし、運良くワンストップセンターで働くスタッフや併設病院の医師に私の訪問の打診してもらえていた。その返答はすべて、刑事局に訪問目的を添えて申請しろというものだった。
学生ビザの一件があったため、それ以上ことを進めなかった。そして、修士論文テーマをもう一度考え直した。テーマを変えることに関しては歯がゆい想いもあったが、それよりもルワンダに関して論文として形にしたかった。そして、ルワンダとの関係はこの留学だけで終わらせるつもりはすでに無くなっていた。今後長く付き合い続けたいとの思いがあった。
そうするには、今は出来る範囲で修士論文を書こうと、直ぐに心は決まった。そこで、新たな論文テーマが決まらないまま、訪問を受け入れてくれる場所を訪問し始めた。その場所とは、ルワンダ人友人のたった一言がきっかけだった。彼女が、性被害に遭った女性たちを支援している国際NGOの所長を知っているという。
そこで、その所長を紹介して貰い、その所長から国際NGOが支援している国内NGOの代表者を何人か紹介して頂いた。そして、それら国内NGOをPIASSの授業の合間をぬって訪問した。その訪問先で実に様々なことを学び、経験し、そして少しずつルワンダでのGBVが誰によってどのようにケアされているのかが分かり始めた。
例えば、1994年の虐殺で九死に一生を得てその後結婚をしたが、アルコール依存症となり、自身の子どもたちが駆け落ちや家出などの問題を抱えている女性の自宅を訪問した時、彼女が虐殺時に受けた傷つき体験が、本人のみならず次世代に負までの影響を心的に与えていることの深刻さを目の当たりにした。
また、法的支援を専門に行っているある国内NGOで働く弁護士との出会いで、彼女の真摯に仕事に取り組む姿勢と強い使命感に感動し、出会えたことを嬉しく思ったりした。さらにそれら国内NGOから、ワンストップセンターのことが透けて見えることも度々だった。
留学を終える前に修士論文のテーマを次のように設定し直した。「ルワンダ政府によるジェンダー平等政策が国内NGOに与えている影響」。今では、論文を書くことにわくわくしている。
このようにいとも簡単に論文テーマを変えることができたのは、20代の大きな失敗があるからだ。当時オーストラリアのアデレード大学の大学院に入学したが、当初の論文テーマの研究を指導できる教授が存在せず、所属学科を変更しテーマも変更しなければならなくなった。
当初のテーマを諦められなかったため気落ちし、結果的には大学院を辞めて帰国してしまった。その後の後悔、そして人生の様々な経験で、自分のこだわりを手放す事が出来るようになっていた。20代では外国で思い通りに研究できないことや、留学を断念し帰国せざるを得ないことを「失敗」と思い込む事が多いかもしれない。
しかし、思い込みを手放しプランBに着手してみる、一度帰国し再帰(もしくは再起)を「機が熟する」まで準備を重ねながらじっと待つことも十分可能な若さがある。私は30年前に失敗したと思っていた経験が、思わぬところで「あの経験は役に立ったな」と思えたのだ。
さて、国内NGOの訪問だが、これも手間も時間もお金もかかった。ルワンダでの調査は、ルワンダの文化と歴史をよく反映したものだった。
ルワンダは紹介社会である。メール、電話、訪問は紹介者がいないと、無視されるか断られた。しかし、紹介者がいると必ず返信があった。NGOをはじめ学校への訪問には、結婚していること、教員であることが都合良かった。なぜなら、結婚していること、同じ学校教員であることで相手が安心して受け入れてくれたからだ。
日常的に結婚指輪はしているが、ルワンダでは必ず初対面で結婚の有無を質問された。「結婚している」と返答すると、相手は大きくうなずき次の質問も決まっていた。「子どもは何人か?」。ルワンダでは25歳までに結婚「出来ない」と、呪術で呪われているか、本人に欠陥があるといわれる。
首都ではほぼその言説は廃れたらしいが、地方や村では住民は真剣に心配し始める。それは外国人に対しても同様だった。どう見ても25歳以上である私が結婚していることで人びとは安堵し、家族や家の宝である子どもに言及し始めるというわけだ。「いない」というと、一様に気の毒そうに「sorry」と言う。
一度つい口が滑って「夫婦で子どもはいらないと話し合った」と言ったら、考え直すよう諭され、長い話になった。それはそれで、思わぬ展開になって結果的には他ではなかった意見を沢山聞くことが出来たのだが、ルワンダでは結婚と出産が一続きのライフイベントであると認識した。
また、留学前に副指導教官の指導のお陰で、調査には同じ空間で一緒に何かをして、生活を共にすることの重要性を常に心の隅に置いていた。偶然にも借りていた家には大家が雇っているハウルガール (注4)が住み込みで働いていた。
注4: ハウスガールは日本で言う「お手伝いさん」とは違う。詳しくは、FENICSメルマガVol.188 2024/5/25発行の拙著『おさるの国からこんにちは No.3 友人D』参照。URL: https://fenics.jpn.org/mailmagazine/vol-118-2024-5-25/
彼女はハウスガールとしては珍しく英語が話せた。彼女とまさに日々共に話し、お茶を飲み、裏庭の畑で野菜を作った(写真1)。
写真1: 裏庭で作っていたレタス。毎日サラダにして食べていた。
彼女から、ルワンダにおける若者女性の結婚における傾向、避妊方法から野菜の育て方、自宅の調理に必要だったプロパンガスの買い方まで色々なことを教えて貰った。結果的には大切な友人となったこと、困ったときには何でも話せて相談できたことが本当に心強かった。
一方調査で大変だったことは、ルワンダ国内の移動と宿泊費、そしてこれが一番学術論文を書くための資料集めとしては困ったことだが「本当のこと」を話さない、見せたがらないことだった。
まず、国内移動については、ルワンダは首都キガリが国土のほぼ中央に位置しており、国内移動の足であるバスはキガリから地方都市へと走っている。住んでいたフイエからキガリへバス移動し、バスを乗り換えさらに目的地へ行く(写真2)。フイエ-キガリ間は約100㎞、東京-宇都宮間とほぼ同距離だ。そこをバスで3~4時間かけて移動する。つまり、他の地域のNGOや学校を訪問するには、日帰りは不可能であった。
写真2: ルワンダの地図。オレンジ色で塗られた地名は、今回の留学期間に訪問した場所。黄色は1度目のルワンダ渡航で訪問した場所。地名は昔のままの地図。これを部屋の壁に貼って、訪問したらマーカーで色を付けていた。
それにともない必要な宿泊だが、ルワンダの宿泊費の高さには驚いた。具体的には、キガリで1泊「ホテル」と名のつくところで街の中心に近いと1万円を優に超える宿泊費がかかった。少し不便な郊外だと一気にその価格は下がるし、「ゲストハウス」となると少しは価格が下がる。
しかし、ルワンダは「千の丘の国」である。キガリは徒歩移動には向かない。丘が連なっているため、地図上の直線距離だと500メートルでも、丘に沿った道をぐるぐる登り下り、隣の丘に移動し、また丘に沿った道をぐるぐる登らなければならない。
直線で真下に移動できないかと見下ろしたことは何度もあるが、断崖絶壁や民家や通行止めの壁に阻まれて断念した。何度も歩いて挑戦したが、最後はいつも熱中症気味になり断念した。
ではキガリの移動はタクシーか?というと、日本のタクシーと同額、もしくはそれ以上の金額である。しかもハイスピードのインフレのため、滞在した10ヶ月の間にタクシー代が1.2~1.5倍になった。バイクタクシーもあるが事故が多い。
東京外国語大の安全情報冊子(注5)にもあったが、過去にルワンダで東京外大生も事故に遭っている。ルワンダで大きな怪我をするのは命取りだ。それでも安さと便利さに抗えず利用していたが、キガリ在住の日本人の友人がバイクタクシーに乗車中に大きな事故に遭ったと聞き、利用を止めた。
注5: 神代ちひろ(編)、大石高典、小松謙一郎、坂井真紀子、椎野若菜、武内進一(著)、2023『学部生の安全なアフリカ留学に向けて』東京外国語大学大学の世界展開力強化事業。URL: https://doi.org/10.15026/0002000603
郊外に宿泊すると、交通費がかかる。街に宿泊すると宿泊費がかかる。そこで、なるべく安く、歩いてスーパーや買い物が出来る街に位置する宿泊先を探しあてた。そして目的地の徒歩圏内に宿泊し、いつも歩いた。宿泊費の高さは首都キガリだけに及ばず、地方都市も同様だった。
特にゴリラ観光で欧米からのリッチな観光客が多い北部の都市ムサンゼは、なんと1泊1部屋100万~200万円という超高級宿泊施設がいくつもある。そのためか、ムサンゼは相対的に他の地方都市と比べ宿泊費が高かった。
最後に、本当の事を話さない、見せないということは、ルワンダでは当たり前だった。ルワンダ政府は国内すべての組織や団体、教会を掌握している。国内NGOももちろんだ。NGOが話したくない、見せたくないこととは、ルワンダ政府にとっての話したくないこと、見せたくないことと同義だ。
したがって、ある国内NGOは性被害の結果10代のシングルマザーになった女性たちと調査者である私が直接話すことを極端に警戒したし、違法な売春によってシングルマザーになった女性のことを質問しても「そんな人はいない」と言われた。
しかしNGO訪問の回を重ね、こちらも質問の仕方が上手くなると徐々に答えが返ってくるようになったと実感できた。そして信頼してもらえたあるNGOでは、他では得ることの出来ない赤裸々な受益者の話を聞くことができ、受益者の自宅を訪問する機会も得ることが出来た。
信頼できるルワンダ人友人に同行を頼み、複数の売春エリアを訪問し観察することもできた。村へ滞在し、住みながら話を聞くことはできなかったが、10ヶ月という短い滞在で出来うることはしてきたと、今では思っている。
「ルワンダはアフリカ初心者が訪れるには良い」と、在留日本人から良く現地で耳にした。まったく同感だ。治安が良い(注6)、政府により統制が取られていると、その理由が挙げられる。
注6: とはいえ、スマホを盗まれた、レイプされたなど現地の人たちから耳にした。注5で挙げた安全情報冊子を渡航前に熟読することをお勧めする。
しかもPIASSのある街フイエは、騒音とは無縁の大変静かで緑豊か、かつ街も歩けるサイズで住みやすかった。冷蔵庫はもちろん電子レンジや洗濯機もフイエに売っている。どこへ行ってもインターネットは使えるし(標高2000メートルを超える地域でも!!)、村以外なら水道は通っている。
資本主義がフイエにも浸透し、お金さえあれば日本とほぼ変わらない生活が出来る。安心して、ルワンダを、PIASSを留学先にして欲しい。一方で、「そんな快適な生活はアフリカじゃない!!」と思う東京外国語大生は、PIASSの寮に住むことをお勧めする。
その辺りの体験は、他の学部生さんの体験記をぜひ読んで欲しい。20代で海外に一定期間1人で住み、友人を作り、様々な経験をすることは、その後の人生に大きな影響を与える。特に途上国へ飛び込むことは、ぜひとも若い内にとお伝えしたい。先進国なら60代でも住めるからだ。
最後に伝えたいことは、これはルワンダ留学だけに限らず、すべての他国へ住むことに共通するが、1カ国に3ヶ月以上住むことを強く勧めたい。その理由は、新しい環境に慣れ、ようやく気持ちと時間の余裕ができ、様々な小さな事に目が向くのは3ヶ月過ぎてからだからだ。
そして、じっくりと人間関係を作るには心の余裕がないとなかなか難しい。もちろん、複数国に住んでみたい、経済的、時間的な制約がある人もいるだろう。しかし、苦労して慣れた3ヶ月がもったいないと感じてしまう。これはオーストラリア、カナダ、そして今回ルワンダに住んで実感していることだ。
じつは、10ヶ月でもまだまだ足りなかった。少なくとも2年住めば、もっと研究に活かせただろう。もっと、ルワンダ社会や文化、歴史の理解が深まっただろう。しかし、夫を日本に放置するわけにもいかない。さらに研究以外にもやりたいことは山ほどある。
このような非常に貴重なそして素晴らしい学びと経験の機会を下さった、東京外国語大学と送り出してくださった指導教官、副指導教官、PIASSと現地で物心共にお世話になった佐々木ご夫妻に心より感謝申し上げます。外大とPIASSが提携校として、今後も関係を維持、強化していくことを念じて。
最終更新:2024年9月22日