こんにちは、アフ科4年の菅沼蓮です。
ここでは、2022年8月11日から半年間ほど取り組んでいた南アフリカ~ケニア間の縦断旅についてまとめました(写真1)。また、個人的に友人とアートギャラリーを運営していて、この旅とも関わることになったので、そのことについても最後に少し触れています。
僕はアフリカを旅して出会った人やそれぞれの土地から世界に対する色々な視点を与えてもらい、そのことがとても大事で楽しいことだったなと、今感じています。
写真1: 旅の地図
今思い出すと、この縦断旅は同期の友達の提案から始まっていました。入学時からいつかアフリカに行きたいと思っていた僕は、家族を含め周りの人たちにそのことを伝えると、興味深そうに背中を押してくれたので行くことに決めました(写真2)。
さらにもう1人加わり、大学の同期3人で現地集合することになりました。最初に着いたのは南アフリカ・ヨハネスブルグでした。内心怖気付いているところもあって、着いたというより降ろされたという感じに近かったです。
ただ、海外で、緊張しながらも「歯を食いしばりながら笑う感じ」とでも言うのでしょうか、いろいろなものを勉強して帰りたいなと思っていました。
写真2: 成田空港まで見送ってくれた友人たち
淡々とアフリカ大陸での最初の宿で寝て、起きた瞬間に爆睡していた自分と、今いる場所のギャップに驚きました。ふと隣を見ると同室のおじいちゃんがゆっくりと本を読んでいて、そのおかげで落ち着いたことをはっきりと覚えています(写真3)。
写真3: 旅の初日に泊まった宿で同室だった方
同期のうちの1人と集合してからは、まずロードトリップ用の車を買うためだけに動きました(編注)。車は手続きや書類作成など紆余曲折があって、約2~3週間でなんとか手に入れることができました。
編注:東京外国語大学では、アフリカに限らず海外での学生自身の車の運転による移動を推奨していません。
その過程では、ヨハネスブルグ中心部の人でごった返す街を徘徊したり、少し都市部から外れた事務所で優しく対応していただいたりして、この土地で生きている人々の生活を少しばかり体感できたような気がしました。
購入した車は中古だったので、小さなダメージを直すためにガレージに入れ、もう1人の連れを迎えにいくことにしました。彼はなぜか間違えてヨハネスブルグではなくケープタウンに到着する便を予約していたので、ヨハネスブルグとの中間地点あたりまでレンタカーで迎えに行き、そのままレソトに行くことにしました。
この道行きには、南アフリカに留学中の大学の後輩と、たまたまヨハネスブルグにいた別の同期の友人もついてきてくれることになりました。
レソトでアフリスキーという雪山へ行き、ヨハネスブルグへ戻リました。ガレージが素早く修理作業を終えてくれていたため、念願の自分たちの車で次はエスワティニへ行くことにしました。そこでは「リードダンス」という、王様の配偶者を決める伝統的な儀式が現代的なグラウンドで行われていました。
全体が見える場所で座っていると、現地の人がリードダンスの解説をしてくれました。様々な民族がエウワティニ各地から集まり、伝統的なダンスを披露するもので、王国の広さと多様さを垣間見られると教えてくれました。
その方は病院で救命士として働いていて、その時も怪我人や急病人が出た場合に備えて待機しているということでした。「あれだよ、俺の病院の救急車」。彼は目が良すぎて、僕は見えるわけのない距離の救急車に思いを馳せました。その後、少し都心に滞在した後の帰り道に大変な出来事が起きました。
走り出してからずっと足元を確認しつつ運転していた同期は、「なんか変だよ」と言いながら、5分ほど走ったところで車を止めました。その時近くにいた人に現地のメカニック(自動車整備士)を呼んでもらって車の具合を見てもらうと、車は冷却水の循環不良でオーバーヒートしている、と言われました。これには大掛かりな修理が必要です。
エスワティニには、結果的に1ヶ月近くいました。車の修理が終わり、お世話になったメカニックが、直った証明のために車を滅茶苦茶に走り回らせました。僕は感謝の気持ちもありながら、車がもう一度壊れるのではないかと怖かったです。
滞在先のオーナー、一緒にサッカーをしたりした人たち、メカニックの人たち、車が壊れた時に助けてくれた牧師の方に挨拶をしてから南アフリカへと戻ることにしました。
ヨハネスブルグに戻る道中に、また車が壊れました(写真4)。ものすごく残念な気持ちになると同時に、みんなで前から決めていたある程度のスケジュール感や時間感覚が完全に失われたので、旅を焦る気持ちはどこかに飛んでいってくれました。
写真4: 道の真ん中で壊れた車
ここまでの旅の締めくくりとして、1つエピソードを紹介させてください。
“僕たちは車が壊れ旅の予定も進められず、感傷的になっていましたが、その分エスワティニは精神的な優しさや不思議さが心に残る場所になったなと思います。
ある朝目覚めて、みんなで体を動かしていると、かなり遠くから僕らも入れてくれといって走ってきたお兄さん方2人、サッカーをしばらくしていて、なんとなくそのうちの1人とはよく目が合うと感じました。
後で話していると、その人の弟がつい最近亡くなったという話を聞き、そしてどうやら僕はその弟にそっくりで、目が離せなかったらしかったです。見た目が似ているはずはなく、言語や文化が違う人間が、どう似るのか。彼には信じるものがあって、それを媒介とした曖昧で、捉えどころのない”なんとなく”な繋がりがあると言います。
それがあまりにも確信めいた口調で、僕は最初面食らいましたが、彼と話していると穏やかな気持ちになっていくことに気付きました。その宿は眺めがよくて、この場所で会えたことが少し神秘的に感じられたのは間違いがなかったように思います。
今、現実的な繋がりが皆無で、何をしているのか、お互いにわかりません。けれど彼の見ている穏やかな世界を、そのとき少し見せてもらえたように感じます。”
戻ってきた南アフリカで、僕らはそれまで以上に大掛かりな車の修理が終わるのを待っていました。その間時間を持て余した僕らは、「しばらくアフリカを一旦出るわ」と同期の1人が言ったことで、それぞれ別行動をすることになりました。
1人はギリシャへ、もう1人はヨハネスブルグの剣道場破りへ、そして僕はレソトに一緒に行った後輩くんと2人で南アフリカの南部を回ってケープタウンに行くことにしました。
後輩くんと、南アフリカ南部の主要都市ポートエリザベスから、ケープタウンまで向かうことになりました。MT車をレンタカーして、彼のあまり上手くない運転で少し緊張していましたが、その後輩くんは笑いで腹が破れるかと思うくらい面白い人で、とても楽しかったです。
彼のおかげもあって、この別行動は全体的な旅の中で一番「観光」を素直に楽しめた気がしています。この旅の途中で、人生初のサーフィンに、世界でも有数のベストスポットであるジェフリーズベイで挑戦することができました。自分にとっては、英語で体の動かし方を教わる、という初めての経験も大切な思い出になりました。
ケープタウンでは、後輩くんの繋がりで、ローカルな小学校で半年ほど教師として勤務をしているという大学生に出会いました。
彼女は大学を休学し、ガーナに滞在した後南アフリカに来たということでした。このように、アフリカで偶然出会った日本人からもまた、たくさんのことを学びました。その大学生は、これから新しく出会う人にも、その人がどんな旅をしているのかを聞いてみたいと思ったくらい、豊かな経験を持った人でした。
しばらくして、ヨハネスブルグにいた同期から「車の修理終わったらしいよ」という知らせがきました。ナミビアの南部と南アフリカとの国境付近にあるスプリングボックという街で落ち合うことに。なんと彼はそこまで10時間程1人で運転して来てくれることになりました。心配だし、ケープタウンを離れるのも名残惜しいですが、とにかくまた旅が始まるのが楽しみでした。
浮かれた僕は何を考えていたのか、朝の3時に現地に着く予定のバスに乗ってしまいました。降ろされた場所がガソリンスタンドで、朝食を取れるレストランもあったのでほっとしましたが、草原だったらと思うと恐ろしいです。ただ、レストランはまだ開いていなかったので駐車場で4時間程座り込むことになリました。
ガソリンスタンドのキオスクでコーヒーなどを買って、外で待機。今思うと、キオスクの店員さんに頼んで室内に入れてもらうなど、それなりに賢い待ち方はあったはずだと思いますが、野外で時間をつぶすという選択によって1人の青年との出会いがありました。
彼は、僕が座り込んで2時間と少し経った頃に現れました。まだ少し薄暗かったので、初めは警戒していましたが、彼が僕に近づいてきて発された一言目が
“The moon is gorgeous tonight. (月が綺麗だね)”
だったので、恋に落ちるところでした。
嘘みたいな話で、その時寒かったり眠かったりしたので本当のところは覚えていないですが。同い年くらいの人に言われたセリフで一番、忘れられない言葉になっています。2m程離れて座った彼としばらく話すと、どうやら近くの高架下でいつも寝ていて、その日は寒すぎて散歩をしていたようでした。
「実家は山の向こう」
「暇な時は空を見ている」
彼は、アフリカの旅で出会った中で一番詩的な男でした。彼とコーヒーをシェアしながらしばらく話し、現地の若者から見た南アフリカについて少し教えてもらえました。
ヨハネスブルグから僕の待つ場所に向かった同期も大変な思いをしたらしく、その道程で暴風雨に遭っていました。ワイパーも追いつかないくらいの大雨だったらしいですが、そんな中来てくれたことが僕としてはとにかくありがたかったです。なにより、また会えたことが嬉しくて、彼の飄々とした態度に頼もしさを感じました。合流した僕たちは、ナミビアに向かいました。
ナミビアに入国後、ギリシャにいたもう1人の同期と合流するために空港に彼を迎えにいきました。税関でかなり待たされ、少し疲れ気味な彼を連れて首都ウインドフックに取った宿へ戻りました。
その宿はドイツ出身の女性が運営しているゲストハウスで、ドイツから来た留学生も大勢滞在していました。宿が気に入ったのかギリシャ帰りの同期は元気になり、現地の大使館で働いていた大学の後輩とご飯を食べにいくことになりました。
JICAの協力隊の方々も紹介してもらい、今度行くことになっていたらしいキャンプにも同行させてもらうことに。協力隊の方々の現場の仕事や、大使館での働き方なども聞くことができました。日本から遠く離れた場所で、様々な背景を持つ人が働いていることを直接見ることができ、自分はどんなふうに働きたいのかといったことを改めて考えるきっかけにもなりました。
一方で首都ウインドフックの宿の方では、共同利用の冷蔵庫からスイカが2切れなくなったことを、留学生たちと一緒に大ごとにして遊んだり、国立のアートギャラリーや美術館があったので見に行ったりしていました。しかし、旅はなかなか上手くいかないもので、楽しい雰囲気は終わりに近づいていました。
いくつかナミビア北西部や中部の海岸沿いの街を3人で回った後でした。「デッドフレイ」という既に危険な響きを持っている世界遺産に向かうことになりました。
そこは見渡す限り砂漠地帯のただなかにあり、化石となった木々たちが今もなお残って干からびているという、かなり不思議な世界遺産です。その場所に向かう途中、僕らは道を間違えたことに気づきました。別の場所に向かう車について行ってしまって、全員疑うこともなく、慣れない砂道を進んでいきました。
そのうち、砂に車のタイヤを取られて完全に動けなくなりました。そこから出るために、タイヤに布などを噛ませたり、押したり、いくつか試しましたが、日が暮れていくだけでした。
どんどん暗くなり、全員の不安もその時点で確信となっていました。幸い夜はそれほど寒くない気温だったので、その場で野宿をすることにして、僕らは外で寝ました(写真5)。目の前に信じられないほどの数の星が広がり、もう実は死んでいるのではないかと錯覚するほど、ナミビアの自然は雄大でした。
写真5: 砂漠、野宿
次の日、クラクションをひたすら鳴らす僕らに気づいてくれた他の観光客の人が、助けを呼んできてくれました。なんの知識もないまま走ってきた僕らを微笑んで、現地の方々は、素早くタイヤの空気圧を少し抜き、エンジンをかけてすぐに砂から抜け出してくれました。
土地ごと、状況ごとに適切な振る舞いや対処があることに改めて気付かされました。しかし、舗装道路に出たときに今までのダメージにとどめを刺されたのか、エンジンは突然ストップ。一番近くのガレージとガソリンスタンドに敷設されたキャンプ場で、巨大な鉄塊と化した車を見ながら、僕たちは、文字通り途方に暮れてしまいました。
その地で1泊したあと、僕らはヒッチハイクを始めました。なんにせよ首都に戻る必要があったため、必死に首都へ向かう車を探していましたが、3時間、4時間と経って、首都を避けた地方旅をしている人が多いことに気づきました。
ただ、1人だけスイス出身でケープタウンに住んでいるという男性が、「首都へは行けないけれど、ナミビアに詳しい友人もいるし何かできることがあるかもしれない」と言ってくれました。そこで連絡先を交換させてもらい、ケープタウンに帰る彼を見送りました。
しかし次の日、彼は唐突に「いや、やっぱり車乗り換えなよ、僕の車を貸すよ」とメッセージを送ってきました。ものすごく驚きましたが、その言葉に頼るしかなかったので急いで準備を始めました。僕らは愛車に別れを告げ、急いでケープタウンに向かうバスに乗り(1人はビザの関係でボツワナに直接向かうことになりました)、南アフリカに再入国しました。
こういった時に次々と助けてくれる人が現れるのが不思議なんですが、ケープタウンに向かう途中に、僕の別の友人にも会うことになりました。
彼は僕の高校時代の友人で、同時期に開催されていたカタールW杯を見に現地に行っていました。どこかで合流できればいいなと話していたものの、僕が訳あって南アフリカに戻ると言うと、ケープタウンに来てくれたようでした。
そしてバスの乗り換え場所(ケープタウンまで、まだまだ800kmほどありました)までレンタカーで迎えにきてくれました。荷物が多かったのでとても助かりました。チョロQみたいな小さい可愛い感じの車だったので、すごく狭かったのはいい思い出です。
それから車を貸してくれるというスイス出身の彼の元へ行くと、休日のお父さんみたいにランドクルーザーを洗車していました。全部が嘘の可能性もあると思っていたために現実に笑ってしまいましたが、彼の準備が周到で僕らは恐れ入りました。車はトヨタのランドクルーザー80、MT式のディーゼル車で、トランクには予備バッテリー、冷蔵庫、キャンプグッズ、ジャッキ、パンク修理キット、その他工具などが積んでありました(写真6)。
そのまま家に入れてもらい、旅のコツや車の装備の使い方も教えてもらえることになりました。家には信じられない数の椅子、風が通るとけたたましく鳴るシャンデリア、熱湯系の罰ゲームで使う水槽みたいな大きなプール、透明な階段とバーベキュー・コンロなどがありました。
ちょうどスイスから遊びに来ているらしい彼の両親や、ストローハットを被った謎の台湾出身の方に囲まれて話が進みました。その土地の出身ではない人々が、異国での様々な経験を生かして僕らに知恵を授けてくれました。僕たちはまた新しく旅を始めようと勇気づけられていたなと、今思います。
写真6: 借りた車とそのオーナー
新しい目的地は、ジンバブウェの首都ハラレです。そこでも大学の同期が大使館で勤務していたので、まずは落ち合うことに決まりました。どこに行っても、日本人や大学の友人がいることはとても支えになっていました。しかし、その場所へ向かう道は、初めから過酷なものでした。ベイトブリッジという南アフリカとジンバブエの国境は、とても整備されていましたが、手続きが煩雑すぎて疲れ切ってしまいました。
しかし宿も取れず、結局そのまま夜通し運転して、ハラレへ向かうことになりました。大体半日分も運転すれば着くはずが、途中で豪雨に見舞われ、雷の光が街灯代わりになっているような状況で、「地獄だ、地獄だ」と叫んでいたのを覚えています。道路工事で仮設された迂回ルートに至っては、なぜ通り抜けられたのか今でもわかりません。嵐に巻き込まれたことで、自然の偉大さを思い知りました。
ジンバブエの首都ハラレでは、ガソリン不足に焦りながらもなんとか同期の住む家の近くまで向かいました。連絡がつくまで、目的地のかなり近くまできていることに気づかないまま待ちぼうけしていましたが、実際になんとか同期と会えた時はようやく少し心の糸が緩みました。
数日経たないうちに、ボツワナを通ってきていたもう1人の同期とも合流し、しばらくしてジンバブエを後にしました。次の目的地ザンビアへの国境には、世界三大瀑布のビクトリアフォールズがあリます。その付近は国境入り乱れるとても混沌とした場所で、それがなかなか楽しく、長く滞在することになりました。
ザンビア側の国境付近の村の人に案内していただいて、木をくり抜いたボートで釣りをした経験は忘れられません。その土地のアートギャラリーにも足を運びました。そこでは日本のアートイベントに作品を出品したことがある作家さんと出会うなど、かつてここに在た日本の方のエネルギーを感じるとともに、僕自身も何かそういった繋がりを作っていきたいと思えました。
この頃から、旅の予算がいよいよ危うくなってきました。くわえて、ルワンダにいる友人の都合により、急いで先に進むことを決めました。ザンビア入国以降は、基本的にビザの取得が必要になり、オンラインでのビザ取得は少し大変でしたがなんとか突破しました。この辺りから向かう主に東アフリカの国々は、COMESAという経済共同体を構成しています。COMESA加入国内で使える車両保険があり、これは便利だということで、ザンビアとマラウィの国境の町チパタで加入しました。
様々な手続きを経験し、現地の人との交渉や相談までも含めて多くの人々の手助けで前に進んできていることを実感しました。そのあとは、マラウイの首都リロングウェと、剣道道場があるらしい南方の町ブランタイアを訪れました。
マラウィでは、謎のドイツ人旅行者を首都まで乗せてあげて、ケンタッキーを奢ってもらうなど、穏やかな時間が流れていました。平和な空気感に包まれた国で、道路上の検問は多かったけれど、身の危険というものは全く感じませんでした。こんなところに日本のスポーツをしている人たちがいるのかと驚き、加えてアートギャラリーはどこでも親しまれているのだということを知ることができました。
ルワンダへと向かっていきます。車で寝食し、交代で運転しながら進み続ける。高速道路なしの1800kmほどでした。この経験がなんの役に立つかはわからないけれど、日本のスケールでは考えられない物理的な広さを感じた瞬間でした。
到着したルワンダは、盆地に首都のキガリがあり、面積としては小さな国ですが、かなり中心部は整備された国だと感じました。道路は完全に舗装され、ビルが立ち並び、警察がどこもかしこも監視しているような状況でした。もちろんこれはルワンダのほんの一部ではありますが、国が戦略的に形を整えてきている様がはっきりとわかります。
地元のコーヒー農園では、豆の生産から加工、流通まで事細かに教わるツアーに参加し、またアートギャラリーや様々な場所も観光しました。これからは1人での旅の日々が始まります。
旅の先へ進む前に、ここまでに感じていた“価値観”について少しお話しさせてください。
“アフリカで出会う現地の人々や景色は、新しい視点をもたらしてくれました。海外へ行くと、"価値観"が変わる、とか、見たことない景色や文化に沢山触れます。その体験によって、今まで生きていた自分の世界がどれほどの規模感なのか、自分の脳内世界の枠組みはどうかとか考えることもありました。自分と違うものに触れると、違う考え方や違う視点があることに気づく。
けれどもしかすると、価値観を"どう変えるか"、ということを一回考えてみるのは大事かもしれないと思いました。というのも価値観が変わるということは、今まで大切にしていたり気にしていたり嫌だったことが、ある程度ごろっと変わることであって、ちょっと寂しいかもしれないと思ったからです。もちろん、それが人生を豊かに生きたり、器用に生きたり出来るきっかけになったらそれは良いけれど、ごっそり変えることは良いことなのかと考えるようになりました。
”価値観”、とても全体的なものでありながら、小さな旅の出来事で大きく変わったり、日々の会話で揺らいだり、昔を思い出して元に戻ったり、洗練されたり。私の今の感情や行動は、どんな過去から由来しているのでしょう。自分にも他人にも優しく、今の価値観を楽しんで変えていくために、慎重に後ろを振り返りながら進んでいきたいです。“
連れの2人は、アフリカ大陸最高峰であるキリマンジャロの登頂を目指して、トレーニングを始めました。僕は、実は前々からウガンダのカセセという街にあるアートギャラリーと連絡をとっており、今回本当に行けそうだったので山行はあきらめて、しばらくギャラリーに滞在させてもらうことにしました。
2人と別れる。流石にドキドキし始めた。車も守らなくてはいけないことは、プレッシャーとなっていました。車でかいし最悪車で寝られるけど、普通に守るとか無理かもしれないと思いながらもルワンダで1泊し、ウガンダの国境へ向かいました。
国境を越えるのもなかなかてこずりましたが、とりあえず入国できたので、目的の町カセセへと車を走らせました。これから、アートギャラリーでの生活が始まる。そのことに不安はもうあまりなかったです。多分期待もそこまでなかったけれど。意外にもその先入観は、すぐに裏切られることになりました。
ホスト先の人とギャラリーのある町の手前で合流する手筈になっていました。ネットも使えないので待ちぼうけでしたが、割とすぐに現れた人物が、その後の僕の印象に強く残ることになりました。彼はJoseph(ジョセフ)というキリスト教由来の名前で、Jと呼ぶことにしました。
少し猫背で背は僕よりも少し低く、威圧感というものを完全に消し去った、どこかフニャフニャした雰囲気をまとった男で、話し方からもうすでに、僕は彼のことを好きになっていました。つかみどころのない、でもそこに存在していて楽しく話しているような人です。
まず一緒にご飯を食べに行きました。当たり前のように奢ってくれたことに驚いて、現地の人に助けてもらうことはもちろんあったけど、食事を何気なく奢ってもらったことはなかったので嬉しかったです。
ウガンダはネット料金が少し高くて困りましたが、ご飯は美味しく、安かったです。Jの知り合いで、これからJが絵の買い付けをしようかと目論んでいるらしいアーティストのギャラリーへ立ち寄りました。そこで出てきた人は逆に知的で強面な感じで、そんな2人が普通に話しているのをみて、「人間てわからないもんだな」と思いました。
その場所では、絵を描かせてもらうという体験もできました(写真7)。それは本当にありがたくて、とにかく楽しかったです。そこでは普通にアクリル絵の具を使っただけでしたが、アーティストがどんな画材、技術、姿勢を用いて作品を制作するのか、その基本的なところに座らせてもらえたような気がしました。
写真7: 絵を描かせてもらったギャラリーの展示スペース
その日のモーテルで食べた国民食「ロレックス」(いかつい名前だけれど、トルティーヤに卵や野菜などを挟んだローカルフード)は旅で一番美味しかったかもしれないです。その日はあいも変わらず、爆睡しました。
目的のギャラリーにたどり着くまでJといろんな話をしながら、国立公園周りの案内なんかもしてもらいました。そしてウガンダは赤道直下にあります。赤道を示す記念碑は修繕中でしたが、なにもない赤道の上で、赤道を感じたり、ぼーっとしてみたりして、”広さ”を感じました。
今までも、これからも感じることになるこの”広さ”は、アフリカに来て知ることができて良かったと思ったことの一つかもしれません。Jは記念碑を見せられなくて残念そうでしたが、最後まで彼は笑顔を絶やさず、自分の故郷や仕事に関していろいろな話をしてくれました。ギャラリーはかなり田舎にあります。目的地まで、もう少しです。
そこは、”Eco Hub Africa”と呼ばれる場所でした。ギャラリーとは言っても自由な運営をしていて、放課後の子どもたちのワークショップをやっていて、子どもたちの遊び場みたいにもなっているそうです(写真8)。
もちろん絵を飾るギャラリーもありますが、綺麗なホワイトキューブとかではなくコンクリート調の、広い四角い場所でした。普段はそんな場所ですが、実は僕が伝えていたよりかなり遅く到着したことで、既に改装の時期に入っていました。
改装というのも、かなりのんびりと進行していました。(兄弟で管理をしているらしく、基本的には次女のRitahと長男のHenryが生活していて、そこにJや彼らの渋い父親がウロウロ出入りする状況になっていました。)
ベッドは簡易的で、洗濯は僕の分もついでにしてくれる、シャワーは床が抜けていて冷水だけだったけれど、食事も僕の分もついでに出してくれました。全体的にはなんの問題もなくて落ち着くことができそうでした。
ここからウガンダ滞在が始まりました。親戚の元へも彼らはよく出入りしていて、家族みんなが優しかったのは、自分にとってとても大きな救いだったと思います。少なくとも僕にはその穏やかな感じが性に合いました。その場所が今もそこに実在していると考えると、故郷ともまた違う不思議に優しい気持ちにしてくれる街でした。
写真8: ギャラリー入口と、みんなの父親
同期の2人がキリマンジャロに入山した頃、僕はウガンダの首都カンパラへ向かいました。カセッセからは車で6時間くらいで着きます。同期達のスケジュールを考慮してカンパラには1週間ほど滞在することに決めました。
そこで始めに取った宿では、オーナーの丁寧な説明や興味深い身の上話、夜にはカクテルまで出してくれる充実ぶりで、カンパラ滞在中はそこに連泊させていただきました。
そのオーナーは、ブルガリア出身でウガンダの男性と結婚し新しくゲストハウスを始めたということでした。様々な背景を持った人が、異国の地に根付いて生活していることがとてもすごいことだと心から感じました。
その後、友人に勧めてもらった日本食屋に行き、国立の博物館を見に行ったりと、久しぶりにバイクタクシーを駆使して首都内を探索しました。(カンパラは、自分の車はむしろ邪魔になるようなバイク天国でした。)それからルワンダで知り合ったアーティストの弟が、ギャラリストとして活動しているということで会いに行きました。
そこには、南アフリカから来ている女性もいて、その人はキュレーションの仕事をしていました。ちなみにギャラリストやキュレーターは、聞き慣れない単語だと思いますが、西洋においては当たり前のように美術業界で評価を受けている職業です。(ギャラリストは、アートの販売・収集だけでなく展示企画や、アーティストのサポートもしながら産業全体に貢献していこうとする仕事。そしてキュレーターは、展示会の企画・運営・コンセプト決定などを仕切っており、様々な仕事があるけれど僕的には芸術の”通訳”みたいな位置にいるのかなと思います。)
ウガンダでは1人で滞在していたこともあって、宿にいるスタッフの方々や美術業界で働いている方々、同世代の人々ともたくさんコミュニケーションをとり、コネクションもできて印象に残った滞在でした。1人で異国で過ごすことは、その地にいる方に助けられながら生活することで、より地域の魅力を感じられる契機になるのではないかと思います。
ここまで読んでいただきありがとうございます。最後の目的地へ向かう前に、あまりない経験をしていたので、ここに記します。海外旅ならではのどうしようもなさも感じ取っていただけたら幸いです。
“ウガンダで、カンパラからナイロビに向かっている途中、立ち寄ったレストランで事件は起きました。そこは小さな町の小さなレストランで、こんなところに、と思うほど綺麗な場所でした。店員さんは英語が苦手で、僕も現地の言葉が分からなくて、それでも身振りで注文し、僕は一人で、いいところだなあなんて思いながらチキンを食べていました。
トイレにいった時そこは水洗式のトイレで、普通に用を足しました。水を流そうとすると2回、3回、4回やっても流れません。そのまま、出ていくこともできました。ただ、早めに伝えておいたほうがいいと純粋に思いました。そこで店員さんの元へ行きましたが、英語がいまいち通じないことを思い出しました。
行った手前もう仕方なく、ジェスチャーで、僕の便の元へ彼を連れていきます。他の店員さんも怪しがって近づいてきていて、断固拒否しました。僕は彼を見て便を指差し、流すレバーを指差し、水を流しました。そうすると水が溜まっていたのか、勢いよく綺麗さっぱり流れていきました。どれだけ奇妙な出来事だったか。彼は、どれだけ怖かったでしょう。なんとか言い訳して、なんとなく店を後にしました。”
最後の目的地、ナイロビまではカンパラから優に700kmぐらいはありました。高速道路は偉大だとつくづく感じました。ケニアへ入国するための国境でもまた、現地のルールに翻弄されながらも毅然として入国しました。ここからナイロビは、遠かったです。
同期の1人はナイロビに向かっていて、もう1人は南アフリカの剣道大会に参加したいことや旅を進めたいこと、そして日本への帰国日程を鑑みて、エチオピアに1人で行ったとのことでした。
ナイロビまでの道の途中、ケニアの寒い夜に苦しめられながら車中泊をして、とうとう同期の1人と合流。ご飯を食べに行き、やたらコスパの良いその店に感謝しながら、ゆっくりご飯を食べました。とりあえず明日、サファリでも行くかと提案してくれたので、車で出かけることになりました。すでに僕はケニアから日本に帰ることを決めていたので、最後にちゃんと観光らしいことができそうでよかったです。
次の日は朝からマサイマラ国立公園へ向かいます。道中の会話もある意味最後の与太話みたいな、もちろん日本でまた会えるけれど、道中の長いアフリカでの車中の会話というのは途絶えることない楽しみだったなと思いました。その時はもう出し尽くさないと出てこないようなトークテーマだらけでしたが、同期との他愛もない会話が、いつでも自分の不安な気持ちを吹き飛ばしてくれていたように思います。
マサイマラ国立公園への入り口で、チケットだけ買ってあとは自分たちの車で回ることにしました。門の前に行くと、赤いマントを着たマサイの男性がいました。彼が近づいてきて開口一番、「ツアーガイドやるよ。」と声をかけてきました。ジュリアスと名乗った彼は、早速仕事を始めてくれました。まずは公園沿いのキャンプ地へ向かい拠点を定めてくれるということでした。
舗装されていない道をなんとか進んでいくと、なかなか空いているキャンプ場が見つからず、いくつもキャンプ場をハシゴしました。最終的には予算を鑑みて、30棟はあるコテージを前にスペースだけを借りて、車中泊をしました。割と安く泊まれると言っていたジュリアスの言ったことに疑問を感じ始めました。
しかし次の日、朝の5時半ぐらいに早速現れたジュリアスに案内されるまま、サファリに入って走っていくと、シマウマ・ゾウ・キリンなどを沢山見ることができました。僕が、初めてのサファリだったのでワーワー言っていると、ジュリアスと同期はなぜか、「落ち着け、肉食動物を見てこそだ。」と冷静でした。確かに肉食動物は数も少なく見る機会が希少で、みんなシャッターチャンスを狙っているようです。
僕らはしばらく走って、小さなチーターをジュリアスが見つけたと言った時に、身を乗り出しました。僕らがジュリアスに感謝していると、自慢の目を生かして僕らには到底見えない草むらの中のチーターを追っていくよう指示しました。携帯のカメラではなかなか綺麗に収められませんでしたが、結果的には親チーターも見ることができました。
途中「バッファローに近づこう」と言ってジュリアスは、「ハクナマタタ(心配ない)。」と言いながらこの車は借り物だと言う僕らを無視し、特殊な口笛みたいな音を出したりして誘き寄せたりと、とても賑やかで楽しかったです。
夕方頃、サファリを終える直前、ライオンを発見してジュリアスも満足な様子でした。道を見失っているのではないかと疑ってしまったほど、マイペースなジュリアスに感謝を述べて首都への帰路につきました。
真っ暗な道を死ぬ思いでナイロビに戻り、次の日から一転、忙しくなりました。なぜなら車の後処理をしなければならなかったからでした。船で輸送し貸してくれたスイス人の彼に返すなどの案もありましたが、結局一旦ケニアでどこかに預け、またケープタウンまで運転して返すことに決まりました。
それはエチオピアにいた同期が直接車を返したいということで、予算も鑑みて改めて違うメンバーでケニアに戻ってくると言ってくれたからでした。なので、車を預けるための駐車場、車の書類の手続き、自分の日本に帰国する準備、と目まぐるしく時間がすぎました。
最終的に大学の大先輩のオフィスの駐車場を借りさせていただくことになり、長期使用しない場合の無人化作業を終えました(長い間乗らないのでバッテリーを外したり、空気圧を調整したりします。)
とうとう帰るのだなと、車を手放すときに思いました。長く使っていた車で、これがなくては何もできなくて、本当に大事なものだったのだとその時に改めて気づきました。ぼーっとしていると、その時に、オフィスを貸してくれた大先輩が様子を見にきてくれて、「(車を)守っておくね。」という風に言ってくれたのを覚えています。
全て作業を終え、他のみんなのお土産などもまとめて持ち帰ります。ナイロビの空港からアディスアベバ、ソウルを経て成田に帰る便に乗り込みました。
最後に、ナイロビで日本人らしき人を見かけました。その男性と、アディスアベバ空港でのトランジット時間に会話をしました。宮城県に住んでいて、10年ほど前に娘さんと初めての海外旅行で台湾へ行ったらしいです。それからあとは、1人で世界を回っていると言っていました。僕も行ったことがない、経験したことのない話をたくさんしていただけました。
別れ際に、「私の年齢だともう、旅の経験を自分の中に溜め込んではいなくて、楽しいだけで走り回ってる。でも君は、旅をちゃんと感じてこれからどうするか、っていうことができるね。」と言っていただいたことを覚えています。
到着した成田空港国際線到着ロビーで、家族と友人の顔を見つけました。
長々と読んでいただいてありがとうございました。この旅とも繋がってきた話なのですが、実は僕は東京・北千住で幼馴染2人と一緒にアートギャラリーを運営しています。
このギャラリーは空き家の古民家を借り、内装を自分たちと周りの人の協力で作り替えていき、シェアハウス兼アートギャラリーとして始めたものです(写真9)。
写真9: ギャラリー改装中
今現在も活動しているそのギャラリーでは、帰国後にアフリカで集めた作品を展示したこともあります(写真10)。
写真10: 第1回アフリカ絵画展の様子
大学に入学するまで、ギャラリーを始めるまで、そしてそのあとのアフリカ旅と、旅の後。今までの道のりは緩やかに繋がっているけれど、それぞれの経験が反応しあって変化していっています。このアートギャラリーに関しては、まだまだ話したいこともあるので、この文章を読んでくださった方とどこかでお会いし、色々な話ができたら嬉しいです。ありがとうございました!
最終更新:2024年6月10日