目次
1. はじめに
2. 留学の目的
3. モロッコでの生活(2023年9月~2024年1月)
3.1. 最初からトラブル続きだった大学生活
3.2. 習得したダリジャとフェズ刺繍
3.3. モロッコ一周旅行から見えてきた文化の多様性
3.4. モロッコ留学のまとめ
4. セネガルでの生活(2024年2月~3月)
4.1. トゥアレグ人へのインタビュー
4.2. 様々な国籍の人がいた滞在先
4.3. 2泊3日のガンビア旅行
5. おわりに
はじめまして。私は2023年9月から2024年1月までモロッコはラバトにあるムハンマド5世大学へ派遣留学をしており、2024年2月と3月の2カ月間は、セネガルはダカールに滞在していました。したがって、本記事は約半年(7カ月間)のモロッコ&セネガル留学体験記となります。
今回の留学の目的は大きく分けて3つありました:
現地の文化に肌で触れること
語学力の向上
サバイバル力の向上
私の専門は文化人類学で、特にサハラ砂漠の遊牧民「トゥアレグ人」を研究したいと考えています。彼らはベルベル人に分けられます。モロッコには同じベルベル系のアマジグ人と呼ばれる人たち達が多く住んでおり、セネガルには出稼ぎに来たトゥアレグ人が住んでいます。
イスラームが多く信仰されている地域に身を置くことで、文献や日本で得られる知識以上の、生の雰囲気を味わいたいと考えていました。
また、モロッコではフランス語、正則アラビア語、モロッコ方言アラビア語(以下ダリジャと言います)、アマジグ語、一部地域ではスペイン語が話されており、様々な言語が話されています。今後研究をしていく上で必須となっていくであろう言語の語学力の向上を目指して留学をしていました。
加えて、私はずっと実家暮らしでいて、長期間の海外滞在経験もありませんでした。7カ月という月日はそこまで長い期間ではありませんが、親元を離れて、異文化で、母語ではない言語で暮らす、という経験を通して、どこでもやっていけそうな力を付けたいと考えました。
アラブ諸国の大学への交換留学というのは、とにかくイレギュラーなことが続くことで有名です。私も例に漏れず、9月から留学予定にも関わらず、夏休み半ばまで受け入れ許可書がもらえなかったりと渡航前からハラハラしていました。
9月第1週にモロッコの首都ラバトへ降り立ち(写真1)、事前に連絡を取っていた担当者に連絡を取ってみると、「8月末で退職しました」とのメッセージを受け取りました。
仕方ないので直接大学のキャンパスへ赴きましたが、新しく赴任された学部長は、フランス語はおろか、正則アラビア語も話せない方で、ダリジャのみが通じるという状況でした。
写真1: 滞在していたラバトの街並み
(メモ)アラビア語の方言について
アラビア語は、イスラーム教の聖典クルアーン(コーラン)に書かれているものが基本のアラビア語(正則アラビア語)と言われるものです。こちらは学校教育やニュースなどで使用されています。
それとは別に、各国各地に方言と呼ばれるものがあります。有名なもので言うとエジプト方言アラビア語などです。これらは正則アラビア語よりも日常生活で現地の人々に使用されています。
ただ、方言なんて言いますが、その実方言とは言い難いくらいに違いがあります。分かりやすく言うのであれば、正則アラビア語をラテン語としたとき、それぞれの地域の方言は、フランス語・スペイン語・イタリア語…みたいな感じで異なります。
そしてダリジャは、「アラビア語母語話者であっても他の地域出身の人は理解できない」と言われるくらい難しく、他の方言とは異なったものとなっています。
なぜこんなに違うかと言うと、フランス語・スペイン語・アマジグ語からの借用語彙が多い事、アマジグ語の特徴である子音連続を多く孕んでいることが理由として挙げられます。
留学前に、日本-東京外大-では正則アラビア語しか勉強してこなかったので、ダリジャなんて聞き取ることもできないし、話すこともできない状態でした。
途方に暮れていましたが、運が良いことに英語の話せるモロッコ人の学生が助けてくれ、通訳をしてくれました。
ちなみにモロッコの第1外国語はフランス語なので、英語を話せる人は極めて限られます。ただ、政府からの教育方針が若干変わりつつあり、若い人たちの中では英語話者も増えてきてはいます。大学に足を運んだ初日に、英語を解する同世代の学生と出会えたことは奇跡ともいえるでしょう。
なんとか授業に出席できることになりましたが、ここからもイレギュラー発生です。通常、留学生のためのアラビア語講座だったり、留学生向けのクラスだったりが開講されているものですが、ムハンマド5世大学ではそういったものは存在せず、現地学生向けのクラスに入らざるを得ませんでした。
授業は基本的に正則アラビア語で行われますが、先生によっては正則アラビア語とフランス語、ダリジャが入り交じったかたちで話す場合もあり、全く理解することができませんでした。
とはいえ、珍しいアジア人の留学生にクラスメイトはとてもやさしく、困っていることはないか、日本語でこれはなんていうの、といった様々な会話を投げかけてくれて、クラスでの居心地は良かったです。
留学生活というのは思っている以上に時間が余ります。日本では基本的に3つのアルバイトを掛け持ちしながらサークルに所属し、授業をこなすという生活をしていた私にとっては、暇が一番の大敵となっていました。
何かモロッコでしかできないことをやりたいな、という気持ちから、ダリジャの語学学校に通うことにしました。
といっても、正則アラビア語ではなく日常で使われているダリジャをわざわざ学習しに来る生徒はほとんどいません。そのため先生と1対1のレッスンで、非常に身に着きました。
ダリジャは正則アラビア語よりも話すことに特化していて、動詞の活用などが比較的簡単に改良されています。また、語彙もフランス語由来だったり、スペイン語由来だったりと、色々な単語と出会いながら他言語との共通点を見出すことができて楽しかったです。
なにより、覚えたダリジャで街中の人たちと会話すると、すごく驚いて、喜んでくれました。この反応も学習のモチベーションとなり、結果ダリジャだけで暮らせるくらいの語学力を付けることができました。
フェズ刺繍は、モロッコの古都、現在は迷宮都市として有名なフェズの女性による伝統工芸品です。裏表同じ模様が出る特殊な縫い方で縫う刺繍です。
知り合いの紹介で偶然フェズ刺繍の先生と出会うことができ、やり方を教えてもらいました(写真2)。リバーシブルでどちらでも使うことができるという特徴や、素敵な伝統的な模様に魅了されました。
写真2: 私の縫っていたフェズ刺繡
11月に日本から友人が来てくれ、その子と一緒にモロッコを一周しました(図)。
図:モロッコの地図。黄色いマーカーが引かれているところは訪れたところ。
モロッコは縦に長い国土で、北は西洋風、南は砂漠、アトラス山脈には山地が広がっていて、様々な生活様式を見ることができます(写真3)。
写真3: 世界遺産アイット=ベン=ハドゥの集落。様々な映画で使用されている。
南部の砂漠はもちろん年中暑かったり、移動手段がラクダだったり、とにかく砂・砂・砂!みたいな世界です(写真4)。
北部、ジブラルタル海峡を挟んでスペインが見えるような場所はヨーロッパ風の建物が経っていたりと、近代的な様子を見ることができます。
高アトラス山地では、雪が降る場所があったり、植生が大きく異なったりと、同じ国内でもこんなにも違うのか、といった景色を見ることができます。
もちろんそこに住む人たちの生活形態も異なります。
モロッコには、アラブ人とベルベル系のアマジグ人が多く住んでいます(もちろん他の人たちもいます)。ラクダに乗って生活をしていたり、農業に従事していたり、ベルベルじゅうたんを作っていたり、都市部へ出稼ぎに行ったりと、その土地その土地での環境に合った生き方をしていました。
写真4:サハラ砂漠
このように地域によって様々な違いを感じることのできるモロッコですが、お茶の文化は全国共通です。
銀色のポットに熱湯と紅茶の茶葉 、ミントを入れて蒸らします。綺麗なティーグラスを人数分用意し、その中に注ぎます。とても高くから注ぐのがコツです。
最初は一つのグラスに注いだ後、もう一度ポットにそのお茶を戻します。そうすることでポットの中が混ざるんだとか。
注いだグラスは時計回りに人々に回していきます。
最初に使ったグラスは、お茶を提供するホストが使うのが礼儀のようです。
お茶の味は、ミントを使ったり使っていなかったり様々です。アマジグの伝統のお茶も少し違う味がしました。
また、大変多くの 砂糖を入れます。小さいティーグラスに2,3個角砂糖を入れるのが普通です。甘党の私はとてもおいしくいただいていましたが、身体に悪いかもなあと思っていました。
お茶菓子(これも甘い)と一緒に楽しみます。いろんな話をしながら、このティータイムを楽しみます(写真5)。
写真5: お茶会の様子
最初は街中の人が何を言っているかわからなかったし、授業も理解できないしで大変に心細い毎日でしたが、住めば都といったもので、最終的にはすごく充実した日々を過ごすことができました。
言語の習得が出来たことや、日本とは異なる文化をこの目で見れたこと、体験できたことなど、すごく貴重な経験をしたと思います。
モロッコのホストファミリーと大号泣しながらお別れを告げた半日後に、セネガルはダカールの地に降り立ちました(写真6)。
セネガルはモロッコよりも南にあります。長袖を着ていた生活から、半袖でも暑いくらいの生活に変わりました。
セネガルでは日本食レストラン「和心」という日本人が経営しているレストランに併設している雑貨屋「côté」にインターンとして受け入れてもらいました。
côtéでは、私の研究対象であるトゥアレグ人の作成する伝統工芸品、トゥアレグシルバーを使用したアクセサリーを企画・作成し、日本で販売しています。ここではニジェールから出稼ぎに来ていたトゥアレグの人たちにインタビューをしていました。
写真6: セネガルの街並み
ベルベル系の民族トゥアレグ人たちは、アラブ人よりも前から北アフリカに住んでいた遊牧民です。たくさんの荷物を持った何百頭ものラクダを連れて、オアシス都市からオアシス都市までの広大な砂の海を橋渡しする、船の役割を担っていました。
しかし、遊牧という生活形態が、国境の引かれた国民国家と折り合いがつかず、各国で周縁化された存在となっています。
彼らの居住域は、マリ・ニジェール・アルジェリア・リビア・ブルキナファソの5か国にまたがった地域となっています。
côtéで交流のあるトゥアレグ人は、ニジェール出身の人たちでした。トゥアレグジュエリーを販売しているオーナーと、トゥアレグジュエリーを作成している職人の2人に多くのことを聞きました。
職人さんは、幼い頃からトゥアレグジュエリーの作成を父親から教わっており、学校には通っていなかったと言います。そのため、彼は識字が出来ませんでした。
しかし、職人としての腕は一流で、多くのアクセサリーを作っています(写真7; 写真8)。「故郷には仕事がない。だから稼いだお金を家族に送るほか、学校や貧困に苦しむ仲間に寄付しているんだ」と言っていました。
写真7: トゥアレグ職人のモハメドと、トゥアレグシルバーで出来たバングル
写真8: トゥアレグシルバーを熱している様子
オーナーも同様にニジェール出身で、彼は多くのことを知っていました。
現在もマリ北部地域において、マリのトゥアレグ人たちが政府軍や武装諸勢力と衝突を繰り返しています。そのことについて尋ねると、簡単に答えの出ない、歴史的に根深い問題がそこに存在していると教えてくれました。
また、彼らの話す言語はタマシェク語というベルベル諸語のひとつに分けられる言葉です。オーナーはこのタマシェク語を教えてくれました。
一つ面白い単語として、“雨が降って水が集まって川のようになっている様子”を示す単語がタマシェク語にはありました。単語一つからも、彼らが暮らしている環境を垣間見ることができて面白かったです。
ダカールでの滞在先は、日本食レストランの2階で、他のスタッフさん4人との共同生活でした。レストランには日本人のほか、現地スタッフが複数います。現地のスタッフはセネガル人だけでなく、モーリタニアやギニア、コートジボワール、コンゴといった様々な国からの出稼ぎ出来ている人がいました。
セネガルでは基本的にウォロフ語が現地語として使われますが、滞在先のレストランの厨房ではプル語やリンガラ語など、複数の言語が飛び交っていてすごく面白かったです。また、お昼ご飯は現地スタッフがローテーションで料理を作ってくれ、セネガルにいながら様々な国の料理を食べることができました(写真9)。
写真9:コートジボワールの料理、アチェケ
セネガルの中心部に、ガンビアという小さな国があります。滞在中に、せっかくなのでガンビアまで足を延ばすことにしました。
ガンビアまではセットプラス(フランス語で7+という意味。7人プラス運転手という意味で、8人乗り)という乗り合いの車で行きました(写真10)。片道5,6時間です。
写真10:セットプラスの中。ぎゅうぎゅう詰め。
ガンビアは公用語が英語で、通貨はCFAフランではなくガンビアダラシという独自の通貨が使用されています。ガンビアでは、ガンビア唯一といっても過言ではないワニ園に行ってきました。数百ものワニが住んでいて、ガイドの案内で触ることができます。
嚙まれたりしないのか聞いてみましたが、「一日にたくさんの餌を与えてるから常にワニたちはお腹いっぱいなんだよ。だから大丈夫」と言っていました。
短い滞在でしたが、セネガルとはまた異なる雰囲気ですごく楽しかったです。
5カ月と2カ月の海外生活は、先を見通せば途方もなく、振り返ればあっという間の経験でした。日本へ帰国して2カ月が経とうとしていますが、あの経験は夢だったのではないかと思うくらいに日常に奔走しています。
しかし、モロッコにいるホストファミリーにメッセージを送ったり、セネガルの現地スタッフと電話をしたりと、現地で出来た繋がりがかけがえのない大切なものとなっています。
また、最初に掲げた3つの目標もある程度達成することができ、留学前よりももっと、深い視点での思考が出来るようになったかなと思います。
この7カ月での経験を生かして、研究や日常生活に励みたいです。
ここまでお読みいただきありがとうございました!
最終更新:2024年5月20日