こんにちは。ラテンアメリカ地域専攻ポルトガル語科の塩崎諒平です。僕は約8ヶ月間アフリカのモザンビークという国に滞在していました(図1)。
何故モザンビークに留学しようと思ったのか、そこで何を感じたのかなどなどツラツラ書いていければいいなと思っております。個人的な思いが強めの人間なので、留学体験記は留学前のお話から書いています。「そんなことより早くモザビについて読みたい!」という方はガンガン読み飛ばしちゃってください。
図1: モザンビークの位置。
僕は、浪人していました。惰性で受験しまくった現役時代、「今度こそは!」と1年間の長い冬を経て、東京外国語大学国際社会学部ラテンアメリカ地域(あれアフリカじゃないの)ポルトガル語学科に入学しました。「ラテンアメリカ面白そうだなー」というのと、「やっぱり国連で働いてみたい!」という思いが長い冬の間に強くなり、国連で働いていた経歴をもつ教授のもとで学びたい、というか国連に入れてもらいたい、なんて思いで入学を決めました。
因みにこの時、国連入りたいから国連公用語を(!)と考え、第一志望をスペイン語にしていたのですが、第二志望のポルトガル語になってしまいました。当時はだいぶショックで島流しやんけー、ぐらいに思っていたのですが、今思うとこれがないとモザンビークにも辿り着かなかったのですね。(アフリカ諸国のなかでスペイン語圏は赤道ギニアだけです。)
入学を迎え、早速その教授にアポを取ります。その時の会話は以下のようなものでした(少し盛っているところもありますが)。
「国連に入りたいのですが、どうしたらいいですか!」
「できるだけ早く外資系の会社に入社して、そこで稼いだお金で外国の大学院に進学。MBA(経営学修士号)を取りなさい。そしたらJPO(注1)を受けなさい。」
「留学もしたいと考えているのですが、どうでしょうか。」
「留学なんて、遊学よ。そんな暇があったら早く大学院行って、MBAを取りなさい。」
こんなやり取りを交わし、なるほどな、と思う面もありつつ、「ん?」と違和感を抱く自分がいました。そして思ったのです。
「俺、何で国連に入りたいんだっけか。」
特に「何かをしたい!」という思いもなく、ただただ「国連に入ってみたい」というだけ。自分が思い描いている国連が想像通りなら、自分みたいな人はその組織にいて欲しくないな、と思うし、国連はあくまで何かを成し遂げる手段の一つであってほしい、そう思い始めました。
もっと自分の興味を掘り下げたい。その上でどのような手段を自分の人生の中で採っていくのか、もっともっと考えたい。そう考えるようになりました。(「国連は手段の一つかな、と思うようになりました」と相談した教授に伝えたところ、めちゃくちゃ怒られました。)
3年になり、ゼミ(専門演習)が始まります。僕は国際社会学部・現代世界論コースの李孝徳先生のゼミに所属することになりました。そのゼミで個人的にインパクトが強すぎる問いに出会いました。
「君たちは何でハーバードを目指そうとしなかったの?今の時代、ハーバード出とけば年収3,000万円くらいの生活が待ってるんじゃない?そんな世界なのに大学選ぶとき、ハーバードって選択肢が出てこなかったのすごいよね。もしかしたらそういう選択肢を見せない社会構造になってるのかもしれないね。」
衝撃的でした。自分が意識できない斜め上、まるで認識の外からガツンと一発食らったかのよう。自分がめちゃくちゃ考えたとして、その上で選び取った選択肢であっても実は社会によって予め敷かれたレールの上でのゲームをやってるだけなのかもしれない。そんなの怖すぎる。
「「学部の留学は遊学。」って言われるぐらいなら、めっちゃ有意義な一年にしてやろう。」
学位も取れない1年留学。それならば、学位とかそういうものとはかけ離れたなにかもっと意味のあるものにしよう。以前に言われた言葉と、このゼミで得た問いとがマッチし、ならば今の自分から一番遠そうなところに1年を費やそう、そこから今の自分を客観的に見てみようと思ったのです。
「さあ、一番遠そうなところに行くか。ならアフリカかな。」
そう思ったとき、モザンビークが浮かびました。アフリカにあるポルトガル語圏5つの内、モザンビークが感覚的に一番行きやすい気がしたからです。(かつてのポル科にはモザンビーク留学をしていた人が結構いたとの噂を聞いていました。)もう一つ、モザンビークを選んだ理由があるのですが、それは長くなってしまうので割愛します。(気になってくださった方はこちらから!:「僕がモザンビークを選んだ理由」)
さあ、モザンビークをどうするか。行ってはみたいけど、別に授業は受けたくない。そう、自分のポルトガル語に自信がなかったのです。わからない授業に時間を費やしたくないなあ。そう思ってしまいました。
でも、長期滞在はしたい。つまりビザが欲しい。そのためには学生ビザが一番手っ取り早い。でも授業は受けたくない。
「うーん。」
と、悶々としながらその悩みについてモザンビークに関係のありそうな人と話していくと、「研究生として、現地の教授に直接お願いすればいいんじゃない?やりたい研究はあるみたいだし」と言ってくださる、現地でフィールドワークをしている方に出会えたのです!(なんと!)
そこからその方を通し、現地の教授や事務の方と直接やり取りをし、時にはWhatsApp(注2)などで電話もしながら交渉を重ね、なんとか入学許可証を手に入れることができました。
そんなこんなで直前までドタバタしていたため、大学側と住む場所のやり取りが中途半端なまま飛行機に飛び乗ることになってしまいました。「住む場所の住所は?家賃は?ご飯は?」という質問の答えを出発前にもらうことがとうとうできず、現地に着いてしまいました…。
「着いたら私に電話してくださいね。そしたら大学に向かってください。」
との連絡は受け入れ先の大学事務から貰っていたので、空港にてSIMカードを購入、電話をかけます。
「15:30で業務を終えてしまうので、もう帰宅してしまいました。直接寮に向かってください。」
「…はい。(ええもう業務終わったの…直接寮って心細いやんけ…)」
突然の変更に戸惑いながらもタクシー運転手に電話を渡し、直接彼に指示をしてもらって寮に向かいます。すると待っていたのは聳え立つ11階の建物(図2)。エレベーターは、ありません。
図2: 聳え立つ寮。夜になると圧倒的ホーンテッドマンション感を醸し出します。
運転手の方に手伝ってもらいながら大きい荷物を11階へと運びます。途中で寮母さんらしき人にすれ違うのですが、なんと「新しく留学生が来るなんて聞いてなかったわよ!」の一言。「ええ… 」。
それでも、一番上の部屋が空いてるわよ。と言ってもらい、なんとか入寮を果たします。「ふう」と一息。必要最低限しか荷物を持ってこなかったため、少し買い物をしたいなあ、と思い立ちルームメイト(2人部屋でした)に相談します。鍵が一つしかなかったためです。
「外出てきていいよ。鍵は一階の警備員さんに預けとくわ。」
その言葉にすっかり安心して、近くにいた学生に道案内をお願いし、スーパーに向かいます。ちなみにモザンビークの首都、マプトはかなり発展していて、ローカルな商店からイオンモールのようなショッピングセンターまで揃っており、割となんでもあります。
そして、帰宅。警備員さんから鍵を受け取り11階へ。鍵が、開かない。また1階へ戻り、違う鍵だと思うと主張。しかし返って来た返答は、
「鍵はそれしかない。開け方が悪いんじゃないか。」
一理あるな、ともう一回部屋へ。やはり開かない。また一階へ戻り、この鍵は絶対違うと主張。返って来た返答はまた、
「鍵はそれしかない。俺は知らない。」
しょーがない。待つか、とルームメイトを待つこと45分、出会い頭に言われた言葉は、
「ごめん、預け忘れてた。」
ここまで来るともういいですね。一緒に部屋に戻りました。そう、この時点で僕は11階を2往復半しているのです、少し気持ちが荒んでいました。部屋に着くと、「ご飯食べた?2階に学食があるから食べて来なよ」とのこと。一緒に行こうと誘ったのですが、彼は来ないの一点張り。
仕方なく緊張の面持ちで食堂に入ると、一斉に自分の方に視線が向きます。それもそのはず、この寮、本来留学生が入る寮ではなかったらしいのです(後々、そっちの寮は埋まっていたから現地学生の寮にした、と事務の人に説明されました)。
「ざわざわ…ざわざわ…」
この時点でもう既に心が折れかけていましたが、それでもご飯は食べたかったので列に並びます。他のみんなはスタンプカード的なものを持っていたのですが、当然僕は持っていませんでした。どうしようかな、と思いながら自分の番を待ちます。そしてとうとう自分の番が。
「今日着いたので、仕組みがわかりません。大学の留学生です。」
「×●~!〓:※?〆=cinco!」
何言ってるかさっぱりわからなかったのですが、最後のcinco!(読み方はスィンコ。日本語で数字の5)だけは聞き取れたので、5メティカル(注3、約10円)のことかー、やけに安いなあと思いながら5メティカルを差し出しました。すると、より激しい勢いで(怒ってた)
「×●~!〓:※!!!!!!? … ×●~!〓:※?〆cinco!」
と怒鳴られましたが、それでもやっぱりcincoしか聞こえて来ません。「だから5メティカル出してるやん!」とこちらも応戦。それを見かねた学生がとうとうあいだをとり持つ事態に。(後々聞いたところ、あれは”trinta e cinco”(読み方はトリンタ イ スィンコ:35)のことを言いたかった(もしかしたら25だったかも)らしく、やっぱりそんなに安いわけないか、と反省した次第です。)ただ、その日は無料でご飯を食べさせてもらい、優しさに甘えてなんとか乗り切ることができました。
その後、また11階に登り、ふて寝したのは言うまでもありません(図3)。この時点でとても日本に帰りたくなっていました。だって11階何往復しないといけないのって。
図3: 寮の部屋からの夜景。高いところなだけあって結構綺麗でした。ただ、初日はこれが逆に虚しさを僕にもたらしてしまいました。
僕は、首都マプト市にあるエドゥアルド・モンドラーネ大学(注4, Universidade Eduardo Mondlane)というところに所属をしていました。モザンビークの公立大学の中では最大、最難関と言われています。この大学は総合大学で、人文系から自然科学系、医学部まで幅広い学部が揃っています。
留学生は東ティモールからの学生が多い一方(同じく公用語がポルトガル語であるため)、その他の国からの留学生はパラパラとしかおらず、少ない印象でした。ただ、留学生を受け入れる体制は整っており、到着したばかりの学生には「パドリーニョ(padrinho)」と呼ばれるメンター的存在を付けてくれます(図4)。
図4: My パドリーニョ。
特に東ティモールの学生はとても優しく、同じアジア出身であることから仲間意識を持ってくれる人がとても多かったです。彼らは互いに家族のように接していて、僕にも様々な集まりに誘ってくれました。東ティモールの学生に誘われて、サッカーにも参加しました(図5)。ほぼ経験がないのに、友達欲しさから「サッカーできるよ!」と言ってしまったところ、観客、審判のついたガッツリした試合にいきなり投入されてしまいました。
「Kagawaだもんな!いや、Hondaか!」
どっちでもないです。見事に仲間からのパスを取れず交代。嘘がいとも簡単にバレてしまいました。(それでも「一緒に練習しよう!」と誘ってくれる彼らはとても優しい。)因みにキャンパスでは、毎週日曜サッカーのリーグ戦が開かれています。
図5: 東チモールからの留学生たちとサッカー。
首都のマプトは治安があまり良くないと言われています。特に警察には気をつけなければいけないと言われており、夜には出会いたくない存在No.1です。夜に出歩いた際(勿論出歩かないに越したことはないです)、出会ってしまうと必ず身分証を見せろと言われます。
モザンビークでは身分証を常に携帯することが法律で義務付けられているためここまではいいのですが、「見たいから貸せ」と言われ手渡してしまうとまずいことが起こるかもしれません。運が悪いと、「返して欲しければ金を渡せ」ということになってしまいます。
そのため僕は見せろと言われた際は、常に手渡さないように気をつけていました。それでも大半は無理やり取ってこようとするので、まるで運動会のパン食い競争みたいな争いへと発展していきます(図6)。最終的には「もういい。けどお前はリスペクトが…」といった形の説教を受け終了です。
図6: パン食い競争の図。逃げるアンパンが僕の身分証(パスポート)で食べようとしている人が警察です。
フィールドワークをしようと最初は試みていたので、取り扱いたいケースの近くに実家がある友人に1週間程度ホームステイさせてもらいました。場所はXai-Xai(シャイシャイ)というマプト州の隣にあるガザ州の州都です。
モザンビークは首都のマプトが第1の都市、第2はソファラ州都ののベイラ、第3はナンプラ州都のナンプラと言われています。しかし、目覚ましい発展を遂げているのは首都のマプトだけであるように感じます。
マプトの周りも、車で30分も走らせればだたっ広い草むらが広がっていました。焼畑を行っているところも多く、発展の具合の差は一目瞭然です。そんな中シャイシャイはマプトから車で約4時間離れたところに位置しています。
モザンビークはビーチで有名ですが、マプトで海を見ると唖然としてしまいます。ほぼ、茶色。ただ、シャイシャイまで行くとかなり綺麗な海が広がっています(図7)。
図7: シャイシャイのビーチ。向かいにお店が並び、リラックスした雰囲気が広がっています。
シャイシャイはマプトに比べて高層ビルが一切なく、見える景色が全く違います。(ケンタッキー・フライド・チキンはありました。)シャイシャイの中心地からシャパと呼ばれる乗合バスで約30分、そこから更に歩いて約20分。友人の実家がありました。少し田舎に来たかな?といった感じでとても落ち着く場所でした。
翌日、友人のお姉さんが住んでいる家に行こうということになり、諸々予定を済ませた後、午後4時くらいに家を出発。歩いて1時間くらいだよ、と言われ出発しました。
途中、手を振る人を発見。話を聞けば友人の家族だそう。そこで暫く座り、御飯時であったためかご飯をいただきました。そこに30分程度滞在したのち、再び出発。この時点でかなりあたりは暗くなっていました。
途中、また家族を発見、同じことを繰り返します。
「“シャナンジーカ”って言ってみ?」
悪戯っぽい目をして友人にそう言われた悪戯っぽい僕は、迷わず出会ったばかりの家族にそれを言いました。すると爆笑。思わず勢いで言ってしまったものの、少し戸惑い意味を聞いてみると、現地語のシャンガナ語で「美味しい」という意味だったそう。心を撫で下ろしながら、次からも使っていこうと心に誓いました。因みにシャンガナ語でありがとうは「カニマンボ(カニとマンボウ、なんて日本人向きな現地語だ!)」です。
そんなこんなをこの2回を含め、3回ほど繰り返し、最後には友人の持つ携帯の明かりを頼りに家に向かいます。そして真っ暗な中、とうとう到着。さあさあ、ご飯食べて!と出された晩御飯は既に4度目です。うぷうぷ言わせながら、美味しくいただきました(図8)。(家にたどり着くまで結局2時間半~3時間程度かかったと記憶しています。)
図8: マタッパと呼ばれるキャッサバの葉でできたカレーのようなものがよく出てきます。ココナッツ入りです。
お姉さんの家には電気が通っておらず、蝋燭で夜を過ごしました。トイレやお風呂(と言ってもあっためたお湯を浴びるだけ)も外にあり、藁で囲ってあるだけの場所です。勿論天井はなく、満天の星空の中でお湯を浴びました(図9)。これは本当に、最高な体験でした。
図9: シャワールーム的な場所です。トイレもこんな感じ。
寮に住んでいると、よくお金を貸してと言われることがあります。
シャパ(乗合バス)に乗るお金がないから、10メティカル(約20円)貸して、と言われ貸したことがあります。返してもらう前に同じことを2回連続でお願いをされました。そしてそれを「いついつまでに返すね」と言われていたものの、約束の期日までにお金は返ってこなかったのです。次第にその友人も後ろめたさを感じたのか、だんだんと僕と距離を取るようになっていきました。
お金の金額は問題ではありません。ただ、一言「遅くなってごめんね」とか「今返せないから~までに返すね」などの言葉が欲しいなー、と思っていました。ただ、一つ気になっていたことがあったのです。この友人には何度もご飯をご馳走してもらっていました。彼が溢れんばかりに作る料理を、お腹いっぱい食べさせてもらう、ということが何度もあったのです。
「いつもご飯あげてるんだから、お金は返さなくてもいい?」
と言われたら、ぐうの音も出なかったと思います。むしろ感覚的には逆に申し訳ないくらいの交換です。ただ、彼はそれを口に出すことはなかった。恐らく頭にも上ってなかったのだと思います。
これはあくまで個別的な例なので一般化できるかはわかりませんが、彼は僕とは違うお金に対する価値観を持っていたのではないかな、と思っています。例え目の前の硬貨や紙幣を「お金」と互いに認識していても、それに付随する意味合いは生きていきた環境や伝え継がれている伝統など、多くの要因によって恐らく違うのでしょう。
「宗教」「資本主義」など、言葉として共有されている概念は世の中にゴマンとありますが、だからといって自分と全く同じように他の人が認識しているか、と聞かれればそうではないのだと思います。それを強烈に意識するようになった出来事でした。
大学にしっかりと通っていたわけではない自分は、以前より気になっていた日本植物燃料株式会社という企業で3ヶ月間インターンをしていました(注5)。
本当にざっくりと説明すると、「ITを用いて、農業の抱える問題を解決する」ということに取り組んでいる会社です。その中で、新しいプロダクトを農家の方々と協力しながら普及させていく過程に参加させていただきました(図10)。
アフリカではICT(Information and Communication Technology: 情報通信技術)が急速に普及している、よく言われますが、それは事実です。スマホを持つ人も多くおり、またガラケーユーザーでも個人間送金の技術は難なく使います。だからこそ、その技術を用いたビジネスや国際協力に取り組む人がアフリカには本当に沢山います。
ただ、この時に気をつけなけらばいけないのは「そこに需要があるのか。なければ需要を作り出せる見込みはあるのかないのか。あったとしても、その解決策を支えるだけの現地の人のキャパシティがあるのか」ということです。
どれだけいいプロジェクトでも、効率の良い製品でも、現地の人からの引きがないと成り立ちません。ビジネスをする側が現地の人に良かれと思って行うプロジェクトでも、相手側が求めていないことだと、そもそもスタートラインに立てないのです。
ただ、現地の人は外からやってくるプロジェクトを「援助」と捉え、拒まず受け取る傾向にありました。オッケーされた、というところが必ずしもスタートラインではないのだなというのは実際に携わらせていただいて痛感したところです。
また、どれだけ理論上はうまくいく仕組みでも、現地の人のキャパシティを超えた仕組みではそもそも成り立ちません。鍋も食材もないのにレシピだけは持っている、そんな状態でしょうか。上でも書いたように、現地の人が認識している世界は、僕らが認識できている世界と違うことが往々にしてあります。
その細かな違いや、キャパシティをしっかりと見極めなければ、どんなに良い仕組みを持っていても成功しないのだな、と実感しました(注6)。
図10: インターン中の一コマ。マプトから車で1時間離れたBoaneという場所に何度も通い、何度も農家の方々と打ち合わせプロジェクトを進めていました。本当に貴重な経験でした。
今、アフリカというワードは至る所で目にすることができます。2019年には日本政府が主催するTICAD7(第7回アフリカ開発会議)が横浜で開かれるということもあり、益々盛り上がっていくことでしょう。
「アフリカ」にはピンと来ても「モザンビーク」はどこかわからない。そのような人はとても多いのではないでしょうか。55カ国も存在する場所を、一言で「アフリカ」とまとめて違和感なく言えてしまう、そんな場所はなかなかありません。自分も留学する前は簡単に「アフリカ」と括ってしまっていました。
一方、モザンビークの人たちは僕のことを見て何度も「中国人!」と叫んでいました。街を歩くたびに「ニーハオ!チョンチャンチョン!」と声を掛けられます。「日本人だ!」と言い返せば、「ああ、日本人なのか」と悪ぶれることもなく笑ってきます。彼らからしたらアジア人はだいたい中国人なのです。
「アフリカ」では東アジアの「自分たち」が住む地域が一括りに「中国」と思われてしまっている、そんなことが起こっているのです。まるで僕たちが55カ国をまとめて「アフリカ」と呼んでしまっていることの裏返しであるかのように。
ラテンアメリカ地域専攻の中でモザンビークに行く人はなかなかいません。「はぐれポル科」なんて呼ばれたこともありました。ただ、学生生活のなかの貴重な1年をモザンビークで過ごせて本当によかったなと思っています。「アフリカ」に対する解像度を少しでも上げることができた、自分の中の当たり前を少しでも相対化することができた、とても価値のある1年間でした。
ツラツラと長く書いてしまいましたが、そろそろ終わりにします。
もしもモザンビークに行きたい、そうでなくてもアフリカのどこかにいってみたいと思う人、直感でもいいと思います。ぜひ行ってみてください。間違いなくそれは大切な時間となるでしょう。
(注)
※質問等ある方はいつでもこのアドレスに連絡ください。お待ちしておりまーす!
塩崎諒平 E-mail: iverson3.orl@gmail.com
最終更新:2019年3月31日