視聴草は江戸時代後期幕臣の宮崎成身の編纂による写本で100分冊程の量があるが、ここでは第四集の十分冊から渡天之説、無人島漂流之記、赤夷風説考を読む。
〇渡天之説は江戸時代初期に東南アジア諸国と朱印船貿易が行われた頃、暹羅(タイ)に渡った徳兵衛の話で虚実混じったような記録であるが外にないことから多くの写本が作られている。
〇無人島漂流之記は江戸中期に土佐の船乗りが漂流して無人島(伊豆諸島と小笠原諸島の間の鳥島)に上陸する。その後漂着した大坂の船、日向志布志の船の生き残りの人々が流木で船を造り、総勢14人が帰国を果たす。最長島滞在者は土佐の長平13年。
〇赤夷風説考は18世紀にロシアがシベリアからカムチャッカ迄膨張し、更に千島列島を下ってくるので蝦夷地(北海道、樺太南部、千島南部)の危機を感じた幕府は蝦夷地の開拓、調査に力を入れる。 最上徳内(本田利明の弟子か)も1785年蝦夷地調査を命ぜられて1798年迄七回蝦夷地に渡っている。本書に採録されているのは本田の赤夷風説考序と最上によるロシアのロマノフ王朝系譜と勢力圏拡張の情報(オランダからの情報か)の赤夷風説考である。尚目次にある三厩渡海記、於闍曼辺山行記、血凝岸独行記は1799(寛政11)年松前藩領の巡見に幕府から派遣された幕臣遠山景晋(後に長崎奉行)の記録の写しと思われる。
視聴草四集之十(出典:国立公文書館内閣文庫)
〇渡天之説
拙者儀大坂上塩町ニ罷在候宗心と申ものニ御座候
入唐渡天之儀今度御尋被遊候ニ付見分仕候天竺
之儀有増申上候
一往昔者日本より天竺江之商人御 免被遊候衆中
ハ角倉与市・茶屋四郎二郎、平野屋平四郎、駕籠
屋、紅屋此五人ニ御座候、拙者儀角倉与市商舟の
船頭前橋清兵衛と申者之書役ニ被頼、十五歳にて
寛永癸酉年十月肥前国長崎柚田を出舟仕 *別本 長崎福田 *1627年
翌年寛永十一甲戌年三月南天竺摩河陀国 *摩羯陀(マカッティ)は暹羅(タイ)の旧名(通航一覧)
P4
流砂川ハンテイヤと申所に着舟仕候、中年壱ケ *メナム川入口のバンコックか
年逗留仕、三年目亥四月三日流砂川之口出舟
仕同八月十一日長崎着船仕候事、今年宝永四 *1767年
年拙者義行年八十九歳ニ而只今剃髪仕罷在候
一日本より天竺ハ南方にて土地之気至極暑気
強三四月比より六七月迄ハ少し涼敷御座候へとも
日本の夏より暑御座候、八九月比ゟ明二三月迄ハ
格別暑御座候、依之一日之内二三度ツヽ水をあひ
申候摩河陀国之領内にて真木江千里御座候、都
よりの道程是よりモフルまて千里、それより
桟留迄三千里何れも皮類織物類色々売出*サントメ インド東海岸のマドラス
し申候、此所ハ都より殊の外暑き所にて往来
之者車に乗通ひ申候、若車より落候へ者焼死
申候て身胃羅(ミイラ)に成申候
一角倉与市商船長弐拾間横九間の船にて人数
三百九拾七人乗り候而渡海、其後天竺江渡り申候
節ハ阿蘭陀人ニ而ユウスと申人の便船仕渡り申候、*ヤン・ヨウステン
中年壱年休十九歳ニ而又々渡り申候、十一月十四日
長崎を出船、明年二月十八日摩河陀国江着船仕
翌年八月十八日日本江帰国仕候
一長崎より九十六里未申の方へ走り高砂、此国長サ
七百五十里、此国の都より廿三里沖の方にウタウ・
ダテンと申二島有、此方の角ハ琉球国、未福州 *未=南南西
南京の方ニ当り申候、是より六百里西の方へ走り
広東の入口天ノ川と申候所、此天の川深サ九百 *天川=マカオ
九十尋御座候、大明へ続キ申候、此処迄日本の地
より北斗の星を目当に磁石を以て方角を
伺走り申候、是ゟ北斗見へ兼候ニ付、南之方大クル
ス小クルスと申星弐ツ御座候、是を目当に走り申
候、天の川より三百里南へ走りヒロウ鼻と申所 *海南島の向いの半島か
御座候、此所は南京の都堺目ニ而三百里西へ走り
カフチトロンがダケと申所是より西へ続キ大山有 *交趾トロンガ嶽?
此所達磨大師誕生の地也、是より四百里走り *4世紀南印度出身 禅宗祖
東甫塞(カボチャ)ホルコントウロウと申島を過て是より
八百里北向の隅に走り候へ者摩河陀国の入口流砂
川、是を過長崎より舟路三千八百里有之候、但シ
異国ハ六町を一里ト申候、依之日本の三十六町壱
里にしてハ大方六百四十里程にて御座候、彼流 *メナム(チャオプラヤ)川
砂川ハ暹羅国の境目にて日本の御朱印ヲ改
申候、摩河陀国の都王城江早船ニ而手形を呼 *アユタイ王朝の都アユタイか
p6
返し申候、右暹羅国のテイヤの城主ナヤカウホン
と申者ハ国の侍大将にて位ハヲフウと申て
右大臣の位にて御座候、此ナヤカウホンは生国日本
伊勢国山田御師の手代にて国々を相廻り申候
何方ニてか致欠落長崎へ参り日本の御尋もの
にて折節暹羅国の船致出船候ニ付便船仕
暹羅国江渡り国王の下知に依て所々の軍陣
に高名致候故国王の婿に成、其上暹羅国
一国を譲り□請大将と成日本にてハ山田仁左衛門
と申候、天竺にてハナヤカウナンと申候、侍ハナンマン
テウとも申候、何れも帝王の御番ニ出申候、右の
ハンテヒヤより廿七里河上懸り笹と申城 *別本うりうさら
御座候、此所空海と文殊と参会之所にて御座候
此所ゟ廿五里河上大海と申都御座候、是より *アユタヤ王朝の都か
流砂川七十五里暹羅国のテイヒヤタイと申 *別 テビヤタイと申寺
寺御座候、須達長者の屋敷跡有之候 *紀元前6世紀 インドの富豪
一摩河陀国のテイヒヤタイより七里過長さ廿里
続き候堂三つ御座候、但シ日本の道の里にて壱ツ
にてハ百廿町宛ニ而、此尊像何れも釈迦如来に
て東向立像南向座像北向寝釈迦の像則
p7
土像御自作佛躰の大キサ難計、自然と山を
彫尊像となし、其上に堂を覆作り申候
やうに相見へ申候、佛の御手大キサ厚サ三間余
此堂の柱太サ十五人手を合せ拾五廻り釈迦堂
軒の下八拾間余御座候、何レ通筋ハ町屋ニ而
釈迦堂町と申候、爾今至り諸人年忌の志
有之ものハ尊像にも堂にも箔をぬり申候
ゆえ金佛の躰に相見へ申候、この三つの大サ夥し
く高サも廿里にて天竺に大山数多有之候得
とも海上より山のたけ遠所ヘハ相見へ不申候
此三つの堂計見へ申候故目当に致船乗申候
一祇園精舎之堂四つ合せたる大キサにて御座候
摩河陀国の都より四拾六間川上ニ霊鷲山
御座候、山の高サ壱里程幅八丁長サ十六町、此山
の岩上に釈迦如来御説法被遊候由申候、此岩の
高き所に釈迦如来の座像御座候、御手水有之
都より此所まて四十六里丁続にて毎年
三月末ゟ四月中比迄市立申候て諸人集り申候
霊鷲山より四十三里川上に流砂川の半は覆
ひ懸り候而座禅石御座候、此岩高さ三十弐丁則
P8
座禅石と申候、諸佛御在世の時座禅被成た
る霊地にて御座候、此所に諸仏の堂有之、二里
川下に恒河川の川口と申候、恒河川の長さ千弐百里
程御座候よし所之者申候、日本の二百里にて
御座候、流砂川の上江七十里登り大海と申都是
まて唐船通此所に関所有之、唐船を通し
不申候、天竺の小舟計川上江通り申候、川下より
川上江通行戻り八年程にて上下仕候、彼川
上下御座候、タンドクセンまてハ参り不申候、川上の
奥何程と申事相知れ不申候
一チヤロクヨンヒウヒルと申所江摩河陀国よ
り八百里、此所ゟ色々皮類鮫類なと多出申候
是迄摩河陀国領分にて御座候、此所より未
申の隅に当り南蛮国にてイヌイほりときす、*乾ポルトガル
いきりす、ぬいすくぁんよろ、ダントクセン、阿 *イスパニア
蘭陀国何れもつづきにて御座候、霊鷲
山の廻り多羅葉御座候、釈迦如来御説法の時
多羅葉色々の文字居りてイヒヤタイの長
者此葉壱枚申請日本へ持参シ則播州高砂
P9
十輪寺江納申候、イヒヤタイの長者は私宿天
竺にて木下六右衛門と申者の女房、右之長者の
妹にて御座候、此縁を以て申請候、右六右衛門ハ日本
にて三百石程の侍にて帝王の御番衆にて大納言
の位之由申候
一南京・東京の境、万里ケ瀬の末に釈迦堂の口
にて御座候、摩河陀国にヤシホと申菓子御座候
日本の梨子の如くなるものにて大サ日本の
梨子ほと御座候、諸毒を消シ其外効能多し
天竺之者調給申候、此ヤシホの皮半分に水三合
ほとツヽ入申候、常の水吞ニ用申候、実をハ天竺
にて売買仕候、銀壱匁ニ壱斗七八升程宛仕候
一伽羅出申候山ハ中天竺の内チヤロクコン山より
出申候、彼の方ニても伽羅と唱申候□林御座候
此林の伽羅ハ八月切、来三月迄ニ上皮を切、悪し
き所を沈真船盤と申能所を伽羅と申候
珊瑚樹ハ流砂川の口、恒河川・南京川の口、天ノ川
抔に大分御座候
一天竺にて種々樹木御座候へとも松ハ無之候、竹
ハ大分有之候、殊の外大竹にて大サ四囲程御座候
p10
筒なとハ漸々小指の通候ほど御座候、それ故
家作の柱、梁、引物ニ仕候、畳は籐筵ニて御座候、惣
て天竺之人物ハ日本の人より高ききりやうニ而 *器量
御座候、男ハ耳より下を剃、頭のうへに髪を
置申候、南京の風も同事にて伽羅の油を
用ひ申候、日本之油とハ違イ誠の伽羅の木より
油を〆出シ水油と申、身にも油をぬり申
候、髪ハからわけに仕候、衣類ハ単物のやうに
襦袢を着、前の方を取拵下帯のやうに
拵たる物を上にはめ申候、別はめと申候
男ハ十徳のやうなる物を着候て□包丁の
様成物腰に指、日本の腰刺同前ニ御座候
一男女上下ともに天冠と申ものをかふり申候
上官はいんす、下官ハしんちうにて拵申候 *印子=純金
一出家ハ途中にて女に逢候ヘハ其侭道の方脇
へ片付居候而女の通たる跡直に通り不申候、男
の通候まて相まち男通り候へハ其跡へ向チャカ*男→女か
と云て十念唱へ其男の通たる跡を通り申候
チャカとハ釈迦と申事のよしニ御座候
一天竺の俗、日本の俗を見ても両手を合せチ
p11
ヤカと申て殊之外敬ひ申候
一米之事春植候へハ三月と六月と十月と
以上三度ツヽ出来申候、三月と十月とハ中米
六月出来候ハ上米と云て納米ニ仕候、わらハ取
不申候、穂ハ穂刈に仕跡其侭置申候、二度目
も穂刈ニ仕、又其跡より穂出候て十月刈申候
一ヶ年ニ三度ツヽ米取申候、藁長サ五尋ほど
御座候、俵太藤にてかますの様なる物を
拵、米四五斗ほとツヽ入申候、是米は大粒にて
日本の米二粒かけニ而御座候
一馬は日本の馬より小さく御座候
一じゃこう犬ハ鉄砲ニ而打、其侭胃を坪に入
土中に埋申候、程過候而掘出し売申候、むさ
き物ハ所ニ而もきらい申候、しゃこう犬に似たる
ヒロウと申獣有之候、是を見違打候へハ直に
捨置申候
一天野川、恒河川、流砂川種々の川魚御座候
蛇多く有之、此川にて子供水あび申候時
筏を懸、其内にて遊び申候、然とも時々子共
蛇ニ被捕申候
p12
一流砂川深サ七十五尋御座候て川端も殊ノ外
広く岸白砂河原ニて御座候、日和能候時ハ蛇
河原へ上り昼寝仕候、殊ノ外鼻息強きものニ
御座候、寝懸候へハ大躰の事ニ而ハ起キ不申候
蛇の寝たる時所之者見付候へバ大勢寄合、声
を立不申大きんる丸太を持参、蛇の胴を縄
ニ而そろそろまき付棒しばりにして生捕に
致、大サにより二三十人或ハ五六十人にて荷ひ
参り候て日本にて鯨の様に切うりに仕候、料
理ニ遣ひ給申候所風味日本ニて鹿の味に御座候
此蛇の鱗を惜ミ申候テ他国へ出シ不申候謂御座
候候由、帰国之節鱗三枚懐中致候もの壱人
有之候て流砂川の川口出船ニ及候時一番船出
不申候、其時船人申候ハ,乗候衆の中ニ蛇の鱗
御所持の方可有之と致詮儀候ニ付是非なく
鱗を取出し捨候へハ無難其侭船出申候
六兵衛と申者所持仕候、此六兵衛儀中天竺カホ
ウチヤ迄一両度渡天仕候者にて御座候、蛇鱗ハ
小判ほどにて黒ク青キものに御座候、惣体は
日本にて絵ニ書候通ニ見へ申候、天竺にて万織
p13
もの・鮫・珊瑚樹の色々の物売出シ申候、綸
子上々一巻ニ付、代銀拾六匁より十壱匁位迄
仕候、伽羅出候所ハ沢山無御座候間高直ニ御座
候、紫檀・白旦・黒旦抔は日本の薪同前ニ大分
御座候
一海魚川魚沢山御座候而日本に替り不申候、諸
鳥多料理に遣申候、大方生鶴にて御座候
しめ売ニ仕候、壱羽ニ付三匁弐分位仕候、日本ニ而
鶏のごとく家々に置申候、孔雀ハ家々の
庭ニ飼置申候、鳳凰通り候得者孔雀ハ夫々
家内へ遁込申候、孔雀も大鳥に候へ共鳳凰ハ又
格別勝れ夥しく孔雀を取喰ひ申候、鳶
鳥に多く御座候、烏ハ白ク御座候、鳶ハ日本
の鳶同前也
日本ニ而舟積仕天竺江参り候もの蚊屋・扇子
から笠・塗物・鉄砲類ニ御座候、脇さしハさして
望ミ不申候へ共自分の持来の外無御座候、天竺
より買取候もの糸類・織もの・薬種・鮫・珊瑚
樹・伽羅・紫檀・白檀・□皮類其外売買物各
心次第調申候而舟積仕候
P14
一日本よい天竺江渡候水主八十人ニ而御座候へと
も右記申候、海陸・南京・東京・漢唐・南蛮国
阿蘭陀国・ジャガタラ・小人筋案内・言葉通シを
吟味仕、巧者なる人、道ニ而雇申候而参候故天竺
江参候節ハ三百九十八人相渡り申候
天竺通詞 但舟方の分
一タイアン 楫取の人 一アハン 舟ノ帆上ル人
一タコン 帆手綱配ル人 一メウニン 碇ノ役人
一ミテン 三縄三筋遣人 一テウカウ 荷物積人
一サテン 舟目付雑式役 一カサツケ 物書役人
此通ニ而唐地ハ前記申候通ニ御座候
前々申上候外溪観寺清立山と申寺、弘法
大師渡天の時より有之候寺にて祖師達渡 *達磨か
天之時、中天竺之内江御着被成御座候由申候
渡天仕候節大阪惣年寄
三人 淀屋 孝安
大塚屋心斎
塩屋 道意
長崎御奉行竹中采女正様
今年宝永四年迄七拾四年ニ相成申候
p15
大坂上塩町
徳兵衛事
宗心
〇岸本浦長平無人島江漂流之記
天明五巳三月五日之記
一三枚帆一艘 舟頭水主四人乗
赤岡浦儀七船沖船頭
重助
水主長六
長平
甚兵衛
乗加り一人赤岡村 源右衛門
右者今正月和食手詰両浦御蔵米田野奈半村
両浦江積込被仰付、近着御米夫々両浦江岡揚致
し、船頭重助儀者奈半利浦江御蔵払ニ岡揚
致し候中、殊之外波立其上片灘之儀に付帰
帆之心得を以乗出し、赤野沖迄罷越候處、俄
に西風吹出し彼是致し申うち夜ニ入、それ
より何方ともなく吹流され行方相しれ不
申候付、相尋候得とも行方相知不申候段赤岡
P16
庄屋役人奥書を以申出候
一天明五乙巳正月廿九日土州香我美郡赤岡浦松屋
儀七船頭水主四人乗
一正月廿九日御用船相勤御米積出候ニ付殊更かた灘 *片灘 地形困難
にてハ有故水主一人乗加へ五人にて積入、廿九日出船
仕、田野浦奈半利浦両浦より卸方上納仕候
に付、船頭儀七船切手等岡江持上り諸首尾仕折
節、日和悪しく相成直ニ船は湊江乗廻す節
湊口より暮六の大西風に相成、羽根先半分乗
土楫を傷ケ、せん方なく流出候ニ付、碇を入綱の
しつてをともに取り持綱三房へくくり付 *尻手
碇同様ニ引せ西風まとも流るゝ也、其夜半過
頃岬半道ゟ沖有り岬を見立申候 *岬半道程沖より
一二月朔日早朝見廻候處地方ゟ二十里余可有哉
津呂の岬者下地ニ見へ阿波の泊り之隅は上地に
見へ、朝五ツ時分あなし北風火花を発して *朝八時
吹出沖をさして流るゝ也、九ツ時分に外とも相 *昼十二時 外艫 楫廻り板
落し水はずつい流し、同八ツ時分地山等も *午後二時 *飲用水箱
霧の様に相成見失ひ、何国ともなく流行
一二日あなし北風強く四ツ時分こしあてゟとも *北西風
p17
上廻り打落し候ニ付け、くゝり付て海へ行、喰
事ハ水ハなし汐を以米むし汐を呑て
流る事三日、同四日ハなぎにて碇を上ケ東風強
く雨を懸波高く最初くゝり付置候分又々
打落、碇を入天水をはし船へため流るなり
五日同寒晴西風に流れ舟道具皆々打落し
坊主ふねに相成流れ行、其内火種失ひ申候
六日同流、七日ゟ風にて九日十日とも流次第に夜
を明す也、十一日の朝四ツ時分道法四五里に当りて
地方を見立皆々力付島地へ着船を祈れとも
ろかひに不及みなみな流る、十二日昼頃ゟいなさ
東風に成それより帆をとき分横帆に懸て
流る也、其夜も明す十三日も流る、日暮時分島地
へ道法二里半計りに近寄、夜八ツ比島の前に
着船、碇を入て掛るなり、島の様子を船より
見るに山に直に波うち懸る様子ニて上る所
もなく見へ申候、七ツ前より風強可成碇もすれ
切候故其侭岡へ打寄上る也
一長平申口無人島廻凡二里計山上三ツに分絶
p18
頂十七八町程可有之、北の方ゟハ上り易く
南険阻也、北裏に岩窟三ツ昔より有之、其後私
拵是ニ住居仕候、茅ニ而敷物又鳥の毛を編之
敷物仕候、全体荒磯にて船の可着所無之、其
内砂浜少く有之とも大石浜ニて船着不申候
一右島の島外に島ひとつも不相見沖に流れ
四十里ほとも有之島有之と聞伝申事ニ御座
候得共不相見、無人島ハ方角大抵八丈より辰
巳に当ると相考られ候
一水無之天水を溜置日々用水ニ仕候
一冬も暖ニて正二月と覚敷頃寒く一両度
霜降申候、夏焔の頃雷鳴折地震仕、夏ハ殊之
外暑仕、岩焼カことく夜八ツ頃迄暑気さめ
不申候
一磯辺に蠏居申候、夏中ハ是を取給物にも *蟹
いたし候得共スストキ者ニ而三尺飛候ゆえ手に
取事相ならず石を投打殺し申候、ハタ織
虫夏冬居り申候、其時虫類居不申候、蚊も居不申
処其水を溜候已来水溜ニホウフリセハキ、其後
蚊に相成□沢山ニ相成、蝿も沢山ニ居申候
p19
一ダヒシ茅沢山に有之、柴ハ栗の柴のごとく木
のなかに又通り枦ノ実のごとく実のなる木あり
伊豆国にてハまめぶし八丈島にてはシトマノ木、右
之木有之、是を伐炭焼サツマニテはイツすキノ木
と云木に似たる木の皮を取り糸に致し
鳥の毛をあミ蓑のごとく袖などこしらへ着仕候
一島に惣身白く羽先少し黒き鳥、胴さしわ
たし七八尺計此嘴長五寸あり、大鳥沢山ニ居
申候、是を喰物ニ仕候、都而人に不恐、後にハ近き所
の鳥ハ少し人に恐れ候得共遠き處に居候
鳥ハおし分不申候而ハ通られぬほど居申候
卵ハ大ク殻に水弐合計も入へし、子鳥のう
ちはトフクロウと申鳥の如く黒く四五月
時分唐へ渡り九月頃に帰り申候、嶋□鴬年
中居申候、形地方に替る事なし
一四月頃ゟ七月比迄花咲木有之、松の木のごとく
有木なり、葉はハイタフに似たり、花ハ白し
中に青き有、草類ハ大黄・佛の座・ヲヽバク・春
の朝顔有之、ノベカツラのごとく実のなるカツラ実
南天のごとき初ハ青く後ハ黒くなり此汁
P20
をとり酢に仕、魚を漬給る此草を伊豆
にてはエビツルと云
一六月比大暑之節岩の凹の所に溜候潮自然
に干上り候をとり集塩に仕候、一人前一ヶ年
分壱斗ほとツヽも取集申候
一潮ハいつにて目の下のごとく参り申候
一大黄の葉をとりたばこに仕、カル石をす
り割き替留に仕候 *キセル
一日和不定秋ハ北風冬ハ専西風吹候得共時
により南風三四日も吹詰申候
一方角者日の出入ニて東西を定、日を覚候得者
大抵三日月満月等にて覚申候、大坂船参
候節今日ハ二月四日にて候哉尋候處其通
りにて有之覚を違不申候、窟二ツに遺骨
と相見へ候もの二ツ有之、昔の流人の骨にて
可有之哉
一岩窟のうち何も無之、鉄のクサリ候物有之 *腐り
其外板二枚有之、一枚ハ遠州船と申文字
相見、一枚は江戸宮本谷八船と記有之委
敷ハ相知り不申候
P21
一源右衛門相果候節は三人にて取納、長六・甚兵衛
相果候節ハ長平一人にて取納、土州何某々と
記し、□□ハ大坂船之船頭仕、幾年経候
ともいたみ不申様に仕置申候、右改葬之節
三人の髪、歯、骨少々取置本国江帰り候節
者懐中仕居候處、八丈島にて御役人被仰聞
候者、公儀之御船にて乗参り候儀ニ付、右等
之品者不相成、此島に葬候様被 仰付候ニ
付、八丈島べ浄土宗宗福寺境内へ葬方仕候
一在島中山の絶頂へ登り見候へとも島山不
相見、通船見越不申候
一四年目の二月四日大坂舟来、是より火出来
右舟に鍋釜二ツ、面々衣類等取揚、其後薩摩
船ノミ・カンナ・ノコキリ・ヨキ取上来り、夫より帰
国の船造り立、船の割れ板其時磯寄之木
等拾ひあつめ、長六尋、三十石積位之船に造
り立る、最早長三尺巾六寸計之小船を手本
に造り、是を見て造り申候、皆々寄木ニて
拵候間、二年程も懸り申候
一此島荒磯にて船下シ候事不相成候為五年
間に中一丈五六尺計に切抜、其所より
船を下し申候
一薩摩船来候者乗組六人戌正月廿九日御座候
一右島出船之砌御鬮を上、六月八日戌亥の方へ可
乗行と御鬮出候ニ付、同日出船海上五日五夜ニ
青ヶ島へ着仕候、青ヶ島ハ廻り三里半以前ハ男
女四五百人も住居之処、近年山上の地より
焼出亡所同然ニ相成、八丈島へ遁渡只今九人
居申候、役人広江太兵衛とやら申候得共
覚不申候、山上凡一里半田畑有、今ハ水なく
砂原に相成申候、六月十三日ゟ七月八日迄青
ヶ島に住居、夫より水主二人乗八丈島へ渡ル
一即乗来候船、又鳥の毛ニ而仕立候着物四枚
八丈島へ被召上、八丈島御代官三河四太伸様と
申候、八丈島ニ八十四日居申候
一長平二十四正月流され十三ヶ年在島、今年
年三十七に相成申候
右者寛政十午年二月八日聞書
一八丈島御用船御船頭服部源吾・小役人勘平
此勘平江戸迄一所ニ罷越、長平始十四人其他
P23
仕十人乗四百五拾石積
一九月四日八丈島出船同七日伊豆須崎へ着仕同
十七日相州浦賀へ入津、廿日浦賀出船廿二日江戸
入津、同廿三日八丈島御代官三河四太伸様御役所
へ出る、鉄砲洲十軒町伊勢屋庄次郎方宿ニ
仰付御賄ハ 公儀ゟ被 仰付候
一十月十七日詮議相済、当方御上屋敷後藤
弥右衛門罷出請取
一午二月十日右長平二ノ 御丸御次口へ罷出候様
被 仰付、即罷出在島中始終共達し
御聴被 遊、後日に銀三拾匁拝領被 仰付候事
十四人之者八丈島ニ而之口書
一土州香我美郡赤岡浦松屋儀七船四人乗に
て漂流いたし、天明五巳年無人島へ漂着、二ヶ
年之内三人病死、一人相残十三ヶ年在島仕此
度帰国仕候
一摂州大坂小堀亀次郎船十一人乗にて天明七
未年漂流仕、翌申年無人島へ漂着戌亥両
年に二人病死九人相残、十ヶ年在島仕此度
帰国仕候
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一日州志布子浦山屋三右衛門船六人乗にて寛政
元酉年漂流翌戌捻無人島へ漂着仕、丑年
迄両人病死仕り四人八ヶ年在島、此度帰国仕候
右十四人之者寄木有之節拾ひ上、凡三ヶ年程
相懸り船出来仕候間日之出を以南風ニ
十四人乗組出帆仕、風にまかせて走申候處翌日
昼九ツ時頃着船仕、右島ゟ御案内被下候而岡揚
仕候、承候得者青ヶ島と被仰聞、尚又年月承
候處寛政九巳年六月十三日之由承知仕候、右
青ヶ島同年七月八日迄罷在則青ヶ島ゟ水主
弐人乗組被 仰付都合十六人七月八日五時出
帆、同日昼八ツ半時八丈島へ着船、早速御引上
被下、此上便船次第江戸表へ御差出可被下旨
被仰渡重々難有仕合奉存候、右之通漂流
共右島在命之次第少も相違御座なく旨
口書差上申候
土州香我美郡赤岡浦
松屋儀七船水主
寛政九巳七月生国土佐国真言宗 長平印
〇赤蝦夷風説考序
俊廟の御時天明六丙午年春
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本朝の属島」蝦夷国境 御見届けの御用被
仰出たり、依之彼地江人数被為差遣るに極
れり、然るに東都よりハ遥に数百里を相隔
たる島なれハ土地風気の異なるは必然たり
因て百菓百穀の出産に豊饒せると豊饒せ
さるとハ皆是北極の出度に因て検査する
事にして則天文算数の預かるところなり *也
於是余密に思ふに何卒御国恩の難有
さを思ひ、遥に謂を役其筋の者に便り
是を請漸々成て余末弟(最上徳内といふ無縁人)を彼地
の瀬端に遣したり、所謂蝦夷地先陣也
いまた此者天文算数ハ未熟たりといへと
も彼土地風気の異なる事を検査の一助に
もなれかしと思ふの微意なれハ彼地の諸島
人渡海して北極台地を測量し、以て農業
耕耘の時代知りて彼地の土人に示さん事
を所希なり
赤蝦夷風説考
ペーテルベルゲ(ぺーテルとは亡君といふ事則ムスクベの
国主にして尊崇の言葉なりベルゲとハ名の事)□謂
遺訓甚多し、後代皆此ベルゲを以て亀鑑規
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成とす、是より後紀綱大に振ふ、嗣世子いまた
幼弱なるゆへ遺訓によりて皇后位につき此時
ペーテルの徳沢盛になりけれハ民皆妣に
喪するがことし、此女帝ヘーテルにもおとらぬ
英才となりけれハ則号令を出して天下
万民に示していわく、民の父ハ登天し給ひ
たれとも民の母ハ此にあるなれハ必神を
いたましむる事なかれといふ詔を命し
給ふとなり、天下万民是を聞伝へて悦伏ス
といへり、此帝の名をカタリナといふ、属国・属 *カテリーナ一世
島近隣国まても甚敬ひて貢物を致ス
となり、紅毛よりも此時使節を通ず、帝 *オランダ
をケイセル、后をケイセンといふ、一千七百二十七年
享保十一年崩す、年四十七在位三年十七条の遺
訓あり、幼主ペーテルテウヘエ嗣一千七百二十六ヘーテル
ヘートルイジュといふ亡君ありとなり *幼帝は三年後痘で死す
一先帝ヘーテルゴロードの姪カンナイハンノ宗嗣て *アンナイハンノウチ嗣て
女帝となる、父名イハンカレキシウイツツといふ *イハンアレキシウイツ
ヘーテルゴロードの別腹の兄一度位をつきたり
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眼病の人の子なり、一千六百九十三年元禄八年 *アンナの事
に生れて一千七百四十年元文五年崩ず、在位
二十五年年四十六、此人始之内ハ先規をまもり
よろしかりしが晩年にいたりみたりなる
事など有となり、惣して法令もくづれ
よろしからざる事も有しよし、崩後子
イハンテリイ嗣、初生数月ならぬ幼子とて(此人
誰か種とも知れず、アンナのうみたると也)
此所いまた詳ならず、よの悪き也
其翌年千七百四十一年寛保元年十二月五日の
帝都下大騒動する事あり、依之評議決て *都(むスクハ)
エリザベツト嗣(エリザベットはペーテルゴロードとの女なり)
右の書はヘーケレトの書
にハ此所迄有りあとはセヲカラアヒといふ書に
記しつぐ
一一千七百六十二年宝暦十二年エリサベット崩して
女帝カタハリイナテウエ嗣、一千七百四十四年延享二
年七月九日生る、系未詳、一千七百八十一年天明
元年年二十七即当今女にて女主也、英明賢い
良なるよし、性アレキシユク(アレキセイシュカ)
〇オロシア開業の次第、国々を従へる事
一暦元より一千五百十四年日本永正十一年帝号
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を称す、一千五百二十年天文十九年トホルスカを
領し(是ハ東方亜細亜の堺内なり)一千五百九十二年天文二十一年に
カザンを従伏す、一千五百五十四年天文二十三年に
アスタラカンを従伏す、カサンは北高海の西北なり
(アスタラカンは北高海の北浜也)一千六百四十四年
寛永十七年イルクツユイを従伏す、これも
亜細亜の堺にあり一千六百八十九年貞享十二年
ネルトシキンスユイ、(ネルセンスユイともいふ)の内
ネルトシキ・ネルセンスユエイといふ所に城
を築き唐土境を固くす、城とハ長城の儀也
長城に関を置き、此所より唐土の北京の支配
とオロシアの皇儀と使節を交(ネルトシキンスユイ
韃西韃の北の方の国スーク則古の韃西韃の古国ナリ)*韃靼
一千七百二年元禄十六年インケルマラントを従ひて城
を築く(是ハヲロシアの西北にあたりエウロハの堺口なり)
一千七百三年宝永元
年に此処に皇城を建つ、此所ハ前条に所謂
シュジヤの国堺也、北帝則ペトラルなり、城下の名
をペテルスビユルク(ビユルグとハ山といふ事ス助字なり
此後ベルテルの事をヘーテルヒユルグとも書なり
一千七百一十三正徳四年カムサスカを伏従す(是ハ則赤夷也)
一千七百二十年享保六年にレイソランド伏従す(是ハ則皇城
の近隣欧羅巴の堺の内也)一千七百二十四年享保十四年センスコイ
に城を築きて唐山と堺を固め交易して
大に営利を得ると云、以上三関をすへて唐山
と交易す、同年カピタン往来何某カムサカの島に来
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りて是を談す(是ハ赤夷と口蝦夷の間の千島の内の島たるへし
当安永九年に来たりし紅毛人の物語を通辞何某に尋るに蝦夷の
千島の内を段々伏従して島毎にとり手をかまへ城郭を築くと
いふハ別此類の事)島人島名
を請ふによりて名つけて同サンクトラロウシレスと号す
一千七百三十三年享保十五年女帝アンナの時にカム
サスカ背きしに程なく従ひ、是より以後女帝
命令に依て唐土と日本とへ通商をなし
て両国の強弱虚実をも視、交易を為した
きよしの評議ありし事と見へたり、又
女王アンナの命に依て時の官人ベールヘルヒアと
いふ者(ヘール大夫とふ事ヘルヒアは人の名也)勿爾蘭徳
(ホルダンド)のゼイカピタンスハ
レンベルグいふ者同道してカムサスカ南、日本
の地方へ吟味せんきにゆく、此時にヲランダ人
セイカピタン計先へゆく様にきこゆ(セイカピタンとハ
セイは海といふ事、カピタン将といふ事、此方の番頭旗頭
の類なり、此所別て入組慥ニハ誦ずて猶解しかたし、前後の
文勢にて見れハ海上の事をとかくヲランダの人にハ不及に
よりて海の上の巧者なるカピタンたのミて案内に連れ行き
たるか、去ながら案内者計りにてなく役人にして遣したる
やうにも聞ゆ、何にしてもヲランダと甚以親しき事と見ゆ)
扨赤夷カムサスカより南ヲロ
シヤの領内の島々を乗り越て行く先き三十
四島あり、此島の内へ上らんとする所に島人
さゝへてあけず、此時クルの人を船中に載置
たりけれは(クルとはカムサスカの南の鼻の地名なり、此所ハ
蝦夷近所夷人の通弁にてわたる)
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通弁ハかりて夫より能き島にあがりたり、此 *分かりて
島の人慈愛ありてよく恤む、此島好き草 *あわれむ
木の菓穀の出産する所にて其産物を採り
て船に積行帰帆する、此島に滞留するに
さしてあやしミせんといへり(是ハヲランダのセイカピタン*別もせず
計行きて此趣を飛札を以申越ス為にて跡より来るヘールベルビダ
行合たれハ行くに不及、帰り参るやうにきこゆ、文言解しかたし
趣意は此通りときこゆ
扨此両人評議にはシイナ(唐の事なるにや)ヤツハン(日本の事也)の交易ハ
此筋ゟ取り入るよしと了簡すとなり、一千
七百三十四年享保十九年カロウシユスを従伏す
是はラニャの後ろヲロシアの東南の地アジア堺)
一千七百三十五年享保二十年
ヲレンヒルグを従伏す、一千七百四十一年寛保元年
カピタンヘリクス云々此以下翻訳しかたし、暫く
措く(如是の記事を見れハ破竹の勢と見ゆ、恐へし)
一亜細亜の北韃而靼の故国惣名シベリヤと云図説に
有りし通りの大国也、近来まてケツタンの故国 *ダッタン
にして唐土官人左遷の人此国の守護とす、
惣而中土の支配たりしなり、此国に唐人の
内にアンカといふ人有り、大高毛一国をかたむ
け智勇の人物也しより、時に大盗賊蜂起し
て大軍に及ひ挙国鼎佛ハ其時の守護人も *国全体が不安定で乱れる
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皆賊の為に滅亡す、アニカ防戦の力尽て始て
ヲロシアへ救を請、ヲロシア即大救兵を出して乱を
静謐にして法度を改め政を正し上下の
情を通じ兵を引揚たり、シベリヤ万民皆
其徳に悦ひて悉く伏従セしハ皆是此
類なるへし、兵威を以て暴逆に切り取る
にハあらず、又無謂兵を出さゝるとなり