摂陽落穂集
文化文政年間に作家、浮世絵師として活躍した浜松歌国の著と云われ、大坂の地誌、歴史、行政等随筆風に書かれており、十巻五分冊に纏められいる。なぜか同タイトルで二種類あり国立公文書館の分類172-243(五巻五分冊)と172‐244(十巻五分冊)がある。 前者は大坂古名之事、大坂之坂の字の事、道頓堀川之事と始まる、一方後者は大坂錦城之事、大工御棟梁之事、蓮如井戸之事で始まり、全巻を通して両者の重複する話題は極めて少なく、あっても書き方が違っている。
又同公文書館及び国会図書館所蔵の摂津徴書(嘉永四年生浅井幽清編纂の全151冊)の15‐17巻に後者の摂陽落穂集が全巻取り込まれている。一方早稲田大学図書館公開の摂陽落穂集は前者の写本であるが、これには唯一著者歌国の序文がある。
今回テキストとして使用するものは、公文書館所蔵172‐244の摂陽落穂集第一分冊第一巻である。 尚別本の序文では作者の意図等が書かれているので参考として最後に載せる。
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摂陽落穂集
大坂錦城之事
足利の時代より禁庭守護として将軍京都に
居たまひ諸侯大夫参勤す、されども後年に至つて
大乱に及ぶ、古くは東国のみに手当むつかしく、鎌倉
を要所のやうに堅めけるか、中古は西国に英雄輩有
て、また此手当を専らす、去によつて織田上総介信長
豊臣秀吉公も初めは京都に在城の思召たれ共、又
西国の押へも御心にふくまれ、兼て地の利は壱に不及
四神相応の場所を撰まれ、大坂に城を築かせ
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たまふ、抑大坂の錦城は摂州東生郡葭崎樫山
と号す、此所は生玉大明神の社、一向宗の本願寺御堂、生
玉の社僧南坊を始しめ、曼陀羅院、桜本坊、真蔵院、持
宝院、遍照院、覚宝院、観音院、医王院、以上十ケ寺彼 *生玉十坊は他に地蔵院がある
地に住居せり、先年秀吉公、木下藤吉郎たりしと
き、此地を見立、無双之城地なりと信長江言上せし
によつて、信長公ニも尤と思召給ひ、本願寺へ地所望
の使者を立られ、其上一向宗を憎み給ふを強かりし
ゆへ度々本願寺を攻たまふといへども、却而敗北のみにし
て功をなしがたし、是一向宗門の旦那一命を擲チ能戦
ひ、其上東は沼にして葭葦生茂り北は湖水の流れ
を請し淀川ふかく、西は伯楽か渕より海上につづき、南
一方平地にして寺地なりといえ共自然の要害寄手
攻兼しも理りや、されハ石山攻ニはいつとても織田
勢の敗北、流石の信長もすべきやうなく、天下の為
を奏聞を遂ケ勅命を願われける、時の帝正親町
院ゟ本願寺江勅使立て、京都御堅めの為なれハ
速に御堂明渡し候へとの義なれハ顕如上人勅命
を重んじ御堂を明て、紀州雑賀鷺の森江退
き給ふゆへ、其跡へ陣場を立られ縄張のミにてい
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まだ城は築かれず、是天正七年の事也、然るに天正
十年六月二日、京都本能寺において明智か為に信
長公生害あり、羽柴秀吉其せつ、播州国拝領にて
始て姫路の城を築き給ふ、是大坂の基業大坂の縄
張を以て姫路の城を造り直し給ひ、夫ゟ山崎の一戦
に明智を亡し、すぐに彼城普請に掛り給ふは天
正十年九月也、武将ミづから指図を仕給ふ、奉行には浅
野弾正長政、増田右衛門長盛とぞ
大工御棟梁之事
大坂城普請ニ付、番渠匠之棟梁を御吟味ありし所
聖徳太子ゟ以来四大工の棟梁の家有、多門氏、辻氏
金剛氏、中村氏とて代々相続しける辻、金剛の両家之
摂州天王寺に住し、多門、中村之両家ハ大和国法
隆寺に住しけるを此度秀吉公御尋有之所に、先頃
本願寺一乱の砌り、辻、金剛両家は一向宗ニて顕如上人
にしたかひ、天王寺を立退在所不知、両家は大和にあ
りとぞ、探し求給ひけるに、中村氏は伏見の方江行し
とてしれず、法隆寺の門前多門兵助とて幽なるくら
しにて居けるを御召に預り、多門氏時の面目を施
し大坂表に罷り出けるに、其身老体なるを以て御用
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の儀倅に仰付られ下され候と願ひけれハ則御
目見仰付られ下されかしと願ひけれハ則御目見仰付
られ、御前に出ける所、倅兵太夫ハ人品骨柄に勝れ
大工ニハ似合ざる男あつぱれ武士の風俗ありと宣
ひけれハ、兵助御眼力に驚き扨々名将かな唐土の
老子ニ勝りし上意、兵助ハ私実子ニ而者無御座、渠か *渠(かれ)=彼
先祖を申せハ応仁天皇の大老臣武内宿祢の後胤 *応神天皇
大和巨勢の荘に住し巨勢大和守金岡の末葉巨
勢孫兵衛正義、和州三輪大明神の社頭職を代々
相勤来りに、勇武の誉有て松永弾正久秀に頼
まれ、大和乾の城にて討死をなす、則旧友の好み
有をもつて是非なく義を立謀友人の為に命を
落せし事残念也、是によつて一子を御辺に送
る、子として養ひ番匠の道をおしへ呉よと頼み
越し候、幸ひ私に男子御座なく候故、子といたし番
匠の口伝秘決太子より伝来の法を譲り候、倅は
実子ニ而は無御座、孫兵衛正義が種にて候とくわし
く申上しかば、秀吉公御感あつく則兵太夫を御
棟梁と被仰付、今より多門之名跡を改め、中井氏
大和橘正従と名乗べしと仰付られ鍬初の釿
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初め有て金銀山を積、数万の人寄を以て思
ひの侭に築せ給ふ城を平山城と号たり
蓮如井之事
錦城大手大橋先の井戸は往昔本願寺の時臺
所の井戸にして蓮如上人の作らせし故、世人
蓮如井戸と名づく
生玉社領之事
生玉大明神を替地仰付られ社僧十ケ院とも
天王寺領に移す、生玉十坊之義は最初盛の時
ゟ神妙の計ひもあつて豊臣家ゟ三百石の御朱
印を下され、東生郡の惣社とし城中氏地と定 *氏神の鎮守地
られけり
生玉明神領摂州国西成郡下灘波之
内三百石之事令寄附之畢、全社納不可
有懈怠、状如件
天正十一年七月 秀吉判
北向八幡之事
京都には比叡山有て鬼門を守らしめ給へば大
坂の城ニも守護の霊場を構んと、安国寺松浦法
院を召れ、右之様子を仰出れけれハ法印畏り
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申上けるハ考入候所ニそれとハ陰にして磁石を生じ
鉄気を吸ふ、武門ニおいて重んずる所は鎧・兜両
刀の類ひ、惣じて鉄を以て作らしむ、磁石鉄気を
吸ふ時は鞘に抜出る心也、是劔乱にいたる、此利を
以て平日劔鉾の類ひ北向を忌ミ候へハ、君万代を
寿給ふニは劔ハ鞘□は袋に治るをもつて静
謐になれハ、弓矢神は八幡宮を北向に勧請し
当城を守らしめ給ハヽ千歳之御代長久ならん
と申上る、秀吉公尤と召され則生玉におゐて北
向八幡宮を御勧請有し也、其節所々において神
社仏閣御取立有て御朱印下されし事
数多なれバ略す
伏見町人由緒之事
大坂表兵乱の後は家もまハらにて城至き淋
しき故、伏見の町人を当地へ引越させ御用を
達する様仰付られ、則伏見ゟ半町壱町又ハ
廿町当地へ引越ける故、伏見坂町、伏見両替
町すへてかよふの名有ハ伏見より引越たる
町人古郷の名を用ひさせ給ひたる也
算用曲輪之事
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玉造雁木坂の南側、山帰来西の所御城御普
請の時、仮屋を建、諸色算用之割場なる
故、算用曲輪と唱しが、後世失てさんせう山
といへるは算用輪のいひ違ひなり、一名杉山ともいふ
清水谷の事
いかなるゆへにや城中悪水ニして御茶の水に
用ひがたく、御本丸に新ニ井戸をほり白銀を以
て井戸側をなし給へとも、左の見其水よろしから
す、又々天守台へ井戸を仰付られ水を清め
ん為、黄金を沈め給ひしゆへ黄金水と名つ
けてもてはやし候得共此水掛目重くして茶
の花香を失ひけるゆへ御茶の水を御吟味有
し所、小橋のこなた清水谷に名水有、至つて軽
く風味よく御茶の水と成て、今に其清水有
其所へ御茶屋高楼を建られ、千の利久を
召され御茶の湯有しとぞ、夫ゟ西口桜の並木を
植させられし故後世其所を桜町と号す、御
茶屋の北手ニ一宇有、此寺は秀吉公の御咄し相
手安国寺の弟子僧安大寺といふ、今退転せし
かど其所を寺山といひ、又一名安大寺山とも呼
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へり、是ハ地面少し高き所故也
安国寺坂の事
農人橋より本町迄の間今の百間長屋の所
は安国寺松浦法印へ被下御茶湯の地蔵よ
り西谷町迄の間を今に安国寺坂といえり
太夫殿坂之事
内本町上三町谷町より東は往昔道悪しかり
しゆえ、福島右衛門正則承つて堀ふしんを *左衛門
なせし故、後世にいたつて太夫殿坂といへり
其横町に御弓頭七人住居なし、七軒町共又
御弓町とも云、其外筒井順慶の屋敷跡は
順慶町、堀久太郎の住せし所を久太郎町
片桐東市正の屋敷を片桐町と呼しが今は
片原町又略して片町といふ
錦城外郭之事
大坂錦城の外郭は北之方大川筋ニ望み、東
方は鴫野玉造りを限り、南方真田山(筆相山あり)山の *加賀宰相陣あり
北辺から堀を境とし、西の方は東横堀これ則
外堀也、農人橋の北とて川筋曲がる所有ハ往
昔の外郭角櫓有し墟也、外郭東南の門ハ
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今の平野口町ニ有、墨ニて黒くぬりたるゆへ
其地を今に黒門といふ、正面の門は上本町筋、札
の辻に有て札の辻の東側の屋敷艮門の跡ゆへ
今の地守へ御預とて町奉行御替り毎ニハ地
守并ニ町年寄より証文をさし上預り替る也
慶長年中大坂冬御陣の時、双方和睦の後
外郭をこぼち、から堀を埋し故、平野口の
門を一心寺へ遣わされ、今に伝へて一心寺は
黒くぬりたるも此右例と見へたり
天神橋之古名の事
大川筋にかゝりたる天神橋の古名ハ渡辺橋
といへり、川下にかゝれる渡辺橋ハ後世ニ造た
る新渡辺橋なり、又ハ大江の橋とも呼ぶたるも今
之大江橋にあらず、中古ニハ橋のなかりし事も
ありて、其頃は此辺りに国府の渡しといへるあ
り、一名堀江のわたしと呼しとぞ、太平記に楠
正成、住吉天王寺ニ出張して、須田高橋を渡
辺川ニ追落せしは此所也、八軒屋ハ昔の楼
の岸ニて大江の岸の東へ曲りたる所ニ而大江
の岸とは今の住吉街道なり、東に見ゆる
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岸の姫松といふ並木の松より北東へかゝり
安部野を通て松屋町すじを北江八軒家の
曲りまで往昔も大江の岸とて船着なり
住吉街道之事
住吉より大坂江通ふ今之街道ハ豊臣家
の御時、泉州境より大坂へ通ふ便りおしとて *堺
造りし新道なるゆへ、大坂の市中ニては此す
じを堺筋と呼ぶ、古道ハ今の安部野道む
かしの街道也、楠木正成京都勢と決し時
其身ハ天王寺の半途ニ在て味方の両陣
江軍使を遣わし櫛のはを引がごとく一日に馬
を十二疋乗かへせしなど記せしも、今の安部野
街道成べし、安居天神祠は菅公筑紫へ下 *菅原道真
向の時、爰に暫く休足ありて船帆の風を待
たまひし地也といひ伝えふも左も有へし、新古
今和歌集の詞書ニ天王寺の西門より船にの
りて西の国へ下るとなれバ、大江の岸ニつゝきて船
着なりし事明らか也
稲谷越の事
住吉街道の東聖天山之となり丸山といふ
小山あり、此所むかしの大江岸ニて稲谷越と
いへり、兼好法師此地ニ来りて住めり
こしかたの世のうき事をかぞふれバ *来し方?
ねられぬ夜半の鴫のはねかき
東生郡西成郡之事
東生郡は今の谷町筋東側より東をいひ
西成郡は谷町すじ西側ゟ西をいふ(東生ハ
生の字を用い西成には成の字を書と
心得べし)東生郡惣社生玉の神社往昔は今の
錦城の地ニあつて彼地城郭となれる時、今の
生玉へ移したり、去によつて生玉の神木ハ
錦城之内御成郭の御中庭ニある老樹の松
一本を生玉の神木なりといひ伝ふとぞ
本願寺旧地之事
錦城之御内郭御庭に御数奇屋跡といふ *茶室
処有、往昔本願寺の時数奇屋ありしゆへとぞ
千の利久の作、自然石の手水鉢ハ今に有よし
一名一の谷とも又ハ十嶋とも呼へり
天守額之事
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流 芳 楼
むかしは天守に掛りありしをと小野道風
の筆也といひ伝ふ、一説御数奇屋に懸り
たりしともいへり
御米蔵之事
元和の後寛永正保の比まては玉造口ニ御
米蔵有たり、其時の古図をこゝに模写す、其
後今の西御場所の地に移せし故、延宝の
比は松屋町筋西御役所の裏手をハ御蔵
前と呼び、夫ゟ御米蔵は高津新地へ移る
亦難波領今之地へ引たり
米蔵古図
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(省略)
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東土場之事
東土場は今の大手の上ニあり、往昔豊臣家御
在城の砌例年正月十四日此処ニて左義長
ありしゆへ、今に東土場といふ
因に云左義長のおりハ漢明帝の時始て、天竺
より仏法わたる、五嶽の道士是を破らんと
祈るにより其しるしをミむと仏経をひ
だりニおき、道士の書を右ニおきて火をかく
なす、道士の書焼失なす、されバ左之義長せり
とあって左義長といえり、また西域義長
なり、東土場とはやらすハ西域仏法の義
まさりて東土へ流布すといふ事成ともいえ
り、又神霊経ニ云、西方の山中ニ人有長壱尺
余ひと是を見れハ則寒熱を病む、号て
山躁といふ、竹を以て火ニ焼爆□の声あ
れハ則驚き去に來守といふ心を以て正
月ニ爆竹を焼とぞかたる跡多し
郭内之事
東横堀より東は往昔城郭之内なるゆへ町名
の上に内の字をはらせて呼ぶ所多し、其あらまし
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内両替町 内平野町 内淡路町
内本町 内久宝寺町 内安堂寺町 内骨屋町
聚楽町之事
豊臣秀吉公大坂御在城之時、今の聚楽町(愛宕と云)
に聚楽の御殿ありて、西の方を正面とし西海を
見晴らす、殿作りの跡ハ近比まで荒地と成、今医
師 古林見宜之預り居たりしが、今有所子細有て *別本より
町中ながら御代官所支配と成、往昔聚楽御殿
ニて有し時ハ毎年六月住よし祭礼ニハ境、大坂之 *堺
町々より出すねりもの挑ちんの類ひ御殿の表
通りを行列いたさせ見すべしと御掟ニよつて
祭礼の比ハ此御殿の表通りを通りしゆへ、今も
此すじを御祓すじと呼ぶ、聚楽之御殿ハ後
に加賀前田家へ下され、元和の比まてハ有しかど
摂戦の時ニ焼亡し今は名のミ残りて町家と成
松屋町之事
天正の比今の末吉橋筋に松屋某と云大家
の町人居宅広がりし故、此所を松屋町すじ
と呼ならわし、今の茶碗山を松屋裏いひし
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とぞ、久宝寺はし東詰より南の方ニ丹波屋、具
足や、住吉屋、瓦屋、松屋といふ名高き町人五人
住居せしが、三家ハ絶て具足屋町、丹波屋町、松屋
町之名のみ残り、住吉屋は数代連綿として藤
右衛門といひ住吉屋町といふ
博労町之事
博労町は豊臣家の御時牛馬の博労多く居た
る所故名とす、西ニ上難波町といへる所あり、中
古寛永の初めまでニ本松馬攻場所といひたる *攻 磨くの意あり、訓練科?
よし、あんずるに豊臣家の御時は諸士の馬を攻たる名残也
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摂陽落穂集序
秋の田の穂ひろふわざは寡婦の利と
こそきけ、予ふるきを温るさがありて *さが→性
あまたのとし月、かゝることにのミかゝつら
ひて畿内をはじめ遠きあたし国を *あだし→他の
さへ問求め聞あきらめたれは隠れたる *明らめ
名所もゆふつく夜たとたどの迦羅 *夕づく *唐言?
言さぐりいでたるをかいとどめつつ数の *書きとどめ
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巻をなせり、そが中に摂津の国名は石上 *そが→其 石上→古の枕ことば
ふるき代より物知り人の文に絵に詳
なれハ、級戸のかぜのいふきはらひし *級長戸辺命(しなとべ)=風の神
ミそらの雲の残れる處あらねど *か勢→かぜ 風 いぶき→一颯
おのがしらぬ□国に筆たて初ぬは
いとまいとまほい難しと、こゝかしこの *暇々 *本意難し?
田つらのくまくまをもとめいてゝ、早稲(わせ) *田つら→田面 *隈々
晩稲(おくて)のわいためなくひろひ入たる *わいだめ→区別
なればとて摂陽落穂集と号
侍る事になむ
文化五秋の日 濱松歌国
筆を収む