通信講座7

古文書を楽しむ会通信講座 第七回 二〇二〇年六月十一日

駿河土産 大道寺友山 出典 国立公文書館

〇背景 天下を統一した徳川家康は慶長八年(1603)征夷大将軍を拝命するが、二年後将軍職を嫡子秀忠に譲る。 自らは隠居し駿府城に移るが大御所として秀忠の江戸幕府の後見をする。 駿河土産は駿府における家康の言行を記したもので、今回の資料は天下国家を論じるものではないが、駿府城下の施策の一例を読む。

クリックで拡大

クリックで拡大

クリックで拡大

〇解読

阿部川町遊女繁昌ニ付踊上覧之事 *静岡駿府城下

神君駿附へ御隠居被遊候以後、阿部川町の傾城なと *家康の事、東照大権現 家康死後百年後に書かれた

近く候ニ付、御旗本の若き衆中遊女町へ通ひ被申候の

取沙汰有之、 其後駿府の町奉行彦坂九兵衛気の毒ニ

被存か、阿部川町を二三里計遠所へ引移し申度旨 *申したき旨

被申上候を御聴被遊、九兵衛を 御前へ被為 *召しなされ

御意被遊候、当所之町人共を二三里も隔て遠方へ *盤→は

遣し候てハ如何可有之哉と 御尋ニ付、九兵衛被承

左様御座候てハ売買の障りと罷成、町人共何れも

迷惑可仕と申上へハ、重て 上意被遊候ハ、其方 *盤→は

阿部川町を二三里も遠所へ引移し可然と申候由

御聞被遊候、 阿部川町に罷在候遊女共ハ売物にてハ

無之候哉、 売物と有ハ諸色一様之事なるに、左様に *諸品

遠所へ遣し候てハ阿部川の遊女共か渡世の致

方も無之筈の義なり、やはり唯今迄の所に其侭

差置候様ニと被 仰付候と也、 其後ハ阿部川町の繁昌

日頃に倍し、御旗本衆中勝手衰微の族多く出来候由 *家計破綻

風聞有之候となり、 然に其秋に至り九兵衛を被為

召、 此間ハ町方にて踊を仕る声 御城内へも相聞へ候、少

御覧被遊度 思召候間、 帯・手拭なとの様の物迄も

新に支度仕るニ不及、在合の衣服にて 御城内へ踊を

入させ候様ニと被 仰出候間、駿府惣町中を三ツに割、

支度を調へ 御城内へ踊を指上候処に踊子・はやし

方の者迄握り、赤飯、御酒なと迄被下置、三ケ夜の踊 *下し置かれ

相済候以後、九兵衛を被為 召、阿部川の踊は如何

致し候哉と 御尋の処、 阿部川町ハ遊女町の義ニ付

相除、不申付候由申上候へは 御聞被遊、御年 *申し付けず

寄せられ候てハ女子共の踊をこそ 御覧被成度被

思召候へ共、木男計の踊りハさのミ面白く被 思召さる *思し召さざる→思わない

との 仰に付、夫より俄に阿部川町へも踊を指出し

申候様にと有之、阿部川町中一組大踊を用意有、来る

幾日の夜と相定り候処に、惣遊女共の中にて其頃

人のもてはやし候名有女共の義ハ其名を筆記し差

上候様と有之、 其夜踊りの中休の節に至り、右の書付に

入たる遊女共の儀ハ御板縁の上へ上置候様ニと有之、一人宛

御前へ被 召呼、銘々の名まて御聴被遊、 罷立帰候節

御次の間にてへきに乗たる御菓子を取頂戴致させ候

とて、御朋坊福阿弥小声に成て、此已後もし御さし人ニて *ご指名

被 召呼候義も可有候間、左様相心得罷在候様ニと銘々へ

申聞候と也、 此取沙汰かくれなく聞へ渡り候ニ付、右

御前へ罷出候遊女共の義ハいづれか 御目ニとまり

ふと被 召出へきも計難く、 左様の節 御尋に

付てハ何事をか可申上も気遣ひ成を以、歴々の阿部

川町通ひ、ひしとと相止候となり

註1 彦坂九兵衛(光正1565-1632)三河出身、1609年駿河町奉行2000石、

家康死後駿河町奉行は廃止となり、徳川頼宜の家老3000石となる

〇現代文訳

阿部川の遊女町が繁昌しており踊りを上覧の事

家康公が駿河へ御隠居なされた以後の事、阿部川町の傾城などが近いため、旗本の

若い侍衆が遊女町へ通っている事が評判となり、時の駿府町奉行の彦坂九兵衛は困った事

と思い、 阿部川町を二三里離れた遠くへ移転させたい旨申上げた。

家康公はこれを聞かれ九兵衛を御前へ召されて述べられたのは、駿府の町の町人達を

二三里も隔てた遠方へ移すと如何なるか、とお尋ねがあった。 九兵衛は、それは

色々な売買の障害にもなり町人達は皆が迷惑をします、と申上げた。 重ねて

上意があり、其方は阿部川町を二三里も遠い所へ移転させるべきと云うと聞くが、

阿部川町に居る遊女達は売物ではないのか、売物であれば全てのものが同じはずで

その様な遠い所へ移しては阿部川の者達は生計の立て様がない筈である。 従来通りの

場所に置く様にと仰付られた。 その後阿部川町の繁昌は今までに倍して盛んになり、

旗本衆の中には家計破綻する者が多くなったと云う風聞もあったた。

その秋になり九兵衛を召されて、このところ町方で踊りを行う声が城内までも聞こえるが

見てみたい、 帯・手拭などを新に支度する必要は無く、有合せの衣服で城内へ踊りを

入れる様に、と云われた。 そこで駿府の町全体を三ツに割、支度を調へ城内で踊りを

差上たところ踊手や囃子方の者にまで握り・赤飯・酒などを下さった。 三日の夜の

踊りも済んだ後九兵衛を召されて、阿部川の踊りはどうしたのかとお尋ねがあった。

阿部川町は遊女町ですから参加から除きました、と申上げれば、年も取ったので

女共の踊りこそ見たいと思う、ごつい男ばかりの踊りはそれほど面白く思わないとの仰があった。

それから急遽阿部川町へも踊りを出す様にと通達され、阿部川町中で一組の大踊りを

用意し、幾日の夜と日程も決まったところ、全遊女の中で今人気のある有名な遊女は

その名前を書いて差し出す様にとあった。

その夜踊りの中休みになったところでこの書付にある遊女達を板縁に上げて置く様にと有り、

壱人つつ御前へ召し呼ばれ、銘々の名なども御聞きになった。 帰りには次の間でへぎに

乗った御菓子を頂戴しなさいという事で、側坊主の福阿弥が小声になり、今後もし御指名で

呼ばれる事もあるのでその積りで居るようにと銘々に申し聞かせた。

この噂が大きく広がり話題になったので、この御前に出た遊女達の中で誰が御目にとまり、

ふと呼ばれるか分らず、 もしその場合にお尋ねがあれば遊女達が何を言い出すやらと

心配になり、歴々方の阿部川町通いはぴたとなくなった。