天保五年和蘭風説書 出典 国立公文書館内閣文庫 天保雑記第六冊
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一天保五午七月風説書 *1834年
五月廿五日出船、六月廿九日迄日数三十五日経入津
阿蘭陀船咬留吧出シ人数五十五人内四十四人阿蘭陀人 *バタビア 現ジャカルタ
十人黒坊
一当年来朝之阿蘭陀壱艘五月廿五日咬瑠吧出航仕候處、台湾
辺より風並不宜、既ニ七八日已前より御当国地方見掛申候得共
相漂ひ罷在、海上無別条今日御当地着岸仕候、右壱船之外
類船無御座候
一去年御当地より帰帆仕候船十一月廿三日海上無別条咬瑠吧着
船仕候
一去年申上候フランス国之内ブラパントと申所、阿蘭陀配下ニ致 *現ベルギー国
置候處、国法相背候ニ付義絶仕候段申上候末、サクセンコーペルリ
地名の国王レヲポルト人名右ブラパント自立之王と成に、右ニ付而*レヲポルド一世
双方の規則相立様に専ら取扱ひ有之、右レヲポルトはエゲ
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レスのカルロツタの寡夫にてブラパントの王と成る、而後フラン
ス王ミロライスヘリツペの娘ロイセと再婚仕候 *ルイ・フィリップ
一イスパニヤ国ヘルデイナント第七代目之王死失候後、其王之遺
言に付て五才ニ成る実女、ドンナイサペルラを女王となし、其
王の寡婦を右女王之年輩に成る迄後見に致置所、其死
する王之兄弟なるドンカルラス王位を 嗣んとて争ひ起り、
終には国中乱の場と相成申候
一南亜墨利加州之中ブラシリ国王のドンペトローといふ位を辞したる王の娘
ドナマリア、右ベトローの後見を請てポルトカル国の女王位
をリツサホントいふ所において嗣けり、然るにドンベトロー *リスボン
の兄弟なるドンミキユウエールいふ者彼ポルトカル国王の
位を取らんとて己が勢ひ殆衰ふ事をも不厭して
今に其位を争ふ、夫故に ホルトカル国中不穏儀ニ御座候
一エゲレス国におゐてはブリスト或ハ其地の所々に於一騒
起り国制を改んがため支配に逆ふ、今専ら評議中ニ御座候
一ヲロシア帝王ニコラース人名ポローニヤ国を攻取兼領す、然
ルニポローニヤの高位高官の人々発起せし故、軍兵を以て *ポーランド
これを誅罰しヲロシアの旗下に亦々帰伏させしめ、数多
のポロニヤ人をシペリヤに追放致候
一厄日多国の小王トルコ国の帝に和睦之取究に付て無理押 *エジプト国
をしたり、然れとも矢張其国のヲツプルヘール官名と成し
置申候
一爪哇其他近方に在る印度之諸国去年地震甚敷津浪 *ジャワ
之患有之、人多ク損シ申候
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一去年申上候咬瑠吧より本国江往来之船留メ、元之通通路
相開申候
一此節於台湾辺唐船壱艘見掛申候
一去巳年帰帆仕候へとるよはんねすえるていんにいま *ヘトル 商館長次席、事務長
ん儀、此度新カヒタン申付古かびたんと交代致候様申
付越候
右之外相替候風説無御座候
古かひたん
はんしつとるす
新かひたん
よはんねすえるてういん
にいまん
右之趣両かひたん申上候通り和解仕差上申候、已上
午六月廿九日 石橋助左衛門
岩瀬 弥十郎
阿蘭陀名トイクルスコロツク
此品に乗りて水中へ入り候へハ廿四時ハ
海中ニ罷居候由ニ候、初渡の由ニ御座候
凡斤目
九千斤程 前後数十ヲ硝子明り取
鉄鎖り 上 五尺五寸の三尺九寸
下 六尺壱寸の四尺壱寸
厚五寸五分ホド
イキ出シ有 惣油白色に塗 内部 棚、腰掛
キノセンニテ留
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阿蘭陀積荷物差出シ
一猩々緋 拾反 一色大羅紗 六十六反
一色毛紋天俄織 弐十五反 一色ふらた 弐拾七反
一色ころふくれん 九十五反 一緋杢織呉羅服連 弐拾五反
一色サアイ 二十五反 一形付羅紗 拾反
一形付ふくれん 二十五反 一色小羅紗 十七反
一色羅背板 二十五反 一色へるへニわん 三十反
一奥しま 三百拾反 一本国皿紗 三百五十反
一皿紗類 三千二百拾反 一綾木綿 拾五反
一胡枡 (胡椒) 壱万七百斤 一丁子 五千八百斤 *斤=0.6㎏
一象牙 七拾九本 一鮫 弐箱但四十本
一白砂糖 四十万九千
四百七十四斤 一蘇木 八万千八百十二斤 *そぼく
一荷包鉛 二千四百斤 一銀銭 掛目 三拾貫目程
一白砂糖 別段持渡 三十籠 一金更紗 別段持渡 八反
一母丁子 三千七百二十三斤 一阿仙薬 二千八百八拾斤
一紫檀 別段持渡 三千二百八拾斤 一シイラ注1 五拾六斤 *ミイラか
一水銀 五百二十拾九斤 一蘇木 三万二千四百斤
午七月 岩橋助左衛門
岩瀬 弥十郎
イニ *イとは異本を意味する
一諳厄利亜国之諸民、其政事之不便を改革せん事を請と
いへとも、其事を不遂に依て、官人を挫んと諸民蜂起し
ブリステル及其地騒擾不少、当節集儀御座候 *Bristol イギリス西部
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一魯西亜帝ニコラース、波羅斎亜を併吞仕候所、波羅斎 *波羅泥亜→ポーランド
亜の貴官此を報んと蜂起仕候ニ付、ニコラトス剣戟ヲ以 *ニコライ一世
て此を制伏し、終に魯西亜の有と相成、許多の波羅
斎亜人を西百里亜江方遂仕候
一ギリシヤ国干戈を発し都児格国の領地を奪取、独立 *トルコ(オスマン帝国)
の方を立て、ドイツ国王プリンスオットの領地と相成申候 *バイエルン王、ルードヴィヒ次男
一厄日多国の小侯和睦の盟約ニ付都児格帝の勢を *エジプト総督 ムハンマド・アリ
挫き申候、併其帝の名目はホッフルヘールと相唱申候
注1 積荷の中シイラとあるが、他の史料から見てミイラと思われる。 江戸時代通じ、ミイラが薬用として
輸入されたようである。 貝原益軒は自著「大和本草、巻16」で以前からミイラが万能薬として持ち込まれた
としており、当時言われていた効能等 詳細に論じている。 然し同人はミイラはあくまで人肉であり、
これ を服用、使用する事は人道に反する事として使用すべきでないと云う、又効能についても信じがたい
としている。
延宝元(1763)年イギリスが商売を望み持ち込んだ積載物の中にもミイラがリストされている。